33-11.裏切れない
ゼイギャクの城にある専用の部屋で、窓の外の活火山をながめながら、シャツェランは見聞処長アドガンから、出立の挨拶を受けている。
当初シャツェランは、郁や江間と共にメゼルに戻る予定だったが、アドガンを恐れてか、宮宰バンケゥジュが与えられた部屋から出てこない今のうちに彼らを先に出し、一旦王都セルに行くことにした。バンケゥジュを突き返しがてら、兄王に報告と抗議をし、バルドゥーバからやってくるテラシタやカィセンテの件を含めた根回しを行う予定だ。
またしばらく郁と会えなくなる――おもしろくないような、ほっとするような、形容しがたい気分だ。
『メゼルでコレの栽培・育成状況の確認をした後、当面セジナ洞窟近辺に潜む予定とのことです。リカルィデを連れていきたいと要望していますが、特に問題ないと判断します』
『惑いの森には近づかせるな』
『承知いたしました』
避けるべきはあの森の霧だ。シャツェランの命に、アドガンは疑問を顔に出すこともなく、頷いた。
『私はメゼルまではあの二人と共に行き、その後は聖クルーシデに参ります』
郁と江間の監視のために、ルテゼルに共に行くと言った時、敵意に満ちていた彼の顔つきは、今は少し違っているように見える。
先ほど彼が郁たちを自分の同族と言って、バルドゥーバの追及をかわしたことを考えても確かだろう。
アドガンはシャツェランにとってはなくてはならない人物の一人だが、郁や江間に対しては最初の最初から敵対的だった。先日、郁を部下たちに襲わせたのも、二人への嫌悪が根底にあってのことと見ている。
この機に二人と一緒に行動させてみれば、改善されるだろうという、シャツェランの目論見通りになったとはいえ、微妙におもしろくない。
『アドガン、お前がイゥローニャ、しかもカィーラ氏族の出とは、私も聞いていなかった』
『お訊ねになりませんでしたので』
『……そういえばそうだったな』
さらりと返されて、シャツェランは目を瞬かせた。
剛勇で知られるイゥローニャ族の中でも、最高峰カッサスル山周辺のカィーラ氏族は別格だったと、半ば伝説気味に語られている。
並外れて頑丈な骨に、疲れを知らぬ上に高い運動能力のある筋肉、空気のごく薄い高地でいくら動いても息切れすることのない血、夜でも見える目――『別の生き物と言われても驚きません』とはカィーラ氏族を診たことがあるという、昔のシャツェラン付きの老典医のセリフだ。
事実、イゥローニャ人の全滅を図ってカッサスルにやってきたバルドゥーバの一師団は、たった数百のカィーラ氏族によって文字通り壊滅させられた。
昼には渓谷、森、急斜面、岩山などの多様な地形を生かした急襲と退却が繰り返され、敵の把握もままならぬ間に、味方の死体の山だけが残される。夜には悲鳴を上げる間すらなく兵がごっそり殺されていく。
まったく気を休めることのできない時間が一月以上続いた結果、バルドゥーバ軍では脱走者や同士討ちが多発、最後には恐慌状態に陥り、将兵たちが雑兵につるし上げられて殺される有様だったそうだ。
数少ない生存者の口から恐怖が語られ、以来バルドゥーバ人は一市民から蛮勇で鳴らしたかの国の蛇宰相に至るまで、彼らを死の神ゾーゲルデのごとく嫌悪し、同時に畏怖している。
アドガンは小柄だが、まったくそう感じさせない。それを不思議に思うこともあったが、そんなカィーラ氏族だと聞かされれば納得できる、とシャツェランは彼をしげしげと眺める。
『では、今更ながら私からお訊ねします。お側に置くのに、私の素性は気になりませんでしたか』
『ならなかった。私の見る目は確かだ。現にお前が証明している』
兄とその妃を殺しにきたアドガンと王宮で出くわし、暗殺者というにはどこか変わっていると思った。
『もののついでだ――お前も死ね』と口にして、シャツェランを殺そうとしてきた彼が、護衛のゼイギャクと切り結ぶ様を見て、ますます気に入った。間者として城の中心にまで入り込めるのに、戦わせてもゼイギャクと同じくらい強い。だから自分に仕えろと誘った。
その日以来、彼はシャツェランの下に、様々な情報を持って顔を出すようになった。
彼が持つ伝手はかなり広いようだったが、それに加え、彼自ら集めたと思しき情報はひどく有用で、シャツェランはメゼルディセル領を得た時、真っ先にアドガンに見聞処長のポストを与えた。
それから今日に至るまで、ディケセル国王ですら知らない数多の情報を得ることができている。
誰と誰がどんな思惑でどう繋がっているか、どこの誰がシャツェランに融和的もしくは敵対的なのか、その理由は何か――彼は物や金、人の流れから、それらについて詳細につかんでくる。
彼から具体的な暗殺計画を聞かされ、辛くも回避できたことも一度や二度じゃないし、ジィガード・フォレッツ率いるレジスタンスや、バルドゥーバの反体制勢力の存在についても、彼らが郁たちに接触してくる以前に、アドガンから聞かされていた。
『私個人もメゼルディセルも、お前に何度助けられたか数えきれない』
『……』
真顔で答えたシャツェランに、アドガンは少しだけ眉を上げ、小さく笑ったようだった。
アドガンが去ると、シャツェランは窓枠に寄りかかり、視線を再度外へと移した。
日差しに目を細めた瞬間、以前と違って視界の端が鮮明に認識できることに気づく。
(……ガラスの歪みが減ったのか。そういえば、アヤたちがガラス職人に頼んだと……)
彼らの目的は、だが、窓用のガラスの質の向上ではなく、その代償として作成を依頼したという、様々な形のガラス容器のほうだろう。
今度は一体何を企んでいるのか、と警戒を覚えないわけではないが、相手はあの二人だ。能力的に劣るとは思わないが、悔しいことに知識はあちらの世界の彼らのほうが上、人を謀ることにも長けているときている。悩んだところで、徒労に終わるだけだ。
(まあ、自分の欲望のまま、人を傷つけることはしない性格だしな)
全方位に神経を尖らせ続けるのはきつい。楽観することにする。
しばらくすると、眼下の右端にその二人が出てきた。メゼルへの出立に向けて、ホダに荷を乗せるようだ。
二人で何かを話しているところに、ホダに後ろから顔を擦り付けられて、郁が転びそうになった。江間が慌てて彼女を抱き留める。
江間とホダに挟まれて、郁が文句を言ったらしい。江間から解放され、後ろを向くと、郁はホダの頭を撫で始めた。自然に笑みをこぼすその顔は、シャツェランに懐かしさを感じさせるものだ。
(仲違いは無事解消できたのか……)
先日あれほどぎこちなかった二人の間の空気が、元に戻っていることを確認して、安堵するような、残念なような、複雑な気分になった。
江間が別のホダの背に荷をくくり始めた。そのホダがさっきのホダを撫でている郁へと、横から頭突きを食らわせた。またよろけてしゃがんだところを、二頭のホダの顔でもみくちゃにされる。
まだ縛り切っていなかった荷が、ホダの背から転がり落ちた。
江間は苦笑すると、郁を引っ張り出そうと、彼女の元に近づき、彼も別のホダの頭突きを背に受けて転ぶ。
『……何やってるんだ』
三頭に取り囲まれて、二人が立ち上がろうともがく様子に、シャツェランは呆れ笑いを零す。
カィセンテやバンケゥジュらを相手にふてぶてしくふるまっていた人間とは、とても思えない。
なんとか脱出した郁だったが、髪はぐちゃぐちゃで、衣も乱れている。
ふと、その上衣の襟合わせが、大きく広がってしまっていることに気付いた。そこに浮かぶ鎖骨もその上の首筋も艶めかしい。
髪を整えるために持ち上げた手の動きに会わせて、ゆとりのある袖から白い腕が覗く。夏用の薄手の衣越しには、体の柔らかい曲線が見て取れる。
(あんな、だったか……?)
凹凸の少ない体つきに加え、髪の短さもあって、男にしか見えなかったはずだ。今はどう見てもそうは見えない。
少し前までは物腰も硬くて、男の欲望など知らない、自分が情欲の対象になりうることなど想像もしていないと全身に書いてあるようだった。だが、今は違う……――。
『……』
郁のごく近くで立ち上がり、衣服の汚れを払いながら彼女に笑いかける江間を、シャツェランは無意識に睨んだ。すべてはあいつゆえだ。
彼が郁を変えた。毎夜郁を思うままにし、あの淡く光る唇を貪って、シャツェランも誰も見たことのない場所に指や舌を這わし、そして、彼女の内に……。
奥歯がかすかな音を立てた。
郁の中に江間の子がいるというのは誤解だった。だが、江間は『今は』と。つまり郁が彼を受け入れているということに間違いはない。
当たり前だ、シャツェランが失った郁からの信頼を、長い月日をかけて得た彼には、その資格があると理性が告げる一方で、体の奥底から昏い感情が沸き上がってくる。
幼い頃共に笑い合っていた大事な郁は、自分じゃない男の手によって大人になっていく、それも自分の目の前で。
≪シャツェラン≫
薄霧の中で目を合わせれば、それだけで幸せそうに微笑み、名を呼んでくれた郁は、成長した今でも自分を理解し、見返りを求めず心配してくれる。言いたいことを言えて言ってきて、喧嘩する羽目になるのも同じだが、そこに悪意がなくて信頼できるのも変わらない。
だが、彼女は自分のものではない。昔と違って、手を伸ばせば触れられるというのに。
『……』
ふと、何をやっているのだろうと思った。
奪えばいい。自分はそれができる立場にいる。郁からの信頼がないのであれば、また築けばいい。
(そうだ、このままエマだけを行かせてしまえ――)
シャツェランは踵を返し、部屋を出る。石造りの廊下を踏みしめて、郁たちがいた場所へと足を向ける。
セルやバルドゥーバが郁を狙うからなんだというのだろう。
メゼルの城の奥、自分の私室に囲い込んで、誰の目にも触れさせなければそれで済む。むしろそれがいい。霧を案ずる必要もない。
(閉じ込めよう、私以外の誰も見させず、私だけを感じさせて、私だけを受け入れさせて、いずれは私の子を孕ませる……)
――そうすれば、郁はずっと自分の傍にいる。二度と失わない。
甘美で真っ黒な思いを抱えて、表へと足を速める。
≪お前だってシャツェラン、好きだろう?≫
だが、江間が発していた日本語が脳内に響いて、シャツェランはぴたりと足を止めた。
(「おまえだって」の「だって」は、確か、お前『も』という意味だ。つまりエマは……)
≪そうするお前を見たくない。完全に俺たちのわがままなんだ≫
『っ』
郁と同じように彼も自分を思いやってくれる――そう思い出した。両脇の拳をぐっと握り締める。
江間は良く笑う男だ。整いすぎて、内心を窺わせないその笑顔は、胡散臭いことが多いが、たまに素を見せて笑う。
そういう時はいつも誰かのための笑顔で、その対象は郁だったり、リカルィデだったり……シャツェラン、だったりする。
江間が自分自身のために欲しがるものは郁だけで、バルドゥーバのフクチたちのような野心はおろか、地位にも名誉にも金にも女にも興味はない。だから、彼が何かをする時は、純粋に誰かのためだ。
その“誰か”にシャツェランも入っていると自覚した瞬間、足が重みを増した。床に縫い付けられたように動かなくなる。
裏切れない――そう思ってしまう。
郁が欲しい。だが、欲望のままに突き進めば、確実に江間を失う。
シャツェランは昔、郁を裏切った。
彼に同じことをまたするのか? 信頼してくれて、見返りなく、自分を助けようとしてくれる彼に……? 郁にしたように……? そうして彼にも郁のように消えない傷をつけるのか?
≪わかった。もういい≫
幼い日の郁の別れの言葉が、江間の声で再生された。
『……っ』
シャツェランは自分の足を見つめたまま、知らず唇をかむ。
凍えるように見える鋭い切れ長の目が、自分に向けて屈託なく弧を描き、その下の口がにっと笑う、そんな顔が見られなくなる。
気軽に肩を叩いて声をかけ、冗談を言い、からかいを口にし、人には言えない愚痴を吐き、明るい声を立てて笑う、そんな時間もなくなる。
『……どこまでも嫌な奴』
(なんでよりによってエマなんだ。アヤが選んだのが、あいつでさえなければ……)
心中のどろどろした感情に耐えかねて思わず吐き出せば、『誰のことですか?』と不思議そうな声が響いた。
『っ』
ただでさえ顔を合わせにくい相手に、してはいけないことを見咎められたような気分になって、シャツェランはびくりと体を震わせた。
恐る恐る目を向ければ、やはりゼレゥチェだ。
『ええと、何かまずいところに来てしまった、という感じ……でしょうか。すみません、なんだかいつもタイミングが悪くて……』
『……い、や、そんなことはない』
ばれている、と顔をひきつらせそうになるのを必死に堪えて、シャツェランは顔に微笑を貼り付ける。
が、ゼレゥチェは、そのシャツェランをじぃっと見つめると、軽く眉根を寄せて『……ある気がします』と首を傾げた。
またばれた、と隠し切れなくなって、シャツェランも眉間にしわを寄せれば、目をみはったゼレゥチェが、思わずというように笑いを零した。
『……』
クスクスと笑い続けるその音に、なぜか聞き入ってしまう。
『……笑い過ぎだ』
『すみません』と言いながら、さらに笑うゼレゥチェが気に入らなくて、むっとした顔をすれば、彼女はもっと笑いを深めた。
『エマとミヤベの見送りに行かれるところでしたか?』
『……まあ、そんなところだ』
本当は邪魔をしに行くつもりだったのだが、ゼレゥチェに出会って、さっきまで確かにあったはずの黒々とした感情がすっかり消えてしまった。
それだけじゃない、農園の四阿であんなふうに別れて気まずかったはずなのに、いつの間にかそれがなくなっている。
『? 何か?』
『平和だな、ゼレゥチェはいつも』
『……』
『褒め言葉か貶し言葉か、悩んでいるだろう?』
口角を下げ、唇を軽く尖らせた彼女に、今度はシャツェランが噴き出した。
≪それは褒め言葉じゃない≫
髪を褒めた時の郁の嫌そうな顔が思い浮かんだ。
『本気で褒めているんだ』
『……ありがとうございます』
(ああ、そうか、ちゃんとこうやって伝えることが大事だったのか……)
ゼレゥチェのはにかんだような笑い顔が、ひどく眩しく見えた。
『ご一緒しても?』
『ああ』
ゼレゥチェがいれば、落ち着いて二人と話せるような気がして、シャツェランは歩き出す。先ほど縫い付けられたように動かなかった足が簡単に動き出したことも、その証拠に思えた。
ふと、ゼレゥチェが薄手の外套を羽織り、リネルではなく、ゲレタを着ていることに気付いた。銀の髪を後頭部で高く結い上げ、腰には、昔のようにスオッキと短剣を差している。
『……その格好、出かけるのか?』
なんの気なしに疑問を口にすれば、ゼレゥチェは息を止めた。
しばしの沈黙の後、息を吐き出し、シャツェランに向き直る。
『――お話がございます。父の許可は既に取りました』




