4-1.籠蛇1(福地)
「……」
窓から差し込む日の光に、福地は顔を顰め、ゆっくりと目を開く。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、夜空を模した黒と銀の天蓋。中央には無色透明の石と黄色透明な石でできた月が絡み合っている。
(……日本じゃない。ここは『バルドゥーバ』……)
そして、今日もおかれている状況を再確認する。夢じゃない、これは現実なのだ、と。
(ダイヤモンドとトパーズ……)
向こうと同じ価値があるのかはわからないが、あの大きさならこの世界でも相当貴重だろう。
もっともおそらくそうだろうと福地が見込んでいるだけで、本当にダイヤモンドとトパーズであると調べたわけではないし、調べる方法も知らないが、今福地の横で一糸まとわぬ姿で眠っている者は、そうであると知らない。
知らないと言わない知恵――それがある者とない者で、明暗が別れつつある。ここでは“誠意”などと言うものは、何の役にも立たない。
とはいえ、何事にも例外はある。
(江間君であれば、言ってしまっても問題は起きないのだろうな)
既にこの世にいない人好きのする同期の顔を思い浮かべて、福地はもう一度目を閉じる。
彼は人から馬鹿にされることを恐れず、知らないものを知らない、わからないことをわからないと口にする人だった。そして人に教えを請い、知恵を出し合うべく協調を促し、問題を解決する。その手柄を独り占めにすることもないから、自然人望と尊敬を集める。
福地は倦怠の息を吐き出した。
あれだけ恵まれていながら、既に死んでいる宮部を助けるために飛び出していった彼の神経が全く理解できない。恐ろしく頭のいい男のはずだ。
彼が彼女を特別な人間と見ていると感じることはあったが、仮にそうだとしても、愚かとしか形容できない。いや、その仮定こそが彼を愚かにしたのか……。
静かに身を起こすと、明かりの方に目を向けた。小さめの窓から強い明かりが差し込んでいて、歪んだガラスの向こうには、雲一つない青空が広がっている。
ここに来た時は雨期の終わりだったが、今は乾期に入ったそうだ。白の街並みと黒い外郭、その奥の荒地が砂埃に霞んでいる。
江間が生きてここにいてくれれば、と何度思っただろう。であれば、彼を前面に出しておくことで、余計な火の粉を防ぐことができたのに。
宮部にしてもそうだ。江間のようなコミュニケーション能力はないが、知識も思考力も高く常に冷静、求められる以上の仕事を的確にこなす。かといってでしゃばることもないから、ここにいればうまく利用できたはずだ。
何より――手段は違えど冷静に論理的に動くあの二人がいれば、福地は彼らを通じて周りの人間が何をどう感じ、何を考えているか、より分かりやすくなっていた。
『――何を考えておる』
『失礼いたしました、我が女王陛下』
寝ていると思っていた人から声が響いて、福地は居住まいを正す。身をかがめ、『お許しを』と耳元でささやいてその頬へと口づけると、心にもないことを口にする。
『陛下の、寝る顔、寝顔を見……拝見、していると、や、ましい、気持ちになるので、注意を、他にやって、おりました』
まんざらでもない顔でキスを受けていた女――バルドゥーバ女王ウフェルは、くつりと笑って身をひねり、両腕を福地の首へと回す。
「……」
倦厭を押し隠して女王の後頭部へと手を回し、口づけようと顔を寄せれば、細い指が福地の顎へと添えられた。
鮮やかな緑色の髪に視覚が、馴染みのない何とかという花の香りに嗅覚が、覆いつくされる。
(何が面白いのか……)
唇と唇が交わり、深くなる。女王の反応を慎重に伺いながら、口内を舌で探り、愛撫する。湿った水音が立ち、合間に女王の乱れた吐息が耳に響く。舌で触れた瞬間に体が震えた場所を記憶し、そこを執拗に責めれば、息遣いに興奮が混ざり始めた。
こっちの世界の人間の特徴なのか、女王の犬歯はひどく鋭い上に八本ある。女王を満足させると同時に、自分が傷つかないように気を払わなくてはならないことも、実に面倒だ。
『……』
顔がわずかに離れた。色味の濃い肌の中で、光を放つ瞳は薄い緑だ。目元は弧を描いている。女王は艶めいた笑いを見せながら、福地の顎をつかんでいた両手を首へとスライドさせた。
『っ』
その手に首を絞められて、福地は咄嗟に身を引く。ケラケラと笑い出した女王に、怒りと恐怖をひた隠して、苦笑を零してみせた。
『しれっと嘘をついた罰じゃ』
『……恐れ入ります』
ここで悪びれて見せれば、不興を買う――瞬時にそう判断して、残念そうな表情を浮かべて恭順だけを示せば、ウフェルは残忍そのものの満足をその赤く艶めかしい唇に浮かべた。
『よい――それでこそ稀人じゃ』
泰然と答える女王の年齢は三十二。在位十年、父である先王と太子であった兄を殺して即位したという彼女に夫はいない。この世のすべては自分のものだと公言してはばからない彼女は精力に満ち溢れていて、その貪欲さは艶福家という面にも表れていた。自分の子とも呼べるような男から三十以上年上の男まで、民族を問わず、二十名以上を夜伽のために常に侍らせている。
不興をかえば殺されると言われるが、それは半分真実で半分は間違いだ――女王は使い出のある者は殺さない。
部屋には護衛や侍女が控えているというのに、女王が彼らを気にする様子は今日もない。彼女にとっては虫けらのようなもので、彼らの思考や動向はおろか、存在自体興味などないのだろう。
美しいと分類されるであろう裸体を隠そうともせず、女王はベッドから立ち上がった。福地は緊張した面持ちの侍女が跪いて差し出してきた、和服の襦袢のような造りの半透明の肌着をその肩に掛ける。
それから、女王が好む血の色をした酒を差し出した。それを一口含んだ彼女が、福地に向けて笑いかけてくる。唇の間から覗く、大きく鋭く尖った八本の犬歯は赤く染まっていた。彼女の日頃の言動と相まって、思わずドラキュラを連想する。
『今宵も許す。異界の男というのも興がある』
嬉しくはもちろんないが、嬉しがっているように見せなくてはならない。だが、ウフェルに甘言を弄しても通じない。追従に慣れ切っているからだ。となると、言葉ではなく態度で印象付けるべきだろう。
『光栄に存じます』
(あれは徹夜明けの彼女が研究室の机に突っ伏して寝てしまった時……)
そう判断した福地は、自分が知る中で最もコミュ力の高かった男が、意中と思しき女性にごく稀に見せていた表情と仕草を思い返し、それをまねる。
女王の薄い緑の瞳を見つめながら、顔全体を小さく緩ませ、頬にかかった髪を可能な限り優しく、耳の後ろへと梳き上げる。
『……そういえば、おぬしの言うた砂のごとき鉄、なかなか具合が良いようじゃ。奴隷どもは良く死ぬようになったらしいが、あの鉄があれば、いくらでも補充できよう』
そう呟きながら、ウフェルは福地から目を逸らした。
(気に入らなかったか? いや、気に入らなかったのであれば、ただではすんでいないはずだ――)
『褒美をやらねばな。何がいい、金か土地か』
『こちらの世界に、慣れてい……おりません、ので、金も土地も、意味……ではなく、価値ですね、価値がわかりません』
『難儀じゃな』
切り捨てず一緒に悩んだ――成功だ。目線の向け方、笑い方、仕草、言葉遣い、そのすべてをウフェルに対する際に有用な術であるとして記憶する。
『では、その鉄を、どう、使う……お使いになる?のか、考えを、聞かせもらえ、お聞かせ、いただけます、か?』
『ふむ。間者と疑われるようなことを言うておるぞ?』
『かんじゃとは……話を外……敵?に出す、ということですか? 別の世界からきて、この国に、招く……招くれた身で、そんな相手、いるはずはありません。完全に、きょ、うみ、です』
『「カガクテキコウキシン」とか言っておったあれか? ……まあ、よかろう。今宵伽の際に聞かせてくれるわ』
福地は女王へと、彼が彼女に見せていた笑みに再び倣って微笑む。そして、その笑い方も記憶しておくべきこととして、整理した。




