↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラドゥと旅路と獣狩り  作者: あびすけ
【ラドゥと少女と獣憑き】
8/16

ラドゥと少女と獣憑き〈肆〉



【7】

 ラドゥがシムカの異変に気づいたのは、明け方のことだった。

 耳慣れぬ息づかいに、彼はハッと目を覚ました。

 ラドゥはすぐさまシムカに駆け寄った。彼女の息は荒く、顔は赤かった。苦しげな呻き声が漏れ出し、玉のような汗が顎を伝い落ちていく。ラドゥは彼女の首筋に触れた。火のように熱かった。

「シムカ様」

 軽く肩を揺すると、彼女は薄く眼を開いた。

 何かを伝えようと口を開くが、ぜいぜいと息が鳴るだけで、言葉を成さない。

 この熱、この汗。

「水ですね」

 ラドゥの言葉に、シムカはこくりと頷いた。

 シムカを抱き起こし、口元に水筒をあてがう。二口、三口と、彼女は水を飲む。

 水筒をしまったラドゥは、シムカを横たえ、考える。

 実のところ、シムカは昨日の時点であまり体調が優れているようには見えなかった。歩みは普段より鈍く、食事の量もいつもより少なかった。気丈に振る舞っていたが、その顔色には疲労の色が滲んでいた。だから昨夜は鍛錬を休んだ。彼女は若い。一晩ゆっくり眠れば、疲労も回復するだろう、ラドゥはそう思っていた。

 発熱の原因はわからない。過労のためか、あるいは病か。

 わかっているのは、放っておいて治るようには思えないということだ。

 躯の熱さと汗の量が尋常ではない。意識も朦朧としている。

 旅路は一旦中断だ。この状態では歩くのも野宿も論外だ。風雨を凌ぐ必要がある。温かい食事と寝具も必要だ。薬もいるだろう、医術師にも診せなければならない。

 懐から地図を取り出す。大雑把ではあるが、現在地はだいたい把握している。この近くに街道がある。昨夜の山賊の襲撃も、街道が近いことの証左であるはずだ。

 ラドゥはすぐさまふたり分の荷物をまとめ上げ、シムカのマントで背負子を作る。それから背負子に彼女と荷物を固定して、背負う。完全に力の抜けた人間は想像以上に重い。だが、ラドゥの動作はまったく重量を感じさせない。

 今までは鬣犬(ハイエナ)の襲撃を警戒し街道を避けていた。だが、この状況ではそうもいってられない。

 一刻も早く人里に下りなければならない。

「少しの間、がんばってください」

 背中の少女を励まし、ラドゥは歩き出す。



 歩くこと半刻、街道が見えてきた。

 丈高い草叢の隙間から、ラドゥは様子を探る。

 人影は、無い。怪しい気配も感じられない。もう一度地図を取り出す。この街道の先に街がある。一瞬の逡巡、ラドゥは道に出る。

 このまま草叢を進むことも考えたが、足場と視界が悪い。今は何よりもシムカを医術師に診せることを優先しなければならない。踏み固められた道ならば、ひとひとり背負っていても速度を出せる。鬣犬とは出会わないことを祈るしかない。

 ラドゥは速歩で歩き始めた。

 何度か、男たちとすれ違った。ラドゥは鋭い眼つきで男たちを一瞥した。皆(みな)、旅人や商人の類いだった。少なくともラドゥの警戒網に引っかかるような者たちではなかった。旅をする者のそれが礼儀であるように、男たちはすれ違うラドゥに頷きかけた。ラドゥも頷き返した。

 やがて空に雲が出てきた。吹き抜ける風は冷たく、空気は湿っている。

(降ってくるな)

 ラドゥはシムカを下ろし、容態を確認する。今朝と変わらず躯は熱い。顔も真っ赤だ。息も荒く意識も曖昧。悪化はしていないが、快方に向かっているとも思えない。水を数口飲ませ、自分のマントを彼女に羽織らせると、ラドゥは歩みを再開する。

 ぽつりぽつりと、雨が降り始めた。

 すぐに雨脚は強まり、打ちつけるような大粒の雨がラドゥのマントを叩いた。

 視界が霞む。ブーツがずぶ濡れになる。前髪から頬へ、頬から顎先へ、絶えず水が滴り落ちていく。雨音が周囲のすべてを席巻する。

 ラドゥは辺りを見回す。雨宿りできそうな大樹や岩陰は見当たらない。

 だからラドゥは、ただひたすらに歩き続ける。

 四半刻もそうやって歩いていただろうか、不意に雨音を縫うように馬の蹄の音が聞こえてきた。

 背後からだ。近づいてくる。

 ラドゥは立ち止まり、振り返った。

 煙(けぶ)る視界に、一台の幌馬車を見いだした。

 ラドゥは脇に退(ど)いた。

 馬車は水を撥ね上げながら、ラドゥの脇を通り抜ける。

 雨の匂いに、馬の体臭が紛(まぎ)れる。

 ふたりを追い抜いた馬車が、ゆっくりと速度を落とす。

 やがて完全に停車した。

 ラドゥの眼が警戒に細まった。ナイフを掌に忍ばせる。雨に打たれながら、次の展開を待つ。ラドゥと馬車との間には三、四間の距離がある。襲いかかられたとしても、十分対処できる。敵の数が少なければ一旦シムカを下ろし、手早く殺す。多勢ならば、逃げる。何にせよ、最優先事項はシムカの安全だ。

 幌の垂れ幕から人が顔を出した。

 ラドゥの全身から殺気が滲んだ。

「アンタ、大丈夫かい?」

 恰幅のいい、三十代前後の女が大きな声をあげた。

 女の腰あたりから、七、八歳くらいの男の子と女の子がひょっこり顔を覗かせる。

「バカ、そんな風に顔を出すと濡れるよ、風邪でもひいたらどうすんだいッ!」

 女が頭を叩(はた)くと、ふたりはすぐに頭を引っ込める。

 ラドゥは警戒を解いた。ナイフを鞘に戻し、額の雨粒を拭う。

「こんな雨の中、人を背負って歩くなんて、正気の沙汰じゃないよ」

 女はそう言って手招く。

 その声と仕草には、敵意や悪意が欠片もなかった。

 愚直なまでの親切心が、女からは滲み出ていた。

(どうやら、悪い人じゃなさそうだな)

 ラドゥはそう思いながら、馬車に向かって歩き出した。



 昼前に、目当ての街に到着した。

 先ほどまでの雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。

「本当にここまででいいのかい?」

 荷台から飛び降りたラドゥに、女はそう尋ねる。

「大丈夫です」ラドゥは答え、雑嚢を担ぐ。ふらついた足取りのシムカが、幌の奥から現れる。男の子と女の子が、バランスを取るように彼女の両腕を支えてくれている。シムカは荷台の縁にすとんと座り込む。ラドゥは背を向け、屈む。少女は両腕をラドゥの首元に回す。彼女を背負うと、ラドゥは女と子供ふたりに頭を下げ、御者台から顔を覗かせた男にも挨拶をした。

「本当に、ありがとうございました」



 ふたりを拾ってくれた馬車は行商人一家のものだった。

 一家はラドゥと同様、ゾルガ国北部の地方都市〈ゼバ〉を目指していた。ゼバへ到る街道には関所が設けられており、人通りも多く、道中は比較的安全だ。だが一カ所、危険地帯があった。バジャル山麓の林道だ。そこだけは危険だと有名だった。なぜなら山から森林にかけて、山賊が棲み着いていたからだ。

 一家が林道付近に到着したのは昨日の夕方頃だった。

 山賊の襲撃を避けるため、一家は林道からだいぶ離れた場所で一夜を明かした。

 早朝、一家は身支度を調え出発した。いくら山賊といえど、明るいうちから旅人を襲ったりはしない。

 無事に林道を抜けたあたりで、雲行きが怪しくなった。吹き抜ける風が冷たく、湿りはじめた。空がどんどん暗くなり、気づいた時には、大粒の雨が降り始めていた。

 視界を遮るほどの豪雨に、御者台の男は注意深く前を見ながら、馬を操った。

 そんな時、人影を見つけた。背丈から少年だろうとあたりをつけた。少年は人を背負っていた。マントに覆われているため定かではないが、こちらも小柄に思われた。

 男は手綱を引き、馬車の速度を落とした。そして荷台の妻に声をかけた。

「ちょっと外を見てくれないか」

 そうしてラドゥたちは馬車に拾われた。

 女から手渡された手拭いでシムカの顔を拭(ぬぐ)い、それから自分の躯を拭(ふ)いた。

 女に事情を聞かれたので、ラドゥは『自分たちは兄弟です』と答えた。両親を失い、遠い親戚の住まいを目指しています。ふたりきりの旅路です。昨夜は山賊を避けるため森林の奥の方で夜営をしました。朝起きると弟が熱を出していました。高熱です。慌てて俺は街を目指すことにしました。

 シムカを弟と偽ることは最初から決めていた。悪い人たちには見えないが、何がどう転ぶかわからない、正体は隠しておくに越したことはない。幸いマントと額布によりシムカの顔は半分隠れている。時折咳き込むが、それ以外の時は静かに眠っている。シムカが少女だと気づかれてはいないだろう。

 ラドゥの話を聞くと女は御者台の男をせっついた。男は馬を飛ばした。

 半刻ほどで街に到着した。

 金を払うと申し出たが断られた。かまわず財嚢を取り出すと怒られた。しかたなくラドゥは女の前掛けのポケットに銀貨を一枚、滑り込ませた。



「はやく医術師に診せてやりな」

 女の言葉にラドゥは頷き、その場を後にした。男の子と女の子が元気よく手を振ってきたので、振り返した。

 ラドゥたちが降り立ったのは、どうやら街の目抜き通りらしかった。酔っ払いの笑い声があがる酒場、鉄を打つ音が響く鍛冶屋、様々な長靴(ちょうか)や短靴を店先に並べている靴屋。露店も軒を連ねていた。果物や野菜を並べる店があれば、織物や衣類を売っている店まで、種々雑多だ。ラドゥはこの前立ち寄った街を思い出した。外に出てはじめて訪れた人里。あの街で狩人の荷物持ちの仕事にありついた。

 いま、目の前にしている街並みはあの時の街よりも少し小さいかもしれない。それでも澱底(オリゾコ)育ちのラドゥからすれば、眼を見張るものがある。

 だが、感心している暇はない。

 人の目を避けるように、ラドゥは裏道に入る。

 いくつかの路地を抜けると、宿屋を見つけた。さっそく部屋を取り、ベッドにシムカを横たえる。ラドゥのマントに包(くる)まれていたため、衣服はほとんど濡れていない。ラドゥは宿の主人に医術師の場所を尋ねる。幸運なことに、数軒隣に診療所があるとわかった。

 ラドゥはすぐさま医術師の元へ駆け込んだ。



     *****



「ただの風邪じゃな」

 シムカの診察を終えた医術師は頷いた。柔らかな雰囲気の老年の医術師だった。彼は手早く荷物をまとめると、

「これは食事のあとに飲ませなさい」

 そう言って、いくつかの薬包をラドゥに手渡した。


 ラドゥが駆け込んだとき、診療所は休憩中だった。物音に気づいた老医師が奥から顔を出した。昼食中だったのだろう、口の周りにパン屑がついていた。ラドゥは急いで事情を説明した。話を聞き終えた老医師はひとつ頷き、往診鞄を手に、宿屋へ駆けつけてくれた。

 老医師は荒い息を吐くシムカの頬を触り、首筋を指先でとんとんと叩いた。そのとき気づいたのだろう、ラドゥに視線を向けた。

「実は弟ではなく、妹なんです」医術師相手に隠し立ては無理だろうと、部分的な真実をラドゥは告げた。「俺たちはふたりで旅をしているんです」

 その言葉でだいたいのところを察したのだろう、老医師は一言「懸命な判断じゃな」と溢した。


「君の妹さん、診(み)たところずいぶん疲れが溜まっておるようじゃな。旅路というものは苛酷じゃ。君は頑健そのもののようじゃが、妹さんは違うぞ」ラドゥから診察料を受け取った老医師は、そう言って嘆息した。「ただの風邪とはいえ、弱った躯にはそれ相応の負担を強いるものじゃ。幸い、妹さんは若い。水分をよく取り、栄養のある食事をしっかりした食べ、そしてよく眠れば、二、三日で快方へと向かうじゃろう。その間は安静にな。そうそう、儂(わし)の渡した薬を飲ませるのも忘れずに」

 老医師は鞄を片手に、帰っていった。

 ラドゥはシムカの寝顔を見やる。今朝よりはだいぶ頬から赤みが引いている。

「ただの風邪、か」

 安堵したようにラドゥは部屋の隅に腰を下ろした。


『君は頑健そのもののようじゃが』老医師の言葉が頭の中で反響する。『妹さんは違うぞ』

 ラドゥは眼を閉じる。剣を習いはじめた頃の、自分の姿を脳裡に描(えが)き出す。


 ガロの鍛錬は容赦がなかった。毎日、何時間も剣を振り続けた。体力と筋力をつけるための訓練により、夜になるとラドゥはヘトヘトに疲れ果てた。それでも黙々と耐えた。ガロが褒めてくれるからだ。ラドゥには両親がいない。兄弟もいない。家族がない。ラドゥはひとりきりで育った。やがてガロに拾われた。ラドゥが技術を習得するたび、ガロは満足そうに笑った。それがラドゥには嬉しかった。だから頑張った。鍛錬はより烈(はげ)しさを増した。ラドゥは弱音ひとつ漏らさず耐え抜いた。そうして限界が来た。肉体と精神を疲労が上回った。ラドゥは高熱に倒れた。あとから聞いた話によると、三日間意識が戻らなかったそうだ。

『オメェがガキだってこと、すっかり忘れてたぜ』

 ようやく眼を覚ましたラドゥに、ガロはそう言った。

『すまなかったな』

 後にも先にも、ガロが謝ったのを聞いたのはあの時だけだった。


 ラドゥはゆっくりと眼を開く。

 窓外からやわらかな陽射しが差し込んでいる。

(最近、昔のことばかり思い出すな)

 そう思いながら、ラドゥは立ち上がる。

(シムカに剣を、教え始めたからかな)

 師匠と、弟子。ラドゥの中にある、数少ない関係性のひとつ。

 やはりラドゥは、自分とシムカを重ね合わせているのかもしれない。

 だが、師弟の立場は、逆だ。

 今は少年が師であり、少女が弟子だ。

 ラドゥは眠っているシムカの首筋に触れる。熱はいくぶん下がっている。が、それでもまだ熱い。

 少女は慣れぬ旅路にも音をあげなかった。剣の修業にも弱音ひとつ吐かなかった。気遣っているつもりではいた。把握しているつもりではいた。だが、気がつけば自分を基準として行動していた。

「なあ、ガロ」ラドゥは今は亡き師匠に向け、自嘲の言葉を吐いた。「どうやら俺は、アンタと同じ失敗をしたらしい」






【8】

 ジジは退屈そうに街道を見ていた。

 ここで検問を始めてから、すでに二日が経過している。

 街道には馬車の姿が多い。この往来の通じる先は〈ゼバ〉という都市であり、そこはこの地方の交易上の要衝であるらしく、旅人よりも隊商の行き交いが目立つ。鬣犬(ハイエナ)は自分たちの前を通るすべての人間と馬車を調べた。黒衣の、あきらかに堅気ではない男たちの出現に、ほとんどの人々が素直に従った。時々、抵抗を試みる者たちもいた。たいていは護衛を雇った大きな隊商だった。そういう時の鬣犬は、嬉々とし、容赦の無い暴力でもって相手を叩きのめした。縮みあがった隊商主は、すぐにべらべらと喋りはじめた。


 そういうことを、二日間繰り返した。

 収穫は無しだ。

 もう何日も、場所を変え、時間を変え、こんなことを繰り返している。


 鬣犬は傭兵だ。そして傭兵は、金のために仕事をする。

 鬣犬の本業は殺しだ。紛争地帯で、小国の内戦で、金の為に暴れ回るのが彼等の本来の姿だ。それを考えると、今回の仕事は些(いささ)か毛色が違った。庶子(しょし)の小娘の追跡と殺害。戦場を駆け回るよりよほど簡単な仕事に思えた。それがどうだ、二度も獲物を取り逃がし、仲間を失い、いまだに獲物の所在を掴めてすらいない。いつもであれば、ここらで仕事を切り上げ帰郷しているだろう。傭兵は金のために命をかける。しかし最終的に報酬を上回る損失を被(こうむ)るというのなら話は別だ。そういう場合、鬣犬はすぐさまその仕事から手を引く。今回はどうか。この仕事に彼等は長期間拘束されている。ギルヴァン、バルロイ、レドという精鋭を三人も失った。さらには一級狩人を雇ったことにより、必要経費が想定を越えて膨れ上がった。


 だが、首領のドムグは一向に手を引く素振りをみせない。

 ジジには兄の考えがわかる。

 ヨキ国が提示した報酬は莫大だ。シムカ=トドゥクさえ手に入れば、損失など簡単に補填できる。成功の暁にはヨキ国の軍部との繋がりもできるだろう。どこの国にも薄暗い部分は存在する。大国ミカヅツに接し、周囲を無数の小国に囲まれるヨキ国ならば、尚更闇は深いはずだ。正規軍には頼れない、今回のような任務。鬣犬の仕事の幅が広がるのは間違いない。

 それに、あの小娘は蜈蚣(ムカデ)との取引に使える。

 ヨキ国にシムカ=トドゥクの首を持ち帰る前に、あの小娘を生きたまま奴等へと引き渡す。

〈蜈蚣〉。最悪の犯罪集団。常軌を逸したテロリストども。

 あの連中は獸憑きの血を欲している。

 憑人は貴重だ。間引かれず、殺されず、憑人の里に帰化していない獸憑きはそうそう見つかるものではない。ゆえに蜈蚣は生け捕りにされた憑人を、法外な値段で買い取る。

 シムカ=トドゥクは、金の生(な)る木だ。

 どのような犠牲を払ってでも手に入れたい。

 だから、退屈だなどと言ってはいられないのだ。



 ジジが気を引き締め直した丁度その時、こちらへ向かってくる幌馬車の姿が眼にとまった。何の変哲もない、ここ数日何回も眼にした馬車。乗合い馬車か商人のどちらかだろう。

 ジジは顎で馬車を指し示す。

 周囲に控えていた鬣犬たちが立ち上がる。

 彼は傭兵団の古参というわけではない。ジジが鬣犬に入隊したのはここ二、三年のことだ。通常、その程度の年月では新入り扱いされる。だがジジはドムグの弟だ。鬣犬たちはそれをわかっている。それに部下たちに恐れられるドムグも、肉親には甘い。気がつけば、ジジは鬣犬の中堅層と同等の、いやそれ以上の権限を有するようになっていた。

 部下たちが馬車を止めるのをジジは見つめる。

 御者台から男が下り、荷台から女と、小さな子供ふたりが現れる。

 おおかた家族だろう。

 鬣犬たちは四人を取り囲み、尋問を開始する。小さな子供ふたりは怯えたように母親の前掛けを握り、母親は子供たちを庇うようにその頭に手を置く。そして妻と子供たちを守るように、父親は一歩前に出る。

 父親は震えながら、それでも毅然とした表情で鬣犬に受け答えしている。

 不意に鬣犬たちの動きが止まった。

 父親は話を続けている。

「嘘じゃねぇだろうな」

 鬣犬のひとりが脅しつけるように大声を出す。

 父親は何度も頷く。

 ひとりの鬣犬がジジの元へ駆けつける。

「どうした」

「あの一家が、四、五日前に旅人の兄弟を拾ったそうです」

「それがどうした」

「年格好が小娘と護衛のガキと一致します」

「兄弟なんだろ」

「弟の方が額に布を巻いていたらしいです。それと女が言っていたんですが、兄弟の弟を見たとき、最初妹だと思ったそうです。そしてその兄弟は、まだ街にいます」

「詳しく話せ」

 ジジは報告を聞き終えると興奮したように眼を輝かせた。

 彼の元に検問を任されていた六人の鬣犬が集まる。

「時間がない、俺が頭(かしら)に知らせる。お前等は今すぐ街に向かえ。その兄弟が乗る予定の隊商を見つけ出せ」ジジは咆(ほ)える。「さっさとしろッ! 必ずそのガキどもを捕えろッ!」

 鬣犬たちは一斉に馬に乗る。ジジも乗馬する。

「あの街には今、ザルファがいる」

 ジジの脳裡に、今朝の光景が浮かぶ。

『俺は戯(あそ)んでくる。お前等はしっかり見張ってろよ』

 そう言い残し、ゼバへと発(た)った一級狩人。

「丁度いい。ザルファにも手伝わせろ。あの狩人のことだ、娼館にでもいるだろう」

 鬣犬たちは頷き、馬を駆って街道を走りはじめる。

 部下たちの後ろ姿を眺めながら、

「高い金払ってるんだ、少しは働いてもらわねぇとな」

 そう吐き捨て、ジジはドムグの元へ駆け出す。






【9】

 ザルファは黒山の人だかりを眺めている。

 薄汚れた百姓、仕事を抜け出してきた労務者、身なりの整った貴族然とした男、薄衣(うすぎぬ)を身につけた娼婦……多種多様な人々が熱っぽく叫び、金貨銀貨を握り締め、腕を高く振りあげる。人々の視線の先にはひとりの男が立っている。仲介人(ブローカー)だ。人々は男に向かって、

「一番に金貨をッ!」「一番に銀三枚ッ!」「有り金すべて一番に賭けるッ!」

 叫び散らしながら金を投げ渡す。

 仲介人は手慣れた手つきで金を払った人々に薄い板きれを渡していく。

 仲介人の背後には荒板の囲いがある。荒板は人の胸元ほどの高さで、その表面には血が染みついている。地面には折れた嘴や抜け落ちた羽が散見される。その様相はさながら小さな闘技場といったところだ。

 それもそのはず、ここは土俵(ピット)だ。

 土俵の左右には鳥籠が置かれている。一方の籠からは獰猛な鳴き声があがり、もう一方の籠からは乱暴に翼をばたつかせる音が響く。

 右側の籠に〈一番〉、左側の籠に〈二番〉と張り紙がしてある。

 籠から覗くその肢体(したい)は、間違いなく軍鶏(シャモ)のものだ。

 これから行われるのは闘鶏だ。


 街外れの薄汚れた市場にザルファはいる。いや、市場というより、闇市といった方が正確か。道端には浮浪者が寝転がり、ずる賢い眼つきの子供たちがうろつき、臑(すね)に傷のありそうな男たちが妖しげな商売をしている。中心地のような華やかさはない。陰鬱と頽廃的な空気がそこここに漂っている。だが、熱気だけは眼を見張るものがある。

「締め切りだ」

 仲介人がそう告げ、振りあげた両腕で声を荒げる人々を制した。

 熱を上げる人だかりを尻目に、ザルファは歩き出す。

 たまたま眼についた露店に立ち寄る。

 香ばしい匂いがザルファの鼻をくすぐる。

 露店の天幕からは羽を毟り取られた鶏が吊されている。顔に刺青のある店主が鶏肉を直火で焼いている。店主はザルファに気づくと、

「さっきそこで闘った死にたての鶏だ。うまいぜ」

 顔の刺青を歪ませるように笑った。

 ザルファは銅貨を放り、手羽先を受け取る。

 頬張りながら、再び闇市に眼を向ける。


〈ゼバ〉に到着して最初に眼についたのが、この場所だった。

 街に赴いたのに理由はない。たんなる暇つぶしだ。検問などというくだらない仕事は鬣犬にやらせておけばいい。

 闇市は、ザルファの肌に馴染んだ。目抜き通りでも娼館でもなく、最初にここを訪れたのは、この貧民窟(スラム)から懐かしい匂いがしたからだ。

 故郷に似ていた。

 もっとも、ザルファの育った街はこことは比べものにならないほど酷い場所ではあったが。


 あらゆる暴力が渦を巻く南部の最底辺でザルファは育った。糞(クソ)を煮詰めたような街だった。悪漢、暴漢、喧嘩、盗み、強姦、売春、殺し、虐殺……それらすべてが日常だった。夜になると街には霧が漂った。咽(む)せ返るような濃い霧は、澱底(オリゾコ)から流れ着く夜霧(ヨギリ)だった。夕暮れと共に谺(こだま)する獸の咆吼は、殺戮の合図だった。〈肥溜(コエダメ)〉と呼ばれるザルファの故郷は、文字通り最低最悪の場所だった。子供がひとりで生き残れる環境ではなかった。だが、ザルファは生き残った。

 圧倒的な暴力の才が、彼にはあった。

 六歳の時、はじめて人を殺した。

 十一歳の時、はじめて獸を殺した。

 肘まで血に染まるような殺し合いを、ザルファは延々と繰り返した。

 いつの頃からか、肥溜めでザルファの名を知らぬ者はいなくなっていた。赤毛の少年は、獸以上に恐れられた。


「あんちゃん、どっちに賭けたんだい?」顔に刺青のある店主がザルファに声をかけた。

 ザルファは露店の支柱に身を預け、闘鶏場を見やり、肩をすくめた。

「なんだ、賭けてないのか」

「生憎、俺が賭ける前に締め切られちまってね」

「そいつは気の毒にな」

「まったくだ。楽に稼げたのにな」

「ずいぶん自信ありげだな」

「見る目があるんでね」ザルファはにやりとした。「こと血の博打(ブラッド・ギャンブル)において、俺は負けたことがない」

「どっちが勝つかわかるってのかい?」

「当然だ」ザルファは顎をしゃくる。「勝つのは二番だ」

 二羽の鶏は、ちょうど籠から出され男たちに抱え上げられているところだった。


 一番の軍鶏は非常に大柄だった。鶏冠(とさか)から背中にかけてが鮮やかな紅色に染まり、しかし翼は夜のように黒い。羽毛の上からでも、その身が引き締まった筋肉に覆われているのがわかる。何勝もあげている軍鶏なのだろう、闘志が抑えられぬというように嘴で宙を突(つつ)き、空を鉤爪が掻く。

 対する二番の軍鶏は、一番より一回りは小さかった。全身がくすんだ灰色で、毳立(けばだ)った羽毛は見窄(みすぼ)らしく、お世辞にも美しいとはいえない。一番のような眼を見張る明暗(コントラスト)を見たあとでは尚更汚らしく見えた。さらに一番と違い、二番は大人しかった。敵を前にしているというのに、覇気がまるで感じられない。ジッと相手を見つめているだけで、微動だにしない。軍鶏というよりはそこらの養鶏のように見える。どう考えても、一番に勝てるようには見えない。

 皆、そのことに気づいている。

 大半の客が一番に賭けている。二番のオッズは高い。


「大穴なのは認めるがね」刺青の店主はやれやれというように首を振った。「天地がひっくり返っても、あの灰色じゃ一番には勝てないよ」

「どうかな」

「やけに強気だな」

「いったろ? 俺には見る目がある」

 確かに二番は小柄だ。だがザルファは灰色の軍鶏の瞳に、比類無き獰猛さを見て取った。奴は大人しいんじゃない、然(しか)るべき時のために力を蓄えているだけだ。

「ああいうのは剽悍(ひょうかん)なんだよ」ザルファは愉快そうに嗤った。「この勝負は二番の勝ちだ」

 刺青の店主は訝しげな目つきでザルファを見ていたが、不意にその表情を固くした。

「もしかして、あんちゃんは狩人か」

「そうだ」ザルファは眉を顰めた。「何か問題あるか?」

「勘違いしないでくれ」店主は肉を焼く手を止め、左手を掲げた。小指と薬指が無かった。掌は半分近くが抉られている。「おれは南部の出身だ。ガキの頃、獸にやられた。協会に助けられなきゃ、今頃あの世だ。狩人に偏見はない。感謝してるくらいだ」

「同郷とはね」

「あんちゃんも南部の人間かい」店主は破顔した。「こっちで狩人をやってるのかい」

「俺の狩り場は今も昔も南部だ。今は休暇でこっちに来ているだけだ」

「筋金入りじゃねぇか」店主は畏敬の念を込めてザルファを見た。南部の人間は狩人を敬っている。もちろんそこには北西部の狩人も含まれるが、やはり獸狩りの最前線で活動する南部の狩人をこそを最も尊敬している。

 刺青の店主は闘鶏場を見やり、

「あんちゃんみたいな狩人が言うんだ、二番の勝ちで間違いないんだろうな」

 納得したように頷いた。


 喚声(かんせい)があがった。

 闘鶏が始まったのだ。

 黒い影と灰色の影が空中で激突した。二羽は蛇のように絡まり合いながら土俵(ピット)へと落下する。

 喚声が大きくなる。怒号と野次が混ざる。

「あんちゃんからすれば」店主は土俵の中央で睨み合う二羽を眺め、首を振った。「闘鶏なんて、子供のお戯(あそ)びみたいなもんなんだろうな」

「そうでもない」ザルファは真剣な眼差しで二羽の決闘を見つめる。「ブラッド・ギャンブルってのはいいもんだ。闘鶏でも闘犬でも、奴等は命を賭けて闘う。軍鶏(シャモ)の鉤爪が相手の眼窩を抉る瞬間、闘犬の牙が敵の喉笛を喰い千切る一瞬……死力を尽くした闘いには狩人の本質が現れる。ああ、だからブラッド・ギャンブルってのはいいもんだ」

「本質?」

 店主が眉を顰めたとき、再び闘鶏場から喚声が沸きあがった。

 先に動いたのは大柄な一番だった。羽撃(はばた)き、灰色の二番に躍りかかる。

 二番は軽くいなすようにその攻撃を避け、一番の側面に回り込む。一番は着地と同時にすぐさま飛びかかる。空中で何発も蹴りを繰り出すが、すべて避けられる。そんなことが数回繰り返される。

 一番は怒ったように頸毛(くびげ)を逆立てる。

 二番は冷静だ。一番の間合いの外を、弧を描くように駆ける。眼に獰猛な光が宿っている。今にも飛びかかりそうな殺気を全身に漲らせ、しかし自分からは仕掛けない。

 しびれを切らした一番が、再び躍りかかる。しかし、鉤爪は虚しく空を掻く。

 その瞬間、勝負が決する。

 一番が着地した瞬間を狙っていたのだろう、二番は素速く跳躍し、一番の顔面めがけ蹴りを放った。躯が大きいため小回りが利かず、また着地の隙を狙われた為に反応の遅れた一番の頭部に、二番の一撃が見事に突き刺さった。眼窩に鉤爪が減(め)り込んでいる。爪先は脳にまで達している。

 歓声と怒声が巻き起こる。

 膝を崩す百姓と、飛び跳ねる娼婦。

 勝者には大金、敗者には破産。

 生と死。

 この世界の、絶対的な法則。

 闘鶏場から死臭が漂う。


「殺すことだ」二番が一番の眼窩(がんか)から鉤爪を引き抜く。どろりと血が滴る。灰色の軍鶏は満足げに羽撃き、鬨(かちどき)の鳴き声を上げる。ザルファは愉しげに嗤い、店主の問いに答えた。「狩人の本質ってのは殺すことだよ」






【10】

 ラドゥは市場に踏み入った。目抜き通りに広がっている市場ではない。街の外縁(がいえん)に位置する貧民窟(スラム)、その近くに開かれている闇市だ。

 道端に薄汚れた浮浪者が寝転がっている。年端もいかぬ子供たちが掏摸(すり)の獲物を物色している。剣呑な顔つきの男たちが怒鳴りあい、今にも喧嘩がはじまろうとしている。

 街の中心部とはまったく違う世界が、ここには広がっている。

 ラドゥはこの街で最後の買い出しに訪れていた。

 今日中にゼバから発つつもりだった。

 シムカの容態はすでに恢復(かいふく)している。


 老医師にシムカを診てもらった後、ラドゥはすぐに街へ飛び出した。用心深く市内を見て回った。追っ手の気配は欠片もなかった。一息つき、市場に向かった。喧噪を掻き分け、食材を仕入れた。宿屋の炊事場を借りてシムカにスープを作った。獣肉と根菜を煮込み、調味料で味をととのえ、最後に溶き卵をくわえた。このスープを飲むと四肢が火照り、よく眠れ、翌日には躯が嘘のように軽くなる。『疲労回復にはコイツが一番なんだよ』得意げにガロはそういい、鍋をかき回していた。獸狩りのあとの夕食は、決まってこのスープだった。老医師は栄養のある物を食べさせるようにと言っていた。このスープなら間違いないはずだ。


 鍋を持って部屋に入ると、シムカが薄目を開けていた。

「目が覚めましたか」ラドゥは鍋をテーブルに置いた。「スープを作ってきました。食欲はないでしょうが、少し食べた方がいいです」

「わたしは……倒れたの……」

「疲労からの発熱だと、医術師がいっていました。今はゆっくりと休んでください」

「ここは……?」

「ゼバという街の宿屋です。安心してください。鬣犬(ハイエナ)の気配はありません」

「追われて、いるというのに……」シムカは身を起こそうとしたが、力が入らないのかベッドに崩れそうになる。ラドゥは手を貸す。ゆっくりと上体を起こし、彼女は顔を歪めた。「こんな時に……申し訳ありません……」

「謝らないでください。シムカ様の体調に気を配っていなかった俺のミスです」

「違い、ます……わたしが、体調の管理を、怠ったから……それに、無理をいって、剣の修業まで……」

「なら、おあいこですね。もう忘れましょう」ラドゥは鍋から料理を深皿によそい、ベッドに腰掛ける。匙(さじ)でスープをすくい、シムカの口元に差し出す。彼女は戸惑ったようにラドゥを見、それから匙を見、またラドゥを見る。赤い頬にさらに色が差したのは、気恥ずかしさゆえか。とはいえ満足にベッドから起き上がれないような体調では、ひとりで食事をすることなどできようはずもない、そう悟った彼女は、意を決したようにラドゥの匙を受け入れた。

「申し訳、ありません……」

 面映ゆそうに、シムカはそうこぼした。



 あれから五日が経過している。最初の二日で、シムカの体調は恢復した。後の二日間は、様子見にあてられた。再度診察に訪れた老医師が「もう少し安静にしておきなさい」と忠告したからだ。シムカが横になっていた四日間は、結果的にラドゥの休息にも繋がった。宿での最初の晩、ラドゥは自分が想像以上に疲れていることに気づいた。ひとりきりならば、何日野宿をしようと、どれだけ山道を歩こうと平気だ。それだけの鍛錬と実戦を重ねてきた。だが今回は勝手が違う。常に周囲を警戒し、シムカの動向に目をくばり、眠りも最小限ですませてきた。そういったひとつひとつの積み重ねが、いつの間にか疲労となってラドゥの両肩にのしかかっていた。

「怪我の功名、ってやつか」

 そう呟き、ラドゥはシムカの寝顔を眺めた。

 その顔からは、いくぶん赤みが引いている。

「いや、違うか」

 嘆息し、ラドゥは首を振る。

 下手をすれば、シムカは死んでいたかもしれない。とてもではないが、そんなふうには思えない。

 だが、それでも、この機会に躯を休めることができるのはありがたい。

 ラドゥはスープを平らげ、マントを毛布がわりに壁に凭(もた)れる。街の中だ。野盗の類いはいない。鬣犬の気配もない。すこし警戒を解いても問題ない。

 久しぶりに、ラドゥは深く眠った。



 そして五日目の今日、ラドゥは最後の買い出しをしていた。

 ある程度必要な物は目抜き通りで揃えた。スラムに来たのは干し肉を買うためだ。

 ここに来てから毎日、ラドゥは街中を散策していた。いざという時のために、街の構造を頭に入れておきたかった。街の中心地には立派な屋敷が建ち並んでいた。制服を着た衛兵の姿も目立った。目抜き通りは活気に満ち、その近くの市場には隊商の荷馬車が列を成していた。中心街から円を描くようにラドゥは散策した。市壁に近づくにつれ、空気が澱んでいった。薄汚れた身なりの人々が目立つようになり、饐えた臭いが鼻をつく。やがてスラムにたどり着いた。生気のない物乞い、具合の悪そうな娼婦、剣呑な目つきの男たち。スラムには暗い翳(かげ)が射していた。ラドゥはスラムを歩いた。絡まれるようなことはなかった。種類は違うが、ラドゥにも暗い翳があった。やがて闇市を見つけた。粗悪な品ばかり扱っていた。だが、肉類だけは別だった。よほど良い猟師から買いつけているのだろう、目抜き通りの市場よりも新鮮なジビエが揃っていた。その日からラドゥは、肉を買う時だけはスラムにまで足を運ぶようになった。



 喚声があがった。

 ラドゥは立ち止まった。

 闇市の中央に人集(ひとだか)りができていた。

 叫び声や怒声が飛び交い、金を握り締めた手が幾本も掲げられていた。

 闘鶏だ。スラムで人気の賭け事なのだろう、ラドゥが知るかぎり、毎日あそこで軍鶏(シャモ)を闘わせている。

 ラドゥは闘鶏場に視線をやった。人混みの隙間に、荒板で囲まれた土俵(ピット)が見える。左右に鳥籠が置かれている。一方には大柄な黒い鶏が、もう一方には小柄な灰色の鶏が入れられている。ラドゥはこれから雌雄を決する軍鶏をしばらく眺めたあと、闘鶏場を後にする。

 背後から一際大きな喚声が巻き起こる。

 烈(はげ)しい羽ばたき。

 肢体がぶつかり合う音。

 闘いが始まったようだ。

「灰色が勝つな」

 そうこぼし、ラドゥはいつもの店に向かった。




 ザルファは露店を後にした。

 闘鶏が終わり、散り散りになった人々によって一時的に闇市の人口密度が上がった。

 ザルファは人群れを掻き分けるように進んだ。

 闇市を出て、中心街へ向かうつもりだった。


「女はどこで買える?」去り際、ザルファは店主にそう訊いた。「できればべっぴん揃いの娼館を教えてもらえるとありがたい」

「なんだあんちゃん」あきれたように店主は肩をすくめた。「あんたまさか、こんな陽が高いうちから娼婦を買うつもりかい?」

「別に真っ昼間から女を抱いちゃいけないなんて法はないわけだからな」

 その答えが気に入ったのか、店主はくつくつと笑った。「確かに、あんちゃんの言うとおりだ」

 店主は中心街の路地裏にある貴族や素封家(そほうか)御用達の高級娼館の名を告げた。

 ザルファは恩に着るというように店主の肩を叩き、歩き出した。

「なぁ、あんちゃん」

 その声にザルファは振り返る。

 店主は右手を掲げていた。ザルファが見ているのを確認すると、上げていた右手を腰に当て、次に首筋に持っていき、最後に右胸を叩いた。


〈腰の得物を用いて、獸の首を断ち、その心臓を穿つ〉

 それは協会の狩人の敬礼だった。


 ザルファはにやりとした。

 いつもなら、ふざけ半分で敬礼するような輩は堅気だろうがなんだろうがブチのめす。だがあの男は同郷であり、狩人への敬意も忘れていなかった。

 ザルファは敬礼を返し、軽く頷いて人混みに紛れた。




 ラドゥの前方に人集りが現れた。

 闘鶏が終わったのだろう、闇市をあとにする為に、あるいは留まって酒を飲む為に、あるいは勝った金を散財する為に、あるいは負けた腹いせに誰彼かまわず喧嘩をふっかける為に、群衆は通路に広がっていく。

 ラドゥは人々の間隙を縫うように歩いた。

 わめき声、話し声、怒鳴り声。

 汗の臭い、酒の匂い、人熱(ひといき)れ。

 ラドゥは歩く。

 様々な人種。様々な性別。様々な階層。

 男、女、子供、老人。

 ラドゥは、ただ歩く。

 薄汚れた襤褸(ぼろ)切れ。染みひとつない礼服。粗布の農民服。

 種々雑多な人々とすれ違う。

 ラドゥは、ただ黙々と歩き続ける。

 視界の隅を、暗い色合いの裾端(すそはし)が掠(かす)めた。


 瞬間、うなじの毛が逆立った。


 ラドゥの歩みが、止まる。

 ほとんど無意識のうちに、ラドゥはナイフの柄を握っていた。

 一拍の間を置き、振り返る。

 流れる人混みの中で、ラドゥと同じように立ち止まっている男がいた。長上衣(ロングコート)を羽織った長身の男だった。燃えるような赤毛が眼を惹(ひ)いた。ラドゥと同じような革編靴(ブーツ)を履いていた。腰の不自然な膨らみから、男が帯剣していることが窺えた。赤毛の男は何か違和感を感じているように、首を傾げている。

 ラドゥの眼が鋭くなる。

 男の全身から、夜霧と獸の匂いがした。そして何より、暴力の気配が立ちのぼっていた。

 こういう匂いには覚えがあった。この前知り合った三人の狩人。ジャック、ベル、ロルフの三人が、こういう匂いを漂わせていた。

 だが、同じではない。

 次元が違った。

 吐き気を催すほどの獸臭。胸が悪くなるような澱(オリ)の残り香。

 膨大な獸を殺して来た者だけが纏うことの赦される、圧倒的な暴力の気配。

 ガロと同質の匂い。そして、自分と同じ気配。

 ラドゥは静かに、赤毛の男の背中を見つめた。




 ザルファは立ち止まった。

 蟀谷(こめかみ)が、疼いていた。

「なんだ?」

 訝しげに、首を傾げる。

 蟀谷の疼きが、強さを増す。

 肥溜めで培った危機察知能力。獸狩りで研ぎ澄まされた第六感。

 ザルファの性癖。自身の警戒網に何かが引っかかると、蟀谷が疼く。

 人混みのただ中に、血の臭いを嗅ぎ取った。

 濃く、強い、獸の血の匂いだ。

 俺の匂いじゃない、とザルファは眼を細める。俺に近いが、俺とは違う匂い。獸の血の匂い。澱の匂い。そして、研ぎ澄まされた暴力の気配。

 限りなく俺に近い匂い。限りなく俺と同質の気配。

 こういう匂いには覚えがある。

 こういう気配には二種類ある。

 ひとつ目。弐號種(ニゴウシュ)。殺戮と飽食の化身。澱から産み落とされる最悪の獸。

 ふたつ目。一級狩人。協会が六人しか認めていない凄腕の狩り手。つまり、ザルファの同胞。

 弐號種ではあり得ない。だが、一級でもあり得ない。

 背筋に視線を感じる。敵意は無い。殺意も。ただ、異様なほど鋭い。彼の背後に、何かがいる。

 ゆっくりと、ザルファは振り返る。

 雑踏、喧噪、人熱れ。

 眼を惹くような物は何もない。

 蟀谷の疼きが静まっている。

 血の残り香が、消えかけている。

 だが、確かに、誰かがいた。

「なんだよ」ザルファは唇をつり上げる。「こんな片田舎に」双眸がぎらつく。「何がいやがる」




 ラドゥは人混みから抜け出す。

 慣れた足取りで闇市を進む。

「あんな人が、いるんだな」

 赤毛の男の姿を思い出しながら、独りごちた。

 一瞬、ラドゥは男に声をかけそうになった。ガロ以外で、自分にこれほどまでに近しい人間に出会ったのは、はじめてだった。

 だが、ラドゥの中の何かが、声をかけるのを躊躇わせた。

 ラドゥは男の匂いの中に、暗い情動を嗅ぎ取った。

 ガロや自分には無い、暴戻(ぼうれい)さを、男の内奥(なか)に見い出した。

 嫌な予感がした。

 関わるべきでないと、ラドゥの直感が告げていた。

 それに時間もなかった。昼過ぎにはこの街を発つ予定だった。買い出しを終えて、すぐにシムカの元へ戻らなければならない。道草を食っている暇はない。

 だから、立ち去った。

 先ほど同様、黙々とラドゥは闇市を歩き続けた。

 もう、振り返らなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 続き楽しみに待ってます!
[良い点] めちゃくちゃ面白い
[一言] 行商人に出会って助かったと思ったら足を引っ張られたな。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。