ラドゥと少女と獣憑き〈参〉
【5】
ザルファは関所の門を潜り抜ける。ドムグがそれに続き、黒い外衣に身を包んだ鬣犬たちがその背に続く。
黒衣の男たちは多くの馬と馬車を伴い、傲然と歩いていく。
門衛たちは不服そうな表情を浮かべ、敵意に満ちた視線を鬣犬たちに向けている。通行税の徴収の他、通行人の検問などが関所の仕事だ。本来であれば、鬣犬のような怪しげな集団の通行など許さない。
だが、ザルファがいる。
関所に到着した彼は、門衛たちに狩人証を提示した。
門衛たちは息を呑み、ひとりが関門に併設された営舎へ駆け込んだ。連れられて出てきたのはこの場所の責任者であろう年配の男だった。毅然とした態度を装っているが、緊張しているのが誰の眼にも明らかだった。
ザルファは男に狩人証を放った。慌てたように男はそのメダルを受け取り、矯めつ眇めつし、それが本物であると確信した。
「一級狩人のザルファ様、どうぞお通りください」
「連れも通るが、かまわないだろ?」
「差し支えなければ、どのような素性の方々なのか、教えていただけるとありがたいのですが」男はちらりと黒衣の集団に眼を向けた。全員が剣呑な顔つきをしている。明らかに堅気の人間ではない。どころか、この国の人間なのかどうかすら定かではなかった。
「仕事仲間だ」
「狩人の方々なのですか?」
「ある意味では」ザルファは嗤った。「確かに、俺たちは狩りの途中ではあるな」
「一級のあなた様がこんな田舎に顔を見せるとは。まさか、この地方に弐號種が」
「そういうわけじゃない」
「ですが、先月西部の最奥部に広がる山林地帯で、弐號種が発生したという噂が出回っています。もしそれが本当なのだとすれば」
「違うといってるだろ」ザルファは男の肩に手を回し、引き寄せる。「それより聞きたいことがある。この関所を、小娘が通らなかったか?」
「小娘、ですか?」
「おい」ザルファは背後の鬣犬に声をかける。「誰でもいい、コイツに説明しろ」
関所の壁に凭れながら、ザルファは門衛たちが日誌を調べ終わるのを待っている。
日誌には関所を通った人間の氏名と特徴が記載されている。今日から十日ほど遡って、責任者の男が獲物の特徴と合致する人間がいないかどうか確認している。
鬣犬が探しているのは三人だ。
一人目。シムカ=トドゥク。長い髪を結い上げ、額に布を巻いた十三、四歳の小娘。ゆるやかな寛衣を着用している。また、貴族然とした雰囲気を漂わせている可能性がある。
二人目。ゴド=イシズル。精悍な顔つきの初老の男。年齢に見合わず屈強な体つきをしている。精巧な装飾の施された剣を佩いている。腹部に傷を負っている。
三人目。名無し。外衣を羽織った鋭い眼つきの小僧。
ザルファはあくびをする。はなから見つかるなどと期待していない。獲物も馬鹿ではない。面が割れている以上、まず間違いなく服装や髪型を変えているだろう。偽名を使っている可能性もある。三人目にいたっては、マント姿の旅人然とした少年、ということだけしかわかっていない。そんな野郎はこの世界にごまんといる。まず間違いなくこの関所から得られる情報は何もない。そもそも、獲物がここを通ったのかさえわからないのだ。ザルファが思うに、獲物は街道にはいない。目的地が割れている以上、待ち伏せされるのは必然、そうとわかっていて危険な街道を使うわけがない。確かに隊商などに紛れて移動している可能性はある。ゆえに鬣犬は眼についた隊商や駅馬車すべてを野盗のように、いやそれ以上の荒々しさで調べ上げている。聞き込みもしている。いや、あれはほとんど脅しか。
結果。収穫無し。獲物の痕跡は欠片もない。
それでも小娘を捕らえる可能性が一番高いのは、ザルファのいるこの隊だろう。
シムカ=トドゥク追跡に際して、鬣犬は三つの隊に分かれた。
一つ目の隊は、獲物が最後に目撃された山麓の街道を中心に、小娘が潜伏していないか捜索する者ども。鬣犬の裏をかき、彼等が消えるまで身を潜めている可能性はなくはない。が、あまり重視されている見解とはいえず、この任務に割り当てられている鬣犬は三名ほどと少ない。
二つ目の隊は、ゾルガ国北部国境砦近辺で待ち伏せを行う予定だ。シムカ=トドゥクが里へ向かうのは確実だ。先王という後ろ盾を失った瞬間、彼女は肉親に命を狙われた。獸憑きが外の世界で生きていく苛酷は、想像を絶する。逃げ場は憑人の里をおいて他にない。里へ向かうには北部国境砦を越える必要がある。ゆえに五名の鬣犬が先回りすべく、馬を乗り潰しながら要撃地点へと向かっている。
そして三つ目が、ザルファのいるこの隊だ。鬣犬の首領ドムグ自らが率いる本隊だ。この隊の目的は、シムカ=トドゥクの確保。獲物が辿るであろう街道や街に眼を光らせ、痕跡を探し、獸憑きの小娘を見つけ出す。ジジの報告によると、名無しの小僧は瞬く間に三人の鬣犬を殺したらしい。かなりの腕前だ。ゆえにこの隊に割り振られたのは残りの鬣犬すべてだ。
これだけ見つからないとなると、やはり獲物は森林や草原などを移動している。だがいつまでも人里離れた場所にいられるわけではない。国境砦付近は峻険な山岳地帯だ。あらゆる場所に警邏隊もいる。いずれは街道に出てくるだろう。それに問題が生ずれば ──病気、怪我、食料の枯渇など── 獲物は人里に下りてこざるを得ない。そうなれば、見つけ出せる確率は高くなる。
どちらにせよ、里までに生け捕りにできなければ、ザルファはこの仕事から降りる。
〈協会〉は〈憑人の里〉と同盟関係を結んでいる。手を出すことはできない。
「つまらねぇな」またもザルファはあくびをする。「話を聞いた時には、もう少し愉しくなりそうだと思ったんだが」
退屈な仕事だ。
やはり休暇を切り上げ、南部に戻るべきだったのかもしれない。
とはいえ、乗りかかった船だ。
「もう少しつき合うかね」
何の気なしに、ザルファは街道沿いの森林を見やった。
ちょうどその時、男がふたり、森林から歩み出てきた。
暗い色合いの外衣に、動きやすそうな穿袴。革編靴は泥に汚れている。ひとりは腰に剣を、もうひとりは背に長剣を背負っている。ふたりとも鋭い眼つきをしている。ひと目見ただけでわかる。奴等は狩人だ。
関所には徴税や検問以外にも、獸を見張る役割がある。あのふたりは関所付きの狩人だろう。
南部の関所はほとんど砦といってよく、常時数十名の狩人が、獸が発生しないか周囲に眼を光らせている。南部の霧から発生する獸は一匹ではない。伍號種と肆號種が、そして参號種が、群れで産み落とされる。魔の咆号が戦いの合図となり、狩りは凄惨を極める。そういう事情を知っているザルファからすると、この関所の警備は児戯に等しいものと映る。この地方では獸がほとんど発生しない。よくて伍號種が、悪くて肆號種が数年に一度、目撃されるかどうかだ。南部と西北部とでは、その危険度は雲泥の差だ。
それでも、あのふたりは狩人だ。
それはザルファにとって、意味がある。
ふたりの狩人は関所の方に眼を向け、一瞬眉を顰めた。
黒衣の、明らかに堅気ではない集団が営舎の近くに屯している。数秒立ち止まり鬣犬を眺めていた彼等だったが、自分たちには関係がないと考えたのだろう、再び歩き始める。
ザルファは彼等を眼で追う。
狩人と衛兵たちは挨拶を交わさない。南部と違い、狩人は嫌われている。
ふたりは営舎の入り口へ向かう。道を空ける者も何人かはいたが、ほとんどの鬣犬は動こうとしなかった。ふたりは黒衣を掻き分け、営舎の中に消えた。
「薄汚い狩人め」ひとりの鬣犬が吐き捨てた。「俺のマントに触れやがって、穢れが感染っちまうぜ」
その言葉がザルファの耳に届いた。
一級狩人の瞳が、スッと細められた。
壁から背を離し、暴言を吐いた男の方へ近づく。
その背後に立つ。
気配に、男は振り返ろうとし、
刹那、男は地面に仰向けの姿勢で叩きつけられていた。
あまりのことに受け身すら取れなかった。どう投げられたのかわからなかった。男は状況を理解出来ず、背中を貫く痛みに呻いた。
その呻きも、長くは続かなかった。
ザルファのブーツの踵が、男の咽喉に減り込んでいた。
「お前がまだ死んでないのは、一時的とはいえ俺の仕事仲間だからだ」ザルファの声に含まれるざらついた殺意に、周囲の衛兵たちが凍りつく。鬣犬たちでさえ、その異質な気配に息を呑む。ザルファは虎のような双眸を見開き、足下の蒼白の顔を見下ろした。
「一度だけ聞かなかったことにしてやる。だが次、俺の眼の前で狩人を侮辱しやがったら」
男の蟀谷すれすれに、異形の刃が突き立てられ、
「お前の顔面を削ぎ落す。わかったか?」
そう、告げた。
男は何度も頷いた。
「俺はわかったかと聞いているんだ」ザルファは右脚に力を込める。踵がさらに減り込む。「返事くらいしたらどうなんだ」
男は力を振り絞り、掠れた声を発した。
それは『わかった』と言っているように聞こえなくもなかった。
なおもザルファは男の咽喉を踏みつけていたが、やがて足を離し、「獸と戦い血を流す者は等しく俺の同胞だ。俺は同胞に舐めた態度をとる奴が好きじゃない。覚えておけ」
剣を鞘に戻し、歩き出した。
鬣犬たちは道をあける。
集団の中から歩み出てきたドムグが、ザルファに並んだ。
「どうやら俺の部下が、あんたに失礼を働いたみたいだな」
答えるかわりにザルファはドムグの肩に手を置き、嗤った。
だがその眼は、一切嗤っていない。
ふたりは立ち止まる。
「お前とは古い付き合いだ。だからこんなこと、本当は言いたくないんだが」ザルファはドムグの正面に回る。そして警句を告げるかのような調子で、静かに口を開く。「部下の躾がなっていないんじゃないのか?」ザルファの瞳が、狂暴な光を帯びる。「お前が頭だろうが。群れの手綱くらいしっかり握っておけ」
ドムグの肩を軽く叩き、ザルファはその場を立ち去った。
鬣犬の首領はしばらくザルファの後ろ姿を睨んでいた。
従者のようにジジがその傍らに立った。
「何を言われたんです?」
「オメェには関係のないことだ」それより、とドムグは顎で指し示す。ザルファに伸された男が、咽喉を押さえながら立ち上がろうとしていた。何人かの鬣犬がぞんざいに助け起こす。男の真っ青な唇から血が溢れ落ちていく。
「ザルファの前で狩人を侮辱しただと?」
ドムグは苛立たしげに唾を吐いた。
彼は部下たちにザルファと仕事する際に、何を心得なければならないかを教えていない。
なぜなら、裏の世界の住人なら、知っていて当然だからだ。
協会一級でありながら闇の仕事に手を染める男。
〈削刃のザルファ〉の異名で恐れられる、悪逆無道の狩人。
一体、今まで何十人の、下手をすれば何百人もの人間がザルファの前で悪態をつき、殺されていったか。
そんなことも知らないずぶの素人が、まさか鬣犬にいようとは。
弟にして腹心の部下であるジジに鋭い一瞥を向け、ドムグは命じる。「頃合いを見計らってあの馬鹿を始末しろ。ああいう野郎がいると群れが乱れる」
「わかりました」
「野良犬のように殺せ」
「首を持ってきますか」
「冗談を云うな。あんな馬鹿の首なんざいらねぇよ」
頷き、ジジは鬣犬の群れに戻る。
再び、ドムグはザルファの消えた方向へ視線を向ける。
先ほど一級狩人の躯から滲んだ気配を思い出す。狂暴で、ざらついた、剥き出しの殺気。ドムグの背筋を冷たい物が貫いた。苦虫を噛み潰したような顔で、胸中に渦巻く感情を抑え込む。久しくそんな感情に見舞われることはなかった。鬣犬の首領として、荒くれ者の部下たちを、規律と暴力をもって制してきた。確かな剣の腕と、何ものにも動じない不動の精神力を持っているからこそ、無頼の傭兵どもをまとめ上げることができたのだ。
そんな彼が、あの一瞬、確かに”恐怖”した。
一級。それは狩人の頂点。
一級。それは弐號種を殺せる者。
「化け物め」ドムグは忌々しげに吐き捨てる。「獸より獸じみてやがる」
【6】
「小柄だということを利用します」
ラドゥはゆっくりとした足捌きで、シムカの周囲を歩く。
彼女の顔は泥に汚れている。肌の露出部分に、青あざや擦り傷などが散見される。少女の顎を汗が伝う。今さっき打たれた箇所が、鈍く痛む。動き回ったため、息が乱れている。
できることなら、座り込んでしまいたい。
しかし彼女はそうするかわりに、木剣を構え、円を描くようなラドゥの動きを、眼で追っている。
『敵から視線を切らないでください』というラドゥの教えを、忠実に守っている。
ラドゥがシムカに剣を教え始めて、すでに五日が経過している。
毎日、夜営の前の半刻ほどを鍛錬にあてている。
最初に思った通り、シムカは筋がいい。呑み込みが速い。運動神経も申し分ない。なにより意思がある。強くなりたいという想いが剣先から伝わってくる。それだけで強くなれるわけではないが、意志は厳しい鍛錬を耐え抜く力になる。何よりも重要な素質を、彼女は持っている。
とりあえずの基礎は叩き込んだ。今日は、手っ取り早く勝つ手段を教えようと思う。
ラドゥは立ち止まる。
シムカの視線がピタリと彼に据えられる。
すべるような足運びで、彼女はラドゥに向き合う。
教えた通りの動きだ。
ラドゥは内心で頷き、
「子供だからと油断する奴は三流です」と口を開く。「女だからと油断する奴も、同じく三流です。俺が〈外〉に出てきて学んだのは、三流が多すぎるということです。女子供は戦えないと思っている輩がごまんといる。そういう奴等は、俺やあなたのような者を見ると、まず間違いなく油断します。だから、そこを利用します」
「利用、ですか」
「隙を突くんです。つまり」ラドゥの姿が、掻き消えた。「機先を制します」
その声が聞こえた時には、すでにラドゥはシムカの喉元に木剣を押し当てていた。
ふたりの間には一間ほどの距離があった。
その間合いが、一瞬で詰められていた。
シムカには何が起きたのかわからなかった。
「今のは〈地疾り〉です」眼を見開いているシムカに、ラドゥは答える。「脱力と重心移行を組み合わせた歩方術です。〈縮地〉や〈指呼殺し〉とも呼びます。この歩方術は難しいので、無理に覚える必要はありません。相手は油断しています。距離を詰めるだけなら、跳躍や踏み込みで代用できます。重要なのは、相手よりも速く動くことです」
ラドゥの言葉に、シムカは頷く。
距離を詰めたら、とラドゥは続け、「殺すなら咽喉を」素速く腕を振り、「動きを奪いたいなら脚を」木剣をシムカの脹ら脛に当て、「とりあえず傷を負わせたいなら上半身を狙います」木剣の切っ先がシムカの腹部を突いた。「攻め方はひとつだけではありません。脚を狙い膝をつかせ、狙いやすくなった咽喉を突いてもいい。腹部から鼠蹊部まで一気に裂いて、深手を負わせるのも悪くない。組み合わせは無数にあります。その時の状況によって自分の最善手を選び取ります。しかし、一番重要なのは、踏み込みの勢いを剣に乗せることです。膂力に頼るのではなく、速度を利かします」
そこでラドゥは言葉を切り、シムカから距離をとる。
「いきなり多くを教えすぎました。とりあえず、ひとつずつやっていきましょう」
「はい」シムカは頭を下げる。「よろしくお願いします」
陽が沈んでからも、ふたりが打ち合う音は辺りに響いていた。
翌日も、同様の鍛錬が行われた。
その次の日は、鍛錬はなかった。
「休息も必要です」ラドゥは湯を沸かしていた。先ほど雑嚢を漁っていた時、珈琲豆を見つけたのだ。荷物の奥の方にしまい込まれていた。ジャックからの貰い物だ、とラドゥは思い出した。彼等との旅路で珈琲の美味さを知ったラドゥは、砦で治療を受けている間、毎日珈琲を飲んでいた。それに気づいたジャックが、ラドゥに豆を分けてくれたのだ。
さっそくラドゥはふたり分の珈琲を入れた。
カップに注がれた黒い液体を、シムカは見つめている。
「飲むのははじめてですか」
「はい」シムカは恐る恐る口をつけ、「苦い、ですね」
「確かに」ラドゥは苦笑する。「でも慣れてくると美味しいですよ。それに、気分が落ち着きます」
「気分が、ですか」
「はい。命を狙われている、そんな状況だからこそ、たまには肩の力を抜かなければ精神が持ちません。今日は鍛錬は無しです。ゆっくり休んでください」
ふたりは焚き火にあたりながら、静かに珈琲を啜った。
四方は鬱然たる森林だった。とっぷりとした闇が、帳のように木々を覆っている。
もはや慣れ親しんだ静寂。
静かに、ふたりは会話を交わした。
剣を教えはじめてから、シムカが自分に心を開きはじめているのを、ラドゥは感じていた。ぎこちなかった会話は、徐々にすべらかなものへ変わっていった。彼女は自分の事を話した。故郷、家族、それからゴドのこと。
ゴドは彼女の近衛剣士だという。もともとは先王、つまりシムカの父親ドウガシ王直属の近衛隊の一員だったのだという。幼少の頃、彼女の額に痣が浮かび、獸憑きであることが判明した。王はすぐさま箝口令を敷いたが、人の口に戸は立てられない。瞬く間に王宮内に噂は広まった。それでも民衆の内に風聞が立たなかったのは、王宮内での思惑が一致したからだろう。王家の血筋から憑人が産まれるなどあってはならない。早急なる処刑を望む声が、王弟ガウリャを中心に持ち上がった。ドウガシはその要求を悉くはね除けた。ガウリャは一応は恭順な態度で要求を取り下げたが、このことにより、王と弟との間に決定的な亀裂が入ったのは間違いない。ドウガシはガウリャが用心深いことを知っていた。自分の目が黒いうちは、暗殺を企てるような無茶なことはしないだろう。しかし、万が一もある。王は近衛隊の中で最も篤い信頼を置いていたゴドを選び、シムカの近衛剣士として彼女に仕えさせた。それから約十年間、彼はシムカを守ってきた。
「ゴドは、家族なんです」シムカは火を見つめながら呟いた。「少なくとも、わたしは、そう思っています」
「そうですか」
「ゴドはわたしを守ってくれます。それが彼の使命だということは、理解しています。でも、傷ついてほしくない。だから、わたしは強くなりたい」そこまで言って、シムカは顔を両手で覆った。「でも、わかってるんです」その声は震えていた。「強くなりたいなら、ゴドが傷つかないで良いくらい強くなりたいなら、剣を習うだけじゃダメなんです。あなたは、きっとそのことに気づいているんですよね」
ラドゥはしばらく黙っていたが、
「はい」
そう答えた。
「剣を学ぶのを否定しているわけではありません。このまま鍛錬を続けていけば、ある程度の剣腕は身につくと思います。ですが、シムカ様は今すぐ鬣犬と渡り合いたいと、少なくともそれに類する力を手に入れたいと思っている」
少女は頷く。そして、額布に触れる。
「これ、ですね」
「そうです」ラドゥは首肯する。「獸を操ることができれば、あなたは今すぐにでも戦うことができます」
シムカは俯く。
ラドゥは薪をくべる。
気詰まりな沈黙がふたりの間に流れた。
細かな火の粉が視界の端にちらつく。
「一度だけ、獸を喚んだことがあります」ぽつりと、シムカの口から言葉が溢れた。「わたしがまだ幼い頃のことです。絶対に力を使ってはいけないと、ゴドに言われていました。危険だからと。何が起きるかわからないからと。それに獸の姿を万が一にもガウリャ様の一派に目撃されれば、父様を糾弾する材料を与えてしまう。わたしとしても、父様に迷惑はかけたくありませんでした。ですが、そもそもそんな心配は無用でした。わたしは獸の喚び方など知らなかったのです。ですが、あの日」シムカは暗い眼をラドゥに向けた。「母様が病に斃れました。気づいた時には、わたしは獸を喚んでいました」
ラドゥは頷く。
聞いたことがある。
激情が呼び水となり、憑人は獸を召喚すると。
「幸い死人は出ませんでした」シムカは訥々と続ける。「側に控えていたゴドが、すぐにわたしを止めてくれたからです。けれど侍女がふたり、大怪我を負いました。ひとりは左足を失い、もうひとりは右腕と声を失いました。そしてゴドの胸には、一生消えない傷痕が」
ラドゥはゴドに応急処置を施した時のことを思い出す。その胸には、あきらかに獸のものとおぼしい爪痕が走っていた。
シムカは周囲の闇を見やる。「わたしは自分の力が怖い、この身に巣くう獸が怖いんです。もう二度と、アレを喚んだりしたくありません」そう言いながら、闇を見つめ続ける。「それでも、考えてしまうんです。鬣犬に襲撃されたあの日、力を使っていれば、ゴドは傷つかなかったんじゃないかって。いえ、そもそも馬車が襲われた時点でわたしが獸を喚んでいれば、護衛の人たちは命を落とさなかったのかもしれない」
「もしあの日、俺が現れなかったら、シムカ様は力を使っていましたか?」
「それは」
彼女は内なる葛藤に視線をさまよわせ、
「わかりません」
そう、呟いた。
わからない、なぜシムカがそう答えたのか、ラドゥにはわかっている。
ラドゥはガロから獸憑きについて基本的なことを教わっている。獸憑きが喚ぶ獸は、夜霧から発生する獸のように独立した生命体というわけではない。いや、もちろん獸はその本能のままに暴れ回るわけではあるが、憑人から離れることができない。影を想像するとわかりやすいかもしれない。あくまでも本体は憑人側であり、獸はその鏡像、完全な自由は与えられていない。獸が憑人を傷つけない理由はここにある。本体である術者が死ねば、獸も死ぬ。ゆえに獸は術者を守ろうとする。理性はない。近づくものはすべて敵であり、殺戮の対象となる。この獸を術者の制御下に置くことは不可能ではない。しかしその為には厳しい修行を積み重ねる必要がある。シムカは過去一度しか力を使っていない。獸を制御するなど、夢のまた夢だろう。彼女もそれはわかっている。もしあの日、彼女が獸を喚んでいれば、鬣犬を退けることができたかもしれない。しかし同時に、彼女は護衛の人々を、なによりゴドを、殺していたかもしれない。いや、確実に殺していただろう。
いずれ、彼女は自身の内奥に潜む獸と向き合わなければならないだろう。
葛藤とトラウマを直視する日がくる。選択する日が、必ずやってくる。
おそらくその時は近い。憑人の里に辿り着けば、いやでもそうなるだろう。
しかし、あと数日間は、その時を先延ばしにしても問題ない。
今の彼女の隣には、ラドゥがいる。
喋り疲れたのだろう、ここ数日の疲労もある。いつの間にかシムカは、深い眠りに落ちていた。
その寝顔を眺めながら、ラドゥは呟く。
「安心してください」そしてラドゥは立ち上がり、分厚い闇に視線を向けた。「少なくとも、俺といる間は、あなたがその力を使う必要はありません」
そう言って、ラドゥは音もなく消える。
男たちは草叢に身を潜めている。
昼間でさえ薄暗い森林は夜になり、完全な闇に沈んでいる。
だが男たちの視線の先には、火が灯っている。
焚き火だ。ゆっくりと、慎重に、男たちは明かりの方へ迫っていく。木々の隙間に人影がふたつ見える。どちらも小柄で、薄汚れた旅装姿をしている。ひとりは横になり、もうひとりは火を見つめている。どうやらふたりは少年のようだ。
男たちはここら一帯を縄張りとしている山賊だった。彼等が焚き火を見つけたのは偶然だ。たまたま見回りの男が足を踏み外し、斜面を転げ落ちた。幸い軽傷ですんだ男だったが、すでに夕暮れ、斜面を登るには危険すぎる。男は回り道を余儀なくされた。薄闇の中を歩いていると、それを見つけた。森林の奥で、火が微かに揺れていた。その森林は山道から離れてすぎているため、彼等の狩り場には含まれていなかった。
賊を避け、あえて外れた場所で夜営をしている旅人や隊商は珍しくない。
そういう獲物を見つけたのかもしれない。
男は急いで根城に戻り、そして仲間を引き連れて戻ってきた。
強面の男たち。全員が使い込まれた短刀や斧などを手にしている。
獲物が子供と知るや、山賊たちは警戒を解いた。
「ガキのふたり旅とは、ずいぶん不用心だな」
「女はいねぇのかよ。しけてるぜ」
「金目のもんを持ってるようにも見えねぇな。無駄足だったか」
「何いってんだ、ガキってのはそれだけで価値があるじゃねぇか」
「まったくだ。男でも子供なら高く売れるぜ」
「世の中変態野郎で溢れてるからな」
「笑えるほどな」
賊の男たちは下卑た忍び笑いに肩を揺らした。
「おい、無駄口ばかり叩いてるんじゃねぇ」
ドスの利いた声に、周囲の男たちは背筋を伸ばした。彼等の後方に控えていた長髪の男が、ずいと前に出た。この山賊たちを率いている男だった。男は肩を怒らせ、近くにいた手下の頭を叩いた。「いつまでくっちゃべってるつもりだ? さっさとアイツらを攫ってこい。それとな、テメェ等気を抜きすぎだ。ガキだからって油断するんじゃねぇ。少しは」
不意に男の言葉が、途切れた。
ガクンと、長髪の男は両膝を地面に突く。
何が起きたのか、わからなかった。
「アンタの意見には俺も賛成だ」氷のように冷たい声が、長髪の男の耳元で囁いた。「ガキだからって油断するのは間違いだ」
シムカが眠りについてすぐ、ラドゥはその気配に気づいた。
闇の中を移動する複数の気配。隠してはいるのだろうが、わずかに敵意が滲んでいる。
ラドゥはすべるように森林に入った。
澱底で生きてきたラドゥは夜目がきく。獸との殺し合いによって感知能力は研ぎ澄まされている。この暗がりの中にあっても、賊がどこにいるのか見つけ出すのは容易い。
ラドゥはすぐに賊を捕捉した。数は十人。男。全員が得物を所持。だが、鬣犬ではない。これまでラドゥが散々相手をしてきた、野盗の類い。
素速く、音ひとつ立てず、ラドゥは男たちの背後を取る。
賊の挙措動作を見るかぎり、大したことはない。暴力を振るうことには慣れているのだろうが、それだけだ。
しかし、ひとりだけ眼をひく男がいた。集団の最後尾にいる長髪の男だ。腰に下げた剣の柄に手を置くその立ち姿は、なかなか様になっていた。戦い方を知っている者の立ち姿だ。おそらく奴が賊の頭だろう。
長髪の男がずいと前に出ると、周囲の男たちが長髪に注目した。
今だな、とラドゥは地疾る。
一気に距離が縮まる。
長髪は怒気を露わに、話をしていた。
「それとな、テメェら気を抜きすぎだ。ガキだからって油断するんじゃねぇ。少しは」
長髪の男の背後を取ったラドゥは、男の膝裏を蹴る。壊す為の蹴りではない。あくまで膝を崩す為の、軽い、押すような蹴りだ。
「アンタの意見には俺も賛成だ」膝を突いた男の咽喉にナイフを押し当て、ラドゥは男の耳元に顔を寄せた。「ガキだからって油断するのは間違いだ」
何が起きたのかわからないというように、男たちは長髪とその背後のラドゥを見ていたが、次の瞬間には男たちは武器を構え怒鳴りだした。
「黙れ」ラドゥの呟きは小さなものだった。が、その一言には有無を言わせぬ迫力が漲っていた。男たちは思わず動きを止める。ラドゥはナイフを握る手に軽く力を込める。長髪の咽喉から血が一筋、流れる。「次、誰かひとりでも声を出せば、この男の咽喉を掻き切る。わかったか?」
ラドゥの鋭い眼光に射られ、男たちは頷くしかなかった。
「で、アンタが頭なんだろ?」
長髪の顎を、ナイフが叩いた。
「……テメェ、こんな真似をして、ただですむと思って」
「無駄話はよせ。俺の質問に答えろ」
長髪は息をのむ。先ほどよりも刃先が皮膚に減り込むのがわかる。これ以上力が込められれば、ナイフは自分の頸動脈を断つだろう。男にはそれがわかる。そして恐ろしくなる。首を裂かれるのもそうだが、何より得体の知れない背後の刺客に恐怖を覚える。
これだけ繊細に刃を押し当てているというのに、手が震えていない。どころか、微動だにしない。普通ではあり得ない。
道を踏み外す前は、そこそこ名の通る剣客だった男だ。
だからこそ、わかる。
背後の刺客は、自分の躯を、指先にいたるまで完璧に操っている。それに膝を崩されるまで、何の気配も感じなかった。物音も、息づかいも、完璧に消し去っていた。この暗闇の中、しかも周囲には草叢が生い茂っている。一体、どうやったらそんなふうに動けるというのか。
「答える気になったか?」
「……テメェの言うとおり……俺が頭だ」
「そうか」ラドゥは頷き、「選択肢はふたつだ。よく考えてから選べ」
「何の、話だ」
「見ろ」ラドゥは空いている方の手で前方を指し示す。揺らめく焚き火、照らし出されているのは眠りに落ちたシムカの横顔。「わかるか? 俺の連れは、慣れない旅路で疲れてる。アンタ等の悲鳴で起こしたくない。だから、選ばせてやる」
「……だから、何を」
「ひとつ目は、今すぐ手下を連れて俺の前から消えることだ。手を引くなら、見逃してやる」
「ふたつ目は?」
「引き下がらずに、俺と戦り合う」
「テメェひとりで、俺たち全員を相手にするってのか……?」
「普段なら、アンタ等みたいな賊は叩きのめすか、見せしめにひとり殺して終わりにしてる。それで十分だからな。だが、今回は状況が違う」ラドゥは再度、焚き火に視線を向ける。少女の寝顔が、苦悶に歪んでいる。共に旅をしていて、ラドゥはシムカが毎晩、悪夢に魘されていることに気づいた。無理もない、仮にも血の繋がった叔父に命を狙われているのだ。国を追われ、護衛は皆殺しにされ、家族同然の老剣士は兇刃に倒れた。ただ、獸憑きとして産まれてしまったが故に。
ラドゥはゴドに、必ずあの娘を守ると約束した。何があろうと、憑人の里まで送り届けると誓った。
だから、今回は状況が違う。
あくまでも、この賊たちがシムカを狙うというのなら。
ラドゥは男の長髪を鷲摑み、強引に自分の方を向かせた。
男はラドゥの顔を見た。瞬間、怖気立った。
獲物を前にした猛禽類の瞳が、男を射竦めた。
研ぎ澄まされた殺気。明確な殺意。
男の首筋を、冷や汗が伝う。
「もし俺と戦り合うつもりなら」
ラドゥは聞く者の心胆を寒からしめる声で、静かに告げた。
「ここにいる全員、皆殺しにする」
*****
シムカはゆっくりと眼を開いた。
何か、人の動く気配がしたのだ。
おぼろげな視界に、ラドゥが腰を下ろす姿が映った。
「……ラドゥ……?」
「起こしてしまいましたか」
「どこかに……行っていたの……」
「森林の方で物音がしたので、見てきたんです」
「……追っ手……鬣犬……?」
「いえ、ただの猪でした。少し脅かしたら、逃げていきましたよ」ラドゥはそう言って、シムカに近寄る。上掛け代わりにしていた上衣がずり落ちている。それを直してやり、彼は安心させようと笑いかける。いつも通りのぎこちない笑み。「何も問題ありません。まだ夜明けまで時間があります。寝ていてください」
シムカはラドゥを見上げる。が、意識がまどろむ。瞼が重い。手足がだるい。ぼやけたラドゥに小さく頷きかけ、シムカは眼を瞑る。
泥のような眠りに、シムカは落ちていく。
翌朝、彼女は高熱に倒れた。




