神秘の地、神秘の海
「さあ、出航よ! ヨーソロー」
お嬢の掛け声と共に、水面を滑るように出航する。多分その意味も理解せずに使っているのだろう。
「もっと速度を上げるのよ! 動力がヘタっているのでなくて!?」
最後尾で頑張っている者に対して、あんまりな言いようだ。
今日、俺達はこの島周辺をカヤックで散策する。乗組員は船長のお嬢を先頭に、スポッターのルーシェが二番手、そして唯一の動力源である俺が最後尾に配属されている。三人乗りのカヌーを一人で動かすのは中々に骨が折れる。
俺が一人、唸りながら必死にパドルを漕いでいる中、二人は行先について話し合っている。
「最初の目的地はどこかしら?」
「最初のビューポイントは、絶壁から勢いよく吹き出す滝が中々の見ものだそうです」
「分かったわ! さあリオ舵をとりなさい!」
……今日一日これが続くのだろうか——。
『ドドドドドッ』と勢いよく降り落ちる水が、海面に叩きつけられて飛沫が上がる。そこに陽の光が反射して、鮮やかな虹を作り出している。
ここは、俺達が泊っている島と、隣り合う小島の入り江にある滝だ。透明度の高い入り江は美しく、熱帯魚の様な鮮やかな魚が自由に泳ぎ、またその滝が作り出す光景が神秘的である。
「これは、想像以上に綺麗ね」
「人の手が入っていない美ですね。心が洗われるようです」
「空気が美味しいな。それに涼しくて気持ちいい」
この場所は、夏の暑さも気にならない程快適な空間になっている。非常に過ごしやすい場所だ。頑張って漕いで来た甲斐がある。
ゆったりとした時間が流れ、俺達はリラックスするが、今日の予定は先が詰まっている。俺達は後ろ髪を引かれる思いを抱きつつも、次の目的地に向かって進む事にする。
「さあ、気を取りなして次よ」
「次はマングローブの森林浴ですね。地下から真水が湧き上がる珍しい地形にマングローブの森が広がっているようです」
「いいわね。さあ、リオ頑張って!」
次の目的地はここから少し進んだ所にある。あの神秘的な場所に行く途中で見えていたのだ。
その一帯は浅瀬が広がっているからこそ、マングローブの森ができあがったのだ。広い範囲に浅瀬が広がるのは中々に珍しい。ただ、所々カヤックでも底を擦る程浅い場所も有るので慎重に進む必要がある。
カヤックを進め、マングローブの森の中へと入って行く。
若葉色の葉が生い茂り、陽の光を受け止め柔らかくしてくれる。少し陰った海面は、透明度の高い海の中をより良く見えるようにしてくれる。
海底は砂地で、所々から砂を巻き上げて噴出している場所が有る。これが先程ルーシェの言っていた湧き水なのだろう。
一見周囲に生き物の姿は無いが、至る所に生命の気配を感じる。この森には、隠れるのが上手な生物たちの世界のようだ。
「ああ、ここも結構涼しいわね。それにこの光景も結構いいわ」
「このマングローブの森は珍しい蝶が生息しているらしいですよ。なんでもその姿を見た人は幸せになれると言われる程珍しいとの事です」
確かに、この周辺には至る所に一種類の虫の気配を感じる。どうやらこの虫は羽の色彩を変えられるようで、周囲の景色に溶け込む事に長けている。
「リオの力で呼んだりできないの?」
お嬢の言葉に、ルーシェも振り返る。
「ああ、出来るぞ。ただ、結構衝撃的な光景になると思うが大丈夫か?」
仮に俺がこの虫達に呼びかければ、彼らは答えてくれるだろう。ただ、一匹だけ限定するなどできないので、この辺り一帯にいる虫達が反応してしまう。
「いいわよ、これで私達は幸せが約束されるわね」
俺の能力を使ってその姿を見て、本当にそんな効果があるのだろうか甚だ疑問が残る。正直、二人とも気が付いていないだけで、周囲を囲まれているのだ。『見た』と言えば既に彼女達は見ている。
「わかった。驚いてカヤックから落ちるなよ」
俺はそう言うと、能力を使って虫達に呼びかける。その瞬間——。
マングローブの木々にとまっていた虫達が一斉に飛び立った。ただ、先程までとは違って、その羽は陽の光を浴びて七色に輝く。
先程の滝も神秘的だったが、今俺達の頭上に広がる景色も又神秘的だった。
群れを成す蝶が、美しく輝きながら澄み渡った空へと飛び立って行く。蝶の羽ばたきから零れ落ちた鱗粉がキラキラと輝き、世界を覆いつくす。
今、このマングローブの森はかつてない程美しい光景が広がっている。数百数千にも及ぶ蝶が飛び立つ姿は、本来であれば険悪勘すら抱きそうだが、その美しい姿はただただ圧巻だ。
「「「……」」」
俺達は言葉を失った。正直、俺も此処までだとは思わなかった。
それは究極の群衆の美、一にして全の美、今初めてこの世界に生まれ出た美。
幻想郷があるとすれば、こういった場所なのだろうと思わせられるほどの光景だった。
「……言葉が見つからないわ」
最初に口を開いたのはお嬢だった。それでも、表現する方法を持ち合わせていない様だ。最も、それは俺やルーシェも同じだ。
「はい、言語では表現できないものでした」
「ああ、ちょっと言葉にできないな。あー、幸せになれそうか?」
正直、語彙が退化した気分だ。何を話していいのか見つからないのだ。
「「リオに幸せにしてもらうわ(してもらいます)」」
「お、おう……」
ユニゾンする二人。思わず頷いてしまった。
「これで私達の幸せは決まったわね」
「はい、期待して待ちましょう」
二人はこちらを向いて妖艶な笑みを浮べる。先程の衝撃もあり、美女二人に女の目を向けられたら、流石の俺もグッとくる。
俺がタジタジになると、二人はクスクス笑う。流石に二人相手は分が悪い。
二人は俺を揶揄う事でいつもの調子を取り戻したのか、その後は順調にマングローブの森を抜け、次の場所に向かう。
途中、小さな小島で昼食を取り小休止。
昼食は宮殿付きのシェフが腕によりをかけて作ったお弁当だ。その味は流石とだけ言っておこう。
小一時間ほど休憩をした後、俺達は再び出発して次の場所へと向かう。
「こんなもので海中が見えるの?」
お嬢は四角い箱を持ってそう聞いてくる。その箱は底がガラスでできていて海面に浸けると海中が鮮明に見る事が出来るのだ。
「そうみたいですよ。……あ、凄いです」
ルーシェも半信半疑でカヤックから身体を乗り出し、箱を海面に浸けて中を覗き込む。そして実際に綺麗な光景が見えると驚きの声を上げた。
それに続くようにお嬢も身体を乗り出して箱の中を覗き込むが、バランスの悪いカヤックで二人も同じ方向に体重を掛けるとひっくり返ってしまう。
俺は慌てて身体を反対側に傾けバランスを取る。こんな所でひっくり返るのは勘弁してもらいたい。
「おいおい、体を乗り出すのなら互いに別方向にしてくれ、横転する」
俺の言葉に、二人は慌てて身体を引っ込める。この二人、いつも一緒にいるせいか、行動が似ている。
「でもすごいわ。海の中がくっきり見えたわ」
「泳いでいる魚の模様まで見えましたよ」
ここはまだ水深が深い場所だ。それでも見えたとなれば浅瀬ならばもっと綺麗に見えるだろう。その事は二人も分かっているのか、待ちきれずにうずうずしている。
俺は聞こえない程の小さなため息を吐いてパドルを漕ぐ手に力を入れた。
「予定の場所はこの辺りじゃないか?」
頑張って漕いだ甲斐あって、割と早くサンゴの群生地帯に到着した。その代償に俺の二の腕はパンパンである。
「そうですね。地図もこの辺りを記しています」
「では早速みてみましょう」
言うが早いか、お嬢は箱を海面に浸けて中を覗き込む。余程楽しみにしていたのだろう。
「まあ! 凄いわ。こんな世界が海の中には広がっているのね」
水中を覗き込んだお嬢は、楽しそうな声をあげた。それに続くようにルーシェも海中を覗き込む。先程の失敗から学んで、お嬢とは反対側から覗き込む。
「本当ですね! 海底がユラユラ煌めいて綺麗です。それに沢山の魚とサンゴで不思議な光景が広がっています」
普段、海の中を見る機会など無い。それにこの辺りは海の中でも特に綺麗な場所なのだ。彼女達がはしゃぐのも仕方が無いだろう。
俺もカヤックのバランスを見ながら、慎重に海の中を覗く。
そこには、色とりどりのサンゴとカラフルで鮮やかな魚たちの楽園が広がっていた。大小様々なサンゴが、海底を飾り付け、そこに住まう魚たちはサンゴに寄り添うように泳いでいる。
小さな魚たちは、自分より大きな魚が通るとサンゴに隠れて自らの安全を確保する。小さな魚達にとってサンゴは強固な拠点なのだろう。ここには美しさの中にも、自然界の営みが存在した。
「へぇ、思っていた以上に綺麗だな。サンゴってこんなにも種類があるなんて知らなかった」
俺の中でサンゴと言えば、金持ちが部屋に飾る置物のイメージが強い。
しかし、そこに広がるサンゴは固そうなもの、柔らかそうなもの、大きいもの、小さいものなど、様々な物が有る。
「本当ね。お母様の部屋にもサンゴの置物があったけど、それ以外にもこんなにも種類豊富なのね」
「魚も今まで見てきた地味な色彩だけでなく、こんなにも鮮やかで種類豊富なのですね。……ちょっと可愛いです」
二人も海中の光景に驚きを隠せないようだ。
それに楽しそうにしている二人をみているのは嬉しいものだ。これだけ喜んでもらえるのなら、二の腕を犠牲にした甲斐が有ると言うものだ。
それから俺はゆっくりとこの海域を漕ぎ進む。少しずれただけで、生息するサンゴや魚の種類もがらりと変わるようで、お嬢もルーシェも興奮気味だ。時折、怖い顔の魚を見た時の驚き方もなかなかに面白い。
俺達はゆっくりとこの海域を回り、サンゴの群生地を堪能した。
「今日は驚きの連続だったわね」
お嬢は今日見た光景を思い出しているのか、その背中からは充足感を感じる。
「そうですね。全てが初めて見るものばかりでした」
ルーシェの声も、普段よりも弾んでいる。普段色々と苦労を背負い込んでいる彼女も、良い気分転換ができたようだ。
俺達は西に太陽が傾き掛けてきたので、宮殿に戻る為に帰路に付いている。
穏やかでキラキラと光を反射する海面を滑るように進む。今日一日はしゃいだせいか、会話の数はそれ程多くないが、気分は悪くない。今日みたいな日は旅の中で感じることは少ないので、本当に来てよかったと思う。
しばらく進み、あの白亜の宮殿が見えて来た頃、水面からキラキラと光を反射するものがいくつも飛び出してくることに気が付いた。
それは胸鰭を開いて、海面スレスレを飛ぶ魚だった。その滑空する姿はなかなか優雅で、光を反射する鱗は美しい。
この魚は群れで行動するようで、沢山の魚が飛んでいる。魚が編隊して飛ぶとは本当に驚きだ。
「はー、海って凄いわね……」
「はい、盛りだくさんです」
二人は感動疲れをしたのか、先程よりも反応は小さい。しかし、今目の前に広がる光景も彼女達の心を鷲掴みにしたようだ。人は本当に感動すると無言になる。今日は何度これを味わった事だろう。
「ああ、これは確かに金を掛けるだけの価値が有る場所だわ」
昨日のセリフを完全に覆す意見だが、これはもう認めざるをえない。二人も俺の意見に頭を縦に振り、俺の意見に賛同している。
ここは本当に素晴らしい場所だった。
その後、魚達に別れを告げて、俺達を待つ宮殿へと向かって最後の力を振り絞ってパドルを漕いだ。
帰ったらメイドさんにマッサージをしてもらおう。




