交差する想いと、新たなる決意
クロウリーが姿を消してから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
正直なところ、この途方もなく巨大な図書館――「万象書庫グランド・アーカイブ」に身を置いてからというもの、時間の感覚すら大友には分からなくなっていた。
手元のスマートフォンを取り出し画面を確認してみるが、時計の針、あるいはデジタル表示は、あの「白紙化」が起きた瞬間から止まったまま、一切動く気配を見せない。
「ここにいても、どうしようもないか……」
ぽつりと独り言を呟くと、大友は気分転換を兼ねて、アーカイブの広大な内部を歩いてみることにした。
どこまで行っても天井は見えず、途方もない数の本棚が並んでいる。足元の静寂を踏みしめながらしばらく歩き続けると、不意に、香ばしい匂いと共に「食堂らしき部屋」へとたどり着いた。
そう言えば、ここに来てから何も口にしていなかったな――そんな空腹感を急に思い出し、大友は乾いた喉を鳴らす。
だだっ広い食堂のあたりを見渡し、食券販売の自販機の近くまで歩いていった、その時だった。
「あら? お客さん?」
ふわりと声をかけられ、大友は足を止めた。
振り返ると、自分よりも少し年上に見えるが、どこかあどけなさが残る若い女性が立っていた。
「はじめまして、私は望月美咲。料理学校の2年生だったんだけど、いろいろあって、今はここにお世話になってるの」
唐突な自己紹介だったが、女性の穏やかな雰囲気にほっとしたのか、大友もぎこいなく頭を下げる。
「あぁ、俺の名前は大友伊織。よろしく……」
互いに簡単な挨拶を交わした後、成り行きで彼女と一緒に食事をとることになった。
望月が手際よく用意してくれた、温かいチキン南蛮定食を頬張りながら、大友はこの奇妙な食堂についての仕組みや、彼女自身の身に起きたことについて話を聞いた。
驚いたことに、この食堂ではお金という概念が一切存在せず、基本的に代金を支払う必要がないらしい。
だが、それ以上に大友が衝撃を受けたのは、望月自身の境遇についてだった。
彼女もまた、自分と同じように別の世界からこの場所に連れてこられてきたのだという。そして、クロウリーという男は元々この世界(本の世界)へと直接干渉する力を持ち、無数に存在する世界を監視する立場にあるのだと教えられた。
望月自身も、世界の監視の途中でクロウリーと出会い、窮地を救ってもらったのだそうだ。
話を聞けば聞くほど、なぜ自分はあの絶望的な状況から助けられたのか、大友には実感が湧かなかった。しかし、先ほどクロウリーと交わした会話――「グール」や「世界を救う手伝い」についての言葉が、脳裏に重くよみがえってくる。
「どうしたの? 何か悩み?」
考え込んでいると、ふと声をかけられた。
他人の目から見ても、よほど分かりやすく深刻な悩みを抱えていたらしい。
「実は……」
隠していても仕方がない。大友は望月に対し、自分の世界が真っ白に消え去ったこと、自分が本の主人公であったこと、そしてクロウリーから託された使命について、これまでの経緯をすべて打ち明けたのだった。
「……なるほどねぇ」
望月は、大友の語る途方もない身の上話にじっと耳を傾けていた。途中で何度か目を丸くし、チキン南蛮を食べる箸がぴたりと止まる場面もあったが、彼女は決してそれを笑ったり、作り話だと言って突っぱねたりはしなかった。
すべてを話し終えた大友が、気まずそうに視線をテーブルの木目に落とす。
「……信じられないよな。自分の世界が丸ごと消えて、戻れなくなったなんて、我ながら気味が悪い夢を見ている気分だ」
うなだれる大友の肩に、望月はふわりと優しい微笑みを浮かべてそっと触れた。
「ううん、信じるよ。だって、私も似たようなものだから」
「え……?」
顔を上げた大友に、望月はティーカップに新しい紅茶を注ぎながら語り始めた。
「私もね、料理学校の調理実習室で急に足元が真っ白になって、気づいたらこの場所――『万象書庫グランド・アーカイブ』にいたの。最初はパニックで泣き叫んでばかりだったけど……クロウリーさんに助けてもらって、この世界の仕組みを教えてもらったのよ」
望月は窓の外、終わりなく続く巨大な書棚の景色に目を細める。
「だから、大友くんが体験したことも、きっと本当のことなんだって分かる。……それにね」
彼女はまっすぐと大友の瞳を見つめた。
「クロウリーさんはね、冷酷な人に見えるかもしれないけれど、本当はこの世界……いいえ、無数にあるすべての物語を誰よりも大切に思っている人よ。本を愛するあなただからこそ、期待して『世界のしおり』や『アーカイバー』を託したんだと思う」
「俺に……」
大友の脳裏に、あのときクロウリーから手渡された多機能デバイス『アーカイバー』と、透明な輝きを放つ『世界のしおり』の感触が鮮明によみがえる。
一度滅びた世界は二度と元には戻らない。自分のいた作品『一冊目の恋文ラブソング』も、そしてそこで出会うはずだったヒロイン――植田詩織という少女も、もう元の場所には存在しないのだ。
――だが。
『捕食者グールを倒し、散らばった物語の記憶アーカイブを集めきることができたなら……私は約束しよう。君のいたその世界を、新しくゼロから創造し直して見せるとね』
あのとき、クロウリーが告げた約束の言葉が胸の奥で熱く疼く。
そうだ。すべてが消え去ったわけじゃない。物語の続きを創り直す手段が、今、自分の手の中にあるのだ。
大好きな読書を奪われ、自分の日常を、そして――まだ見ぬ少女との出会いを理不尽に塗りつぶされた怒りと悔しさが、大友のなかで確かな意志へと変わっていく。
「俺はただの読者だ。奴らが塗り潰した白紙の続きを読むために・・・」
自然と溢れ出た決意の言葉に、大友は大きく息を吸い込むと、迷いの消えた目で望月を見据えた。
「ありがとう、望月さん。なんだか、少しだけ気持ちの整理がついたよ」
「うん! 無理しちゃダメだよ、大友くん。困ったことがあったら、いつでもこの食堂にいらっしゃい。美味しいご飯を作って待ってるから」
屈託のない望月の笑顔に励まされ、大友は席から立ち上がった。
ポケットに収めた『アーカイバー』にそっと手を添える。
もう迷う必要はない。白紙化された物語世界を救い、失われた自分の世界を取り戻すため、大友は万象書庫の奥深くへと足を踏み出すのだった。




