世界のしおりと、最初の旅立ち
腹を満たし、温かいお茶で一息ついた大友は、ゆっくりと席から立ち上がった。
食堂を後にした彼は、再び元いた場所――図書館を思わせる、巨大な書架エリアへと足を運ぶ。
天井まで届く無数の本棚が、静寂の中に果てしなく広がっている。
その一角に、クロウリーの姿があった。
大友の足音に気づいたのか、書架の陰から姿を現した老魔術師は、彼の顔をじっと見つめる。
その瞳に宿る、揺るぎない決意。
それを確かめたクロウリーは、満足げに目を細め、どこか優しげな笑みを浮かべた。
「ふむ……いい目をしているな。どうやら、覚悟はできたようだな」
「あぁ。これ以上、俺の大切なもの――本が読めなくなるのはゴメンだからな」
大友は迷いなく答えた。
その力強い返答に、クロウリーは深く頷く。
「よろしい。では、まずはこれを渡しておこう」
老魔術師が手にした杖を軽く振るう。
――カラン。
乾いた、どこか上品な音が響いた。
次の瞬間、大友の目の前に淡い光が集まり、一枚のしおりがふわりと浮かび上がる。
薄く輝くそのしおりは、まるで何かを導くかのように、静かに宙を漂っていた。
「それは……?」
「これは、いわゆる『世界のしおり』というものだ」
クロウリーは浮かび上がったしおりを見つめながら説明する。
「このしおりを使えば、崩壊に瀕した本の世界へ直接干渉することができる」
「本の世界に……?」
「ああ。そして――」
クロウリーが杖を大きく円を描くように振るった。
すると、周囲に並ぶ無数の書架が、かすかに震え始める。
やがて、その中から五冊の本がゆっくりと浮かび上がり、大友の目の前へと集まってきた。
それらは、ただの古びた書物ではなかった。
表紙には奇妙な紋様が刻まれ、ページの隙間からは、黒い靄のようなものがかすかに漏れ出している。
大友は思わず息を呑んだ。
近づくだけで肌が粟立つ。
本から放たれているのは、筆舌に尽くしがたいほど禍々しく、冷たい何かだった。
まるで、そこに記された世界そのものが、死へと向かっているかのように。
クロウリーは表情を引き締め、低い声で告げた。
「私が調べた限り、この五冊の本の世界は、今まさに奴らによって喰われ、崩壊している最中だ」
「……グール、か」
「ああ。これらの世界に干渉し、諸悪の根源である奴らを排除して戻ってくるのだ」
大友は五冊の本を見つめ、静かに頷いた。
「分かってる。ところで……」
彼はふと思い出したように、手に持っていた端末を掲げる。
「これの使い方を教えてくれないか?」
「おお、そういえば、まだ説明をしておらんかったな」
クロウリーは思い出したように声を上げると、面白そうに目を細めた。
「では、実際に試してみるとしよう」
杖がひと振りされる。
遠くの開けた空間に、黒く歪んだ影が現れた。
それは、グールを模した不気味な模型だった。
異形の輪郭を持つその姿は、まるで本の世界から這い出してきた怪物のようにも見える。
「まずは、これを持ちたまえ」
クロウリーが杖を振るうと、大友の腰元に真新しいカードホルダーと、アーカイバーを収納するための専用ホルスターが現れた。
大友はそれらを手に取り、興味深そうに眺める。
「そのカードホルダーの中に、『技のしおり』が入っている。中を確認してみたまえ」
言われるまま、大友はホルダーを開いた。
中には、いくつもの小さなしおりが収められていた。
「ショット」「キャノン」「スラッシュ」――。
それぞれに技の名前が記されている。
さらに、その中には「ヒール」と書かれたしおりもあった。
「これが……技のしおり?」
「そうだ。しおりに記された技を、アーカイバーに読み込ませることで使用できる」
クロウリーは一枚のしおりを指さした。
「試しに、『ショット』と書かれたものをアーカイバーにスロットインしてみたまえ」
大友は言われたとおり、しおりを端末のスロットへと差し込んだ。
――カチリ。
精巧な機械音が響く。
直後、アーカイバーからシステム音声が発せられた。
『SHOT』
銃口の先に青く輝く魔法陣が展開され、瞬く間に消えていく。
「今ので、ショットという技が使用可能になったはずだ。試しに、あの模型へ撃ってみるがいい」
「ああ」
大友はアーカイバーを構え、遠くに立つグールの模型へと照準を合わせた。
引き金に指をかける。
一瞬、静寂が訪れた。
そして――。
――ドンッ!
轟音とともに、青白い光弾が銃口から放たれた。
光弾は一直線に空間を駆け抜け、模型へと直撃する。
次の瞬間、激しい衝撃音が響き渡った。
模型は粉々に砕け散り、破片が周囲へと飛び散る。
「……すげぇ」
大友は思わず呟き、手元のアーカイバーを見つめた。
ただの端末だと思っていたそれが、今や強力な武器として機能している。
「今のが、アーカイバーの基本的な使い方だ。実践を通して慣れていくといい」
「分かった」
大友は頷き、アーカイバーを専用のホルスターへと収めた。
その手に伝わる確かな重み。
拳を握りしめると、胸の奥に静かな闘志が湧き上がってくる。
自分の世界を取り戻すために。
そして、大切な本を再び読めるようにするために。
大友は、もう一度目の前に浮かぶ五冊の本へと視線を向けた。
「では、次に『世界のしおり』について説明しよう」
クロウリーが淡々と告げる。
「使い方は至って簡単だ。そのしおりを、これから向かう本の表紙にかざせばいい」
「それだけで?」
「ああ。しおりが反応すれば、世界への門が開かれる。その門を通れば、本の世界へと入ることができる」
クロウリーは、淡く光るしおりを指さした。
「そして、元の世界へ戻るときも同じだ。世界のしおりをかざせば、ここへ帰還できる。それだけ覚えておけば問題ない」
「分かった」
大友は短く頷いた。
そして、目の前に浮かぶ五冊の本のうち、一冊へと手を伸ばす。
古びた表紙に、そっと世界のしおりをかざした。
――瞬間。
しおりが眩い光を放った。
その光は本の表紙へと広がり、古びた書物を黄金色に染め上げていく。
次の瞬間、大友の目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
まるで現実そのものが捻じ曲げられていくかのように、光が渦を巻き始める。
そして――。
巨大な光の門が、ゆっくりと姿を現した。
門の向こう側には、まだ見ぬ世界の気配が漂っている。
大友は一度だけ、背後を振り返った。
そこには、静かに見守るクロウリーの姿があった。
「では、行ってくる」
「ああ。気をつけてな」
老魔術師の言葉を背に、大友は迷うことなく光の門へと踏み出した。
その姿が門の向こうへと消えていく。
やがて、空間の歪みはゆっくりと収束し、光の門も跡形もなく消え去った。
再び静寂に包まれる、広大な図書館。
クロウリーはその場に佇み、誰もいなくなった空間を見つめていた。
やがて、彼の口元に意味深な笑みが浮かぶ。
「さて……彼は世界の救世主となるか。それとも――」
老魔術師は、静かに目を細めた。
「世界を破壊する者となるか……」
その呟きは、誰に届くこともなく、広大な書架の中へと溶けていく。
「私の予言が、どちらへと傾くのか……じっくりと見届けるとしよう」
そう言い残すと、クロウリーの姿は音もなく消え去った。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
残された五冊の本は、静かに宙を漂い続けていた。
そのうちの一冊だけが、かすかに黒い光を放っていた。




