万象書庫(グランド・アーカイブ)
穴に飛び込んだ先は、見渡す限り真っ白な、何もない空間だった。
上下も左右すらも曖昧な、文字通りの「空白の世界」。少し歩いてみても、景色の変化どころか地平線すら存在しない。
「何処だ、ここは……?」
ぽつりと呟いた、その時だった。
「!!」
伊織の視界の先に、ぬっと大きな黒い影が浮かび上がった。
眉をひそめながら、慎重に距離を詰めていく伊織。近づくに連れて鮮明になっていくその影の正体は――途途方もなく巨大なひとつの扉だった。
見上げれば、ドアノブの位置は人間では決して手が届かないほどの高所にある。まるで巨人の屋敷に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚え、伊織はただただ唖然と立ち尽くすしかなかった。
すると――
『来たようだな。入りたまえ』
重々しい声が扉の奥から響き渡ると同時に、巨大な扉が静かに開かれた。
(間違いない……あの時の声だ)
伊織は腹を括り、奥へと足を踏み入れた。
扉をくぐった先は、先程までの無機質な白い空間とは完全に異なっていた。
そこに広がっていたのは、天井が見えないほど巨大な、まるで古今東西の本を集め尽くしたかのような超巨大な図書館だった。
360度、視界の限りを埋め尽くす果てしない数の本棚。さらには、意志を持っているかのように空中をふわりと旋回し、別の本棚へと吸い込まれるように移動していく無数の本たちの姿があった。
「何なんだ? ここは?」
圧倒的な光景に呑まれ、そう呟く伊織に、再びあの声が届く。
『こっちだ、早く来たまえ』
声のする奥へと進んでいくと、吹き抜けの壁の一部に大きな窓が開かれていた。
窓の先には青々とした芝生が広がり、その中央には円形のテーブルと数脚の椅子、そして日差しを遮るように大きなパラソルが立てられている。
その椅子の一客に、ゆったりと腰を下ろしている一人の男性の姿があった。
「初めまして、大友伊織くん。そしてようこそ、『万象書庫』へ」
「グランド・アーカイブ……? なんで俺の名前まで……」
あまりの急展開と、見知らぬ男が自分の名を当然のように口にしたことに思考が追いつかず、伊織はその場に立ち尽くした。
「ふむ、まずは状況を説明しなければならないな」
男性――クロウリーは静かに言った。
「とにかく座りたまえ」
彼が指先を鳴らすと、クロウリーとは反対の位置にふわりと一脚の椅子が現れた。
「あ……ああ」
何が起きているのか分からないが、とにかく座って話を聞くことにした。
「何が起きたんだ?」
伊織の問いかけに応じるように、クロウリーの手元に一冊の重厚な本が姿を現した。
「本というのは、その作者が映し出した一つの世界とも言える。本を通じて作者が何を伝えたいのか、何を訴えているのかを知ることだってできるのだよ」
「…………」
「ただ……ごく最近になってね」
クロウリーは手にした本をパラパラと指で繰っていく。そして、指が止まり、最後のページが開かれた――その時だった。
「!!」
伊織は思わず目を見開いた。
ページに刻まれていたはずの黒い文字が、まるで水に溶け出すかのように、少しずつ影を潜めて消えていくのが目に見えて分かったのだ。
「なんだ、これは……!?」
ほんの数秒のうちに、最後のページは跡形もなく真っ白な空白へと変わってしまった。
「今、このように本の中の文字が次々と消えていく現象が起きているのだよ。そして――この本こそが、君が本来いた世界なのだよ」
「は?!」
あまりの言葉に、伊織は理解が追いつかなかった。
「君はこの本の、『一冊目の恋文』という恋愛作品に登場する、いわゆる『主人公』だったのだよ」
「……俺が、主人公……?」
「しかし、もうすぐヒロインとなる君の同級生、植田詩織くんと出会うはずだったのだが、直前にあるトラブルが起きてしまってね」
伊織の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。
同じクラスで、特徴が強くて、何よりも周囲からの人気者だった故に伊織自身も当然名前と顔は覚えている。
(だけど……なんでそんな彼女が俺と? 接点なんてほとんどなかったはずなのに……)
沸き起こる疑問を抑え込み、今は目の前の「文字が消えた現象」に集中する。
「……トラブルって、一体何なんだ?」
「それがコイツだ」
「!!」
クロウリーが指を鳴らすと、テーブルの上に黒くて形が整っていない、謎の物体が現れた。
「なっ……!?」
「安心したまえ、これはただの模型だよ」
「……何だよもう、脅かすなよ」
脱力する伊織を見て、ハハハと小さく笑声を漏らすクロウリー。しかし、すぐにその表情を真剣なものへと戻した。
「コイツが本の世界に次々と現れ、そのたびに本の文字が今のように消えてしまうことが分かったのだ。私はコイツを捕食者と呼んでいる」
「グール……?」
「文字通り、世界を捕食する怪物だ」
「なんでそんな奴が……?」
「それは分からない」
クロウリーは静かに首を振った。
「君をここへ連れてきたのは偶然だったのかもしれない。だが、是非私の手伝いをして欲しいのだよ」
「手伝い……?」
クロウリーが指先を鳴らすと、そこには鈍い光を放つ片手銃と、透明感のある数枚のしおりが現れた。
「!!」
「これは私が生み出した、グールを倒す力だ。私はこれを『アーカイバー』と呼んでいる。そして、この数枚のしおりは『世界のしおり』。本の世界へと直接干渉することができる。いわば、本の世界の中へと身を投じることができるというわけだ」
「本の世界に……!?」
あまりのスケールの大きさに驚く伊織。しかし同時に、根っからの読書好きである伊織にとっては、どこか胸が躍る内容でもあった。
だが、クロウリーは釘を刺すように言った。
「しかし、あまり干渉し過ぎるのだけは避けてほしい。君は本来、別の世界の人間だ。あまり長居をするのも、過剰に干渉し過ぎるのも危険だということを理解してほしい。……下手をすれば、君自身が世界の破壊者となりかねないのだからね」
「はい……」
一通りの説明を聞き終えたところで、伊織は胸の中に芽生えた根本的な問いを口にした。
「というか……俺の世界はどうなるんだ?」
伊織の問いかけに、クロウリーは静かに目を伏せた。
「そのことについてだが……一度滅んだ世界は再生できないのだよ」
「!!!?」
落雷に打たれたかのような衝撃が伊織を襲う。
自分の世界はもう、蘇らない。
つまり、自分はもう二度と、元の世界へ帰ることができないということだ。
「そん……な……」
あまりの出来事にショックを受ける伊織。
無理もない。たった今まで暮らしていた自分の世界が滅び、二度と戻らないという現実を、簡単に受け入れられるはずがなかった。
呆然と立ち尽くす伊織を前に、クロウリーは静かに椅子から立ち上がった。
「少し考えて、答えを聞かせてほしい」
そう告げると、クロウリーは奥の方へと歩き出した。
「ただ、このままだと、世界中の本が消滅する。つまり、全世界が消えることになるのだ。それだけは避けたいのだよ」
背を向け、広大な書庫の暗がりへと消えていくクロウリーの言葉が、沈黙の残された空間に重く響いていた。




