七歳児、売れ残りの棚から“世界一”を攫う
ランドセルの片方の肩紐が、さっきから何度直しても右にずり落ちる。
「もうじっとして」
母がしゃがみ込み、もう片方の紐を強く引き上げた。黒いランドセルは、まだ持ち主の背丈に見合っていない。店員に勧められた大きめのサイズを選んだ結果が今の肩の傾きだ。合理的な判断が、必ずしも当日の快適さに直結するとは限らない。先月、七つになったばかりの体は、何もかもがまだ少し大きい。中身は四十年ぶんの経験を積んでいても、そこは変わらないらしい。
玄関で名札のピンを留め直されながら、俺は台所から漂ってくる味噌汁の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。前の人生では、とうに霞んでいたはずの匂いだった。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。周、お友達ちゃんと作ってくるのよ」
友達か。作るというより、勝手に出来上がるものだと思っていたが、今回はどうやら、そうとも限らないらしい。
小学校の門をくぐると、桜の花びらがまだ枝にいくらか残っていた。同じくらいの背格好の子どもたちが、大きすぎる制帽と大きすぎる期待を抱えて並んでいる。俺はその列に紛れながら、内心でひそかに計算を巡らせていた。
教室に入ると、丸顔で声の大きい担任教師が、出席簿を片手に名前を呼び始めた。
「田中くん」
「はい」
「佐藤さん」
「はい」
返事の速さと声の張りだけで、およその見当はつく。真っ先に手を挙げるタイプは、そのうち人前に立ちたがる側に回る。名前を呼ばれて一拍遅れる子は、机の落書きで先生に呼ばれる側だ。大人ひとり分の観察眼を七歳の教室で使うのは反則気味だとは思うが、暇を持て余すよりはいい。
「結城くん」
「はい」
模範的な速さで、俺は答えた。狂いのない演技だった。
出席が終わると、教師が言った。
「では、一人ずつ前に出て、自己紹介してもらいましょうか?」
何人かの自己紹介を聞きながら、俺は次の展開をおおよそ組み立てていた。誰が笑いを取り、誰が声を震わせ、誰が座席に戻る前にもう飽きているか。答えはたいてい、その子が椅子から立ち上がる前の一瞬の表情に出ている。
――そして、外れた。
「たかみね、みお。足がはやいです。あと」
澪と名乗った女の子は、そこで言葉を切ると、教室の後方へまっすぐ指を向けた。狙いは俺だった。
「――そこの結城くん、さっきからずっとこっち見てて、なんか変な顔してる」
教室じゅうの視線が俺に集まった。くすくすと笑いが広がる。
喉から出かけた反論が、行き場を失ってそのまま喉の奥に戻っていく。相手の次の一手ならいくらでも読める。だが、自分がいまどんな顔をしていたかまでは、計算の範囲外だった。
「……観察してただけだよ」
声が思ったより小さく出た。狂いのない演技のはずが、初めて台本からずれた。
入学から三週間ほどが過ぎた。教室の誰が誰と組み、誰が誰を苦手とするか。その見取り図は、俺の頭の中でほとんど描き終えていた。ただ一人、高峰澪という例外を残して。
そんなある日の休み時間、校庭の隅で遊具の順番を待っていると、澪が横からひょいと顔を覗かせた。
「結城くんって、なんかおじさんっぽいよね?」
「……何が?」
「喋り方。あと、並ぶ前にみんなのこと一瞬で見比べてた。誰が後ろに来るか、先に決めてたみたいに」
図星だった。列の並び順くらい、目を数秒動かせば読み切れる。だが、それを見抜かれたのは初めてだ。俺は顔に出さないよう、平静を装った。装えていたかどうかは、正直自信がない。
「気のせいだよ」
「ふうん」
澪は疑わしそうにこちらを見たあと、ふいに笑った。理由の見当がつかない笑顔だった。予測できない反応というのは、こんなに落ち着かないものらしい。この頭を授かってからというもの、他人の考えなど造作もなく読めてきた。なのに、この笑顔の意味だけは、いくら演算を回しても答えが出そうになかった。
――どうしてだろう。初めて会うはずのその横顔に、俺は妙な懐かしさを覚えた。
説明のつかない感覚は、長くは続かなかった。チャイムが鳴って、澪はもう校舎へ駆け出していたからだ。俺はその後ろ姿をしばらく見送ってから、遅れて歩き出した。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、澪が横を通り過ぎながら言った。
「結城くん、今度うちに遊びに来る?」
思いがけない誘いだった。損得も駆け引きもない、ただの思いつきらしい。返事を計算する暇もなく、俺は「うん」と答えていた。自分の即答に、自分がいちばん驚いていた。
桜が散り、青葉が濃くなり、やがて金木犀の匂う季節になった。
その日曜、じいちゃんがひょっこり顔を出した。用があるわけじゃない、孫の顔を見に来ただけだ、というのがいつもの口上だ。ここ最近、来る回数が増えている。難しい顔で下手な将棋に付き合ってやると、じいちゃんは妙に嬉しそうにするのだ。悪い気はしない。
俺は駒を片づけながら、切り出した。
「じいちゃん、ちょっと付き合ってほしい店があるんだ」
連れて行ったのは、通りの外れの、間口の狭い玩具屋だった。店主が舶来物に目がなく、外国土産や輸入菓子を気まぐれに並べることで、子どもの間ではちょっと知られた店だ。
「おや、坊主。今日はじいちゃんと一緒か」
人の好さそうな店主が、奥から顔を出す。俺は軽く会釈だけ返して、まっすぐ目当ての一角へ向かった。
棚の隅に、真新しい箱がいくつか積まれていた。つい先ごろ入荷したばかりの、異国のカードゲームだ。この国にはまだ正規に入ってこない品を、店主が知り合いの伝手を頼って海の向こうから取り寄せたはいいが、遊び方も分からず、まだ誰の手にも渡っていないらしい。箱の表には見慣れない意匠が刷られ、角には稲妻をかたどった小さな社章がある。パックの装丁も、記憶にあるそれと寸分違わなかった。
――間違いない。
せり上がる興奮を、俺は奥歯で押し殺した。『マジカル・ギャザー』。世界で初めての"トレーディングカードゲーム"であり、のちに巨大な一大ジャンルを生む元祖だ。ただ眺めて集める札じゃない。手札を切り、呪文を撃ち合って戦う――そんな遊び方そのものが、この時代にはまだどこにも存在しない。そしてこの箱に詰まっているのは、その記念すべき最初の刷り。のちに"アルファ版"と呼ばれる、各レアがわずか千百枚ほどしか刷られなかった初回生産だった。海の向こうで生まれて、まだ二月と経っていない。この国でその値打ちを知る人間は、たぶん俺ひとりだった。
前の人生の、ずっと先の記憶が蘇る。看板カードの《漆黒の蓮》は、状態の良い一枚が三百万ドル――日本円で四億を超える値で競り落とされた。未開封のパックは、たった一つで数百万円。とりわけ強力な九枚は、のちに"パワー・ナイン"と通称され、どれも桁違いの額で取引されるようになる。トレカゲームのカードとしては、まず頂点に立つ宝だった。
箱の表と角の刷りを、それとなく検分する。意匠の縁取り、社章の位置、印刷のわずかな癖。間違いなく、いちばん最初のアルファ版だ。俺は棚の箱を数えた。三つある。ひと箱に三十六パックだから、合わせて百八パックになる勘定だった。
むろん、頼めば店主は子どもにも売ってくれる。この人は詐欺師じゃない。だが、「これは宝だ」とわざわざ教えてやる理由もなかった。値打ちを言いふらせば、値がつり上がるかもしれないし、店主が惜しくなって出し渋るかもしれない。宝の在り処を知る人間は、少なければ少ないほどいい。何食わぬ顔で買う。それがいちばん賢いやり方だった。
「おじさん、これ、ただ集めるカードじゃないよね。これで戦うんでしょ? こんな遊び、今までどこにもなかったよ」
店主が、待ってましたとばかりに身を乗り出した。せっかく見込んで取り寄せた舶来物を、その面白さごと分かってくれる客がいない――そんな顔をしている。ならば、掛ける言葉は決まっていた。
「ぼく、こういうの大好きなんだ。ねえ、この三箱、まとめて譲ってくれないかな。おじさんが見込んで取り寄せたやつだもの、面白さの分かる相手のところに来たほうが、嬉しいでしょ?」
店主は満面の笑みになった。
「坊主、なかなか見どころがあるじゃないか。……よし、三箱まとめてなら、少し勉強しといてやるよ」
じいちゃんは、俺と箱を見比べていた。値踏みの目ではない。孫が珍しく何かをねだるのを、面白がっている目だ。
「お前が自分から何かを欲しがるなんて、初めてじゃないか」
「うん。だから、今日はわがまま言わせて」
じいちゃんは声を立てて笑い、財布を取り出した。三箱で、しめて一万円と少し。舶来の売れ筋でもない紙の束には、決して安い出費じゃない。
「よし、買ってやる。理由は聞かん。……お前のことだ、どうせ儂には見えん何かが、ちゃんと見えてるんだろうからな」
その一言に、俺は少しだけ言葉に詰まった。理屈を全部飲み込んだうえで、黙って乗ってくれている。ただ甘いだけの祖父では、こうはいかない。あの原野商法の一件から、じいちゃんは俺を、孫であると同時に、一人の相棒のように扱い始めていた。
三箱まとめて抱えると、七歳の腕にはずしりと重い。見かねたじいちゃんが、二箱を引き受けてくれた。今この瞬間の値打ちは、払った一万円ぽっちでしかない。儲けなど、まだ一円も出ちゃいない。――だが、と俺は胸の内で算盤を弾く。数年もすればこのゲームは世界へ広がり、アルファ版は語り草になる。当たりのカードが一枚出れば、それだけで元手はとうに超える。急ぎで現金が要る時が来れば、その頃に何枚か手放して次の元手に回せばいい。とっておきの一枚と未開封のひと箱だけは、うんと寝かせて大化けを待つ。いつ、どれだけ現金に換えるかを選べること。それこそが、この百八パックの本当の強みだった。
家に帰ると、俺は箱を一つずつ和紙で幾重にも包んだ。じかに新聞紙でくるめばインクが移りかねない。まずは和紙で守り、その上から丈夫な段ボールにおさめて、湿気の心配も断つ。ここまで厳重に封をした包みを、じいちゃんが「儂の金庫で預かってやる」と請け合ってくれた。母に「ただのおもちゃ」と放り出される心配も、これでなくなる。宝の番人には、うってつけの相棒だった。頑固で、口が堅くて、そのうえ丈夫な金庫まで持っているのだから。
本当は、一パックだけでも開けて、中身をこの目で拝みたかった。前の人生では拝むことすら叶わなかった伝説の札が、今この手の中にある。だが、未開封と開封済みとでは、化ける桁がまるで違う。込み上げる誘惑を、俺はもう一度だけ抑え込んだ。今日のところは、お預けだ。
「その箱が本当に化けたら、そのときは儂にも、種明かしをしてくれよ」
金庫の扉を閉めながら、じいちゃんがそう言って笑った。
「うん。いつか、必ず。……そのときは、じいちゃん、腰を抜かすかもしれないけどね」
その"いつか"が来る頃、この手元にはどれだけ積み上がっているだろう。この街でそれを知っているのは、まだ俺ひとりだけだった。
――そういえば、澪は明日もきっと、俺の計算を軽々と外してくるんだろうな。
そう思うと、不思議と口元が緩んだ。読めない相手がひとり、黙って信じてくれる味方がひとり。仕込んだ種は、ここからゆっくり育てればいい。芽が出る日を待つ時間さえ、今の俺には、どこか楽しみだった。




