六歳児、“確実な話”を根から崩す
「いやいや、誠治さんはやっぱり違いますなあ。長年道具一本で家族を支えてきた人は、勘所が分かってらっしゃる」
居間から聞こえる声に、初対面の硬さはどこにもなかった。長年の飲み仲間みたいな軽さだ。俺は襖の隙間から中を覗いた。
じいちゃんの前に座る男は、見覚えのある顔だった。この三週間で、もう四度目の来訪になる。最初の二回は世間話だけで帰っていった。二回目には、母の好きなおせんべいの詰め合わせをさりげなく置いていった。三回目は大工道具の手入れの話でじいちゃんを持ち上げるだけ持ち上げて、それでも帰っていった。急がず、日を分けて、警戒を少しずつ薄く剥がしていくやり方だ。今日は様子が違う。座布団の上に置かれた鞄が、いつもより分厚い。
――原野商法。
前の人生で、何度も見た手口だ。バブルで財布が萎んだ人間に「今ならまだ取り返せる」と囁いて、道もない山林を法外な値で押しつける。一度金を出させたら、次はもっと大きな一口を狙う。今日がその日らしい。
俺はちゃぶ台の隅で積み木を弄びながら、聞き耳を立てることにした。
「先週お預けいただいた手付けの分、ちゃんと本部に届いておりますよ。誠治さんの本気度、みんな感心してましてね」
男の名は十文字。土地開発のコンサルタントを名乗っている。
じいちゃんが座り直して、切り出した。
「今日は、あの話の続きなんだが」
「はい。実は、あの土地の権利、来月からは一般の方には出せなくなるんです。誠治さんには、娘さんとお孫さんの分まで、今のうちに確保していただきたくて」
――四度目の来訪で、ようやく本題か。焦らし方は、堂に入っている。
十文字は鞄からゆっくりとパンフレットを取り出した。緑の山と青い湖の写真が刷られている。
「この写真は、まだ表には出していないものでしてね。誠治さんだから、特別にお見せするんです」
母が来客用の茶を出す。少し困った顔のまま、膝に戻した手でエプロンの裾を握りしめていた。
「お父さん、また土地の話ですか?」
「今度は本物だ。お前たちの暮らしと、周の学費のことも、ちゃんと考えてのことだから」
自分の学費、という言葉に、俺は積み木を持つ手を止めた。縁日の百円玉とは、桁が違う話だ。
俺は積み木を置いて、ちゃぶ台ににじり寄り、パンフレットを覗き込んだ。
「おじさん、この土地、確実に値上がりするんだよね?」
十文字が俺の顔をちらりと見てから答える。子どもの声だと分かっていても、口調は崩さない。手慣れている。――こういう手合いは、相手が子どもでも油断しない分、たちが悪い。
「もちろんですよ。今のうちに確保しておけば、公開後は必ず倍以上になります」
「確実に倍になるなら」俺はパンフレットの隅を指でとんとん叩いた。「公開されてから買っても、遅くないよね?」
十文字の笑みがほんの一瞬だけ固まった。
「いえ、それが、公開後はもうこの価格ではお出しできず……」
「値上がりするのは確実なんでしょ? なのに"今日だけ""まだ内緒"って、そんなに急がせて隠すのはどうして? 本当に確実な儲け話なら、急がせも、隠しもしないよ」
――倍になる宝の地図を、他人に頭を下げて配って回る聖人。そんなのがいたら、俺の方が拝みに行く。
居間の空気がわずかに動いた。じいちゃんの湯呑みを持つ手がほんの少し止まる。
「坊ちゃん、これは大人の話でしてね。特別なご縁で、誠治さんにだけ……」
「じゃあ、おじさん。ひとつ、約束してくれる?」
俺はパンフレットの、緑の山の写真を指で叩いた。
「もしこの土地が倍にならなかったら、その時はおじさんが、今日の値段で全部買い戻す。それを紙に書いて、判子を押してよ。――"確実に倍になる"んでしょ? なら、書いたって、何も困らないよね」
十文字の笑みが、根元から強張った。
「い、いや……そういった書面は、本部の規定がありまして……」
「じゃあ、もうひとつ。"確実に道路が来る"なら、その計画はもう役所が決めてるはずだよね。決まった計画なら、誰だって役所で確かめられる。……でも、もし"まだ決まってない"なら、"確実"なんて言えないよ。決まってない計画は、流れることもあるんだから」
一息に言って、俺は十文字の目を見た。
「おじさん、"確実に倍になる"って、さっき自分で言ったよね。なのに、確実なら何も損しないはずの一筆が、どうしても書けない。……それが、答えだよ」
本当に確実な話なら、たった一枚の紙に判を押すくらい、痛くも痒くもないはずだ。それを頑として拒んだことが、この儲け話の中身を、何より雄弁に語っていた。子どもの屁理屈だと笑い飛ばすことも、十文字にはもう、できなかった。
沈黙が居間に落ちた。
じいちゃんが、湯呑みをゆっくりと置いた。
「十文字さん」
低い声だった。俺が今まで聞いたことのない声だ。
「儂は長年、大工の棟梁をやってきた。図面も読めん客に平気で嘘をつく現場監督を、何人も見てきたよ。……お前さんの目、あの手の連中とそっくりだ」
十文字はしばらく言葉を探していたが、やがて鞄を閉じた。
「……本日のところは、これで失礼いたします」
「手付けも、返してもらうぞ」
じいちゃんの声に、迷いはなかった。
男は小さく頭を下げ、逃げるように玄関へ向かった。てかてかした革靴が、今度は妙に急いで消えていく。
戸が閉まる音を聞いて、じいちゃんが大きく息を吐いた。
「儂も、いい年をして、危うく足をすくわれるところだった」
声には、笑いも隠しきれない自嘲が混ざっていた。
母が膝の上でずっと握っていたエプロンの裾を、ようやく緩めた。
「お父さん、危なかったですね……」
「周のおかげだ。……六つの子どもに救われるとは、儂も焼きが回ったな」
じいちゃんは、そう言って、俺に向かって浅く頭を下げた。孫をあやす仕草ではない。世話になった相手に筋を通す、一人前への礼だった。
「この借りは、いつか必ず返す。儂はそういう人間だ」
じいちゃんが俺を見た。今までの、孫を見る目とは少し違う色があった。
「周、お前……いったいどこでそんな知恵をつけたんだ?」
「テレビで見たんだ」
テレビでは見ていない。だが六歳児の言い訳としては、これくらいがちょうどいい重さだった。
じいちゃんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、ふっと笑って言った。
「儂はもう、"うまい話"なんて言葉は金輪際信じん。……だが、そのうまい話を見抜いたお前の目だけは、別だ」
湯呑みの底を、硬い指がゆっくりと撫でる。
「周。逆に訊くぞ。お前が"これは"と言うものなら、何なら賭ける価値がある?」
思いがけない問いだった。じいちゃんの目に、今までとは違う光が浮かんでいる。孫を見る目ではなく、何かを測る目だ。
俺は少し考えてから答えた。
「今すぐには言えないよ。まだ準備が足りないから」
前の人生で知っている本当の当たりを口にするのは、まだ早い。元手もなければ、この歳で言い出しても誰も信じない。
「だけど、次に本当に確実な話があったら、ちゃんと教えるよ」
じいちゃんは満足そうにうなずいて、俺の頭をわしゃわしゃとかき混ぜた。長年道具を握ってきた手は、加減を知らない。六歳の首が、危うく持っていかれそうになる。それでも、その硬い掌の温かさだけは、昔から少しも変わっていなかった。
台所から、母が冷蔵庫で冷やしていた麦茶を運んでくる音がした。じいちゃんが土産に持ってきた西瓜を、母が食べやすい大きさに切り分けてくれる。縁側に並んで、俺たちはしばらく夕暮れに染まる庭を眺めていた。蜩の声が、まだ夏の名残を惜しむように長く尾を引いている。
西瓜の甘さが口の中にじんわりと広がる。何度も食べたはずの味なのに、今日のこれが、いちばん甘い気がした。祭りの夜の熱がまだ残る庭で、俺は種を縁側の隅に小さく吐き出した。
あとで聞いた話では、じいちゃんが取り戻せた手付けは、半分ほどだったらしい。それでも、家一軒ぶんを失う前に止められたのなら、安い勉強代だ。
――"確実な儲け話は疑え"と説いたその口で、次は俺の方が、じいちゃんに"確実な話"を囁くことになる。皮肉なものだ。だが、こっちは正真正銘の本物だ。証明は、追い追いすればいい。
守りは、これで終わりだ。次は攻めに出る。金と分別を持った大人を一人、味方につけた。子どもの手では動かせない金も、じいちゃんを通せば動かせる。
――来年、まだ誰も見向きもしないうちに、そっと仕込んでおくものがある。今はまだ、俺の頭の中にしかない"当たり"だ。
縁側の風鈴が、夕暮れの風に、乾いた音を一つ落とした。




