第七章 芽吹く心
山の向こうへ日が沈み始めた頃になっても、ガルドの修行が終わる気配はなかった。
「遅ぇ。足が止まってんぞ、嬢ちゃん」
「……っ」
鋭い声に促され、零は乱れかけた呼吸を整えながら、もう一度足を踏み出した。
朝、ヴィクトリアとともにこの場所へ辿り着いてから、すでに何時間が経ったのだろう。
最初に教えられたのは呼吸だった。次に立ち方。そして今は、拳の振り方すら教えられないまま、ひたすら足の運び方を繰り返している。
「身体を上下させんな。頭の高さをなるべく変えずに動け。足元ばっか見てんじゃねぇぞ」
「……分かった」
言われた通り、右へ、左へ、前へ進んでは後ろへ退く。
傍から見ればそれだけのことだったが、実際にやってみると難しい。立ち方を崩さず、重心を乱さず、どの方向へもすぐに動けるよう身体を保つ。足の位置を意識すれば肩に力が入り、肩の力を抜けば今度は呼吸が乱れた。
頭では理解できても、それを身体で再現し続けることは別の話だった。
それでも零は、ガルドに指摘されるたびに一つずつ修正していく。一度注意されたところを次には直し、新しい指摘を受ければ、また自分の動きを変えていった。
それを何度も繰り返すうち、最初はぎこちなかった足取りから少しずつ無駄が消えていく。
「…………」
ガルドは腕を組んだまま、その様子を見ていた。
覚えが速いことは、昼間の時点ですでに分かっていた。だが、こうして何時間も教えていると、改めてその異常さが見えてくる。
零は一度教えただけですべてを完璧にできるわけではない。間違えることもあれば、身体が思うように動かないこともある。
それでも、同じ間違いをほとんど繰り返さなかった。
言葉を聞き、動きを見て、自分の中で考え、それを身体へ落とし込んでいく。
教える側からすれば、これほど楽な弟子もいない。
同時に――これほど恐ろしい弟子もいなかった。
「よし。そこまでだ」
ガルドの声に、零の動きが止まった。
「……終わり?」
「ああ」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが切れたのか、零の肩が僅かに落ちる。額には汗が滲み、呼吸も普段より深い。
自分の中にある不思議な力は使っていない。ガルドから、まずはそれに頼らず身体を動かせと言われていたからだ。
「どうした。もうへばったか?」
「……疲れた」
「はっ。初日ならそんなもんだ」
少し離れたところで一部始終を見守っていたヴィクトリアも、ようやく緊張を解いた。
「初日から少しやりすぎではありませんか?」
「何言ってやがる。まだ基礎しかやってねぇぞ」
「師匠の基礎は長いんです」
「昔のお前にも同じようなことやらせただろうが」
「だから言っているんです」
ガルドは鼻を鳴らすと、零へ視線を戻した。
「それで、嬢ちゃん」
「……なに?」
「本気で俺から習うつもりなら、しばらくここに住め」
零が瞬きをする。
「ここに?」
「ああ。毎日山を登ってくるつもりか?」
今日歩いてきた道を思い出し、零は黙った。
「無理だろ」
「……たぶん」
「だったらここにいろ。寝る場所くらいはある」
ガルドにとっては、それで話は終わったらしい。
だがヴィクトリアはすぐには頷かず、零の前へ回ってその顔を見る。
「零」
「……うん」
「師匠はああ言っているが、無理にここへ残る必要はない。侯爵家へ戻って、通える範囲で別の方法を考えることもできる」
その声音は穏やかだった。
「君が決めていい」
「僕が……?」
「ああ」
零はガルドを見たあと、その後ろに広がる鍛錬場へ目を向けた。
今日一日だけでも、知らなかったことをいくつも教えられた。立ち方も、呼吸も、足の運び方も、自分がこれまでどれほど何も知らずに身体を動かしていたのかも知った。
もっと知りたい。
そう思った。
その感情が自分の中に生まれていることを、今度は零自身も理解していた。
「……ここにいる」
ヴィクトリアの青い瞳を見て、零は答える。
「もっと、知りたいから」
僅かな沈黙のあと、ヴィクトリアが微笑んだ。
「分かった」
それ以上、止めようとはしなかった。
ただ、帰る支度を整えてから、ガルドへ念を押すように言う。
「師匠」
「あ?」
「零をお願いします」
「誰に物言ってんだ。こいつ一人くらい面倒見られる」
「そういう意味ではありません」
「細けぇな」
ヴィクトリアは小さく息を吐き、今度は零へ向き直った。
「また来る」
「……うん」
「何か困ったことがあれば師匠に言うんだよ」
「子供じゃねぇんだから、そのくらい自分で――」
「師匠には言っていません」
「…………」
二人を交互に見た零の口元が、ほんの僅かに緩む。
それに気づいたヴィクトリアは何も言わず、最後にもう一度だけ零へ微笑むと山道を下っていった。
木々の向こうへ金色の髪が見えなくなるまで、零はその背中を見送っていた。
「さて」
背後から声がして振り返れば、ガルドが立っている。
「飯にするぞ」
「……うん」
そうして、零とガルドの生活が始まった。
◇
翌朝。
「遅ぇぞ、嬢ちゃん!」
「……まだ暗い」
「朝だ」
「……暗いよ」
「太陽が出てから起きるようじゃ遅ぇ」
眠そうな目を擦りながら外へ出た零を待っていたのは、昨日と変わらず元気なガルドだった。空はようやく白み始めたばかりで、山の空気は冷たい。
「まず走ってこい」
「……どこまで?」
「山道を下って、昨日お前らが馬車を降りた辺りまで行って戻ってこい」
零はしばらくガルドを見つめた。
「なんだ、その顔は」
「遠い」
「知ってる」
「…………」
「ほら行け」
容赦がなかった。
それから数日、零の生活は大きく変わった。
日の出より早く起こされて山を走り、戻れば朝食を取って、僅かな休息のあとには修行が始まる。昼を挟んでもそれは変わらず、日が沈む頃になってようやく一日が終わった。
夕食を取れば、あとは疲れ切った身体を休めるだけ。そして翌朝には、また同じ一日が始まる。
侯爵家での静かな生活とはまるで違った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
考える暇もないほど身体を動かし、教えられたことを一つずつ覚えていく。できなかったことができるようになり、ほんの僅かずつでも昨日より今日、今日より明日へと自分が変わっていくことを、零自身が感じられた。
ある日の夕方。
「おい、嬢ちゃん。そこの薪取ってくれ」
「……うん」
夕食の準備をしていたガルドに言われ、零は壁際に積まれていた薪を数本抱えて竈の傍らへ置いた。
「ここ?」
「ああ。ついでに皿も出しとけ」
「分かった」
棚から二人分の皿を取り出しながら、零はふとガルドを見る。
「……ガルド」
「あ?」
「前から言おうと思ってたんだけど」
「なんだ?」
零は皿を机へ置いた。
「僕、女の子じゃないよ」
ガルドの手が止まった。
竈の薪がぱちりと弾ける音だけが、二人の間に響く。
「……あ?」
「男だけど」
ガルドはゆっくりと零を見る。
顔を見て、華奢な身体へ視線を落とし、もう一度顔へ戻す。
「……マジか」
「うん」
しばらく黙り込んだあと、ガルドは眉間を押さえた。
「……紛らわしい見た目してんな、お前」
「……僕のせい?」
「知らん」
「そう」
零は首を傾げ、それから思い出したように付け加えた。
「……言ってなかったっけ?」
「聞いてねぇよ」
「……そうだったんだ」
どうやら零にとっては、その程度のことらしい。
ガルドは何か言いたげに口を開いたが、結局諦めたように深く息を吐いた。
「ったく……飯にするぞ、嬢ちゃ――零」
「……うん」
それだけだった。
◇
日々は過ぎていった。
「脇が開いてんぞ!」
ガルドの掌が零の拳を弾く。
「……っ」
「拳だけ出すな! 足から繋げろ!」
零は一度距離を取り、再び踏み込む。
地面を蹴り、そこから生まれた力を腰から背中へと繋ぎ、肩を通して腕へ伝える。そうして放たれた右拳を、ガルドは僅かに身体をずらしただけでかわした。
「遅ぇ」
拳が空を切った直後、零の額へ指が軽く当たる。
「……あ」
次の瞬間には足を払われ、身体が宙へ浮いていた。
「わっ……」
背中から地面へ落ちる。
もちろん怪我をしないよう力は加減されている。それでも、痛いものは痛かった。
「……痛い」
「戦いの最中にぼさっとすんな」
「ガルドが転ばせたんだけど」
「敵ならもっと痛ぇぞ」
零は少し不満そうにガルドを見上げたあと、すぐに起き上がった。
「もう一回」
「来い」
最初の頃は、拳をまともに振ることすらできなかった。それが一週間経つ頃には足と腰を使うことを覚え、二週間もすれば拳だけではなく蹴りを教えられた。
さらに受け方を覚え、攻撃を避けるための身体の動かし方を学び、相手との距離を見ることを知る。
だが、覚えれば覚えるほど、戦うことの難しさも分かってきた。
ただ速く動けばいいわけでも、強く殴ればいいわけでもない。相手の目や肩、腰を見て、呼吸を読み、僅かな重心の移動から次の動きを予測する。そして何より、自分の動きを相手に読ませてはならない。
ガルドは、それらを容赦なく零へ叩き込んでいった。
「違う」
「……どこ?」
「全部だ」
零の眉が僅かに寄る。
「そんな顔すんな。もう一回やれ」
「……うん」
理解は速かった。
しかし、理解したからといってすぐに身体が完璧に動くわけではない。
何百回、何千回と同じ動きを繰り返し、拳を振り、足を運び、避け、受け、倒されてはまた立ち上がる。
零の中にある正体不明の力について、ガルドが教えられることはなかった。
一度だけ、修行の合間に零が尋ねたことがある。
「ガルド」
「なんだ?」
「この力……どうやって使えばいい?」
自分の胸元へ手を置く零を見て、ガルドはしばらく考えたあと、首を振った。
「知らん」
「……知らない?」
「ああ。俺はそんなもん使えねぇからな」
あまりにもあっさりした答えに、零が瞬きをする。
「じゃあ、教えられない?」
「その力についてはな」
ガルドは自分の拳を握った。
「だが、お前には身体がある。腕が二本あって、足も二本ある。そいつをどう使えば一番強ぇのかなら、俺が教えられる」
零は黙って自分の手を見る。
「その妙な力が何なのかなんざ、その後で考えりゃいい」
「……分かった」
それからしばらくの間、零はガルドに言われた通り、その力に頼らず、自分の身体を動かすことへ集中した。
立ち、動き、拳を振る。
その単純な動作を何度も繰り返しながら、ガルドから教えられる一つ一つを、自分の身体へ刻み込んでいった。
◇
一か月が過ぎた頃には、零の動きは見違えるほど変わっていた。
華奢な身体そのものが大きく変わったわけではない。腕が急に太くなったわけでも、背が伸びたわけでもない。
それでも、立っている姿が違った。
肩から余計な力が抜け、重心は自然と落ち、いつでもどの方向へでも動ける。
かつて漆黒の獣と戦った時、零の身体は本能のままに動いていた。だが今は、自分が何をしているのか、何故そう動くのかを少しずつ理解しながら身体を動かせるようになっている。
それでも――ガルドには届かない。
「遅ぇ!」
零の拳が空を切る。
反対側から飛んできた掌を避けて身体を沈め、そのまま足を払うが、ガルドは軽く跳んでかわした。
ならばと着地した瞬間を狙い、零が踏み込む。
「そこ!」
「甘ぇ」
「……っ!」
視界が反転した。
気づけば、零は地面に倒されていた。
「どうした?」
ガルドが見下ろしている。
零は仰向けになったまま、青い空とその向こうを流れていく雲を見つめた。
何度やっても勝てない。
少しずつ近づいている感覚はある。それなのに、近づけば近づくほど、その先にある距離の大きさが分かってしまう。
胸の奥が、もやもやする。
「……悔しい」
「あ?」
「……悔しい」
今度は、はっきり口にした。
ガルドが目を瞬く。
零は上体を起こし、自分の拳を見つめた。
「前より動けるようになったのに、全然当たらない」
「当たり前だ」
「……当てたい」
しばらく零を見ていたガルドの口元が、やがて吊り上がる。
「はっ」
「……なに?」
「ようやくガキらしい顔するようになったじゃねぇか」
「……ガキじゃない」
「十六なんざ十分ガキだ」
不満そうに黙り込んだ零へ、ガルドが手招きする。
「悔しいなら立て。当てたいんだろ?」
零は地面へ手をつき、立ち上がった。
「……うん」
「なら来い」
「もう一回」
再び構えた零の瞳は、先ほどまでよりも強くガルドを見据えていた。
その日、零の拳がガルドへ届くことはなかった。
それでも日が沈むまで、零は何度倒されても立ち上がった。
◇
それから少し経った、ある日の夕方。
修行を終えた零は、いつものようにガルドとともに家へ戻った。
普段なら夕食を作るのはガルドだったが、その日は零が竈の前に立つ。
「……今日は僕が作る」
「あ?」
ガルドが眉を上げた。
「いつもガルドが作ってるから」
「お前、料理できんのか?」
「たぶん」
「たぶんってなんだよ」
零自身にも分からなかった。これまで料理をする機会など、ほとんどなかったからだ。
ただ、作り方を聞けばできるような気はしていた。
「まあいい。やってみろ」
「うん」
ガルドから簡単な手順を聞き、零は包丁を手に取った。
野菜をまな板へ置き、迷いなく刃を入れていく。
その様子を眺めていたガルドの眉が、僅かに上がった。
切り分けられた野菜は大きさがほとんど揃っており、包丁の扱いにも危なっかしさがない。
「なんだ。普通にできんじゃねぇか」
「そう?」
「ああ」
火加減も悪くなく、手順も一度説明すれば間違えない。
少なくとも、途中までは何の問題もなかった。
そしてしばらくして、二人の前に料理が並んだ。
「……できた」
「見た目は普通だな」
ガルドが一口食べる。
その動きが止まった。
「どう?」
「…………零」
「なに?」
「お前、二度と味付けすんな」
「……そんなに?」
「食ってみろ」
零も自分で作った料理を口へ運び、ゆっくりと咀嚼する。
もう一口。
そして静かに箸を置いた。
「……美味しくない」
「だろうな」
「でも、言われた通りに作った」
「途中まではな」
零は料理を見つめた。
見た目だけなら、それほど悪くはない。
「……分からない」
「俺も分からん。なんで最後だけそうなるんだよ」
ガルドは深く息を吐いた。
「明日から飯は俺が作る」
「……うん」
零は少しだけ残念そうに頷いた。
◇
修行を始めて、二か月ほどが過ぎた。
朝になれば山道を走り、日が暮れるまで身体を動かす生活は、いつしか零にとって特別なものではなくなっていた。
最初は遠いとしか思わなかった山道にも見慣れた景色が増え、走り終えて戻ってくれば、木々の向こうにガルドの小さな家が見えてくる。
その姿を目にするたび、零の中にはいつからか、僅かな安堵が生まれるようになっていた。
ここへ来る前の零にとって、この世界にはまだ、自分から居場所と呼べる場所はなかった。
侯爵家ではヴィクトリアたちが優しく迎え入れてくれた。それでも、あの場所は彼女たちの家であり、零はそこへ保護された存在だった。
けれど、この山へ残ることを選んだのは自分だった。
朝になればガルドに叩き起こされ、修行を終えれば二人で食事を取り、夜になれば同じ屋根の下で眠る。
そんな毎日を繰り返すうちに、山道の先に見える小さな家を、零は自然と帰る場所のように感じ始めていた。
その日の修行を終えた頃には、山の外はすっかり暗くなっていた。
夕食を終えて片づけも済ませた家の中には、穏やかな静けさが流れている。窓の外に街の明かりなど一つもなく、夜の山を照らしているのは空に浮かぶ月と星だけだった。
ガルドは椅子へ深く腰掛け、湯気の立つ飲み物を口へ運んでいる。
零も向かい側に座り、静かな夜を過ごしていた。
以前なら、そのまま何も話さず眠りについただろう。
けれど、その日は違った。
「……ガルド」
「あ?」
「ガルドは、昔からここに住んでるの?」
「いや。ここに腰を落ち着けたのは、ずっと後だ。若ぇ頃はあっちこっち歩き回ってた」
「……あっちこっち?」
「ああ。王国の中だけじゃねぇ。他所の国にも行ったし、誰も住んでねぇような山や森にも入った」
零が僅かに身を乗り出す。
「どうして?」
「さあな」
ガルドは少し考えてから、肩を竦めた。
「強ぇ奴がいるって聞きゃ会いに行ったし、面白そうな場所があるって聞きゃ見に行った。若い頃なんざ、そんなもんだ」
零は少し考えたあと、また一つ尋ねる。
「他の国って、どんなところ?」
その問いに、ガルドが僅かに目を見開いた。
零の方から修行以外のことを聞いてくるのは珍しい。
だが、それを指摘することはしなかった。
「色々だな。年中暑ぃところもあれば、冬になりゃ何もかも雪に埋まるような国もある。見渡す限り草原しかねぇ土地もあったし、馬鹿みてぇにでかい山が連なってるところもあった」
「……そんなに違うんだ」
「ああ」
それからガルドは、昔の旅の話をした。
地平線まで続く草原や雪に覆われた山脈、夜になれば無数の灯りで輝く大きな街に、人の手がほとんど入っていない深い森。
旅の途中で出会った冒険者や商人のことも、土地によって違う食事や風習のことも話した。
零にとっては、そのほとんどが知らないものだった。
この世界へ来てから、零が知っている場所はあまりにも少ない。最初に目覚めた森と、ヴィクトリアに連れられて辿り着いた侯爵家。そして、今いるこの山。
それより先に何があるのかなど、これまで考えたこともなかった。
「そういや、山越えの途中で竜に出くわしたこともあったな」
「……竜?」
零の視線がガルドへ向く。
「おう」
「本当にいるの?」
「いるぞ。滅多に会うもんじゃねぇけどな」
「……大きい?」
「でけぇな」
「強い?」
ガルドが笑った。
「そこが気になるのかよ」
「……うん」
「強かったぞ。鱗は硬ぇし、爪も牙も洒落にならん。まともに食らえば人間なんざ簡単に死ぬ」
零は少し考えてから尋ねた。
「ガルドは、どうしたの?」
「ぶん殴った」
「…………」
「なんだその顔は」
「竜を?」
「ああ」
「拳で?」
「他に何で殴るんだよ」
零はガルドの拳を見て、それからもう一度その顔を見る。
「……勝ったの?」
「まあな」
「……簡単だった?」
「んなわけあるか」
ガルドは呆れたように鼻を鳴らした。
「三日かかった」
「……三日?」
「ああ。三日三晩殴り合って、最後にようやくぶっ倒した」
零の目が僅かに見開かれる。
「……ずっと?」
「途中で寝られるような相手じゃなかったからな。まあ、あれはさすがに死ぬかと思ったけどな」
そう言って、ガルドは笑った。
零は何も言わず、目の前の男を見る。
毎日のように拳を交えているのだから、強いことは分かっていた。何度挑んでも届かないことも、身をもって知っている。
それでも、どれほど強いのかまでは分かっていなかった。
そのガルドが三日三晩を費やし、死を覚悟してようやく倒した存在。
そして自分は、そのガルドに未だ一度としてまともに拳を届かせることすらできていない。
「……竜」
「あ?」
「会ってみたい」
ガルドが片眉を上げる。
「そこは見てみたいじゃねぇのか?」
「……戦ってみたい」
一瞬の沈黙のあと、ガルドが大きく笑った。
「はっ。お前も大概だな」
「……そう?」
「普通は竜の話を聞いて、戦いてぇとは言わねぇよ」
「でも、強いんだよね?」
「強ぇよ」
「じゃあ、戦ってみたい」
「そうかよ」
呆れたように言いながらも、ガルドはどこか楽しそうだった。
「まあ、竜だけじゃねぇ。この山の外には、お前が知らねぇもんなんざ腐るほどある」
零は窓の向こうへ視線を向けた。
夜の向こうには山がある。
その先に何があるのか、ここからでは分からない。
今までなら、それでよかった。知らなくても何とも思わなかった。
けれど今は――ほんの少しだけ違う。
「……他にも、あるの?」
「何がだ?」
「ガルドが見たもの」
「そりゃあるさ」
「……聞きたい」
その言葉に、ガルドが零を見る。
零自身は気づいていないのかもしれない。けれど、二か月前の零なら自分からそんなことを尋ねることはなかった。
ガルドは再び器を手に取った。
「なら、どれから話すかね」
その夜、話はしばらく続いた。
知らない街や国、見たこともない景色。奇妙な魔物や、旅の途中で出会った人々。
零はその一つ一つを、静かに聞いていた。
「……見てみたい」
やがて、零の口から小さな声が零れた。
「何をだ?」
「分からない」
「なんだそりゃ」
「でも……」
零は窓の向こうに広がる夜を見つめた。
「ガルドが見たものを、僕も見てみたい」
ガルドはしばらく何も言わなかったが、やがて静かに口元を緩めた。
「なら、見に行きゃいい」
零が振り返る。
「行っていいの?」
「誰に許可取る必要があんだよ。行きてぇ場所ができたら、自分の足で行け。見てぇもんがあるなら、自分の目で見ろ」
その言葉を聞きながら、零はもう一度窓の外を見る。
「……うん」
この世界へ来たばかりの零にとって、明日が来ることに意味などなかった。何かを見たいと思うことも、どこかへ行きたいと願うこともなかった。
けれど今、その胸にはほんの小さな興味が生まれている。
この山の向こうには何があるのだろう。
自分の知らない世界は、どこまで続いているのだろう。
その答えを、いつか自分の目で見てみたいと思った。
◇
二か月を過ぎた頃から、零の修行にも少しずつ変化が現れ始めた。
立ち方や足の運び、腰の回転に力を伝える順序。何度も繰り返し身体へ刻み込んできた動きは、もはや一つ一つ考えなくとも自然に繋がるようになっていた。
だからこそ零は、再び自分の内側にある〝何か〟へ意識を向け始める。
最初にそれを拳へ集めた時は、ただ力を込めることしか考えていなかった。
だが今は、身体そのものの使い方を知っている。
自分が動く流れを邪魔しないよう、内側から引き出した力を少しずつ重ねていく。
「どうだ?」
少し離れた場所から見ていたガルドに尋ねられ、零は右手を握ったり開いたりした。
「……前より、動かしやすい」
「そうか」
「でも、まだ変な感じがする」
「そいつは俺に聞くな。分からん」
「……うん」
「ただな」
ガルドが自分の足元を指す。
「どんな力だろうが、お前自身が崩れてりゃ意味はねぇ。足元がお留守になった瞬間にぶっ飛ばされて終わりだ」
「……分かった」
「なら続けろ」
零は再び構えた。
ガルドに、その力の使い方は教えられない。
それでもガルドから教わった身体の使い方が、零に力を扱うための形を与え始めていた。
まだ自在と呼べるほどではなく、全身を思うままに強化することなど到底できない。それでも、攻撃を放つその一瞬だけなら、身体の動きとともに力を重ねることができる。
拳へ。
時には脚へ。
失敗を繰り返しながら、零はその感覚を少しずつ自分のものへ変えていった。
◇
そして、三か月。
季節とともに山の景色が少しずつ変わっていく中で、零もまた確かに変わっていた。
「ふっ――!」
鋭く息を吐きながら踏み込み、右拳を放つ。
ガルドがかわす。
だが、零は追わなかった。
避けられることを予想していたからだ。
踏み込んだ足を軸に身体を回し、そのまま左脚を振る。
「ほう」
ガルドの腕が蹴りを受け止める。
その瞬間には零が脚を引き、すでに距離を取っていた。
「少しは考えるようになったじゃねぇか」
「……毎日倒されてるから」
「俺のせいみてぇに言うな」
「ガルドのせいだと思う」
「言うようになったな、零」
ガルドが笑い、零も僅かに口元を緩める。
次の瞬間には二人が同時に動いた。
迫るガルドの拳を、零は首を傾けてかわしながら懐へ入る。
右拳はかわされ、続く左も逸らされる。
それでも止まらない。
足を踏み込み、身体を沈めたその時、ガルドの重心が僅かに動いた。
零はその変化を見逃さなかった。
地面を蹴る。
足から腰へ。
腰から背中へ。
肩から腕へ。
三か月前、初めて教えられた身体の繋がり。
そこへ――自分の内側にある力を重ねる。
流れを乱さず、無理に押し込まず、身体が生み出した一つの動きに沿わせるように、その力を右拳へ導いていく。
もっと。
もう少しだけ。
今までよりも深く。
零が自らの意思で、その力へ手を伸ばした。
瞬間。
漆黒だった瞳が――鮮やかな黄金へと染まった。
「……あ?」
ガルドの眉が僅かに動く。
見間違いではない。
先ほどまで黒かった零の瞳が、今は明らかに黄金の輝きを宿している。
だが、問いかけている暇などなかった。
零が地面を蹴る。
その踏み込みは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
ガルドの目が細められ、避ける代わりに左腕が上がる。
零の拳が、その腕へ叩き込まれた。
――ドンッ!
低い衝撃音とともに、ガルドの服が大きく揺れる。
零の目が見開かれた。
初めてだった。
これまでもガルドが攻撃を受けることはあったが、それは余裕を持って受け止められていただけ。
今の一撃は違う。
ガルドが零の拳を一つの攻撃として見て、自ら防御を選んだ。
その事実に、胸の奥から小さな喜びが湧き上がる。
ガルドは受け止めた腕越しに、零を見る。
黄金の瞳。
確かに異常だった。
だが、それ以上にガルドの意識を引いたのは、今の一撃だった。
三か月前のように、馬鹿げた力を拙い拳へ無理やり乗せているのではない。自分が教えた身体の使い方、その流れを一つも殺すことなく、正体の分からない力まで一撃の中へ組み込んでいる。
まだ粗い。
完成には程遠い。
それでも――三か月前には存在しなかった拳だった。
ガルドの口元が僅かに吊り上がる。
だが、攻撃を受け止められた零は、黄金の瞳を輝かせたまま嬉しそうに目を見開いていた。
「戦ってる最中に喜ぶな」
「え――」
足元を払われる。
「……っ!」
身体が浮き、次の瞬間には地面へ転がっていた。
「……痛い」
「最後まで集中しろ」
「……当たったのに」
「当てた後に倒されてりゃ世話ねぇな」
零は地面に座ったまま、不満そうにガルドを見る。
「でも、受けた」
「ああ」
「避けなかった」
「そうだな」
「……初めて」
ガルドが鼻を鳴らす。
「だからなんだ。そんなもんで満足したなら、ここまでだぞ」
零は少し黙ったあと、地面へ手をついて立ち上がる。
「満足してない」
「ならいい」
ガルドは笑った。
「まだまだだな、零」
「……うん」
「だがまあ――三か月前よりはマシになった」
零がガルドを見る。
「……それ、褒めてる?」
「俺なりにな」
そこでガルドは、改めて零の顔を見た。
先ほどまで鮮やかな黄金に染まっていた瞳から、いつの間にかその輝きが薄れている。やがて色は完全に消え、見慣れた黒へと戻った。
「……零」
「なに?」
「お前、その目……自分で分かってんのか?」
「……目?」
不思議そうに瞬きをする零の反応だけで、答えは分かった。
「知らねぇのか」
「何が?」
「さっき色が変わってたぞ」
零が自分の目元へ触れる。
「……何色?」
「金だ」
「……金?」
「ああ。真っ黒だった目が、いきなり金色になりやがった」
零はその言葉を小さく繰り返しながら、自分の胸の奥へ意識を向けた。
黄金に変わったという瞳を、自分で確かめることはできない。
けれど、先ほどまで引き出していた力には覚えがある。
あの森で、死が目前まで迫り、漆黒の獣と向き合った時。
あの時も零は、自分の奥深くにあった同じ〝何か〟へ手を伸ばした。
ならば――。
「……この力のせいかな」
「さあな。俺に聞くな」
「ガルドも分からないんだ」
「分からんもんは分からん」
零はもう一度、自分の目元へ触れた。
「今は?」
「もう戻ってる」
「……そう」
「驚かねぇのかよ」
「自分じゃ見えないから、よく分からない」
ガルドは呆れたように息を吐いた。
「まあ、あの妙な力と関係あるって考えるのが自然だろうな」
「……うん」
「ったく。次から次へと変なもん出してきやがって」
「僕も知らなかった」
「だろうな」
零の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
ガルドもそれ以上は追及しなかった。
何故、瞳の色が変わったのか。
あの力がそもそも何なのか。
今のガルドには分からない。
だが、一つだけ分かることがある。
三か月前、自分の身体すらまともに扱えていなかった少年は、確かに前へ進んでいる。
零もまた、自分の拳を見つめていた。
三か月の間、毎朝起こされて山を走り、何度も拳を振った。倒されるたびに痛みを知り、疲れ、できないことに悔しさを覚えた。
それでも、できるようになれば嬉しかった。
もっと強くなりたいと思うようになった。
そして今では、この山の外に広がる世界を、自分の目で見てみたいとも思っている。
そのすべてのきっかけをくれたのは、目の前の男だった。
「……ガルド」
「あ?」
いつもと同じように呼んでから、零は少しだけ迷った。
そして。
「……ありがとう、ガルド師匠」
ガルドの動きが止まった。
「……なに?」
「いや」
ガルドは頭を掻く。
「なんだそりゃ」
「師匠だから」
「普通に師匠でいいだろ」
「ヴィクトリアと同じになる」
「別にいいだろうが」
「……じゃあ、ガルド師匠で」
「人の話聞いてんのか、お前」
「聞いてる」
「だったら――」
そこまで言って、ガルドは言葉を止めた。
零は真面目な顔でこちらを見ている。悪ふざけをしているわけではないらしい。
「……好きにしろ」
「うん」
零が小さく笑った。
それを見たガルドも、僅かに口元を緩める。
その時だった。
「――ずいぶんと様になったじゃないか」
聞き覚えのある声が、鍛錬場へ届いた。
零が振り返る。
山道の入口。
木々の間から差し込む光の中に、一人の女性が立っていた。
長い金髪を揺らし、腰には見慣れた大剣を携えている。
三か月前と変わらない、凛とした青い瞳。
「……ヴィクトリア」
「ああ」
ヴィクトリアは微笑んだ。
「迎えに来たよ、零」
三か月ぶりに目にする零の姿を見つめながら、その青い瞳が僅かに細められる。
背丈も、華奢な身体つきも、大きく変わったようには見えない。
けれど、立ち方が違う。
呼吸が違う。
何より、そこに立つ零から感じるものが、三か月前とは明らかに違っていた。
剣帝として数え切れないほどの武人を見てきたヴィクトリアだからこそ、それが分かる。
「……師匠」
ヴィクトリアの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「随分と鍛えましたね」
「俺は教えただけだ」
ガルドが笑う。
「こいつが勝手に覚えやがった」
「そうですか」
ヴィクトリアは再び零を見る。
その瞳には驚きと、隠しきれない興味が宿っていた。
そんな視線を向けられている理由が分からず、零は僅かに首を傾げる。
「……なに?」
「いや」
ヴィクトリアは微笑んだまま答えた。
「少し、楽しみになっただけだよ」
そう言って微笑むヴィクトリアを前に、零は意味が分からないまま、もう一度首を傾げた。




