第六章 拳鬼
侯爵家を出てから、しばらく馬車に揺られた。
街道を外れ、山の麓に差しかかったところで馬車を降りてからは徒歩となり、整えられていた道もいつしか細い山道へと変わっていた。
周囲を覆う木々は進むほどに深さを増し、頭上では幾重にも重なった枝葉が空を覆っている。その隙間から差し込む陽光が、まだ朝露の残る地面へ細かな光を落としていた。
先を歩くヴィクトリアは迷う様子もなく山道を進み、その後ろを零は黙ってついていく。
「……遠いね」
ぽつりと零が言った。
ヴィクトリアが振り返る。
「もう少しだよ」
「それ、さっきも聞いた」
「…………」
僅かな沈黙のあと、ヴィクトリアは何事もなかったように前へ向き直った。
「今度は本当だ」
「……そう」
それ以上何も言わず、零は再び歩き始める。
そんな零を横目に見ながら、ヴィクトリアの口元がほんの少し緩んだ。
以前なら、零の方からこんな言葉が出ることすらなかった。ただ黙ってついてくるだけだっただろう。
侯爵家で過ごした数日の間に生まれた小さな変化を嬉しく思いながら、ヴィクトリアは再び山道を進んでいった。
それからしばらくして木々が途切れ、視界が開ける。
「着いたよ」
山の中腹。
そこだけ木々が切り拓かれ、小さな平地になっていた。
中央には一軒の家が建っている。貴族の屋敷とは比べるべくもない簡素な造りだが、長く使われてきたのだろう。手入れは行き届いており、その傍らには薪が整然と積まれている。
少し離れた場所には、何度も人が行き来したのか、硬く踏み固められた地面が広がっていた。
零が何となくそちらへ目を向けた、その時だった。
「誰かと思えば、随分懐かしい奴が来たもんだな」
低く、よく通る声が響いた。
家の裏手から姿を現したのは、一人の男だった。
年齢は六十ほどだろうか。短く刈られた髪には白いものが混じり、顔には長い年月を刻んだ皺がある。
しかし、その姿に老人という言葉から連想するような弱々しさは微塵もない。
衣服の上からでも分かるほど鍛え抜かれた身体に、太い腕。何より、ただそこに立っているだけなのに、不思議と目を離せない何かがあった。
「お久しぶりです、師匠」
ヴィクトリアが言った。
「おう。久しぶりだな、ヴィクトリア」
男――ガルド・ハーゼンは豪快に笑う。
「剣帝様になってからは、めっきり顔を見せなくなったじゃねぇか」
「師匠が山から下りてこないだけでしょう」
「はっ。人の多いところは好かん」
短いやり取りだったが、その声音から二人の間に長い付き合いがあることだけは零にも分かった。
やがてガルドの視線が、ヴィクトリアの隣に立つ零へ向けられる。
「で、そっちの嬢ちゃんが、わざわざお前がここまで連れてきた奴か?」
「はい」
「ふぅん……」
頭の先から足元まで、遠慮というものを知らない視線が零へ向けられる。
零も何も言わず、ガルドを見返した。
しばらくそうしていたガルドは、やがて顎へ手を当て、改めて零の顔を覗き込む。
「なんつーか……天使みてぇな奴だな」
「……天使?」
零が僅かに首を傾げる。
「ヴィクトリア。お前、こんな可愛らしい嬢ちゃんどこで拾ってきた」
「拾ったわけではありません」
「似たようなもんだろ」
「違います」
ヴィクトリアが小さく息を吐く。
そのやり取りを聞きながら、零はやはりここでも自分が女の子だと思われているらしいと気づいた。
訂正するべきかとも思ったが、結局何も言わなかった。
今さら一人増えたところで、大した違いはない。
そんな零を、ガルドが再び見る。
見た目だけなら、華奢な少女にしか見えない。
身体つきにも、長く鍛錬を積んできた者に見られる特徴はほとんどなかった。
それなのに、何かが引っかかる。
何が、と聞かれても答えられない。
ただ、長く戦いの世界に身を置き、自らの身体一つで数え切れないほどの敵と渡り合ってきた武人としての勘が、目の前の少女をただ者ではないと告げていた。
「ヴィクトリア」
「はい」
「こいつ、戦えるのか?」
「いいえ。少なくとも、正式に戦い方を習ったことはないと思います」
「思います?」
「本人の過去については、ほとんど聞いていませんので」
「なるほどな」
ガルドは短く答えると、もう一度零を見た。
「嬢ちゃん」
「……なに?」
「俺を殴ってみろ」
零が瞬きをした。
「……殴るの?」
「ああ」
「どうして?」
「いいからやってみろ」
あまりにも唐突な言葉に、零はヴィクトリアを見る。
だが、彼女も僅かに驚いた様子でガルドを見ていた。
「師匠?」
「黙って見てろ」
そう言ってガルドは零の前へ立つと、自分の胸元を軽く叩いた。
「嬢ちゃん。本気で来い」
「でも……」
「俺の心配してんのか?」
ガルドがにやりと笑う。
「安心しろ。お前みてぇな細っこい嬢ちゃんに殴られたくらいで、どうにかなるほど耄碌しちゃいねぇよ」
「…………」
零は少し迷ったものの、ガルドが退く様子はない。
「……分かった」
一歩後ろへ下がり、拳を握る。
どう殴ればいいのか、零は知らなかった。
正しい構えも、足の置き方も、腰の使い方も知らない。どの瞬間に拳を振るえば最も力が伝わるのかなど、考えたことさえなかった。
それでも拳を握った瞬間、零の脳裏には一つの感覚が蘇っていた。
漆黒の獣と向き合った、あの森。
逃げることすらできず、死が目前まで迫ったあの時、自分の奥深くにあった〝何か〟へ必死に手を伸ばした。
何をしているのか理解していたわけではない。
力の扱い方を知っていたわけでもない。
ただ、死にたくないという一心でそれを掴み、その直後から自分の身体が、それまでとはまるで違う動きを見せた。
その時の感覚だけが、今も零の中に残っている。
零は静かに自分の内側へ意識を向けた。
ヴィクトリアに言われ、自分の中にある魔力を探った時にも感じた、幼い頃から自分の奥深くに存在していた〝何か〟。
魔力とは明らかに違うそれへ、今度は追い詰められた末ではなく、自分の意思で手を伸ばしていく。
あの森では、ただ必死に掴むことしかできなかった。
けれど今は、その〝何か〟が確かに自分の内側に存在していることを感じられる。
零はその感覚を逃さないように意識を集中させ、握り締めた右拳へと導いていった。
「…………!」
ヴィクトリアの表情が変わった。
森へ向かう途中で感じた、あの正体不明の力。
あの時は遠くから一瞬感じただけだったものが、今は目の前にいる零から確かに伝わってくる。
そして、零を見据えていたガルドの目も僅かに細められた。
――やはり、何かある。
それが何なのかまでは分からない。
だが、普段感じる魔力とはどこか違う。
先ほどまで胸の内にあった僅かな違和感が、零が拳を握った途端、無視できないほど強くなっていた。
「来い」
ガルドの声に、零が地面を蹴った。
構えも、踏み込みも、拳の振り方も、技と呼べるようなものではない。
それでも零は、自分の中から引き出した力を乗せるようにして、右拳を真っ直ぐガルドへと打ち込んだ。
ガルドはその拳を避けようとはせず、片手を前へ出す。
次の瞬間、零の拳がその掌へ衝突した。
――ドンッ!
重い衝撃音が山の中へ響き、二人の足元から土が僅かに舞い上がった。衝撃によって生まれた風が、少し離れて見ていたヴィクトリアの金髪を揺らす。
それでも、ガルドの身体は動かなかった。
零の拳を、真正面から片手で受け止めている。
だが、その目だけが僅かに見開かれていた。
少女の細い腕から放たれたとは到底思えないほど、重い。
しかも、足の置き方は滅茶苦茶で、腰もほとんど使えていない。肩から先だけで拳を振ったようなもので、技術など欠片もなかった。
少なくとも、今の一撃を生み出したのが技術ではないことだけは、ガルドにもはっきりと分かった。
これほど拙い打ち方で、この威力。
もし、この拳に正しい立ち方を与えたら。
踏み込みを教え、腰を使い、全身の力を一つへ繋ぐ術を叩き込んだなら――。
そこまで考えたところで、ガルドの口元がゆっくりと吊り上がった。
零が拳を引く。
「……どう?」
すぐには答えず、ガルドは自分の掌へ目を落とした。
微かな痺れが残っている。
やがて顔を上げ、何が起きたのか分かっていない様子の零を見ると、堪えきれないように笑った。
「……なるほどな。とんでもねぇ奴がいたもんだ」
ヴィクトリアも黙ったまま、零を見つめていた。
彼女にも分かっている。
今の一撃は技術によるものではない。
ただ、自分の中にある力を拳へ乗せて放っただけ。
それだけで、あのガルドにあんな顔をさせた。
「嬢ちゃん」
「……なに?」
「ヴィクトリアがお前をここまで連れてきたってことは、戦い方を覚えたいんだろ?」
零は少しだけ目を見開いた。
それからヴィクトリアを見ると、彼女は何も言わず静かに頷いた。
零は再びガルドへ向き直る。
「……うん」
「誰かに言われたからじゃねぇな?」
「…………」
零は少しだけ考えた。
鍛錬場で剣を振るう兵士たち。
地面を踏み込み、攻撃を避け、自らの身体を使って戦う姿。
あれを見て、知りたいと思った。
自分もやってみたいと思った。
「僕が……知りたいと思ったから」
「そうか」
その答えを聞いたガルドは、満足そうに笑った。
「なら、俺が鍛えてやる」
そう言って、零から数歩離れる。
「まずは呼吸だ」
「……呼吸?」
「ああ。立ち方も、足の運び方も、その後だ」
零が不思議そうに自分の身体へ視線を落とす。
「……拳は?」
「百年早ぇ」
「…………」
「不満そうな顔すんな」
「してない」
「してんだろ」
ガルドは笑うと、零の正面へ立った。
「いいか。どれだけ馬鹿みてぇな力を持ってようが、身体の使い方が滅茶苦茶なら半分も活かせねぇ。戦うってのは、ただ拳を振り回しゃいいってもんじゃない」
ガルドは一度ゆっくりと息を吸い、吐く。
それだけの動作だった。
けれど零が先ほどまで無意識に繰り返していた呼吸とは、何かが違って見えた。
「呼吸一つで身体の動きは変わる。力を入れる時も、抜く時も同じだ。まずは自分の身体がどう動いているのか、それを覚えろ」
「……分かった」
零はガルドの呼吸へ意識を向ける。
胸の動きや腹部の僅かな膨らみ、息を吸う長さと吐き出す間。それらをただ真似るのではなく、何が違うのかを確かめるように、自分でもゆっくりと息を吸った。
そして、吐く。
何度か繰り返しているうちに、零の呼吸から少しずつ余計な力が抜けていった。
その変化を黙って見ていたガルドは、やがて次へ進む。
「今度は立ち方だ」
両足を肩幅ほどに開き、自然に腰を落とす。
ただそれだけの姿勢でありながら、その身体には一切の無駄がなかった。
「足から生まれた力を腰へ通して、背中、肩、腕へ繋げて最後に拳へ乗せる。全部が一つに繋がって、初めてまともな一撃になる」
零は何も言わず、その姿をじっと見つめていた。
「真似してみろ」
「……分かった」
零は先ほど見たガルドの姿を思い出しながら、ゆっくりと足を動かした。
ただ外から見えた形を真似るだけではない。
足をどこへ置いていたのか。どの程度膝を曲げ、どこに重心を置き、何故肩から余計な力を抜いていたのか。
ガルドの説明と、先ほど目にした姿を頭の中で重ね合わせながら、自分の身体へ当てはめていく。
一度姿勢を作った零は、何かに違和感を覚えたのか、すぐにそれを崩した。
そして、もう一度。
先ほどより足の位置を僅かに変え、膝から余計な力を抜き、重心を落とす。
その様子を見ていたガルドの笑みが、いつの間にか消えていた。
ヴィクトリアもまた、何も言わず零を見つめている。
そんな二人の反応に気づかないまま、零は自分の姿勢を確かめ、やがて顔を上げた。
「……これで、合ってる?」
ガルドはすぐには答えなかった。
完全ではない。
細かく直すべきところなら、いくらでもある。
だが、たった一度見せ、簡単に説明しただけだった。
それなのに零は、形だけを真似たのではない。重心を落とす意味も、余計な力を抜く意味も、身体を安定させるために何が必要なのかも、その入口へすでに足を掛けている。
「……師匠?」
ヴィクトリアが声を掛ける。
彼女にも、ガルドが黙っている理由は分かっていた。
ヴィクトリア自身、幼い頃から天才と呼ばれてきた。
教えられたことを瞬く間に吸収し、他の者なら何週間も必要とすることを僅か数日で身につけてしまう。その才能を最も近くで見て、その基礎を叩き込んだのがガルドだった。
そしてガルド自身もまた、かつて幼いヴィクトリアへ教え始めた頃、何度となくその才能に驚かされたことを覚えている。
だからこそ――。
目の前にいる零を、簡単にヴィクトリアと比べることができなかった。
似ているようで、どこか違う。
それが何なのか、今のガルドにもまだ分からない。
「……違う?」
零が不安そうに尋ねた。
その声でガルドは我に返り、改めて零の立ち姿を見る。
「いや、合ってる」
「……そう」
零は小さく頷いた。
自分がどれほど異常なことをしているのか、まるで理解していない。
拳の威力だけではない。
教えれば吸収し、見せればその意味を考え、自分の身体へ落とし込もうとする。
ならば、この少女はどこまで行くのか。
「嬢ちゃん」
「……なに?」
「予定変更だ。今日は日が暮れるまで付き合え」
「……何をするの?」
問い返す零に、ガルドは楽しそうに笑った。
「決まってんだろ。修行だ」
「……分かった」
零は小さく頷くと、先ほど教えられたばかりの構えをもう一度取った。
その瞳は、真っ直ぐガルドへ向けられている。
ほんの数日前まで何も望むことさえできなかった少年は今、自らの意思で強くなることを望み始めていた。




