第五章 小さな一歩
朝の光が薄いカーテンを透かし、静かな部屋へ柔らかく差し込んでいた。
窓の向こうでは小鳥の声が聞こえ、遠くから風に揺れる木々の葉音が微かに届いてくる。穏やかで、何事もなかったかのような朝だった。
その静けさの中で、零はゆっくりと目を開いた。
最初に映ったのは、見慣れない天井だった。
けれど、もう驚くことはない。
ここが自分の家ではないことも、父と母がもうどこにもいないことも、今の零は知っている。
すべて、思い出してしまったから。
「…………」
身体を起こし、零は窓から差し込む光へ目を向けた。
胸の奥に空いたものは、昨日から何も変わっていない。
悲しいのか、苦しいのか。それすら自分ではよく分からなかった。ただ何か大切なものが抜け落ちてしまったような空虚さだけが、身体の奥深くに沈んでいる。
父の声も、母の温もりも覚えている。
だからこそ、もう二度と戻らないことも分かってしまう。
零は膝の上へ視線を落とした。
身体には、まだ森で負った傷が残っていた。深かった傷も少しずつ塞がり始めているものの、身体を動かせば鈍い痛みが走る。
それでも、目覚めたばかりの時に比べれば随分と楽になっていた。
どれほどそうしていただろう。
やがて、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「起きていますか?」
聞こえてきたのは、穏やかな女性の声だった。
「……はい」
小さく返すと、扉が静かに開く。
そこに立っていたのはヴィクトリアではなく、上品な衣服を身に纏った一人の女性だった。
柔らかな雰囲気を纏いながらも、その立ち姿には長く貴族として生きてきた者特有の気品がある。
昨夜、娘から森で起きたことは聞いている。
漆黒の魔狼が現れた可能性のある場所で、この少女が傷だらけになって倒れていたこと。
現地へ向かう途中、魔力とは異なる正体不明の力を感じたこと。
そして目覚めた少女が、これまでヴィクトリアが見たこともないほど深い絶望を宿した瞳をしていたことも。
覚悟していたつもりだった。
それでも、実際に目の前にすると僅かに息を呑んでしまう。
娘から聞いていた以上に、美しい少女だった。
朝の光を受ける艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。繊細に整った顔立ちは、どこか現実から切り離されたような神秘性さえ感じさせる。
けれど、エレノアの目を引いたのはその美しさではなかった。
瞳だった。
まだこれほど幼い少女がしていいはずのない、何もかもを失ってしまったような瞳。
そのあまりの静けさに、胸の奥が僅かに痛んだ。
何があったのかは分からない。
けれど、今は聞くべきではないのだろう。
エレノアは胸に湧いた感情を表には出さず、穏やかな微笑みを浮かべた。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか?」
「……たぶん」
「そう」
曖昧な返事だったが、それ以上尋ねることはなかった。
「朝食の用意ができています。身体が辛くなければ、一緒にいかがですか?」
零はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
「では、着替えを用意させますね。急がなくても大丈夫ですよ」
そう言い残し、エレノアは部屋を出ていった。
しばらくして使用人が運んできたのは、淡い色のブラウスと膝下まであるスカートだった。
零の小柄な身体に合うよう整えられたそれを見つめたものの、特に何も言わなかった。
今の零にとって、何を着るかなど大した問題ではなかった。
◇
食堂へ向かうと、先ほどの女性を含め、すでに三人の姿があった。
その隣には、落ち着いた佇まいの男性が座っている。そして向かいには、森で自分を助けてくれた金髪の女性――ヴィクトリアがいた。
「おはよう」
最初に声を掛けたのはヴィクトリアだった。
昨日と変わらず腰には大剣を帯びているが、その表情は森で零を見つけた時よりもずっと穏やかだった。
「……おはよう」
零が答えると、ヴィクトリアはそれだけで僅かに表情を和らげた。
案内された席へ零が腰を下ろす。
食卓には焼きたてのパンや温かなスープ、卵料理、それに色鮮やかな果物が並べられていた。
食事を始める前に、先ほど零を迎えに来た女性がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、まだお名前を聞いていませんでしたね」
零は顔を上げた。
三人の視線が自分へ向けられている。
けれどそこに、何かを無理に聞き出そうとするような圧はなかった。
少しだけ間を置いて、零は口を開く。
「……神楽 零」
「カグラ……レイ?」
聞き慣れない響きを確かめるように、女性がゆっくりと繰り返した。
「珍しくて、可愛らしい名前ね」
「…………」
零は何も答えなかった。
ただ、自分の名前が可愛らしいと言われる理由が分からず、僅かに首を傾げる。
その後、三人もそれぞれ名を名乗った。
この屋敷の主人である、アルベルト・フォン・ヴァレンタイン。
その妻、エレノア・フォン・ヴァレンタイン。
そして二人の娘であり、森で零を助けたヴィクトリア・フォン・ヴァレンタイン。
三人が家族なのだと知った時、零の胸の奥が僅かに痛んだ。
父と母の姿が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
それでも零は何も言わず、その感情を胸の奥へ沈めた。
エレノアたちも、そんな零にそれ以上何かを尋ねることはなかった。
どこから来たのか。
何故、森にいたのか。
家族はどこにいるのか。
漆黒の魔狼と思われる存在と、どのような関係があるのか。
聞きたいことなら、いくらでもあったはずだ。
それでも三人は、そのどれ一つとして口にしなかった。
この家へ来てから零が尋ねられたのは、結局、名前だけだった。
やがて食事が始まり、零は目の前のスープへ匙を入れた。
一口、口へ運ぶ。
それからパンを小さく千切って食べる。
味が分からないわけではなかった。美味しいということも、頭では理解できる。
ただ、その感覚が心まで届くには少しだけ時間が必要だった。
そんな零を見ながら、エレノアは急かすことなく自分の食事を続けていた。
しばらくして、零がもう一度パンへ手を伸ばした時だった。
「お口に合いましたか?」
突然声を掛けられ、零の手が僅かに止まる。
エレノアを見ると、そこには何かを期待する様子もなく、ただ穏やかな微笑みだけがあった。
零は手にしたパンへ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……はい。美味しいです」
「それは良かった」
たった、それだけだった。
大げさに喜ばれることもなければ、もっと食べるよう勧められることもない。
ただ自分が美味しいと言ったことを、目の前の女性が嬉しそうに受け止めている。
その表情を見ているうちに、零の口元がほんの僅かに緩んだ。
笑顔と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。
けれどヴィクトリアは、それを見逃さなかった。
エレノアも気づいていたのだろう。
それでも二人は何も言わず、いつもと変わらないように食事を続けた。
今は、それでよかった。
◇
それから数日が過ぎた。
侯爵家で流れる時間は、零が思っていた以上に穏やかなものだった。
朝になれば食事が用意され、昼には庭へ出ることもできる。エレノアは時折声を掛けてくるものの、返事を求めて無理に話を続けようとはしなかった。
ヴィクトリアも同じだった。
三帝としての仕事があるため常に屋敷にいるわけではなかったが、時間があれば零の様子を見に来る。それでも森のことや零の過去について尋ねることはなく、ただ他愛のない話をして帰っていった。
その間にも、身体に残っていた傷は少しずつ塞がっていった。
まだ完全に痛みが消えたわけではない。それでも歩くことに支障がない程度まで回復する頃には、零が客室で過ごす時間も自然と短くなっていた。
誰も、零に元気になれとは言わなかった。
笑えとも、過去を忘れろとも言わない。
ただ、ここにいていいのだと。
言葉ではなく、日々の態度でそう伝えてくれているようだった。
だからなのかもしれない。
最初は客室からほとんど出ようとしなかった零も、少しずつ屋敷の中を歩くようになった。
その中で、一つ気づいたこともある。
「レイ様。お茶をお持ちしました」
「……ありがとう」
「いいえ。何かございましたら、いつでもお呼びくださいね」
そう言って頭を下げる侍女の視線が、零の服へ向かう。
その日も零は、エレノアが用意してくれた服を身につけていた。
淡い色合いの上衣に、柔らかな布地のスカート。
最初は何も気にしていなかった。
けれど、廊下ですれ違う使用人たちから「お嬢様」と呼ばれたことが一度や二度ではなくなった頃、さすがの零にも分かった。
どうやら、この屋敷の人たちは自分を少女だと思っているらしい。
「…………」
零は自分の服を見下ろし、少しだけ考える。
本来なら訂正すべきなのだろう。
けれど――。
「……まあ、いいか」
今の零にとっては、それすらどうでもよかった。
そうして性別に関する誤解は、誰にも訂正されないまま残ることになった。
◇
その日、屋敷の庭を歩いていた零の耳に、乾いた音が届いた。
金属同士が激しくぶつかり合う音に混じって、人の声や地面を蹴る足音が聞こえてくる。
何となく気になり、零は音のする方へ足を向けた。
やがて辿り着いたのは、屋敷の一角に設けられた広い鍛錬場だった。
そこでは何人もの兵士たちが、二人一組になって剣を交えている。
一人が鋭く踏み込み、振り下ろされた剣をもう一人が受け止める。
甲高い金属音が響き、互いに弾かれるように距離を取ったかと思えば、次の瞬間には再び踏み込んでいく。
零は少し離れた場所で足を止めた。
何故、気になったのかは自分でも分からなかった。
ただ、目が離れない。
剣を振る腕。
地面を踏み込む脚。
攻撃を避けるために身体を傾け、次の動作へ繋げていく兵士たちの姿。
それらを、零は黙って見つめていた。
その日だけではなかった。
翌日も、さらにその翌日も。
気がつけば零は、時間になると自然に鍛錬場へ足を運ぶようになっていた。
「最近、よくここにいるね」
ある日、不意に隣から声を掛けられた。
振り向くと、いつの間に来ていたのかヴィクトリアが立っている。
「……うん」
「剣に興味があるの?」
問われた零は、しばらく兵士たちの動きを見つめた。
「……分からない」
「分からない?」
「でも、見ていたいとは思う」
ヴィクトリアは少しだけ目を細めた。
以前の零なら、何かに興味を示すことすらなかった。
それを思えば、その言葉だけでも大きな変化だった。
「そう」
ヴィクトリアはそれ以上追及せず、零の隣に並んだ。
二人で鍛錬を眺めていると、やがて一組の兵士が剣を収め、少し離れた場所へ移動した。
一人が片手を前へ突き出す。
次の瞬間、その掌の先に赤い炎が生まれた。
「……!」
それまで静かだった零の瞳が、大きく見開かれる。
炎は拳ほどの大きさへ膨らむと、そのまま放たれ、離れた場所に置かれた標的へと命中した。
乾いた音とともに火の粉が散り、標的の表面が黒く焦げる。
零はその光景から目を離せなかった。
手の中に何もなかったはずなのに、炎が生まれた。
現代の常識ではあり得ない光景が、今まさに目の前で起きている。
この世界へ来てから理解できないことばかりだったが、目の前の現象はそのどれとも違う意味で、零の心を僅かに揺らした。
零は炎が消えたあとも標的を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「今の……魔法?」
「…………」
ヴィクトリアの表情が、一瞬だけ止まった。
隣に立つ零へ視線を向ける。
「レイ」
「……なに?」
「君は、魔法を知らないのか?」
零は少し考えてから頷いた。
「……うん。初めて見た」
「…………そうか」
ヴィクトリアはそれ以上、何も言わなかった。
だが、胸の内には新たな疑問が生まれていた。
魔法を使えない人間なら、決して珍しいわけではない。
けれど、この世界に生きながら魔法そのものを知らない者など、ヴィクトリアは聞いたことがなかった。
魔法は人々の生活とあまりにも深く結びついている。
たとえ自身が扱えなくとも、魔法を応用した魔道具を目にする機会はいくらでもある。少なくとも、その存在すら知らずに生きることなど、ヴィクトリアには考えにくかった。
黒い髪。
見たことのない衣服。
漆黒の魔狼がいたと思われる森に、たった一人で倒れていた少女。
そして、あの場所へ向かう途中で感じた魔力とは異なる力。
分からないことが、また一つ増えた。
それでもヴィクトリアは尋ねなかった。
目覚めたばかりの零が見せた、あの瞳を覚えている。
聞くべき時が来れば聞けばいい。
少なくとも、今ではない。
そんなヴィクトリアの内心など知らず、零は兵士が生み出した炎を興味深そうに見つめていた。
「……僕にもできる?」
ヴィクトリアは少し驚き、それから零へ向き直る。
「魔法を?」
「うん」
零が自分から何かをやってみたいと言った。
そのことが嬉しかったのだろう。ヴィクトリアの表情が僅かに柔らかくなる。
「魔力があれば、簡単なものなら使えるはずだ」
そう言って、ヴィクトリアは零へ意識を集中させた。
ヴィクトリアは意識を澄ませ、零の内側へと感覚を向ける。
剣を本領とする彼女でも、魔力が存在するかどうか程度なら見分けることができた。
そして零には、確かに魔力が存在していた。
ただ、それ以上のことまではヴィクトリアにも分からない。
どれほどの魔力を宿しているのか。
その魔力がどのような性質を持つのか。
彼女に見抜けるのは、あくまでそこに魔力が存在しているということだけだった。
「大丈夫。君にも魔力はある」
「……僕にも?」
「ああ。ただ、どれほどの量なのかまでは私にも分からない。私は魔法を専門にしているわけではないからね」
ヴィクトリアはそう前置きしてから、零へ自分の内側へ意識を向けるよう伝えた。
「まずは、自分の中にある魔力を感じるところから始めよう。目を閉じて、身体の内側へ意識を向けてみて」
「……分かった」
零は言われた通りに目を閉じ、自分の身体の内側へ意識を沈めていく。
最初に感じたのは、幼い頃からずっとそこにあった〝何か〟だった。
形もなく、音もない。
けれど確かに、自分の奥深くを流れているもの。
そして零は、その力に一度だけ触れたことがある。
あの森で。
死が目前まで迫り、漆黒の獣と向き合った時。
身体の奥にあるそれを、自ら掴んだ。
あの時は考える余裕などなく、何をしたのかさえ分からなかった。ただ身体が勝手に動き、それまでの自分では考えられないほどの力を発揮したことだけは覚えている。
今も、その〝何か〟は零の中にある。
けれどヴィクトリアが言っているものは、おそらくこれではない。
さらに意識を深く沈めていく。
すると――そのすぐ傍に、今まで知らなかった別の何かがあることに気づいた。
「…………」
零の眉が僅かに動く。
似ていない。
幼い頃から感じてきたものとは、明らかに違う。
もっと異質で、それでいてこの世界へ来てから周囲に漂っていたものと、どこか同じ感覚を持つ力。
これが、魔力なのだろうか。
零が目を開く。
「……あった」
ヴィクトリアが僅かに目を見開いた。
「分かったの?」
「たぶん。前から僕の中にあったものとは……違う何かがある」
「前から?」
思わず聞き返しかけたヴィクトリアだったが、すぐに言葉を止める。
零もそれ以上説明する様子はなかった。
「……そう」
ヴィクトリアは胸に残った疑問を、今はしまっておくことにした。
「なら、その感覚を忘れないで。次はそれを少しだけ動かしてみよう」
ヴィクトリアは掌を上へ向け、意識を集中させる。
その掌の上に、小さな炎が灯った。
先ほど兵士が放ったものよりずっと小さな炎だったが、間近で見るそれに零の視線が吸い寄せられる。
「感じた魔力を手へ集める。そして、炎が生まれるところを想像する。最初はこれくらいでいい」
「……分かった」
零も同じように掌を上へ向けた。
先ほど感じ取った力へ意識を伸ばす。
そこにあることは分かる。
けれど、それを動かそうとした瞬間――。
「…………」
何も起こらなかった。
「最初はそんなものだよ」
ヴィクトリアは気にした様子もなく言った。
「もう一度やってみよう」
「……うん」
再び意識を集中する。
力は感じる。
確かにそこにあるのに、掌へ集めようとすると上手くいかない。
まるで何かに阻まれているかのように、その先へ進まない。
二度。
三度。
やり方を変えながら、何度か試してみる。
それでも――小さな火花一つ、現れることはなかった。
「……おかしいな」
ヴィクトリアが僅かに眉を寄せた。
魔力がないのなら分かる。
だが、零の中には確かに魔力が存在している。
本人も、それを感じ取るところまではできている。
それなのに、初歩的な魔法すら発動する気配がない。
「僕には……魔法は使えない?」
自分の掌を見つめながら、零が尋ねる。
「今の段階では、そうとしか言えないかな」
ヴィクトリアは誤魔化さなかった。
けれど、すぐに言葉を続ける。
「ただ、私には理由が分からない。魔法についてなら、私より遥かに詳しい人間もいる。だから今だけで決めつける必要はないよ」
「……うん」
零は小さく頷いた。
それから、もう一度自分の掌を見る。
何もない。
ほんの少し前、ヴィクトリアの掌には確かに炎が灯っていた。
自分にも同じことができるのかもしれないと思った。
だからだろうか。
できなかったことを、ほんの少しだけ残念に思った。
その感情に、零自身は気づいていなかった。
けれど、何も感じられなかった数日前の零なら、きっと抱くことさえなかった小さな感情だった。
やがて零は掌を下ろし、その視線を再び鍛錬場へ向けた。
兵士たちが剣を振るっている。
踏み込み、避け、受け止め、また踏み込む。
魔法とは違う。
自らの身体を動かし、技術によって戦う姿。
零の瞳は、いつしかその動きを追い始めていた。
◇
それからも零は鍛錬場へ通い続けた。
ただ眺めているだけだった頃とは違い、今では兵士たちがどのように足を運び、どう身体を動かしているのかを目で追うようになっている。
その変化に、ヴィクトリアも気づいていた。
「飽きないね」
隣に立ったヴィクトリアの言葉に、零は小さく頷く。
「……うん」
「そんなに剣が気になる?」
「剣だけじゃない」
珍しくすぐに返事が返ってきた。
ヴィクトリアが零を見る。
零の視線は、鍛錬を続ける兵士たちへ向いたままだった。
「どうして、あんなふうに身体を動かせるのか……知りたい」
以前なら、決して出てこなかった言葉だった。
知りたい。
やってみたい。
ほんの小さなものではある。
けれどそれは、過去だけを見つめていた零の心が、初めて未来へ向けて動き始めた証のようにヴィクトリアには思えた。
「なら、やってみる?」
「……剣を?」
「ああ」
零は少し驚いたようにヴィクトリアを見上げた。
その瞳にはまだ以前のような輝きが戻ったわけではない。
それでも、初めて森で見つけた時の、何も映していなかった瞳とは違っている。
「……うん」
その小さな返事を聞き、ヴィクトリアは鍛錬場に置かれていた木剣へ手を伸ばした。
だが、掴む直前でその手を止める。
自分が教えることはできる。
剣帝の名を与えられた身として、剣を教える資格がないとは思わない。
けれど三帝である以上、いつ王命が下るか分からず、王都へ呼ばれることも少なくない。
何より――。
零を見ているうちに、一人の男の姿が脳裏に浮かんでいた。
自分が幼い頃。
剣を握るよりも前に、立ち方を。
剣を振るよりも前に、身体の使い方を。
戦うということの基礎を、一から叩き込んだ男。
「……ヴィクトリア」
呼ばれて我に返る。
「どうしたの?」
そう尋ねると、零は少しだけ迷うように視線を落とした。
何かを口にしようとして、それでも躊躇っている。
やがて、零は顔を上げた。
「僕に……剣を教えてくれない?」
「…………」
ヴィクトリアの目が、僅かに見開かれる。
この屋敷へ来てから、零が自分から何かを望んだのは、これが初めてだった。
食事でも、休む場所でもない。
誰かに言われたからでもない。
自分の意思で、自分から前へ進もうとしている。
ヴィクトリアはしばらく零を見つめたあと、ゆっくりと表情を和らげた。
「分かった」
零の瞳が僅かに揺れる。
「ただ――私より、君に教えるのに向いている人がいる」
「……ヴィクトリアより?」
「ああ」
ヴィクトリアの脳裏に浮かぶのは、一人の男だった。
幼い頃の自分に、戦うための基礎を一から叩き込んだ師。
今は表舞台から退き、人里離れた山奥で静かに暮らしている。
「一人、君に会わせたい人がいる」
吹き抜けた風が、零の黒髪を静かに揺らした。
零は遠くに連なる山々へ目を向ける。
その瞳には、まだ深い悲しみが残っている。
失ったものが戻ってきたわけではない。
傷が癒えたわけでもない。
それでも。
止まっていた少年の時間は――ほんの少しだけ、再び動き始めていた。




