第四章 蘇る思い出
キャラクター紹介
ヴィクトリア・フォン・ヴァレンタイン
十八歳。
ヴァレンタイン侯爵家の長女。
身長一七五センチ。
長い金髪と澄んだ青い瞳を持つ、凛とした美貌の女性。
すらりと伸びた長い手足に、細身でありながら日々の鍛錬によって磨き上げられた、しなやかで引き締まった身体。
その美しさは華奢なものではない。
女性らしい優美さと、戦士としての強さを併せ持った、完成された美しさだった。
幼い頃から類稀なる剣の才能を持ち、若くして王国最強の三人――「三帝」の一人にまで上り詰めた。
その称号は「剣帝」。
誇り高く冷静な性格で、責任感も強い。
王国を守る者として、これまで数多くの戦場を経験してきた人物でもある。
――あたたかい。
誰かの手が、頬に触れている。
懐かしい温もりだった。
その温もりに包まれながら、零はゆっくりと目を開ける。
目の前にあったのは、忘れていたはずの景色だった。
柔らかな陽の光が差し込む部屋。その向こうには父がいて、少し離れた場所には母がいる。ただそれだけの光景なのに、幼い零の胸には自然と笑みが浮かんだ。
「零」
父が優しく名前を呼ぶ。
「はい、父様」
嬉しそうに答える零を見て、母も穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
その声を聞くだけで、心が落ち着いていく。
「零が大きくなるまで、ずっと守りますから」
その言葉が、幼い零の胸に深く残った。
ずっと。
この時間が、ずっと続く。
幼い零は、何の疑いもなくそう思っていた。
――けれど。
次の瞬間、世界が暗転した。
黒い獣。
響き渡る父の声。
母の叫び。
身体の奥から溢れ出す何か。
恐怖に呼応するように膨れ上がった力は、幼い零の意思などお構いなしに周囲へ広がっていく。止めようとしても止まらない。どうすればいいのかも分からない。ただ、怖かった。
その向こうで、父が何かを叫んでいる。
「零!」
声は聞こえている。
けれど、身体は動かなかった。
視界が歪む。
その中に、母の姿が見えた。
傷ついている。
それでも、母は零を見ていた。
「零、大丈夫ですよ……」
震える声だった。
それでも、優しかった。
いつもと同じように。
零は必死に手を伸ばす。
けれど、届かない。
父の中にあったものが、少しずつ消えていく。
「父様……?」
返事はない。
零はもう一度、声を振り絞った。
「……父様」
それでも、返事はなかった。
やがて、母の中にあったものも遠ざかっていく。
いつも感じていた温もりが、少しずつ薄れていく。
「待って……」
零は必死に手を伸ばした。
けれど、届かない。
「母様……」
その瞬間――
零は目を開けた。
知らない天井が視界に入った。
ぼんやりとした意識のまま視線を動かすと、窓から差し込む光や見覚えのない壁、これまで見たことのない調度品が目に入る。どれも記憶にはないものばかりで、ここがどこなのか、零にはまるで分からなかった。
身体が重い。
頭もまだぼんやりとしている。
先ほどまで見ていたものが夢だったのだろうか。
けれど、胸の奥には妙な痛みだけが残っていた。
零はゆっくりと視線を動かす。
そして――
そこに、一人の女性が立っていた。
長い金髪に、青い瞳。凛とした顔立ちをした女性で、その身には大剣を帯びている。
零は、その姿をぼんやりと見つめた。
「……母様」
声は、かすれていた。
女性の瞳が僅かに揺れる。
そして、零を見る。
零の瞳が、ゆっくりとヴィクトリアへ向けられた。
視線が重なる。
その瞬間、ヴィクトリアは息を飲んだ。
そこには、何も映っていなかった。
悲しみもない。
怒りもない。
恐怖さえない。
ただ、深い闇だけがあった。
ヴィクトリアは、これまで幾つもの戦場を見てきた。
死を覚悟した者も、絶望に打ちひしがれた者も、心を折られながら、それでも立ち続けようとする者も数え切れないほど見てきた。だからこそ、目の前にいる少̇女̇の瞳が、ただの悲しみや絶望とは違うことが分かった。
悲しみや怒りを通り越している。
何かを失ったというだけではない。
生きようとする意思さえ、そこには見えなかった。
「……少し、聞きたいことがある」
ヴィクトリアは静かに声をかけた。
しかし、少女は答えない。
ただ、虚ろな瞳でヴィクトリアを見つめている。
ヴィクトリアはしばらくその瞳を見つめ返した。
聞くべきことは多い。身元や出身、あの戦闘について。そして、あの漆黒の魔狼についても確認しなければならない。
けれど――
「……いや」
ヴィクトリアは静かに首を振った。
「今は、いい」
今ここで聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えなかった。それ以前に、この状態の少女へ問いを重ねることに意味があるとも思えない。
「今は何も考えず、休むといい」
少女から返事はなかった。
ヴィクトリアは、それ以上何も尋ねなかった。
帯剣したまま少女のそばに残り、その呼吸が少しずつ落ち着いていくのを静かに見守る。
やがて少女が再び目を閉じたことを確認すると、ヴィクトリアはようやく立ち上がった。
部屋を出ると、扉の外には一人の護衛が待っていた。
「ここを頼む」
「はっ」
「何か変化があれば、すぐに知らせて」
「承知しました」
それだけ告げると、ヴィクトリアは侯爵夫妻のもとへ向かった。
*
侯爵家の一室。
ヴィクトリアは両親の前に立ち、現地で確認したことを一つずつ報告していた。
「現地には、文献に記された漆黒の魔狼と思われる存在がいた可能性があります」
父である侯爵が眉を寄せる。
「可能性、か」
「はい。私は直接その存在を確認していません」
ヴィクトリアは淡々と答えた。
「ですが、現地には巨大な爪痕が残されていました。それだけではありません。地面には、何かに叩き壊されたような痕跡もありました」
母が静かに尋ねる。
「その中心にいたのが、あの少女なのですね」
「はい。あの戦闘痕の中心に、あの少女が倒れていました」
「身元は?」
「不明です。黒髪で、あの戦闘痕の中心に倒れていました」
侯爵が僅かに眉を動かす。
「……あの少女が、戦ったというのか?」
「その可能性は高いと思います」
ヴィクトリアは、現地で見た光景を思い出す。
折れた木々。
抉れた地面。
巨大な爪痕。
そして、拳で叩き壊したような痕跡。
状況だけを見れば、その中心にいた少女が戦闘に関わっていたと考えるのが自然だった。
けれど、あの小さな身体を思い出すと、どうしても引っかかる。
「魔力の痕跡は?」
「明確なものは確認できませんでした」
ヴィクトリアは少し間を置いて答えた。
「ただ、魔力とは異なる力を使っていた可能性があります」
侯爵の表情が険しくなる。
「その少女は何者なのだ?」
「分かりません」
ヴィクトリアは迷いなく答えた。
「それに、もう一つ気になることがあります」
「何だ?」
「ハイポーションを使用しました」
母が僅かに目を見開く。
「ですが、効果が通常より弱かった」
「……弱かった?」
「はい。傷は塞がりましたが、本来ならもっと早く回復していたはずです」
ヴィクトリア自身にも、その理由は分からなかった。
それでも、何がおかしいのかは分からなかった。
「先ほど、その少女が目を覚ましました」
ヴィクトリアは静かに続ける。
「身元や事情を聞こうとしました」
そこで、一度言葉を止めた。
「ですが、やめました」
侯爵がヴィクトリアを見る。
「理由は?」
「……あの少女の目を見たからです」
部屋に静寂が落ちる。
「何も映していませんでした」
ヴィクトリアは、あの瞳を思い出していた。
「悲しみも、怒りも、恐怖もない。ただ、生きようとする意思さえ見えなかった」
それは、戦場で何度も見てきた絶望とは違う。
もっと深い。
言葉では簡単に表せない何かだった。
「あれほどの目を、私は見たことがありません」
侯爵はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねる。
「……危険ではないのか?」
「分かりません」
ヴィクトリアは正直に答えた。
「ですが、少なくとも、今の彼女を敵と判断する理由もありません」
それは警戒を解くという意味ではない。
身元不明であることに加え、異質な力を持ち、漆黒の魔狼との関連も疑われる。警戒すべき要素はいくつもある。
「身元不明である以上、警戒は必要です。ですが、あの状態の少女を外へ出すこともできません」
ヴィクトリアは両親をまっすぐ見つめた。
「私は、この家で保護したいと思っています」
侯爵はしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「お前がそう判断したのなら、この家で預かろう」
母も穏やかに頷く。
「あの子を、しばらくここで休ませましょう」
「ありがとうございます」
ヴィクトリアは頭を下げた。
この少女が何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ、あの場所にいたのか。
何一つ分からない。
ただ今は、あの少女をこの家に置く。
それだけが決まった。
ヴィクトリアは、静かに歩き出した。
*
まだ誰も知らない。
この日、侯爵家に迎え入れられた一人の少女が――
やがて王国の歴史そのものを、大きく変える少年になることを。




