第三章 剣帝の来坊
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
侯爵家の広大な庭園。その一角に設けられた鍛錬場で、一人の少女が大剣を振るっている。
振り下ろされた大剣が空気を裂いた。
人の身長ほどもある大剣だというのに、少女の動きには僅かな乱れもない。一歩踏み込み、身体を捻る。その勢いを乗せて横薙ぎに振り抜けば、鋭い風圧が走り、空気が震えた。
ヴィクトリア・フォン・ヴァレンタイン。
十八歳。
侯爵家の長女にして、王国最強の三人――三帝の一角。
その称号に相応しく、彼女は幼い頃から剣を振り続けてきた。
だが、今の彼女に慢心はない。
剣を振るう。
ただそれだけの時間を、ヴィクトリアは大切にしていた。
余計なことを考えず、自分の身体と剣だけに意識を向ける。剣を握り、踏み込み、振り抜く。その一つ一つの動作を確かめるように、何度も繰り返してきた。
いつもなら、それでよかった。
けれど――
ふと、ヴィクトリアの剣が止まった。
「……」
理由は分からなかった。
ただ、胸の奥に微かな違和感がある。
何かがおかしい。
敵の気配を感じたわけではない。魔力を感じたわけでもない。それでも、身体の奥に小さなざわめきが生まれていた。
ヴィクトリアはゆっくりと顔を上げる。
広い空。
穏やかな朝。
何も変わっていない。
それなのに、何かが引っかかる。
「……何だ?」
呟いても、答えはない。
ヴィクトリアはしばらく周囲を見渡した。異常はない。それでも、胸騒ぎだけが消えなかった。
その時だった。
「お嬢様!」
遠くから声が聞こえた。
振り向くと、若い使用人がこちらへ駆けてくる。普段なら鍛錬中のヴィクトリアへ不用意に近づくことはない。それだけで、何かあったのだと分かった。
「どうした?」
「旦那様と奥様がお呼びです。王都から、緊急の通信が届いたと……」
ヴィクトリアの青い瞳が僅かに細まった。
王都。
そして、緊急の通信。
胸の奥に残っていた違和感が、僅かに強くなる。
「分かった。すぐに行く」
「はい!」
使用人が頭を下げる。
ヴィクトリアは大剣を収めると、鍛錬場を後にした。
歩きながらも、先ほどの胸騒ぎは消えなかった。
何かが起きている。
そんな確信だけが、静かに胸の中へ残っていた。
*
侯爵邸の一室。
そこにはヴィクトリアの父と母が待っていた。
二人の表情は、普段とは少し違っている。
父親は侯爵としての厳しい顔をしており、母親もまた静かにヴィクトリアを見つめていた。
「来たか」
「はい。何があったのですか?」
父親は一度だけ母親へ視線を向け、それからヴィクトリアを見る。
「王都から王命が届いた」
その言葉に、ヴィクトリアの表情が僅かに引き締まった。
「王命……ですか」
「ああ」
父親は静かに続ける。
「先ほど、王国の魔力観測網が大規模な異常を捉えたそうだ」
王国には、各地の魔力の変動を監視するための広域観測網が存在している。
それは一つの場所にある設備ではない。
王都を中心に各地へ配置された観測設備が魔力の異常を捉え、それらを総合することで、通常では起こり得ない規模の異変を察知するためのものだ。
今回、その観測網が異常を捉えた。
「王都では、過去の記録と照合を行ったそうだ」
「過去の記録……?」
「そこで、一つの可能性が浮上した」
父親の声が僅かに低くなる。
「過去の文献に記された存在と、今回の異常が酷似しているらしい」
ヴィクトリアは黙って父親を見る。
次に告げられる言葉を、何となく予感していた。
「――『漆黒の魔狼』だ」
その名を聞いた瞬間。
ヴィクトリアの脳裏に、古い文献の記憶が蘇った。
王国に残された古い記録。
正確な年代すら分からないほど昔。
圧倒的な力を持ち、周囲を破壊しながら現れた漆黒の魔狼。
その記録には、討伐されたとも、封印されたとも、明確には記されていない。
ただ、ある日突然現れ、そしていつの間にか姿を消した。
それだけが残されていた。
もちろん、その記録をすべて真実だと思っているわけではない。
古い文献には誇張された記述も多い。
だが、三帝であるヴィクトリアは、その存在について知らされていた。
「……漆黒の魔狼」
小さく呟く。
それは先ほど感じた胸騒ぎと、どこか重なっていた。
「王都では、現時点で断定はしていない。あくまで過去の文献にある存在と類似している可能性がある、ということだ」
「ですが、陛下は私に向かえと?」
「ああ」
父親が頷く。
「国王陛下から、お前への直接の王命だ」
静かな部屋に、僅かな沈黙が落ちた。
ヴィクトリアは目を伏せる。
考える時間は、長くなかった。
「……承知しました」
顔を上げる。
そこに迷いはなかった。
「王命であるならば、私が向かいます」
三帝としての言葉だった。
侯爵令嬢としてではない。
一人の娘としてでもない。
王国最強の一角として、国王から託された役目を受ける者としての返答。
父親も、母親も、その意味を理解している。
だからこそ、母親の表情には僅かな不安が浮かんでいた。
「ヴィクトリア……」
母親が静かに娘の名を呼ぶ。
ヴィクトリアは母を見る。
そこにあるものが何なのか、言葉にされなくても分かった。
母親としての心配。
父親もまた、侯爵としてではなく、一人の父として娘を見ていた。
ヴィクトリアはほんの僅かに表情を和らげる。
「心配はいりません」
そして、静かに続ける。
「必ず、生きて帰ります」
それ以上は言わなかった。
父親もまた、それ以上は何も聞かなかった。
「……頼んだぞ」
「はい」
短い言葉だけを交わす。
母親は最後まで娘を見つめていた。
ヴィクトリアは一礼すると、部屋を後にした。
扉が閉まる。
一人になった廊下で、ヴィクトリアの足が僅かに止まった。
「……」
先ほどまでの表情が、ほんの少しだけ消える。
頭の中に、古い文献の記憶が浮かんでいた。
漆黒の魔狼。
もし。
あの記録に残された内容が、すべて真実だとしたら。
ヴィクトリアは静かに目を閉じる。
その力が本当に記録通りなら――
「……私一人では、足りないかもしれない」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
恐怖ではない。
弱気でもない。
ただ、事実を冷静に受け止めているだけだった。
自分は三帝。
王国において、最も強い者の一人。
それでも、届かないかもしれない。
その可能性を理解した上で、それでも行く。
ヴィクトリアは目を開いた。
「……それでも」
静かな決意が宿る。
「行くしかない」
*
侯爵邸の玄関へ戻ると、先ほどの若い使用人が一頭の馬を引いて待っていた。
「お嬢様、お待ちください! 馬を用意いたしました!」
ヴィクトリアは足を止め、馬を見る。
「……ありがとう」
「はい!」
使用人が笑顔になる。
だが、ヴィクトリアはそのまま馬へ近づくことなく、横を通り過ぎた。
「え?」
「必要ない」
「……え?」
使用人が目を丸くする。
ヴィクトリアは振り返った。
「私の方が速い」
それだけ言うと、大剣を手に取った。
使用人はしばらく固まっていた。
けれど次の瞬間、ヴィクトリアの身体が地面を蹴った。
一瞬だった。
風だけを残して、その姿が遠ざかっていく。
「……」
若い使用人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
*
ヴィクトリアは走っていた。
街を抜け、道を外れ、森へ向かう。
普通の人間なら馬を必要とする距離を、彼女は自分の脚だけで駆け抜けていく。風が頬を撫で、それでもヴィクトリアの意識は周囲から離れていなかった。
目的地へ近づくほど、胸の奥にあった違和感が強くなっていく。
やがて、ヴィクトリアの足が僅かに緩んだ。
遠い。
まだ距離はある。
それでも分かる。
何かが起きている。
大地の奥から伝わってくるような微かな衝撃。続いて、木々の向こうから巨大な力の揺らぎが伝わってくる。
一つ。
圧倒的な存在感。
そして――
「……もう一つ?」
ヴィクトリアは目を細めた。
一方は、先ほど聞かされた漆黒の魔狼を思わせる力。
間違いない。
ただの魔物ではない。
もう一つ。
こちらは違った。
魔力ではない。
けれど、確かに何かが存在している。
力と力がぶつかっている。
木々が大きく揺れる。
遠くで轟音が響く。
大地が僅かに震えた。
ヴィクトリアの表情が変わる。
「……戦っているのか」
速度を上げる。
だが、その途中だった。
突然。
すべてが消えた。
「……っ」
足が止まる。
静かだった。
あまりにも静かだった。
先ほどまで確かに感じていた二つの力。
漆黒の魔狼を思わせる存在。
そして、もう一つの異質な力。
その両方が、同時に消えていた。
ヴィクトリアは周囲を見渡す。
剣へ手を添え、呼吸を整える。
先ほどまで激しい戦闘が行われていた。
それが突然終わった。
ならば、何が起きたのか。
勝敗は。
漆黒の魔狼は。
もう一つの存在は。
どちらも分からない。
「……」
ヴィクトリアは慎重に歩き始めた。
音を殺しながら木々の間を進み、周囲へ視線を走らせる。
折れた枝。
抉れた地面。
巨大な爪によって削られた木の幹。
拳でも叩き壊されたような痕跡。
その一つ一つが、先ほど感じた戦闘の凄まじさを物語っていた。
「……これほどの……」
ヴィクトリアは足を止め、視線を周囲へ走らせる。
敵の気配はない。
先ほど感じた気配もない。
それでも警戒を解かない。
もし、まだどこかに潜んでいるのなら、ここで不用意に動くわけにはいかなかった。
ヴィクトリアは剣から手を離さないまま、さらに奥へ進んだ。
やがて、木々の隙間から開けた場所が見えた。
ヴィクトリアは足を止める。
そこには、何もいなかった。
巨大な魔狼の姿もない。
ただ、戦闘の痕跡だけが残されている。
そして――
その中心に、一人の人影があった。
「……人?」
ヴィクトリアの目が僅かに見開かれる。
慎重に近づく。
やがて、その姿がはっきりと見えてきた。
一人の少年。
いや。
ヴィクトリアには、少̇女̇に見えた。
小さな身体。
細い手足。
衣服は激しく裂け、身体にはいくつもの傷が残っている。
土と血に汚れ、その姿だけを見れば、とても綺麗などとは言えない。
それなのに――
ヴィクトリアは、目を離せなかった。
黒い髪。
この国ではあまり見かけない、深い漆黒。
土に汚れ、ところどころ乱れているにもかかわらず、その髪には不思議な艶が残っている。
白い肌。
長い睫毛。
整った輪郭。
閉じられた瞳。
その顔立ちは、あまりにも繊細だった。
まるで壊れ物のように儚い。
けれど、ただ可愛らしいだけではない。
そこには言葉では説明できない、どこか神秘的なものがあった。
傷つき、汚れ、倒れている。
それでも、その神秘性だけは失われていない。
「……」
ヴィクトリアは無意識に息を止めた。
そして、もう一度周囲を見る。
木々が薙ぎ倒されている。
地面は大きく抉れている。
巨大な存在同士が、命を削るような戦いを繰り広げた痕跡。
なのに。
その中心に倒れているのは、どう見ても幼い少女だった。
「……君が?」
ヴィクトリアの口から、思わず声が漏れる。
もちろん答えはない。
少女は目を閉じたまま、微動だにしない。
ヴィクトリアは警戒を残したまま、さらに一歩近づいた。
そして、しゃがみ込む。
まず周囲を見る。
敵の気配はない。
それを確認してから、少女へ手を伸ばした。
呼吸を確認する。
「……」
僅かだった。
それでも、確かに息をしている。
「生きている……」
ヴィクトリアの表情が僅かに緩んだ。
だが、傷の状態を見れば安心できるものではない。
出血もある。
身体への負担も大きい。
このままでは危険だった。
ヴィクトリアは腰に携えていた薬を取り出す。
決死の戦いを想定して用意していたハイポーション。
これほどの傷なら、使わない理由はない。
「少し、失礼する」
返事はない。
ヴィクトリアは慎重にポーションを使用した。
傷口へ流し、飲ませられる分だけ口元へ運ぶ。
やがて、僅かに傷が塞がっていく。
出血も少しずつ収まっていく。
しかし――
「……?」
ヴィクトリアは眉を寄せた。
おかしい。
効いている。
確かに効いてはいる。
だが、あまりにも弱い。
ハイポーションなら、この程度の傷ならもっと明確な回復が見られるはずだった。
「……なぜ?」
少女の身体を見つめる。
それでも、何がおかしいのかは分からなかった。
ヴィクトリアはしばらく考えた。
そして結論を出す。
ここに置いておくわけにはいかない。
身元も分からない。
どこから来たのかも分からない。
先ほど感じた異質な力が、この少女のものなのかすら分からない。
それでも――
このままでは、この少女は死ぬ。
「……連れて帰るしかないな」
ヴィクトリアは静かに呟いた。
最も近い安全な場所。
そして、自分自身が監視できる場所。
それはヴァレンタイン侯爵家だった。
ヴィクトリアは少女の身体を抱き上げる。
思っていたよりも軽かった。
腕の中に収まった身体はあまりにも小さい。
ヴィクトリアは腕の中の少女を見下ろした。
黒い髪。
白い肌。
閉じられた瞳。
その姿には、どこか現実離れしたものがあった。
そして、もう一度だけ周囲へ目を向ける。
木々が薙ぎ倒されている。
地面は大きく抉れている。
巨大な存在同士が激しくぶつかり合ったことだけは、疑いようがない。
その中心にいたのが、この少女なのだろうか。
状況だけを見れば、そう考えるしかない。
けれど――
ヴィクトリアは、腕の中の少女へ視線を戻す。
あまりにも小さい。
細い身体。
傷だらけではあるものの、戦場に立っていたとは到底思えないほど幼く見える。
「……君が?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
もちろん答えはない。
少女は目を閉じたまま、静かに眠っている。
ヴィクトリアはしばらくその顔を見つめた。
信じ切ることはできない。
けれど、否定することもできなかった。
少なくとも、この場所に残されている痕跡と、少女が倒れていた事実。
その二つが繋がっている可能性は高い。
ただ、それだけだった。
「……君は、一体……」
問いかけても、答えはない。
少女は眠ったまま。
ヴィクトリアは小さく息を吐くと、その身体を抱え直した。
今は考えても答えは出ない。
ならば――
まず、この少女を生かす。
それだけでよかった。
ヴィクトリアは少女を抱いたまま、来た道を振り返る。
そして静かに歩き出した。
その背後には、激しい戦闘の痕跡だけが残されている。
漆黒の魔狼の姿は、どこにもない。
ただ一人の少女だけが、そこに残されていた。
ヴィクトリアはまだ知らない。
腕の中で眠るその少女が――
やがて王国の歴史そのものを大きく変える少年になることを。




