第二章 失われた記憶・後編
――翌日。
神楽家の屋敷には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
朝の光が庭を照らし、使用人たちが忙しなく屋敷を行き交っている。昨日と同じように朝食が用意され、昨日と同じように父と母がそこにいる。
何も変わっていない。
六歳の零にとって、それは当たり前のことだった。
朝食を終えた零は、しばらくして庭へ出た。
昼を少し過ぎた頃には、昨日と同じ長椅子に母と並んで座っていた。母の膝の上には一冊の本があり、零はその隣から身を寄せるようにして、母の声に耳を傾けている。
「……それから、王子様は森の奥へ進みました」
「うん」
「すると、そこには大きな湖があって――」
母がゆっくりとページをめくる。
零は本を覗き込みながら、続きを待った。
木々の間を抜ける風。
遠くから聞こえてくる使用人たちの声。
母の穏やかな声。
昨日と同じ、何気ない時間だった。
だからこそ、その違和感に気づいた瞬間、零はふと顔を上げた。
視線の先にあるのは、庭の奥。
木々が並ぶ、そのさらに向こうだった。
「……母様」
「はい?」
母が本から顔を上げる。
零は答えなかった。
胸の奥に、何かが触れている。
昨日の夜に感じたものと同じだった。
けれど、今度は気のせいだとは思えない。
近い。
何かがいる。
「……何かいる」
零の呟きに、母の表情が僅かに変わった。
「何か、ですか?」
「うん」
零が立ち上がる。
母も本を閉じた。
そして次の瞬間――木々の向こうから、黒い影が現れた。
最初に見えたのは、漆黒の毛並みだった。
木々の間から姿を現したそれは、ゆっくりと庭へ足を踏み入れる。
四本の脚。
巨大な身体。
鋭く伸びた爪。
獣の姿をしている。
けれど、零がこれまで知っているどんな獣よりも大きく、何よりも異様だった。
ただそこにいるだけで、周囲の空気が重くなる。
零の身体が強張った。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。
「零」
母の声が聞こえた。
いつもの穏やかな声とは違う。
「私の後ろへ」
「……母様」
「早く」
零が母の後ろへ回った。
その直後だった。
「――下がれ!」
鋭い声が庭に響く。
父が駆けてきた。
零と黒い獣の間へ入り込むと、父はその巨体を正面から見据えた。
その瞬間、零の知らない何かが父の身体を包む。
目には見えない。
それでも、零には分かった。
父の身体の内側から力が湧き出し、それが腕や脚へ集まっている。いつも稽古をしている時とはまるで違う。身体そのものが一つの力に包まれているようだった。
父が踏み込む。
黒い獣も同時に動いた。
二つの影が激突した瞬間、轟音が庭を震わせる。
父の拳が振り抜かれ、その拳を包むように凝縮された何かが黒い獣へ叩き込まれる。対して黒い獣は前脚を振り抜き、鋭い爪で迎え撃った。
衝撃によって地面が抉れ、土が大きく舞い上がった。
「……!」
零は息を呑んだ。
父が、こんな戦い方をするなんて知らなかった。
父は次々と拳を繰り出していく。黒い獣はそれを受け、躱し、ときには身体を捻って紙一重で避けながら鋭い爪を返す。互いの攻撃がぶつかるたび、地面が震え、庭の木々が大きく揺れた。
その横から母も動く。
母が片手を前へ伸ばすと、空気を裂くように何かが飛んだ。
零には見えない。
けれど、確かに感じる。
見えない何かが黒い獣へ向かって一直線に飛び、獣が身体を捻った直後、その背後にあった木が大きく揺れた。
母が再び手を伸ばす。
今度は一つではない。
いくつもの気配が一斉に放たれ、黒い獣へ襲いかかる。
黒い獣はそれを躱しながら父へ迫り、鋭い爪を振り抜いた。
父が腕で受け止める。
その身体が僅かに後ろへ流れた。
しかし、すぐに踏み込む。
拳が黒い獣の身体へ叩き込まれ、巨体が地面を滑った。
それでも倒れない。
すぐに立ち上がり、再び父へ向かっていく。
父と母。
二人が力を合わせても、目の前の獣を止めることができない。
その光景を見つめながら、零はただ立ち尽くしていた。
その時だった。
「……何故こいつがここにいる」
父が低く呟いた。
零は父を見る。
その声には、明らかな動揺があった。
父は、この獣を知っている。
そう思った。
けれど、問いかけることはできなかった。
再び黒い獣が動いたからだ。
父が迎え撃ち、母の見えない攻撃がその隙を狙う。
黒い獣はそれを躱しながら身体を捻り、鋭い爪を振り抜いた。
「ぐっ……!」
父の肩が裂けた。
血が流れ落ちる。
「父様!」
零が叫ぶ。
父は振り返らなかった。
傷ついた肩を庇うこともなく、再び拳を構えて黒い獣を見据えている。
母の頬にも、いつの間にか赤い筋が走っていた。
それでも二人は下がらない。
零の前から離れようとはしなかった。
黒い獣を、ここから先へ行かせないために。
そうして戦いが続く中、不意に黒い獣の動きが止まった。
その視線が父から外れる。
母でもない。
その先にいるのは――零だった。
「……え?」
胸の奥が、大きく脈打つ。
どくん、と身体の奥にある何かが揺れた。
黒い獣が零を見ている。
その視線を受けた瞬間、零の身体の内側から、何かが滲み出した。
それが何なのかは分からない。
ただ、怖かった。
黒い獣がゆっくりと身体の向きを変える。
「……零!」
父の声が響いた。
黒い獣が地面を蹴る。
零へ向かって、一気に距離を詰めた。
「させるか!」
父が追う。
拳を振るう。
黒い獣はそれを躱し、さらに前へ出た。
父は何度も進路を塞ごうとする。しかし、黒い獣はそのたびに攻撃を受け流し、僅かな隙を縫うようにして零へ近づいていく。
肩から流れる血が増えていく。
それでも父は止まらない。
零のもとへ戻るためには、まず目の前の獣を止めなければならない。
けれど、黒い獣はその隙を与えなかった。
「零を守れ!」
父の声が庭に響いた。
近くにいた使用人たちが、一斉に零のもとへ集まる。
誰一人として零を連れて逃げようとはしなかった。
父の言葉の意味を理解したからだ。
零を動かせば、黒い獣も追ってくる。
ならば、ここで守るしかない。
一人が零の前に立つ。
その隣に、もう一人。
さらにその前へ別の使用人が出る。
気づけば何人もの人間が、零を囲むように立っていた。
「……待って」
零は震える声で呟いた。
何が起きているのか分からない。
父は戦っている。
母も戦っている。
そして今、自分の前には何人もの人が立っている。
黒い獣が迫る。
父が追う。
けれど、間に合わない。
黒い獣が父の拳を躱した。
そのまま零へ向かって走る。
「――来る!」
誰かが叫んだ。
使用人たちが零を守るように前へ出る。
黒い影が迫り、鋭い爪が振り抜かれた。
轟音が響いた。
大きな衝撃が庭を揺らし、零の目の前にいた人たちの身体が次々と地面へ倒れていく。
「……え?」
零は動けなかった。
倒れた人へ視線を向ける。
声が聞こえる。
けれど、それも少しずつ遠くなっていった。
さっきまでそこにあったものが、消えていく。
一つ。
また一つ。
胸の奥で感じていた存在が、まるで灯りを消すように失われていく。
「……嫌だ」
胸の奥が熱くなった。
身体の内側で、何かが膨れ上がっていく。
「……嫌だ……」
次の瞬間だった。
零を中心に、凄まじい力が一気に溢れ出した。
空気が震える。
地面が低く唸り、庭の土に無数の亀裂が走った。
木々が大きく揺れ、枝が軋む。
舞い上がった葉が渦を巻き、庭に置かれていた石や小さな道具が次々と吹き飛ばされていく。
ただ力が強いというだけではない。
そこにあるすべてを押し流すような、圧倒的な奔流だった。
父が足を踏ん張る。
身体を包んでいた力が大きく揺らいだ。
「……っ!」
母も腕を上げて身体を庇う。
そして黒い獣が、初めて動きを止めた。
それまで父と母の攻撃を受けても退かなかった巨体が、零から僅かに距離を取る。
一歩。
ほんの僅かに後ろへ下がった。
そして、零を見た。
零から溢れ出しているものを前に、黒い獣ですら不用意には近づこうとしない。
けれど、零にはそんなことを考える余裕などなかった。
「止まって……」
両手で胸を押さえる。
怖い。
何かが身体の中から溢れている。
止めなければ。
そう思って力を抑えようとする。
けれど――。
止まらない。
「お願い……止まって……!」
零が強く願った瞬間、力はさらに膨れ上がった。
轟音とともに地面が大きく揺れる。
庭の石が跳ね上がり、木の幹に亀裂が走った。
零の黒髪が激しく舞い上がり、周囲の空気が渦を巻く。
「零!」
父が駆け込んできた。
ようやく黒い獣との間に僅かな隙が生まれたのだ。
父は傷だらけだった。
肩から血が流れ、呼吸も荒い。
それでも零の前に立つ。
「父様……」
「大丈夫だ」
父が答える。
零は首を振った。
「……止めて」
「……」
「止めて、父様……」
力は溢れ続けている。
零の周囲を渦巻き、地面を震わせ、木々を揺らしながら父の身体へもまとわりついていく。
父が腕を上げた瞬間、その身体を見えない衝撃が打ちつけた。
「ぐっ……!」
父の身体が大きく揺れる。
零の目が見開かれた。
「僕が……」
分かってしまった。
自分の中から出ているものが、父を傷つけている。
「僕が、父様を傷つけてる……」
「違う」
父はすぐに答えた。
「零のせいではない」
「でも……!」
「違う」
強い声だった。
けれど、怒ってはいない。
「大丈夫だ」
父はそう言った。
けれど、零には分かっていた。
大丈夫には見えない。
父の身体を包んでいた力は、先ほどより明らかに弱くなっている。
肩から流れる血も止まらない。
それでも父は、零の前から退かなかった。
零は必死に胸へ手を当てる。
「止まって……」
力を抑えようとする。
けれど、抑えようとするほど恐怖が膨れ上がる。
怖い。
このままでは父が傷つく。
その恐怖が、さらに力を呼び起こす。
力が大きくなれば、父がまた傷つく。
だから、もっと止めようとする。
けれど、それがまた新たな力を生んでいく。
どうすればいいのか分からない。
ただ、怖かった。
「止まって……!」
零の声に呼応するように、周囲の空気が大きく揺れた。
父が片膝をつく。
「父様!」
その時、母が駆け寄ってきた。
「零!」
「母様……!」
母は零を抱きしめた。
その身体にも傷があった。
頬から血が流れ、衣服にもいくつもの傷が刻まれている。
それでも母は、零を抱く腕を緩めなかった。
「大丈夫ですよ」
「……でも」
「大丈夫です」
昨日と同じ言葉だった。
零が何よりも安心できる言葉。
けれど、その声は僅かに震えていた。
「止めたい……」
「ええ」
「止められない……」
「分かっていますよ」
「僕が……」
零の声が震える。
「僕が、父様と母様を……」
「違います」
母は優しく首を振った。
「あなたは何も悪くありません」
「でも……」
「大丈夫ですよ」
母の手が、零の髪を撫でる。
その手も僅かに震えていた。
零から溢れ続ける力が、母の身体にも触れている。
それでも母は離れない。
零を抱きしめたまま、何度もその髪を撫で続ける。
「父様もいます」
零が顔を上げる。
少し離れた場所では、父が傷だらけになりながら立ち上がっていた。
「……ああ」
父が頷く。
「大丈夫だ」
その声を聞いて、零は少しだけ安心した。
けれど。
その瞬間だった。
黒い獣が再び動いた。
父が零の前へ出る。
鋭い爪が振り抜かれ、父が腕で受け止めた。
凄まじい衝撃が身体を貫く。
「ぐっ……!」
父の身体が大きく揺れた。
それでも倒れない。
零の前から退かない。
母も零から離れない。
零の身体から溢れる力は、まだ止まらなかった。
地面が震える。
木々が軋む。
周囲に転がっていた石が浮き上がり、砕けていく。
その中心にいる零は、ただ泣いていた。
「……嫌だ」
止めたい。
けれど止められない。
「やめて……」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
「お願い……やめて……!」
それでも力は収まらない。
父の身体へ触れ、母の身体へ触れ、そのたびに二人の身体が僅かに揺れる。
零は何度も胸を押さえた。
けれど、自分の中から溢れ出すものをどうすれば止められるのか分からない。
ただ恐怖だけが膨らんでいく。
そして、その恐怖に呼応するように、力もまた膨れ上がっていった。
黒い獣はそれ以上近づかなかった。
少し離れた場所から、ただ零を見ている。
先ほどまでの殺意は薄れていた。
その視線には、別の何かがあった。
けれど零には、もう何も見えていなかった。
目の前にいる父と母。
ただ、それだけだった。
「……父様?」
父の身体から、いつも感じていたものがまた一つ、薄れていった。
零が顔を上げる。
そこにいる。
確かにいる。
けれど――もう、感じない。
「……父様?」
返事がない。
いつも感じていたものが、薄れていく。
少しずつ。
確実に。
「父様……?」
零の声が震える。
何度呼んでも、返事がない。
「……嫌だ」
零は首を振った。
「父様……」
父の身体が、ゆっくりと崩れた。
「……父様?」
零には理解できなかった。
いつもそこにいた。
朝になれば会えて、夜になれば声を聞けて、何度でも約束してくれた。
その存在が。
今。
目の前から消えていく。
「……嫌だ」
零の唇が震える。
その時、母が零を抱きしめた。
「……零」
「母様……?」
母の声も、僅かに震えていた。
「大丈夫ですよ」
また、その言葉。
「……約束したのに」
零の口から、かすかな声が漏れる。
「母様……約束したのに……」
昨日の記憶が蘇る。
長椅子。
母の膝。
握ってくれた小さな手。
そして。
――零が大きくなるまで、ずっと。
「……母様」
零は母にしがみついた。
「消えないで……」
母の腕が、少しだけ強くなる。
「……零」
「お願い……」
返事はない。
ただ、抱きしめている。
その温もりは、昨日と同じだった。
いつも眠る前に感じていた母の匂いも、髪を撫でてくれる手の優しさも、何一つ変わっていない。
なのに。
その温もりだけが、少しずつ弱くなっていく。
「……母様?」
零の声が震える。
「母様……?」
母の中にあったものが、少しずつ消えていく。
零には、それが分かった。
嫌だ。
止めたい。
でも、もう何もできない。
「……嫌だ」
母の腕から力が抜ける。
「母様……?」
零は母の身体を揺らした。
「起きて……」
返事はない。
「母様……」
何度呼んでも。
何度揺らしても。
返ってこない。
「大丈夫って……言ったのに……」
涙が頬を伝う。
「約束したのに……」
母の唇が、ほんの僅かに動いた。
「……ごめんなさい」
「……母様?」
零には、その意味が分からなかった。
何を謝っているのか。
どうして謝るのか。
ただ。
母の声を聞いたのは、それが最後だった。
腕の力が抜ける。
零の胸の奥で感じていたものが――消えた。
「…………」
何も聞こえない。
何も感じない。
父も。
母も。
さっきまでそこにいた人たちも。
全部、いなくなった。
それでも零の周囲では、まだ力が渦巻いていた。
地面は深く抉れ、庭の木々は折れ、石は砕けている。
けれど、それを見ても、もう何も思わなかった。
「……どうして」
零は呟いた。
「……どうして……」
答える人はいない。
涙が流れている。
けれど、それすら遠い。
何も考えられない。
何も理解できない。
ただ。
世界から、自分だけが取り残されたようだった。
そして。
零の意識は、深い闇の底へ沈んでいった。
*
どれほどの時間が経ったのか。
零には分からない。
ただ、暗闇の中にいた。
何もない。
誰もいない。
そのはずだった。
けれど。
どこからか、視線を感じる。
零はゆっくりと顔を上げた。
暗闇の向こうに、黒い獣がいた。
じっと、こちらを見ている。
先ほどまで感じていた殺意はない。
ただ、何かを確かめるように。
あるいは、何かを見届けるように。
黒い獣はしばらく零を見つめていた。
そして。
音もなく、その姿が消えた。
まるで最初から、そこには何も存在していなかったかのように。
*
その日。
神楽零は、父と母を失った。
そして同時に。
六歳の少年だった零は、その日の記憶を心の奥深くへ閉じ込めた。
父の声も。
母の温もりも。
最後に交わした約束も。
自分の中から溢れ出した力も。
目の前で消えていったものも。
そのすべてを、六歳の心には抱えたまま生きていくことなどできなかった。
だから、忘れた。
忘れることでしか、生きられなかった。
幸せだった日々も。
父と交わした約束も。
母と交わした約束も。
そのすべてを心の奥深くへ閉じ込めて。
そして六歳の少年は。
自分の人生から、最も大切だった一日を失った。




