第二章 失われた記憶・前編
――深い闇の中で、何かが零の記憶に触れた。
忘れていたはずの記憶が、静かに浮かび上がってくる。
遠い昔に置き去りにしたはずの、もう二度と思い出すことのない記憶。
けれど、その闇の向こうから聞こえてきた声は、今も変わらない優しさを宿していた。
――零。
その声を聞いた瞬間、零の意識はゆっくりと過去へ引き戻されていく。
まだ六歳だった頃。
あの家で、父と母と過ごした日々へ。
*
神楽家の屋敷には、朝の静けさが満ちていた。
広い庭には朝露が残り、整えられた木々の間を柔らかな風が抜けていく。屋敷の中では使用人たちが忙しなく動いているものの、その足音さえも長い年月をかけて染みついた静謐さを壊すことはなかった。
そんな屋敷の一室で、神楽零は眠そうに目を擦っていた。
六歳とは思えないほど整った顔立ちだった。
夜の色を思わせる黒髪は柔らかく、白い肌によく映えている。長い睫毛に縁取られた大きな瞳にはまだ幼さが残っているものの、その顔立ちはどこか神秘的で、性別を知らなければ少女と見間違えても不思議ではない。
その美貌は、幼いながらにすでに完成されつつあった。
そんな少年が、眠そうに目を擦りながら歩いていく。
向かう先は、ただ一人。
「……父様」
小さな声に、書斎にいた男が顔を上げた。
神楽家当主――神楽零の父である。
長身で、鍛えられた身体。黒髪はきちんと整えられ、切れ長の目には鋭さがある。姿勢も所作も隙がなく、家の外では近寄りがたい人物として知られていた。
しかし、そんな男も目の前にいる小さな息子を見た瞬間だけは、その鋭い目元を僅かに緩める。
「……どうした、零」
「眠い」
「そうか」
それだけ言うと、父は再び書類へ目を戻した。
零は少しだけ考えたあと、当然のように父のもとへ歩いていく。そして椅子の横まで来ると、何の迷いもなく両腕を伸ばした。
「……父様」
「どうした?」
「抱っこ」
父は黙った。
机の上にはまだ目を通さなければならない書類が残っている。
それでも数秒後には、何事もなかったように零を抱き上げていた。
「……仕方がないな」
そう言いながらも、その声に困った様子はない。
零は満足そうに父の胸へ身体を預ける。
その小さな身体を支える腕は大きく、力強い。それでいて、零に触れる手つきだけは驚くほど優しかった。
しばらくすると、零の瞼がまた重くなる。
「父様」
「なんだ」
「今日も一緒にいてね」
父は一瞬だけ黙った。
「ああ」
「明日も?」
「ああ」
「明後日も?」
「……ああ」
それを聞いて、零は小さく笑った。
「約束?」
「約束だ」
父がそう答えると、零は安心したように目を閉じた。
その様子を、少し離れた場所から見ていた使用人の一人が思わず微笑む。
「旦那様は本当にお優しい――」
別の使用人が、そんな言葉を口にしかけた。
しかし、ふと視線を感じて口を閉じる。
零の母が、いつの間にか書斎の入り口に立っていた。
淡い色の髪をゆるやかにまとめ、柔らかな笑みを浮かべている。
「……どうかしましたか?」
「い、いえ。何でもございません」
「そうですか」
母はにこりと微笑んだ。
それ以上は何も言わない。
けれど、その場にいた使用人はそれ以上何も口にしなかった。
母自身に、威圧しているつもりはないのだろう。
ただ、神楽家の人間として一線を越えることを許さない静かな気配が、そこにはあった。
やがて母の視線が、父の腕の中へ戻る。
「まあ。まだ眠そうですね」
「……眠い」
零が小さく答える。
「ふふ。朝ご飯はどうしますか?」
「母様も一緒?」
「もちろんですよ」
その言葉に、零はゆっくりと目を開いた。
「じゃあ食べる」
「はい」
母が笑う。
父も僅かに口元を緩めた。
それだけの、何気ない朝だった。
けれど零にとっては、それが当たり前だった。
父がいて、母がいる。
朝になれば三人で食卓を囲み、昼になれば母と庭へ出て、夕方になれば父と稽古をする。
夜になれば、また三人で過ごす。
それが零にとっての一日だった。
それがずっと続いていくのだと、疑うことさえなかった。
――明日も。
その言葉が、当たり前のようにそこにあった。
*
昼を少し過ぎた頃、屋敷の庭には柔らかな日差しが降り注いでいた。
庭の一角に置かれた長椅子では、零と母が並んで座っている。
母の膝の上には一冊の本があり、零はその隣から身を寄せるようにしてページを覗き込んでいた。
「母様、これ読んで」
「自分で読んでみますか?」
「……母様が読んで」
零は本から顔を上げ、母を見つめる。
母は小さく笑った。
「仕方ありませんね」
「やった」
母が本を開く。
零は嬉しそうに母の肩へ身体を寄せ、その声に耳を傾けていた。
しばらくして、物語の一節を読み終える。
「面白かった?」
「うん」
「どこが一番好きでしたか?」
「ここ」
零が指を差したのは、主人公が誰かを助ける場面だった。
「どうしてですか?」
「助けてあげたから」
母は微笑みながら、零の頭を撫でた。
「零も、誰かを助けられるようになりたいですか?」
「うん」
「どうして?」
零は少し考えた。
そして母の顔を見上げる。
「……父様と母様を守りたいから」
母の手が、ほんの僅かに止まった。
「そうですか」
柔らかな笑みが浮かぶ。
「僕、大人になったら、何になったらいい?」
母は少しだけ目を丸くした。
「何になったら、ですか?」
「うん。父様は家を守ってるから、僕も何かしないといけないんでしょう?」
その言葉には、六歳の子供らしからぬ真面目さがあった。
母は少し考えるように零を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「零は、なりたいものになればいいんですよ」
「なりたいもの?」
「ええ。誰かに決めてもらうものではありませんから」
「……じゃあ」
零は少しだけ考えた。
「強くなりたい」
「どうしてですか?」
「父様みたいに」
即答だった。
母は笑う。
「まあ」
「それから、母様みたいにもなりたい」
「私ですか?」
「うん」
零は母の顔をじっと見た。
「母様も強いから」
母は一瞬だけ目を瞬かせ、それから困ったように笑った。
「そうでしょうか?」
「うん。強い」
「ふふ。ありがとうございます」
零はしばらく考えたあと、また口を開いた。
「強くなったら、父様と母様を守れる?」
その問いに、母の笑みが僅かに変わった。
優しい笑顔だった。
けれど、その奥にはどこか寂しそうな色があった。
「ええ。きっと」
母は零の頭を優しく撫でる。
「でも、零。今はまだ小さいでしょう?」
「……うん」
「だから今は、母様に守らせてください」
「……母様が?」
「はい。零が大きくなるまで、ずっと」
零は少しだけ考え、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕が大きくなったら、今度は僕が守る」
「ふふ。楽しみにしていますね」
「約束?」
「ええ。約束です」
母は零の小さな手を包むように握った。
零も嬉しそうに、その手を握り返した。
*
夕方。
庭の一角に設けられた稽古場には、乾いた木刀の音が響いていた。
「もう一度」
「はい!」
父の声に、零が木刀を構え直す。
まだ六歳の身体では、木刀を振るだけでも簡単ではない。それでも零は何度も同じ動作を繰り返していた。
振り下ろす。
戻す。
構える。
また振り下ろす。
「力を入れすぎるな」
「はい」
「腕だけで振るな。身体全体を使え」
「はい」
「もう一度」
「はい!」
父は厳しかった。
教える以上、妥協はしない。
それでも零が疲れていることに気づけば、すぐに休憩を挟む。手に豆ができていれば黙って薬を塗り、木刀を持つ手が震えれば今日は終わりだと告げる。
厳しいのに、どこまでも優しかった。
「父様」
「なんだ」
「僕、強くなってる?」
「ああ」
「父様より?」
「それはまだ早い」
「じゃあ、いつ?」
父は少しだけ考えた。
「そうだな……零が大人になった頃には、私を越えているかもしれんな」
零は目を輝かせた。
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、明日も稽古する?」
「ああ」
「明後日は?」
「ああ」
「その次も?」
父は僅かに苦笑した。
「……好きなだけ付き合ってやる」
「ほんと?」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
零は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、父は小さく息を吐く。
厳格な当主として知られる男の顔には、ほんの僅かながら父親らしい表情が浮かんでいた。
*
夜。
屋敷の灯りが一つ、また一つと落ちていく。
零は母の膝に頭を乗せ、眠そうに目を擦っていた。
「今日はよく頑張りましたね」
母の指が、零の黒髪をゆっくりと梳いていく。
「……眠い」
「もう寝ますか?」
「まだ」
「ふふ。眠いのに?」
「父様と母様と一緒にいたい」
母は少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
その向かいでは、父が静かに二人を見ていた。
「零」
「なに?」
「明日は稽古だ」
「うん」
「朝寝坊するなよ」
「……がんばる」
眠気に負けそうになりながら答える零に、父が僅かに笑う。
やがて零の瞼がゆっくりと閉じていった。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
母はその髪を撫でながら、小さな声で呟いた。
「この子も、いつか大きくなるのでしょうね」
「ああ」
「今のままでいてほしいと思ってしまいます」
「……私もだ」
父が零を見る。
いつもなら厳しく引き締められている表情が、今だけは驚くほど穏やかだった。
「大切だからな」
「ええ」
母も微笑む。
「本当に……大切な子です」
しばらく、二人は眠る零を見つめていた。
やがて母が顔を上げる。
「明日も、こうしていられるといいですね」
「ああ」
父は静かに答えた。
「明日もだ」
その言葉を最後に、夜は深くなっていった。
*
深夜。
屋敷は完全な静寂に包まれていた。
零も、父も、母も眠っている。
窓の外には月が浮かび、庭の木々を淡く照らしていた。
風はない。
それでも――。
庭の木の枝が、ほんの僅かに揺れた。
さら、と葉が擦れる。
誰かが触れたわけでもない。
風が吹いたわけでもない。
ただ一度。
それだけだった。
屋敷の中で眠っていた零が、ゆっくりと寝返りを打つ。
「……ん」
眠ったまま、眉が僅かに寄った。
胸の奥に、何かが触れたような気がした。
けれど、それが何なのかは分からない。
夢なのかもしれない。
気のせいなのかもしれない。
零は小さく息を吐き、再び眠りへ落ちていった。
その胸の奥で。
何かが、ほんの僅かに揺れていた。
まだ誰も、それに気づいてはいなかった。




