第一章 漆黒の魔狼
――冷たい。
頬に触れる土の感触と、肌を撫でる風を感じながら、零はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと霞む視界に映ったのは、見覚えのない木々だった。
高く伸びた木々が頭上を覆い、その隙間から差し込む陽の光が地面にまだらな影を落としている。遠くでは鳥の鳴き声が聞こえ、風が葉を揺らしていた。
零はしばらく横たわったまま、静かに周囲を見回す。
――ここは、どこだ?
ゆっくりと身体を起こした。
痛みはない。怪我をしている様子もない。
けれど、目の前に広がる景色だけが明らかにおかしかった。
今日は高校の入学式だった。
新しい制服に袖を通し、これから始まる高校生活へ向かうはずだった。
それなのに。
気づけば、見知らぬ森の中にいる。
「……何が、起きたんだ」
答える者はいない。
零は立ち上がり、改めて周囲を見渡した。
見渡す限り木々が続いている。道らしい道もなく、建物の姿もない。
スマートフォンを探してポケットに手を入れるが、そこには何も入っていなかった。
零は小さく息を吐く。
状況が分からない。
それでも、焦りはなかった。
幼い頃からそうだった。
何かが起きたときは、まず周囲を見て状況を理解する。感情より先に、起きていることを考える。
だからこそ、その異変にもすぐに気づいた。
――音が、消えた。
先ほどまで聞こえていた鳥の声も、木々を揺らしていた風の音もない。
森そのものが、息を潜めたようだった。
そして同時に、陽の光が遮られる。
零の目の前に、巨大な影が落ちた。
自分の影ではない。
零はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、巨大な獣だった。
漆黒の毛並み。
四本の脚だけで人間の背丈を遥かに超える巨体。
鋭く伸びた爪と、獰猛な牙。
そして、こちらを見下ろす漆黒の瞳。
零は言葉を失った。
獣も動かない。
ただ、見つめている。
どれほどの時間だったのか。
数秒だったのか、それとももっと長かったのか。
零には分からなかった。
ただ、その瞳を見た瞬間、本能が告げていた。
――勝てない。
戦ったことすらない。
それでも分かる。
目の前にいる存在は、自分とは生きている世界が違う。
零は一歩、後ろへ下がった。
その瞬間だった。
魔狼の姿が消えた。
「――っ」
零は咄嗟に身体を捻った。
直後、目の前を黒い何かが横切る。
風圧が頬を打った。
何が起きたのか理解するより早く、零は走り出していた。
木々の間を縫うように駆ける。背後から聞こえる足音は一つだけなのに、その距離は確実に縮まっていた。
速い。
あまりにも速い。
視界の隅で、黒いものが揺れた。
「……っ!」
反射的に身体を伏せる。
頭上を巨大な爪が通り過ぎ、背後の木が音を立てて砕け散った。
零は転がるように地面を離れる。
その間にも黒い影は別の方向へ消えていた。どこから来るのかすら分からない。ただ影が走るたび、木々が砕かれていく。
零は逃げ続けた。
呼吸が乱れ、足が重くなる。
それでも走る。
やがて前方の木の根に足を取られ、身体が大きく傾いた。
倒れる。
起き上がる。
その瞬間、目の前に魔狼がいた。
零の動きが止まった。
背後には巨大な木。
逃げ道はない。
魔狼がゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
その足音だけが、妙にはっきりと聞こえた。
零は魔狼を見上げる。
恐怖はあった。
けれど、不思議だった。
さっきまであれほど速く動いていた思考が、急に静かになっていく。
身体は震えている。
心臓は激しく鳴っている。
それなのに、頭の中だけが妙に澄んでいた。
魔狼の爪。
牙。
距離。
自分の身体の状態。
それらが一つずつ、鮮明に浮かび上がっていく。
そして理解した。
――逃げられない。
――勝てない。
――次で死ぬ。
死が怖くないわけではない。
ただ、もう考えても仕方がないことを理解していた。
零は静かに魔狼を見つめ、胸元へ手を当てる。
その瞬間、感じた。
幼い頃からずっと感じていたもの。
形もない。
音もない。
けれど確かに、自分の身体の奥を静かに流れている何か。
今まで、それが何なのかを考えたことはなかった。
ただ、そこにあるものだと思っていた。
けれど今は違う。
なぜか分からない。
それでも、この瞬間だけは分かる。
――ここにある。
零は目を閉じた。
魔狼が地面を蹴る。
巨大な身体が迫り、鋭い爪が振り上げられる。
それでも零は動かなかった。
死ぬ。
その事実を理解した瞬間、逆に余計なものが消えていった。
零の意識が、自分の身体の奥へ沈んでいく。
もっと深く。
そこにある何かへ、初めて自分から手を伸ばす。
触れる。
そして――
掴む。
その瞬間。
世界が、止まった。
音も、時間も遠ざかっていく。
恐怖も、焦りも、痛みも消えていく。
最後に残ったのは、ただ一つ。
――生きる。
その意思だけだった。
零の身体から、力が溢れた。
それは光ではなかった。
けれど、なぜか黄金に見えた。
静かで、澄み切った力が身体の奥から広がっていく。
そして、瞳の奥に光が生まれた。
黒かった瞳が、ゆっくりと黄金へ染まっていく。
その輝きには、神聖さすら感じさせる異質なものがあった。
振り下ろされた爪が迫る。
零は、ほんの僅かに身体を揺らした。
それだけで、爪が空を切った。
魔狼の瞳が僅かに細まる。
零は立ち上がっていた。
身体が軽い。
さっきまであれほど重かった身体が、別人のもののように動く。
呼吸が整っている。
視界が妙に広い。
木々の一本一本まで、はっきりと認識できる。
魔狼が再び地面を蹴った。
その姿が視界の端から消える。
だが――
今度は、零にも見えていた。
黄金の瞳が、残像によって滑らかな軌跡を描く。
零の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
次の瞬間には、魔狼の懐へ入り込んでいる。
拳を握る。
何も考えない。
ただ、身体が動く。
魔狼が爪を振る。
零の身体が沈む。
爪が頭上を通り過ぎる。
そのまま踏み込み、拳を振り抜く。
魔狼が身を捻り、拳を躱す。
零は追う。
魔狼が反転する。
黒い影が視界の隅を掠めた。
だが、零の身体はすでに動いていた。
紙一重で爪を躱し、身体を回転させる。
拳が魔狼の身体へ叩き込まれた。
轟音が森を揺らす。
巨体が地面を削りながら数メートル吹き飛んだ。
零は追わない。
ただ、静かに立っている。
黄金の瞳には感情がなかった。
怒りもない。
恐怖もない。
喜びもない。
ただ、目の前の存在だけを捉えている。
魔狼が立ち上がる。
傷は浅い。
それでも、先ほどまでとは明らかに違う目で零を見ていた。
再び、魔狼が地面を蹴る。
黒い影が走る。
零の身体が滑る。
爪が頬を掠める。
拳が走る。
魔狼が躱す。
零が追う。
魔狼が距離を取る。
次の瞬間には、逆に背後へ回り込む。
だが、零は振り返らない。
身体だけが動く。
肘が魔狼の顎を掠めた。
魔狼が大きく跳ねる。
木々が砕け、地面が抉れる。
黒と黄金。
視界の隅を荒々しく駆け抜ける黒と、残像さえ滑らかに描く黄金。
二つの異質な存在が、森の中で激しく交錯していく。
そこにいたのは、あまりにも不釣り合いな二つの存在だった。
一方は、漆黒の毛並みと巨大な牙を持つ魔狼。
もう一方は、黒髪に白い肌を持つ、どこか神聖さすら感じさせるほど整った少年。
本来なら、並び立つことすらあり得ない。
まして、その少年が魔狼と互角に渡り合っているなど、誰が見ても現実とは思えない光景だった。
けれど、現実だった。
荘厳な容姿を持つ少年が、黄金の瞳を輝かせながら、漆黒の魔狼と死闘を繰り広げている。
美しさと凶暴さ。
静けさと破壊。
その二つが同じ森の中で、あり得ないほど自然に交錯していた。
その少年自身は、自分がどれほど異様な光景を作り出しているのか知る由もなかった。
ただ無心だった。
魔狼が動けば、身体が動く。
爪が来れば、避ける。
隙があれば、打つ。
それだけだった。
どれほど戦ったのか、零には分からなかった。
ただ、少しずつ身体が重くなっていく。
息が乱れる。
腕が痺れる。
脚が重い。
やがて魔狼が大きく距離を取った。
零もまた、その場に立つ。
黄金の瞳が魔狼を捉えている。
魔狼もまた、零を見つめていた。
その瞳から、先ほどまであった殺意が消えている。
代わりにあるのは、何かを確かめるような視線だった。
零は動かない。
何かを考えることもない。
ただ魔狼を見ている。
しばらくの沈黙のあと、魔狼はゆっくりと身体を翻した。
そして、一度だけ振り返る。
漆黒の瞳と、黄金の瞳が交わった。
零はただ、その瞳を見つめ返していた。
次の瞬間、魔狼は森の奥へと消えていった。
零は追わなかった。
追うという考えもなかった。
ただ、そこに立っていた。
やがて、身体の奥から力が抜けていく。
黄金だった瞳が、ゆっくりと元の黒へ戻っていく。
「……」
膝から力が抜けた。
零はその場に膝をつく。
呼吸が苦しい。
身体中が重い。
そこでようやく、少しずつ意識が戻ってくる。
自分は何をしていたのか。
どうして魔狼と戦えていたのか。
何も分からない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
――生きている。
零は静かに息を吐いた。
その瞬間、視界が大きく揺れた。
何かを考えるより先に、意識が遠ざかっていく。
身体が傾く。
地面へ身体が触れる。
最後に見えたのは、木々の隙間から差し込む淡い光だった。
そして零の意識は、静かに闇へ沈んでいった。
*
深い闇の中で、何かが零の記憶に触れた。
まだ本人すら知らない過去。
忘れていたもの。
眠っていた記憶。
それが、ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。
――第一章 完




