第三十六章 一歩の境地
翌朝、零はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には淡い朝の光が差し込み、庭の木々が微かな風に揺れている。屋敷の中はまだ静かで、廊下を行き交う使用人たちの足音が遠くから聞こえるばかりだった。
寝台の上で身を起こした零は、何気なく自分の拳を見つめた。
昨日、ガルドが見せてくれた鬼拳・七閃。
零の目には一撃にしか映らなかったにもかかわらず、岩には七つの打撃痕が刻まれていた。あの一瞬に何が起きたのか、何度思い返しても理解が追いつかない。
ただ、あの技を自分も使えるようになりたいという思いだけは、昨日から少しも薄れていなかった。
(……踏み込みと拳を、別々に考えない)
ガルドの言葉を思い返しながら、零はゆっくりと拳を握った。
これまで何度も繰り返してきた踏み込みと突き。どちらもガルドから教わり、身体に染みつくまで鍛えてきたはずだった。
それなのに、昨日の戦いでは、相手の隙を見つけても拳が届くまでに僅かな遅れが生まれていた。
自分では速く動いているつもりだった。だが、ガルドの七閃を見たあとでは、その考えがどれほど甘かったのかを思い知らされる。
(……僕にも、できるようになるのかな)
不安がなかったわけではない。それでも、昨日のガルドが見せた技を思い出すと、不思議と胸が高鳴った。
零は寝台から降り、窓の向こうへ目を向けた。
今日から、七閃へ至るための修行が始まる。
◇
朝食を終えた零が庭へ出ると、すでにガルドが待っていた。
腕を組んで立つその姿はいつもと変わらず、零の姿を見つけると豪快に笑った。
「おう、零! 今日は随分と早ぇな!」
「おはよう、ガルド師匠。昨日のことが気になって、早く目が覚めちゃった」
「がっはっは! よっぽど七閃が気に入ったみてぇだな!」
零は少し照れたように笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「うん。あんな動き、今まで見たことがなかったから」
「そりゃそうだろうな。だが、焦って真似しようとするんじゃねぇぞ」
ガルドはそう言うと、零の身体を一通り眺めた。
「昨日はそれなりに動いた。身体の具合はどうだ?」
「少し疲れは残ってるけど、痛いところはないよ」
「なら、今日は無理のねぇ範囲でやるとするか」
ガルドは庭の中央へ歩いていき、零を手招きした。
「まず言っとくが、今日は七発殴る練習なんざしねぇぞ」
「……え?」
「七閃を覚えたいなら、最初に直さなきゃならねぇものがある」
零はガルドの前に立ち、首を傾げた。
「……昨日言ってた、踏み込みのこと?」
「おう。お前は流転で相手の体勢を崩すところまでは上手くなった。だが、そこから攻撃へ移るときに、余計な間が生まれてる」
昨日の岩場での戦いが、零の脳裏に蘇る。
魔物の突進を流転で逸らし、脚の付け根へ拳を打ち込んだ場面。相手の体勢を崩すことはできたが、次の一撃を放つ前に立て直されてしまった。
「……足を動かして、身体を運んで、それから拳を出してるってことだよね」
「そうだ。だが、言葉で理解するのと、実際に直せるのとは別の話だ」
ガルドは庭の端から細い枝を拾い、地面に一本の線を引いた。
「零、ここに立て」
零が線の手前に立つと、ガルドは一歩分ほど離れた位置へ移動し、胸の前に掌を差し出した。
「まずはいつもどおり、俺の掌を殴ってみろ。氣は使わなくていい」
「うん」
零は足元を確かめてから構えを取り、掌との距離を測った。
踏み込めば届く。
そう判断して前足を出し、重心を移しながら拳を突き出した。
乾いた音が庭に響き、拳は狙いどおりガルドの掌を捉えた。
「どう?」
「悪くねぇ。だが、もう一回だ」
ガルドは掌を元の位置へ戻し、零に構えるよう促した。
零は同じように踏み込んだ。
だが、今度は拳が届く直前、ガルドの掌が僅かに後ろへ引かれた。
「……あっ!」
拳は空を切った。
ほんの少し掌を動かされただけなのに、零は追いつくことができなかった。
「今のが、お前の遅れだ」
ガルドは掌を戻しながら言った。
「踏み込んでから拳を出す。その間に、相手は動ける。昨日の魔物もそうだったろ?」
「……うん」
零は自分の拳を見つめた。
たった今まで、いつもどおりに動けているつもりだった。けれど、ガルドがほんの僅かに掌を引いただけで、拳は届かなくなった。
「でも、踏み込まないと届かないよね?」
「当たり前だ。問題は踏み込むことじゃねぇ。踏み込みと拳が、別々の動きになってることだ」
ガルドは零と同じ位置に立ち、ゆっくりと構えを取った。
「よく見とけ」
その言葉とともに、ガルドが一歩を踏み出した。
特別に速い動きではない。零にも十分に目で追える、ごく普通の踏み込みだった。
だが、その足が前へ出るのと同時に拳も動き始め、身体が前へ進む間も、拳の軌道は途切れることなく伸び続けていた。
踏み込みが終わる頃には、すでに拳が目標へ届いている。
「……足と拳が、一緒に動いてる」
「おう。身体を前へ運ぶ動きと、拳を届ける動きが一つになってるんだ」
ガルドは構えを解き、零へ向き直った。
「ただし、足と拳を同時に動かせばいいって話じゃねぇぞ。身体の動きを途中で止めず、そのまま拳まで繋げるんだ」
零は頷き、もう一度構えを取った。
今度は、踏み込みと同時に拳を出そうと意識する。
しかし、動き始めた瞬間、肩に力が入った。
拳だけが先に伸び、身体が十分に前へ出ない。
「……っ」
ガルドの掌には届いたものの、窮屈な姿勢になってしまった。
「ほらな。今度は拳を急ぎすぎだ」
「……難しい」
「だろうな。だが、まだ始まったばかりだ」
ガルドは楽しそうに笑い、零の肩を軽く叩いた。
「まずは、余計な力を抜くところからだ」
◇
それから零は、踏み込みと拳を繋げる練習を繰り返した。
最初は、足と拳を同時に動かすことばかり意識していた。けれど、速さを求めるほど肩や腕が固くなり、身体の動きが途中で止まってしまう。
反対に、力を抜こうとすると今度は踏み込みが浅くなり、拳に十分な力が伝わらない。
どちらか一方を直そうとすれば、もう一方が乱れる。
これまで当たり前のように行っていた動作が、急に分からなくなったようだった。
「……どうしてだろう」
零は拳を下ろし、足元へ視線を落とした。
立ち方も、重心の移動も、ガルドから何度も教わってきたはずだ。それなのに、今は自分の身体が思いどおりに動いてくれない。
「零。何が上手くいかねぇ?」
ガルドに尋ねられ、零は少し考えてから答えた。
「足と拳を一緒に動かそうとすると、肩に力が入っちゃう。でも、力を抜くと今度は拳が弱くなるんだ」
「なるほどな」
ガルドは頷くと、零の正面に立った。
「なら、一度拳を忘れろ」
「……拳を?」
「おう。今は殴らなくていい。まずは、前へ進む身体の動きを確かめろ」
ガルドは零の肩へ軽く手を添えた。
「力を抜くってのは、何もかも緩めることじゃねぇ。必要なところには力を入れ、余計なところは固めねぇ。それだけだ」
零は小さく頷き、拳を下ろした。
まずは一歩だけ踏み出す。
足の裏が地面を捉え、重心が前へ移っていく。肩に余計な力が入らないよう意識すると、先ほどよりも身体が滑らかに進んだ。
「そうだ。そのまま何度かやってみろ」
零は元の位置へ戻り、同じ動きを繰り返した。
最初は一歩ごとに足元を確認していたが、何度も続けるうちに、身体が前へ進む感覚へ意識を向けられるようになってきた。
踏み込みのたびに生じる小さな揺れや、重心が移る瞬間の違い。普段なら気にも留めなかったものが、少しずつ分かるようになる。
「よし。今度は、その動きに拳を乗せてみろ」
「……乗せる?」
「拳を出そうとするんじゃねぇ。身体が前へ進む流れを、そのまま拳まで繋げるんだ」
零は構えを取り直した。
足元を確かめ、肩の力を抜く。
身体を前へ進めると同時に、拳を伸ばす。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
拳は掌へ届いたものの、零はすぐに違和感を覚えた。
先ほどまでより肩の力は抜けている。けれど、拳が伸びる直前に足の動きが僅かに鈍り、身体の勢いが途中で途切れていた。
「……まだ、何か違う」
零が呟くと、ガルドは満足そうに頷いた。
「おう。よく気づいたな。余計な力は減ってきたが、まだ踏み込みと拳が完全には繋がってねぇ」
「……うん。もう少しで分かりそうなのに」
「その違いに気づけるようになっただけでも進歩だ。今は無理に完成させようとするな」
零は自分の拳を見つめた。
身体が前へ進む流れに、拳を乗せる。
言葉では理解できる。だが、実際に動こうとすると、どうしても拳を出す瞬間に意識が向いてしまう。
その僅かな意識の切り替えが、動きの途切れを生んでいるような気がした。
(……分かってるつもりなのに)
できないことが悔しい。
それ以上に、何が違うのかを自分で説明できないことが、もどかしかった。
ガルドはそんな零を見つめていたが、すぐには答えを教えようとしなかった。
代わりに、もう一度掌を差し出す。
「ほら、続けるぞ。今度は一回ごとの違いを確かめてみろ」
「……うん!」
零は頷き、再び構えを取った。
◇
午前の修行が終わる頃には、零の額に細かな汗が浮かんでいた。
同じ動きを何度も繰り返しているだけなのに、思っていた以上に神経を使う。身体そのものの疲労よりも、一歩ごとの違いを考え続けることの方が大変だった。
ガルドが休憩を告げると、零はようやく構えを解いた。
「……難しいね、七閃って」
「まだ七閃そのものには入ってねぇけどな」
「……そうだった」
零が少し困ったように笑うと、ガルドも口元を緩めた。
「だが、今やってることは七閃だけのためじゃねぇ。踏み込みと拳が繋がれば、普段の攻撃も変わる。昨日みてぇに、流転で崩した相手へ追撃するときにも役立つはずだ」
「……そっか」
零は昨日の戦いを思い返した。
もし、あのとき相手の隙へもっと自然に踏み込めていたなら、体勢を立て直される前に次の拳を届けられたかもしれない。
「……僕、もっと練習したい」
「気持ちは分かるが、少し休め。昨日の疲れも残ってるんだろ?」
「……うん」
零は素直に頷いた。
そのとき、屋敷の方からルシエラが姿を現した。
「二人とも、お疲れ様。そろそろ休憩にしない?」
「おう。ちょうど切り上げたところだ」
ルシエラは零の様子を確かめると、近くの日陰へと促した。
三人は用意された水を飲みながら、しばらく身体を休めることにした。
「今日はどんな修行をしていたの?」
ルシエラに尋ねられ、零は朝からの出来事を説明した。
踏み込みと拳を一つの動きにすること。速く動こうとすると、かえって身体が固くなってしまうこと。そして、少しずつ動きの違いは分かるようになってきたものの、まだ思うようには繋げられないこと。
ルシエラは最後まで静かに聞いてから、零へ尋ねた。
「今までの練習と比べて、何か違いは感じた?」
「……うん。前は拳を当てることばかり考えてたけど、今は身体が前へ進む感覚も少し分かるようになってきたんだ」
「そう。それなら、その違いを大切にするといいわね」
「……違いを?」
「ええ。上手くできないときほど、早く正解を見つけたくなるでしょう? でも、焦って動きを変え続けると、何がよくなって、何が悪くなったのか分からなくなってしまうわ」
零は少し考えてから頷いた。
確かに、午前中も上手くいかないたびに、足の動きや拳の出し方を一度に変えようとしていた。
「まずは、一回ごとの違いを確かめていけばいいんじゃないかしら。上手くいったことだけじゃなくて、上手くいかなかった理由もね」
「……うん。そうしてみる」
ルシエラは柔らかく微笑んだ。
ガルドもその言葉に頷き、零へ視線を向けた。
「ルシエラの言うとおりだ。今は一回できたかどうかより、身体の動きを理解する方が大事だからな」
零は杯を両手で持ちながら、静かに考え込んだ。
今までの修行では、何度も繰り返すことで少しずつ身体が覚えていった。今回も、きっと同じなのだろう。
ただ、これまでよりもずっと細かな違いを意識しなければならない。
それでも、諦めたいとは思わなかった。
◇
十分に休憩を取ったあと、ガルドは零に、最後の確認だけ行うことを告げた。
「昨日の疲れもあるし、今日は長くやらねぇ。最後に何回か動いて、終わりにするぞ」
「うん。分かった」
零は再び庭の中央へ立ち、ガルドの掌を見つめた。
午前中に何度も繰り返した踏み込み。肩の力を抜き、身体が前へ進む流れを途切れさせない。
頭では理解しているつもりだったが、実際に動くと、どうしてもどこかで意識が切り替わってしまう。
零は呼吸を整え、ゆっくりと構えを取った。
最初の一歩は、拳が伸びる直前に足が止まった。
二度目は、足を意識するあまり拳が遅れた。
それぞれの違いを確かめながら、零はもう一度だけガルドの掌へ視線を向けた。
(……今度は、余計なことを考えないでみよう)
拳を当てることでも、足を速く動かすことでもない。
ただ、目の前の距離を埋める。
零は地面を踏みしめ、身体を前へ進めた。
足の裏が地面を捉え、重心が滑らかに移っていく。その流れに遅れることなく拳が伸び、ガルドの掌へと届いた。
――ぱしん。
乾いた音が響いた瞬間、零は目を見開いた。
今の一歩は、これまでと明らかに違っていた。
足を動かしてから拳を出したのではない。身体が前へ進む流れの中で、自然に拳が届いていた。
無理に速く動こうとしたわけでもないのに、今までよりずっと短い時間で距離を詰められた気がする。
ガルドも、僅かに目を細めていた。
「……今のだ」
「……うん!」
零は自分の拳を見つめた。
ほんの一瞬だったが、確かに感覚を掴んだ。
その嬉しさに、思わずもう一度構えを取る。
「もう一回、やってみてもいい?」
「おう。ただし、今の感覚を無理に追いかけるなよ」
「……うん」
零は頷き、再び踏み込んだ。
しかし、今度は拳が僅かに先へ出てしまった。
もう一度試しても、身体の動きが途中で止まる。先ほどと同じように動いているつもりなのに、どうしても再現できなかった。
「……やっぱり、難しい」
零は悔しそうに拳を握った。
ガルドはそんな零を見て、静かに笑った。
「当たり前だ。たった一日で身につくようなもんじゃねぇ」
「……うん」
「だが、今のお前は一度だけでも、正しい動きに近づけた。そいつは大きな一歩だ」
零は顔を上げた。
「……本当?」
「おう。あとは、その一歩を何度でもできるようにすることだ」
ガルドは零の肩へ手を置いた。
「七閃は、まだまだ先だ。だが、今日やったことは決して無駄にならねぇ」
零は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
確かに、まだ七閃には遠い。それでも、昨日までは分からなかったことが、今日は少しだけ分かるようになった。
自分の身体の動きを、これまでとは違う視点から見られるようになった。そして、ほんの一瞬だけではあるが、目指すべき動きの入り口に触れることができた。
「……ガルド師匠」
「なんだ?」
「明日も、同じ練習をしていい?」
ガルドはにやりと笑った。
「当然だ。できるようになるまで、とことん付き合ってやる!」
「……ありがとう!」
零が笑顔を見せると、ガルドはその頭を軽く撫でた。
「今日はここまでだ。しっかり休んどけよ」
「うん!」
零は庭の向こうへ目を向けた。
柔らかな午後の日差しが草木の上へ降り注ぎ、穏やかな風が庭を吹き抜けていく。
昨日まで、七閃はただ憧れるだけの技だった。けれど今は、そこへ至るために何を学ぶべきなのか、その一端が見え始めている。
まだ思いどおりに身体を動かすことさえできない。それでも、今日の修行で得た僅かな手応えが、零の胸には確かに残っていた。




