第三十七章 積み重ねた日々
あれから、半年の月日が流れた。
季節が移ろうにつれ、王都を吹き抜ける風にも少しずつ涼しさが混じるようになり、ルシエラの屋敷を彩る庭木も、以前とは違った表情を見せ始めていた。
そんな庭の一角では、今日も朝早くから二人の姿があった。
「――ふっ!」
短く息を吐くと同時に、零は地面を蹴った。
踏み出した足が地面を捉え、重心が滑らかに前へ移る。その動きに遅れることなく右の拳が伸び、正面に立つガルドの掌へと吸い込まれるように届いた。
乾いた音が響く。
だが、零はそこで動きを止めなかった。拳を引き戻す動作さえ次の踏み込みへと繋げ、身体の向きを僅かに変えながら、間を置かずにもう一度拳を突き出す。
ガルドはその一撃も難なく受け止めたが、先ほどまで笑っていた目を僅かに細めた。
「おう、そこまでだ!」
その声に、零はすぐさま拳を収めた。呼吸を整えながら自分の足元へ視線を落とすと、ガルドは受け止めていた掌を軽く開閉し、満足そうに頷いている。
「どうだった、ガルド師匠?」
「悪くねぇな。踏み込みから拳までの流れは、随分と自然になってきたじゃねぇか」
「本当?」
「おう。ただ、二発目を急ぎすぎだ。拳を出すことばっかり考えて、身体の向きが少し乱れてたぞ」
指摘されて、零は先ほどの動きを頭の中で振り返った。
確かに、二撃目を放つ直前、僅かに肩へ力が入っていた。自分では滑らかに繋げたつもりだったが、ガルドにはその小さな乱れさえ見えていたらしい。
「……そっか。もう少し力を抜いた方がよかったのかな」
「ただ力を抜きゃいいってもんでもねぇ。大事なのは、必要なところで必要なだけ力を使うことだ。お前はもう、その違いが分かるようになってきてるだろ?」
「うん。前よりは、ずっと」
零はそう答えると、握っていた拳をゆっくりと開いた。
半年前の自分なら、今の指摘を受けても、どこを直せばよいのか分からなかっただろう。
踏み込みと拳を一つの動きにする。
言葉にすれば簡単なことのように思えるが、実際に身体で表現するのは想像以上に難しかった。足を意識すれば拳が遅れ、拳を急げば重心が乱れる。何度も失敗を重ね、ようやく一度だけ正しい感覚を掴んだあの日から、零は毎日のように同じ動きを繰り返してきた。
もちろん、修行はそれだけではない。
立ち方や足運び、相手との間合いの取り方に加え、流転による受け流しや、拳へ氣を巡らせる際の制御も磨き続けてきた。冒険者として依頼をこなす機会も増え、実戦の中でしか得られない経験も少しずつ積み重なっている。
それでも、七閃への道のりは決して平坦ではなかった。
新しい感覚を掴んだと思えば、翌日には再現できなくなることもあった。身体の使い方を一つ修正すると、今度は別の部分に乱れが生じる。何度も壁にぶつかり、そのたびにガルドから助言を受けながら、零は少しずつ前へ進んできたのだ。
「……ねえ、ガルド師匠。もう一回やってもいい?」
零が顔を上げると、ガルドは腕を組んだまま豪快に笑った。
「がっはっは! 気持ちは分かるが、今日はここまでだ!」
「えっ、もう?」
「おう。今日は冒険者の依頼があるだろうが。朝っぱらから疲れ切ってどうすんだ!」
「あっ……そうだった」
零は思い出したように目を瞬かせ、それから少し照れくさそうに笑った。
そんな様子を見て、ガルドは呆れたように肩を揺らす。
「まったく、修行となると時間を忘れやがる。そんなに身体を動かしたいなら、今日の依頼で存分に動かしてこい!」
「……うん!」
零が嬉しそうに頷くと、ガルドはその頭を軽く撫でた。
「ただし、実戦は稽古とは違うからな。相手をよく見て、無茶だけはするんじゃねぇぞ」
「分かってるよ、ガルド師匠」
そう答えた零の表情には、半年前にはまだ見られなかった落ち着きがあった。
◇
王都の冒険者ギルドは、朝から多くの冒険者で賑わっていた。
依頼掲示板の前では数人の冒険者が報酬や危険度について話し合い、受付の周辺では、これから出発する者と依頼を終えて戻ってきた者が入れ替わり立ち替わり手続きを行っている。
零とガルドが建物へ入ると、顔見知りの冒険者たちが軽く手を上げて挨拶をしてきた。零も笑顔で応じながら受付へ向かう。
冒険者として活動を始めたばかりの頃は、この賑やかな空間に少し戸惑うこともあった。しかし、今では依頼の確認や報告にも慣れ、以前ほど緊張することはなくなっている。
「おはようございます、零さん。ガルドさんも」
「おはようございます」
「おう! 例の依頼はどうなってる?」
受付の職員は二人の姿を確認すると、あらかじめ用意していたらしい一枚の依頼書を取り出した。
「はい。こちらになります。王都から少し離れた街道周辺で、ブラックタイガーの目撃情報が相次いでいるんです」
零は差し出された依頼書を受け取り、記載された内容へ目を通した。
ブラックタイガー。
その名のとおり漆黒の体毛を持つ大型の虎型魔物であり、優れた瞬発力と鋭い爪、強靭な顎を武器に獲物を仕留める。特に近距離での戦闘能力が高く、熟練の冒険者であっても、不用意に接近すれば命を落としかねない危険な存在だった。
等級はBランク。
今回の個体は街道付近の林に棲みついているらしく、すでに通行中の商人が襲われる被害も出ていた。幸い、今のところ死者は確認されていないものの、このまま放置すれば街道の往来にも大きな影響が出るだろう。
「……Bランクなんだね」
零が呟くと、職員は真剣な表情で頷いた。
「はい。本来なら、零さんの現在の冒険者ランクでは受注できない依頼になります。ただ、今回はガルドさんが同行されるということで、ギルドマスターのヴァイス様から特別に許可が下りています」
「ヴァイスさんが?」
「ええ。もちろん、ガルドさんが安全を確保できることが前提です。ブラックタイガーは見た目以上に素早い魔物ですので、くれぐれも油断なさらないでくださいね」
職員の言葉に零が頷くと、隣に立つガルドが豪快に笑った。
「がっはっは! 安心しな! 俺がついてるんだ、万が一のときはちゃんと止めてやるさ!」
「……ガルド師匠、今日は僕が戦うんだよね?」
零が確かめるように顔を向けると、ガルドは当然だと言わんばかりに頷いた。
「当たり前だろうが! 俺が全部片づけちまったら、お前の修行にならねぇからな!」
「それならよかった」
「おいおい、少しくらい俺に楽をさせようって気はねぇのか?」
「……だって、僕も強くなりたいから」
零が真面目な顔で答えると、ガルドは一瞬だけ目を丸くし、それから堪えきれないように笑い出した。
「がっはっは! そうだったな!」
受付の職員も、そんな二人のやり取りを見て小さく微笑んだ。
必要な手続きを済ませた零は依頼書を鞄へしまい、ガルドとともにギルドを後にする。
王都の空はよく晴れていた。街道を行き交う人々の声が遠くから聞こえ、穏やかな風が二人の髪を揺らしていく。
その先に待つ魔物がどれほどの強敵であろうとも、今の零には不思議と恐怖よりも期待の方が大きかった。
半年間の修行で身につけたものが、実戦でどこまで通用するのか。
それを確かめられることが、素直に嬉しかったのだ。
◇
王都を離れ、街道を進むことしばらく。
二人は目撃情報のあった林の近くへ辿り着いた。
街道の両脇には背の高い木々が並び、少し奥へ進めば、陽光さえ届きにくい場所が広がっている。林の中にはところどころに岩が露出しており、足元には木の根や落ち葉が複雑に入り組んでいた。
零は周囲を見渡しながら、依頼書に記された地形と目の前の景色を照らし合わせる。
「……この辺りが、最後に目撃された場所みたいだね」
「おう。さて、零。ここからどうする?」
ガルドはそう尋ねると、それ以上は何も言わず、零の判断を待った。
以前なら、こうした場面でも師匠の指示を待っていたかもしれない。しかし、今の零は周囲の状況を確かめると、街道から少し離れた場所へ視線を向けた。
「まずは痕跡を探してみるよ。目撃された場所が分かってても、今もそこにいるとは限らないし」
「ほう。続けてみろ」
零は頷き、林の中へ足を踏み入れた。
柔らかな土の上には小動物の足跡がいくつか残っていたが、その中に明らかに大きさの異なるものが混じっていた。零はしゃがみ込んで足跡を確かめると、そこから続く地面の乱れへ視線を移す。
近くの茂みは何か大きなものが通ったように押し潰され、木の幹には深い爪痕が刻まれている。
「……かなり大きそうだね」
「そうだな。普通の虎とは比べものにならねぇぞ」
ガルドは短く答えたが、零の行動を遮ろうとはしなかった。
零は立ち上がると、周囲へ意識を向けた。
木々の間を流れる風の音や、遠くから聞こえる鳥の声。その中に紛れる僅かな物音を拾いながら、さらに氣を通して周囲の気配を探っていく。
以前よりも、その感覚はずっと明瞭になっていた。
氣を使えば何でも分かるわけではない。それでも、生き物の気配や感情の揺らぎを感じ取ることには、幼い頃から慣れ親しんでいる。
その感覚を意識的に戦闘へ活かすようになってから、零は相手の存在を捉えるだけでなく、動き出す直前の僅かな変化にも気づけるようになっていた。
(……いる)
零は足を止めた。
林の奥、木々が密集する場所から、周囲とは明らかに異なる強い気配が伝わってくる。
それは静かでありながら、いつでも獲物へ飛びかかれるように張り詰めた、獣特有の鋭いものだった。
「……ガルド師匠」
「おう。気づいたか」
零が小さく頷くと、ガルドはゆっくりと周囲を見渡した。
「なら、ここからはお前の判断だ。相手の動きをよく見ろよ」
「うん」
零は呼吸を整え、静かに構えを取った。
その直後、茂みの奥から低い唸り声が響いた。
枝葉が大きく揺れ、木々の影から一頭の巨大な獣が姿を現す。
漆黒の体毛は陽光を受けてもなお深い闇を思わせ、太く発達した四肢には、地面を抉るほどの力が秘められている。口元から覗く鋭い牙は零の腕ほどもあり、肩を僅かに上下させるたび、全身の筋肉が波打つように動いていた。
何より印象的だったのは、その黄金色の双眸だった。
獲物を前にした獣の瞳には、警戒と獰猛さが入り混じっている。ブラックタイガーは零をじっと見つめながら、ゆっくりと身体を沈めた。
(……大きい)
零は目の前の魔物を見据えた。
実際に対峙してみると、依頼書に記されていた危険度にも納得がいく。これほどの巨体があの太い四肢で地面を蹴れば、相当な速度で間合いを詰めてくるはずだった。
背後では、ガルドが少し離れた場所へ移動している。
「零! 今日の相手はお前だ。俺は基本的に手を出さねぇ!」
「……うん!」
「だが、命を張ることと無茶をすることは別だからな。そこだけは忘れるんじゃねぇぞ!」
零が頷いた、その瞬間だった。
ブラックタイガーの後ろ脚に力が込められ、次の瞬間には巨体が地面を蹴っていた。
◇
黒い影が、視界いっぱいに迫った。
零は咄嗟に地面を蹴り、身体を斜め後方へ滑らせる。直前まで立っていた場所を巨大な前脚が薙ぎ払い、鋭い爪が背後の木の幹を深々と引き裂いた。
木片が弾け飛ぶ音が響き、遅れて頬を風圧が掠める。
(……速い!)
零は着地と同時に構え直したが、ブラックタイガーはすでに次の動きへ移っていた。
巨体を反転させると、今度は地面を低く這うような姿勢で突進してくる。その動きは先ほどよりも鋭く、零が回避しようとした方向へ、まるで先回りするかのように前脚が伸びた。
零は足を止め、咄嗟に上体を捻った。
鋭い爪が衣服のすぐ脇を通り過ぎる。
そのまま身体を沈めて攻撃をやり過ごすと、零は地面を蹴って間合いを取り直した。
(……ただ速いだけじゃない。ちゃんと僕の動きを見てる)
ブラックタイガーは着地すると、すぐには飛びかかってこなかった。
低く唸りながら零の周囲をゆっくりと歩き、僅かに頭を傾けてこちらの動きを窺っている。
先ほどの二度の攻撃で、零がどのように回避するのかを確かめていたのかもしれない。
零は相手から目を離さず、ゆっくりと呼吸を整えた。
Bランクの魔物。
その危険性は、単純な腕力や速度だけでは測れない。
獲物の動きを見極め、逃げ道を塞ぎ、僅かな隙を逃さず仕留めようとする。目の前の魔物には、長く厳しい環境を生き抜いてきた獣としての狡猾さがあった。
(……でも、見えてる)
零は静かに拳を握った。
半年前なら、最初の突進を避けるだけでも精一杯だったかもしれない。相手の速度に圧倒され、次の攻撃を考える余裕などなかっただろう。
だが、今は違う。
ブラックタイガーの動きは確かに速い。それでも、重心が移る瞬間や、踏み込む直前の僅かな変化を捉えることはできている。
必要なのは、焦らずに相手の動きを見極めることだった。
ブラックタイガーが再び動いた。
今度は正面から飛びかかると見せかけ、直前で身体を捻り、横薙ぎに爪を振るってくる。
零はその軌道を見極めると、半歩だけ身体をずらした。
そして、迫る前脚へ自分の腕を添える。
「――流転!」
真正面から力を受け止めるのではなく、相手の勢いに逆らわず、その方向を僅かに逸らす。
ブラックタイガーの前脚が零の身体の脇を通り過ぎ、巨体が前方へ流れた。
その隙を逃さず、零は相手の懐へ踏み込もうとする。
しかし、拳を放つ直前、ブラックタイガーの後ろ脚が地面を強く蹴った。
崩れかけた体勢から無理やり身体を捻り、巨大な顎を零へ向けてくる。
「……っ!」
零は咄嗟に踏み込みを中断し、上体を引いた。
鋭い牙が目の前で噛み合い、空気を震わせるような音が響く。
あと僅かでも反応が遅れていれば、肩口を噛み砕かれていたかもしれない。
零は素早く距離を取り、相手の様子を確かめた。
(……危なかった)
だが、不思議と心は落ち着いていた。
攻撃の機会を逃したことに焦りはない。
むしろ、あの場面で無理に拳を放たず、退く判断ができたことに、零は小さな手応えを感じていた。
以前の自分なら、相手の体勢を崩せたことに意識を奪われ、そのまま攻撃を続けていただろう。
けれど、ガルドとの修行を重ねるうちに、零は少しずつ理解するようになっていた。
技が成功したからといって、戦いが終わるわけではない。
相手は相手の意思で動き、こちらの予想を超える行動を取ることもある。だからこそ、一つの動きに囚われず、常に次の変化を見極めなければならないのだ。
「おう、今の判断は悪くねぇぞ!」
少し離れた場所から、ガルドの声が飛んできた。
零が一瞬だけそちらへ目を向けると、師匠は腕を組んだまま、いつもの豪快な笑みを浮かべている。
「無理に殴りにいかなかったのは正解だ! その調子で相手をよく見ろ!」
「うん!」
零は短く答え、再びブラックタイガーへ向き直った。
相手もまた、すぐには飛びかかってこない。
低い唸り声を上げながら地面を踏みしめ、零の動きを警戒している。
先ほどまでとは違い、ブラックタイガーの瞳には明らかな慎重さが宿っていた。
(……そろそろ、こっちからも動いてみよう)
零はゆっくりと息を吸い、身体の奥を巡る氣へ意識を向けた。
馴染み深い力が、呼吸に合わせて静かに流れていく。
必要以上に引き出すことはしない。
拳を強くするためだけに氣を集めるのではなく、身体全体の動きを支えるように、その流れを整えていく。
そして、ブラックタイガーが僅かに頭を下げた瞬間、零は地面を蹴った。
先ほどまで攻撃を待っていた零が、初めて自分から間合いを詰める。
ブラックタイガーは即座に反応し、右の前脚を振り抜いた。
だが、零はその動きを予測していた。
足運びを僅かに変え、爪の軌道から身体を外すと、相手の懐へ滑り込むように踏み込んだ。
地面を捉えた足から力が伝わり、重心が前へ移る。その流れを途切れさせることなく、零の拳がブラックタイガーの胴を捉えた。
鈍い衝撃が腕へ返ってくる。
厚い筋肉に覆われた身体は想像以上に頑丈だったが、拳へ巡らせた氣によって、確かな打撃を与えられた感触があった。
零はそのまま身体を捻り、次の拳へ繋げる。
二度目の衝撃が胴へ響くと、ブラックタイガーの巨体が僅かに傾いた。
しかし、相手も黙って攻撃を受け続けるつもりはないらしい。
大きく身体を捻り、後ろ脚で地面を蹴ると、零を振り払うように前脚を振り回してきた。
零は深追いせず、すぐさま間合いを外した。
巨大な爪が空を切り、周囲の落ち葉を巻き上げる。
その勢いを見届けながら、零は静かに呼吸を整えた。
(……いける)
相手の動きは見えている。
力も、速度も、決して侮れるものではない。だが、今の自分なら対応できる。
零は改めてブラックタイガーを見据えた。
そして、胸の奥に小さな決意を固める。
(……試してみよう)
半年間、ガルドとともに磨き続けてきた技。
まだ完成には至っていないものの、今の自分がどこまで辿り着いたのかを、確かめてみたかった。
◇
ブラックタイガーは低く唸りながら、零の周囲をゆっくりと歩いていた。
先ほどの打撃が効いているのか、僅かに身体を庇うような動きが見られる。それでも、その眼差しに衰えはなく、むしろ警戒心を強めているようだった。
零は相手の動きを注意深く観察しながら、足元の感触を確かめた。
地面には落ち葉が積もり、ところどころに木の根が露出している。無理に踏み込めば足を取られる可能性もあったが、少し離れた場所には比較的平坦な地面が広がっていた。
零はゆっくりと位置を変え、相手の正面へ立つ。
ブラックタイガーの視線が、その動きを追った。
次の瞬間、巨体が低く沈み込む。
(……来る!)
地面が抉られ、黒い影が一気に迫った。
これまでで最も鋭い突進だった。
ブラックタイガーは前脚を振り上げながら零へ飛びかかり、その爪で逃げ道を塞ぐように攻撃を仕掛けてくる。
だが、零は慌てなかった。
相手の踏み込みを見極め、ほんの僅かに身体をずらす。
振り抜かれた爪が肩先を掠めるほどの距離を通り過ぎた瞬間、零は相手の懐へ踏み込んだ。
足が地面を捉える。
重心が前へ移り、その勢いが腰を通って拳へ伝わっていく。
半年前、何度繰り返しても掴めなかった感覚。
あのときは一度きりだった動きが、今では呼吸をするように自然なものとなっていた。
零は身体の奥を巡る氣を拳へ導き、目の前の巨体へ意識を集中させる。
そして、踏み込みと同時に拳を放った。
その瞬間、零の拳が閃いた。
傍目には、一度の踏み込みから放たれた拳が、ブラックタイガーの胴へ突き刺さったようにしか見えなかっただろう。
しかし、実際には違った。
最初の打撃が肉を捉えた直後、零の身体は僅かにも止まることなく次の動きへ移っていた。
拳を引き戻し、再び放つ。
その動作はあまりにも短く、前の一撃と次の一撃の境界さえ曖昧になるほどだった。
踏み込みから生まれた力を途切れさせず、身体の連動を保ったまま、次々と衝撃を重ねていく。
一瞬のうちに、五つ。
ほとんど重なって聞こえた鈍い打撃音とともに、ブラックタイガーの巨体が大きく揺れた。
最初の一撃で体勢を崩し、続く打撃がその巨体をさらに押し込んでいく。
そして五撃目が叩き込まれた瞬間、ブラックタイガーの四肢が地面から浮いた。
巨大な身体が後方へ吹き飛び、土煙を巻き上げながら地面を転がる。
零は拳を収めると、すぐさま構え直した。
胸の奥では鼓動が速くなっていたが、意識はまだ目の前の魔物へ向けられている。
(……五撃、繋がった)
確かな手応えがあった。
ただ拳を速く動かしたのではない。
一つの踏み込みから生まれた力を、途切れさせずに五つの打撃へ繋げることができた。
それは半年前には想像もできなかった動きだった。
だが、喜ぶのはまだ早い。
零はゆっくりと息を整え、倒れたブラックタイガーの様子を確かめた。
土煙の向こうで、巨大な身体が僅かに動く。
ブラックタイガーは前脚を地面へ突き立て、何とか立ち上がろうとしていた。しかし、力を込めた途端に身体が大きく揺れ、再び地面へ崩れ落ちる。
零は慎重に距離を保ちながら、その様子を見守った。
先ほどの五撃は、いずれも胴のほぼ同じ箇所へ叩き込んでいる。
強靭な筋肉に覆われたブラックタイガーであっても、一瞬のうちに同じ場所へ重ねられた衝撃を受け止めきることはできなかったのだろう。巨体は激しく痙攣し、苦しげな呼吸を繰り返していたが、やがてその動きも弱まっていった。
それでも、零はすぐには近づかなかった。
先ほど、体勢を崩した相手から思いがけない反撃を受けたばかりだ。今度こそ完全に動きを止めたことを確かめるまでは、決して油断するつもりはなかった。
しばらくして、ブラックタイガーの呼吸が止まった。
氣を通しても、先ほどまで感じられていた強い生命の気配はすでに消えている。
零はなおも慎重に様子を確かめ、完全に討伐できたと判断してから、ようやく大きく息を吐いた。
「……終わった」
その言葉と同時に、肩の力が少し抜ける。
拳にはまだ打撃の感触が残っていた。
五撃を繋げられたことは嬉しい。
けれど、最後の一撃を放つ直前、ほんの僅かに身体の流れが乱れたことも分かっていた。
(……やっぱり、五撃目が難しいな)
零が自分の拳を見つめていると、背後から聞き慣れた大声が響いた。
「おおい、零!」
振り返ると、ガルドが腕を組んだまま立っていた。
その表情には、いつもの豪快な笑みが浮かんでいる。
だが、零が振り返るより少し前。
五つの衝撃が重なる瞬間を見届けたガルドは、僅かに目を見開いていた。
ほんの一瞬のことだった。
すぐに口元を吊り上げると、ガルドは林中に響くほどの大声を張り上げた。
「あと二発はどうしたァ!」
「……ええっ!?」
零は思わず目を丸くした。
ガルドはそんな反応など気にも留めず、豪快に笑いながら近づいてくる。
「七閃だろうが! 五発で終わっちまってどうすんだ!」
「だから、まだ五発までしかできないんだってば!」
「がっはっは! 知ってるわ!」
「もう……ガルド師匠は簡単に言うんだから」
零が少し不満そうに頬を膨らませると、ガルドはますます楽しそうに笑った。
「ま、冗談はさておき……悪くねぇ動きだったぞ」
ガルドがそう言うと、零はぱっと顔を上げた。
「……本当?」
「おう。相手の動きをよく見てたし、無理に技を出そうとしなかったのもよかった。あの状況で五撃まで繋げられたなら、十分な成果だ」
思いがけず素直な評価を受け、零は嬉しそうに微笑んだ。
しかし、ガルドはすぐに人差し指を立てる。
「ただし、最後の五撃目はまだ甘ぇな」
「……やっぱり?」
「おう。四撃目までは身体の流れが繋がってたが、最後は拳を出すことに意識が寄りすぎてた。あれじゃあ、六撃目に繋がらねぇぞ」
零は自分の右肩へ手を当てた。
確かに、五撃目を放つ直前、僅かに肩へ力が入っていた。
朝の修行でも指摘されたことだった。
「……まだ直ってないんだね」
「そう簡単に直るもんじゃねぇさ。だから修行するんだろうが」
ガルドはそう言って笑うと、零の頭を軽く撫でた。
「それに、今日の戦いで分かったこともあるだろ?」
「……うん」
零はゆっくりと頷いた。
ブラックタイガーの動きは、想像していた以上に鋭かった。
ただ速いだけではなく、こちらの回避先を読み、体勢を崩されても即座に反撃してくる。何度か危険な場面もあったが、そのたびに冷静に判断し、無理な攻撃を控えることができた。
以前の自分なら、きっと同じようには戦えなかっただろう。
「……前より、相手の動きがよく見えるようになった気がする」
「おう。それはいいことだ」
「でも、まだ全部見切れるわけじゃないし、流転を使った後も、すぐに反撃できるとは限らないんだね」
「そういうことだ。技を覚えりゃ何でも上手くいくってわけじゃねぇ。相手が何をしてくるか分からねぇからこそ、実戦は面白ぇんだ」
ガルドは豪快に笑った。
零もその言葉を聞きながら、小さく笑みを浮かべる。
まだまだ学ぶことは多い。
けれど、だからこそ修行を続ける意味があるのだと、今の零は素直に思えるようになっていた。
◇
討伐したブラックタイガーの状態を確認し、依頼の証明に必要な部位を回収すると、二人は周囲にほかの魔物がいないことを確かめてから林を後にした。
街道へ戻る頃には、太陽が少し西へ傾き始めていた。
木々の間から差し込む陽光は朝よりも柔らかく、穏やかな風が歩き疲れた身体を心地よく冷ましてくれる。
「……無事に終わってよかった」
零が小さく息を吐くと、隣を歩くガルドが満足そうに頷いた。
「おう。Bランクの魔物を相手に、よくやったじゃねぇか」
「でも、ガルド師匠がいてくれたから安心して戦えたんだと思う」
「ほう?」
「もし何かあっても、師匠がいるって分かってたから。だから、落ち着いて相手の動きを見られたんだと思う」
零がそう答えると、ガルドは一瞬だけ黙り込んだ。
そして、何がおかしいのか、突然大きな声で笑い出す。
「がっはっは! そりゃあ、師匠冥利に尽きるってもんだ!」
「……そんなに笑うこと?」
「いやいや、悪ぃ悪ぃ! だが、そう言ってもらえるのは嬉しいもんでな!」
ガルドは笑いながら、零の背中を軽く叩いた。
その大きな手の温もりに、零も自然と笑みを浮かべる。
思えば、ガルドと出会ったばかりの頃は、こうして一緒に冒険者の依頼をこなす日が来るとは想像もしていなかった。
初めて拳を交えたとき、自分の一撃を片手で受け止められたこと。
山での修行では、立ち方や呼吸から徹底的に教えられ、何度も地面へ転がされたこと。
そして、どれほど失敗しても、ガルドが決して修行を投げ出さなかったこと。
その一つ一つが、今の自分へ繋がっている。
「……ねえ、ガルド師匠」
「なんだ?」
「六撃目って、やっぱり五撃目までとは全然違うの?」
零が尋ねると、ガルドは少し考えるように顎へ手を当てた。
「そうだな。今のお前は、五撃目を放ったところで身体の流れが途切れちまう。そこをどう繋ぐかが次の課題だ」
「……やっぱり、踏み込みが大事なのかな」
「それもある。だが、足だけを意識しても駄目だぞ。身体全体の動きを、もっと自然に繋げられるようにならねぇとな」
零はその言葉を頭の中で繰り返した。
踏み込みと拳を一つにする。
半年前、ようやく掴んだ感覚。
そこから五撃まで繋げられるようになった今でも、結局は同じことを学び続けているのだと気づき、零は少しだけおかしくなった。
「……何だか、最初に教わったことと同じだね」
「がっはっは! そういうもんだ! 基本ってのは、どこまでいっても大事なんだよ」
「……そっか」
「ま、帰ったらまた教えてやるさ。今日はしっかり休んで、明日から続きをやるぞ!」
その言葉に、零は嬉しそうに顔を上げた。
「うん! ありがとう、ガルド師匠!」
「おう! ただし、明日も手加減はしねぇからな!」
「……分かってるよ」
零が少し困ったように笑うと、ガルドも楽しそうに笑った。
二人はそのまま、他愛のない話をしながら街道を歩き続けた。
今日のブラックタイガーの動きについて振り返ったり、次の修行で何を意識するべきか相談したり、ときにはガルドの大雑把な説明に零が首を傾げたり。
そんなやり取りを重ねているうちに、遠くには王都の城壁が見え始めていた。
街道を行き交う馬車の音や旅人たちの話し声が、夕暮れの空気に溶け込んでいく。
零はふと、隣を歩くガルドへ視線を向けた。
大きな背中。
日に焼けた顔に浮かぶ、いつもの豪快な笑み。
初めて出会った頃から変わらないその姿を見ていると、不思議と安心する。
「……ガルド師匠」
「おう?」
「僕、六撃目も頑張るね」
零がそう言うと、ガルドは一瞬だけ目を丸くし、それから大きく口元を緩めた。
「おう! その意気だ!」
そう言って、零の頭へ大きな手を置く。
「だが、焦るんじゃねぇぞ。今までだって、一つずつ積み重ねてきただろうが」
「……うん」
「なら、これからも同じだ。できねぇことがあったら、できるようになるまで付き合ってやる!」
零はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、ガルド師匠」
「がっはっは! 礼を言うのは七閃を完成させてからにしな!」
「……それ、いつになるか分からないよ?」
「なら、それまで取っとけ!」
あまりにも豪快な返事に、零は思わず笑ってしまった。
ガルドもつられるように笑い、二人の声が夕暮れの街道へ響いていく。
やがて王都の城壁が近づき、行き交う人々の姿も増えてきた。
零は歩幅を少し速め、ガルドの隣へ並ぶ。
明日も、きっと修行がある。
上手くいかないことも、また見つかるだろう。
それでも、分からないことがあれば師匠に尋ねればいいし、できなかったことは何度でも練習すればいい。
そうして少しずつ、前へ進んでいけばいいのだから。
零は隣を歩く師匠へもう一度笑いかけると、夕日に照らされた王都へ向かって、軽やかに足を進めた。




