第三十五章 七閃の片鱗
ルシエラとともに氣と魔力の研究を行ってから、数日が過ぎた。
あの日、一瞬だけ消えた二つの力の反発。その直後に生じた魔力の乱れについて、ルシエラは引き続き調べていたが、明確な答えはまだ出ていなかった。
零も、あのときの感覚を忘れたわけではない。
身体の奥へ意識を向ければ、自分にとって馴染み深い氣の流れを感じ取れる。けれど、そこからさらに魔力へ意識を伸ばそうとはしなかった。
ルシエラとの約束がある。
何より、分からない力を無理に引き出すことが、どれほど危険なのかを知っていた。
だからこそ、今はできることを積み重ねようと思っていた。
流転による受け流し、轟雷へと繋がる氣の集約、そしてガルドから繰り返し教わってきた立ち方や足運び。
鍛錬を重ねるほど、以前は気づかなかった小さな癖や無駄な動きが見えてくる。
そんなある朝、庭での鍛錬を終えた零は、屋敷から出てきたルシエラに声をかけた。
「ねえ、ルシエラ。そろそろ冒険者の依頼を受けに行きたいんだけど、いいかな?」
「あら、冒険者活動を再開したいの?」
「うん。前の依頼からも時間が経ったし、今の自分がどれくらい動けるようになったのか、実戦で確かめてみたいんだ」
ルシエラは零の顔を見つめ、それから鍛錬の跡が残る庭へ視線を向けた。
「そうね。修行場で覚えたことと、実際の戦いでできることは違うものね」
「うん。前は流転を使うことばかり考えちゃったし、轟雷も結局使えなかったから……」
「でも、使えないと判断して途中でやめられたでしょう? それも大切な経験だったと思うわ」
零は少し考えてから頷いた。
あのときは、技を完成させることばかりが強さではないと知った。
ならば今回は、その経験を生かして戦ってみたい。
「ガルドにも相談してみましょうか。きっと喜んで付き合ってくれると思うわ」
「うん。僕も師匠に見てもらいたい」
「ただし、零」
ルシエラの声が少しだけ真剣なものに変わる。
「今回は、氣と魔力を重ねようとするのはなしよ。あの現象については、まだ分からないことが多すぎるわ」
「分かってる。今日は、今まで教わったことを試したいだけだから」
「それならいいわ」
ルシエラが表情を和らげた、そのときだった。
「おう! 何だ、今日は冒険にでも出るのか?」
庭の入り口から、聞き慣れた豪快な声が響いた。
振り返ると、ガルドがこちらへ歩いてきていた。
「ガルド師匠! ちょうど相談したかったんだ」
「ほう? 何だ、零」
「また冒険者の依頼を受けようと思ってるんだ。師匠にも一緒に来てもらえないかな?」
零の言葉を聞いたガルドは、にやりと笑った。
「いいじゃねぇか! 俺もそろそろ、お前の実戦での動きを見てぇと思ってたところだ!」
「このところ練習してきたことが、どれくらい使えるのか確かめたいんだ」
「おう! 随分と足運びがよくなってきたからな。あとは動く相手にどこまで通用するかだ!」
ガルドは零の肩を軽く叩いた。
「ただし、前みてぇに技を使うことばっかり考えるんじゃねぇぞ」
「……うん。今回はちゃんと、相手を見て戦うよ」
「よし! なら決まりだ!」
こうして三人は、再び冒険者ギルドへ向かうことになった。
◇
王都の冒険者ギルドは、今日も朝から多くの人々で賑わっていた。
受付で依頼の相談をする者、掲示板の前で仲間と話し合う者、装備を確かめながら出発の準備をする者。
それぞれが忙しそうに動き回る中、零たちが扉を開けると、周囲の視線が自然と集まってきた。
「……おい、あの三人」
「魔帝様と拳鬼じゃねぇか」
「あの子、前にも一緒にいたよな」
零は以前ほど戸惑うことなく、周囲へ軽く会釈してから受付へ向かった。
その途中、奥から聞き覚えのある低い声が響いた。
「……零か」
顔を上げると、そこには大柄な男が立っていた。
ヴァイス・ヴォルフラム。
零の冒険者登録を特例で認めてくれた、このギルドのギルドマスターだ。
「ヴァイスさん! 久しぶり」
「久しいな。元気そうで何よりだ」
ヴァイスは零の様子を確かめると、隣に立つルシエラへ丁寧に一礼した。
「ルシエラ様。本日もお越しいただき、ありがとうございます」
「あら、そんなに畏まらなくてもいいのよ。今日は零の依頼に付き添うだけだから」
「承知いたしました」
続いてヴァイスがガルドへ視線を向けると、ガルドは片手を上げた。
「よう、ヴァイス! 今日も世話になるぜ!」
「……またあなたもご一緒ですか」
「何だよ、その言い方は!」
「前回も随分と賑やかでしたので」
「がっはっは! 元気があるのはいいことだろうが!」
ヴァイスは諦めたように息を吐いた。
零は二人のやり取りに、思わず口元を緩めた。
「それで、零。今日はどのような依頼を考えている?」
「魔物討伐の依頼を受けたいんだ。前の依頼で分かったことを、もう一度実戦で確かめてみたくて」
「なるほど。修行の一環というわけか」
「うん。でも、依頼を受ける以上は責任があるんだよね。無理に戦って失敗するんじゃなくて、ちゃんと自分で判断しないといけないって、前に教えてもらったから」
その答えに、ヴァイスは僅かに目を細めた。
「覚えていたか」
「もちろん」
「それなら結構だ。冒険者にとって、依頼を達成することは大切だ。しかし、自分の実力を見誤らないことも同じくらい重要だからな」
零は真剣な表情で頷いた。
ヴァイスは受付の職員へ声をかけ、いくつかの依頼書を持ってこさせた。
零は差し出された依頼書を一枚ずつ確認していく。
街道の警戒、森に出没する魔物の討伐、岩場に棲みついた魔物の駆除。
その中で、零の目に留まったものがあった。
「……これ、どうかな?」
零が手に取ったのは、王都から少し離れた岩場に出没する魔物の討伐依頼だった。
荷運びの一行が襲われたため、付近の通行が避けられているらしい。複数の魔物が確認されており、周辺の安全を確保することが目的となっていた。
「岩場の討伐依頼か」
ヴァイスが依頼書へ目を向ける。
「報告では、硬い外皮を持つ四足の魔物が確認されている。突進力が強く、正面からの攻撃は通りにくいそうだ」
「……硬い外皮」
零は少し考え込んだ。
前回は群れで行動する狼型の魔物だった。今回は相手の身体の硬さだけでなく、足場にも気をつける必要がありそうだ。
「ガルド師匠、どう思う?」
「悪くねぇな。ただし、足場が悪い場所での戦いになる。いつもどおりに動けるとは限らねぇぞ」
「……うん。でも、だからこそやってみたい」
零はもう一度依頼書を読み、それからヴァイスへ向き直った。
「僕、この依頼を受けたい」
「分かった」
ヴァイスは頷いたが、すぐに言葉を続けた。
「ただし、今回も無理は禁物だ。討伐が難しいと判断した場合は撤退し、状況を報告してくれ」
「うん」
「それと、討伐後は周辺にほかの個体がいないか確認すること。依頼の目的は、付近を通る人々の安全を確保することだからな」
「……そっか。魔物を倒すだけじゃ、駄目なんだね」
「そのとおりだ」
零は依頼書を手に、受付で正式な手続きを済ませた。
こうして三人は、王都の外へと向かった。
◇
目的の岩場へ到着した頃には、太陽が高く昇っていた。
草原を抜けた先には、大小の岩が不規則に並ぶ乾いた土地が広がっている。地面には細かな石が散らばり、ところどころで岩肌が露出していた。
零は足元を確かめながら、ゆっくりと歩を進めた。
「……思ってたより歩きにくいね」
「こういう場所じゃ、足の置き方一つで動きが変わるからな」
ガルドは近くの小石を軽く踏み、零へ視線を向けた。
「地面が滑るなら、それに合わせて動け。無理にいつもの踏み込みをしようとするなよ」
「うん」
零は歩幅を少し狭め、重心を意識しながら進んだ。
最初は足元にばかり注意が向いていたが、しばらくすると地面の状態を足の裏で確かめながら、周囲へも意識を向けられるようになってきた。
岩の隙間を抜ける風の音。
小石を踏む微かな感触。
そして、少し先から伝わってくる、生き物の気配。
「……いる」
零が足を止めると、ガルドも黙って立ち止まった。
ルシエラは周囲へ目を向けたあと、零の判断を待つように少し後ろへ下がる。
零は大きな岩の陰へ慎重に近づいた。
やがて、低い唸り声とともに一体の魔物が姿を現した。
灰色の硬い外皮に覆われた四足の魔物だった。背中には岩のような突起が並び、頭部からは鋭い角が前方へ伸びている。
体格は零よりも一回り大きく、太い脚で地面を踏みしめていた。
「……あれが依頼の魔物かな」
「おそらくそうね」
ルシエラが答えると、ガルドは魔物の身体を観察しながら言った。
「見た目どおり、正面から殴っても効きにくそうだな」
零は魔物の脚や腹部へ視線を向けた。
外皮は厚そうだが、関節の周辺には比較的柔らかそうな部分がある。
(……あそこなら、攻撃が通るかもしれない)
そう考えた瞬間、魔物が地面を蹴った。
「……っ!」
重い身体が勢いよく迫ってくる。
零は横へ踏み出し、鋭い角をかわした。
魔物はそのまま突き進み、近くの岩へ角をぶつけると、鈍い音を響かせて方向を変えた。
(……速い。でも、急には曲がれないみたい)
零は相手の動きを見つめながら、静かに構えを整えた。
再び魔物が突進してくる。
今度はぎりぎりまで引きつけ、身体を横へずらした。
そのまま側面へ回り込み、脚の付け根へ短く拳を打ち込む。
鈍い衝撃が伝わり、魔物の身体が僅かに傾いた。
だが、倒れるには至らない。
零はすぐに距離を取り、相手の動きを確かめた。
(……やっぱり、一撃じゃ難しいか)
魔物は低く唸りながら向き直った。
その太い脚が地面を踏みしめ、再び突進の姿勢を取る。
零は今度も横へかわし、脚を狙おうとした。
しかし――。
「……え?」
魔物は直前で前脚を強く踏み込み、身体を捻った。
予想していたよりも鋭く方向を変え、角を横へ振り払ってきたのだ。
(……っ、曲がれるの!?)
零は咄嗟に上体を反らした。
角が目の前を通り過ぎる。
さらに後方へ跳ぼうとした瞬間、足元の小石が滑った。
「……っ!」
僅かに体勢が崩れる。
その隙を逃さず、魔物が前脚を踏み出してきた。
零は無理に踏みとどまろうとせず、身体を低く沈めた。
迫る前脚の外側へ掌を添え、振り下ろされる軌道を僅かに逸らす。
――流転。
前脚そのものを押し返すのではない。
力の向きを変えることで、相手の重心をずらす。
魔物は踏み込む位置を狂わされ、自らの勢いで身体を前方へ流した。
その一瞬を利用し、零は岩陰へと身を滑らせた。
太い脚が地面を叩き、小石が跳ね上がる。
「……ふぅ」
零は短く息を吐いた。
危なかった。
相手の動きを読めたつもりでいたが、まだ知らない動きがあった。
それに、足場が悪いことも忘れていた。
(……決めつけちゃ駄目だ)
零はもう一度、魔物へ視線を向けた。
相手は硬い外皮を持ち、突進力も強い。
だが、ただ真っ直ぐ走るだけではない。勢いを落として方向を変えることもできる。
ならば、その動きまで含めて見極める必要がある。
零は足元を確かめながら、ゆっくりと位置を変えた。
その様子を見ていたガルドが、僅かに口元を緩める。
以前なら、崩れた体勢を力任せに立て直そうとしていたかもしれない。
だが、今の零は違う。
無理に踏ん張らず、相手の力を利用して危険な間合いから抜け出した。
ガルドは何も言わず、続きを見守った。
◇
零は岩の配置を確かめながら、魔物との距離を調整した。
相手の突進を避けるだけなら難しくない。
けれど、攻撃するためには、硬い外皮の隙間へ正確に拳を打ち込まなければならなかった。
魔物が再び地面を蹴る。
零はその動きを見極め、今度は大きく跳ばずに、半歩だけ横へ踏み出した。
角が身体のすぐ脇を通り過ぎる。
その瞬間、零は魔物の肩口へ掌を添えた。
――流転。
肩を押すのではなく、相手の進行方向へ沿わせるように、僅かに力を加える。
魔物は踏み込もうとした前脚の位置を狂わされ、身体を横へ傾けた。
零はその隙を逃さず、脚の付け根へ拳を放つ。
重い衝撃が伝わり、魔物が苦しげに唸った。
だが、零が続けて踏み込もうとしたときには、すでに相手は身体を捻っていた。
「……っ!」
零は追撃を諦め、後方へ跳んだ。
鋭い角が空を切る。
(……もう少し早く、間合いを詰められたら)
相手の体勢を崩すことはできる。
けれど、そこから攻撃を重ねるまでの僅かな時間に、相手が立て直してしまう。
零は自分の足元へ一瞬だけ視線を落とした。
踏み込みが遅いわけではない。
ただ、攻撃するために大きく一歩を踏み出すと、その分だけ身体の重心が動き、次の拳へ繋げるまでに僅かな間が生まれていた。
(……ガルド師匠なら、どうするんだろう)
そう考えたところで、魔物が再び突進してきた。
零はすぐに意識を戻し、攻撃をかわした。
今は考え込んでいる場合ではない。
まずは目の前の相手を倒す。
零は魔物の動きを見つめ、再び構えを取った。
そのときだった。
背後の岩陰から、別の低い唸り声が響いた。
「……!」
振り返ると、もう一体の魔物が姿を現していた。
先ほどの個体より僅かに小さいが、同じように硬い外皮と鋭い角を持っている。
二体目は零を見つけると、すぐに地面を蹴った。
零は咄嗟に横へ跳び、突進をかわした。
しかし、着地した先には一体目が待ち構えていた。
(……挟まれた!)
二体の魔物が、左右から迫ってくる。
零は一瞬だけ息を呑んだが、すぐに周囲へ視線を走らせた。
大きな岩が二つ、少し離れて並んでいる。
その間は狭く、魔物の大きな身体では一体ずつしか通れそうにない。
(……あそこなら)
零はすぐに地面を蹴り、岩の間へ向かった。
二体の魔物が追いかけてくる。
零が岩の隙間を通り抜けると、一体目がその後を追った。しかし、二体目は前を走る仲間に進路を塞がれ、すぐには近づけない。
(……これで、一体ずつ)
零は振り返り、先頭の魔物が隙間を抜けようとした瞬間に踏み込んだ。
だが、魔物は狭い場所で足を止め、頭を低く下げた。
そのまま角を突き出してくる。
「……っ!」
零は攻撃を中断し、横へ身をかわした。
鋭い角が岩肌を削り、細かな破片が飛び散る。
(……そうか。狭い場所なら、相手も動き方を変えるんだ)
零は岩の向こうへ回り込み、相手の動きを確かめた。
魔物は狭い隙間を無理に抜けようとはせず、少しずつ身体を動かしながらこちらを追ってくる。
その後ろでは、二体目が別の道を探すように岩の周囲を歩き始めていた。
(……長くは持たないね)
零はすぐに判断した。
ここで時間をかければ、二体目が回り込んでくる。
ならば、その前に一体目を倒す必要がある。
零は岩の陰から姿を現し、わざと相手の正面へ立った。
魔物が低く唸り、角を突き出す。
零はぎりぎりまで引きつけ、身体を横へずらした。
伸びてきた角へ掌を添え、その向きを僅かに下へ逸らす。
――流転。
勢いのまま突き進んだ角が岩肌を擦り、魔物の頭部が下がった。
その瞬間、零は懐へ踏み込んだ。
脚の付け根へ拳を打ち込み、続けて腹部へもう一撃を放つ。
重い衝撃が響き、魔物の身体が傾いた。
零はさらに踏み込もうとしたが、足元の小石が動いたことに気づき、すぐに動きを止めた。
無理に追撃すれば、また体勢を崩す。
そう判断した零は一歩だけ位置を変え、安定した岩肌へ足を置いた。
そして、倒れかけた魔物の腹部へ拳を向けた。
身体の奥を巡る氣を、拳へと導く。
その流れが強まるにつれ、零の黒い瞳が黄金色へと変わっていった。
(……ここで、決める!)
踏み込んだ足から腰へ、そして肩を通して拳へ。
全身の動きを一つに繋げ、零は拳を打ち込んだ。
鈍い衝撃とともに魔物の身体が大きく揺れ、そのまま地面へ倒れ込む。
零はすぐに距離を取り、相手の様子を確かめた。
魔物はもう動かなかった。
「……あと一体」
零は短く息を吐き、岩の向こうへ視線を向けた。
残る魔物はすでに回り込んでおり、少し離れた場所からこちらを睨んでいた。
零は拳へ集めた氣を保ちながら、静かに構えを整える。
黄金色の瞳が、相手の動きを捉えていた。
今度は、相手を狭い場所へ誘い込む必要はない。
突進を利用し、体勢を崩したところを狙う。
魔物が地面を蹴った。
零は相手の動きを見極め、横へ踏み出す。
角が身体の脇を通り過ぎた瞬間、肩口へ掌を添え、勢いの向きを僅かに変えた。
――流転。
魔物は踏み込んだ前脚の位置を狂わされ、自らの勢いで身体を傾けた。
零はすぐに踏み込み、脚の付け根へ拳を打ち込んだ。
相手が体勢を立て直そうとする。
その動きを見て、零は追撃する方向を変えた。
大きく踏み込むのではなく、相手の身体に沿うように小さく位置を変え、反対側の脚へ拳を放つ。
魔物の前脚が崩れ、重い身体が傾いた。
零はその隙に懐へ入り込み、氣を乗せた拳を腹部へ叩き込んだ。
魔物は苦しげに唸り、そのまま地面へ倒れ込んだ。
しばらく様子を確かめたが、再び起き上がる気配はない。
零はゆっくりと息を吐き、身体を巡る氣を静かに収めた。
それに伴い、黄金色に輝いていた瞳も、いつもの黒へと戻っていく。
周囲へ意識を向けると、岩陰や通路の先に、ほかの魔物の気配は感じられなかった。
「……終わった、かな」
零が呟くと、少し離れた場所からガルドの声が響いた。
「おう! よくやったな、零!」
振り返ると、ガルドとルシエラがこちらへ歩いてくるところだった。
「お疲れ様。怪我はない?」
「うん。大丈夫だよ」
ルシエラは零の身体を一通り確かめると、安堵したように息を吐いた。
「途中で足を滑らせたときは、少し驚いたわ」
「……僕もびっくりした。でも、無理に踏ん張らなくてよかった」
その言葉に、ガルドが大きく頷いた。
「おう。あそこで無理に体勢を戻そうとしなかったのは正解だ。流転を上手く使えてたぜ」
零の表情が明るくなる。
「それに、二体を相手にしたときも、周りの岩を利用して上手く動けてた」
ガルドはそこで少し表情を変えた。
「ただし、まだ課題はあるな」
「……課題?」
「おう。お前、相手の体勢を崩すところまでは上手くできてた。だが、その後の踏み込みが少し遅ぇ」
零は先ほどの戦いを思い返した。
確かに、流転で相手の動きを崩しても、追撃するまでに体勢を立て直されることがあった。
「……うん。僕も、そう思った」
「ほう?」
「相手の隙は見えてたんだけど、そこへ踏み込むまでに、ちょっと時間がかかってたから」
ガルドはその言葉を聞き、満足そうに頷いた。
「自分でも気づいてたか。なら、話が早ぇ」
「……どうしたらいいの?」
「今のお前は、足を動かして、身体を運んで、それから拳を出す。もちろん、それでも十分速ぇ。だが、もっと速い相手なら、その僅かな間に逃げられちまう」
零は自分の拳を見つめた。
相手との距離を詰めること。
拳を放つこと。
今までは、どちらも別の動きとして考えていた。
「……じゃあ、どうすればいいの?」
零が尋ねると、ガルドはにやりと笑った。
「そいつを教えるには、ちょうどいい頃合いかもしれねぇな」
「……え?」
「まあ、少し休んでからだ!」
ガルドはそう言うと、周囲の岩場へ視線を向けた。
「その前に、依頼の確認を済ませるぞ。倒した二体だけとは限らねぇからな」
「……うん!」
三人は岩場の周辺を改めて調べることにした。
零は先ほど魔物が現れた場所を中心に、岩陰や通路を一つずつ確かめていく。
ガルドは足跡や地面に残された痕跡を調べ、ルシエラも周囲にほかの魔物が潜んでいないか確認していた。
しばらく調査を続けたが、新しい足跡や魔物の姿は見つからなかった。
さらに、荷運びの一行が通る予定だった道も確認し、通行を妨げる危険が残っていないことを確かめた。
「……これで大丈夫かな?」
「おう。今のところ、ほかの個体がいる様子はねぇな」
ガルドは周囲を見渡し、頷いた。
「もちろん、後から別の魔物が来る可能性はある。だが、今回の依頼で確認された連中については、これで問題ねぇだろう」
ルシエラも同意するように頷いた。
「ええ。帰ったら、確認した範囲も含めてギルドへ報告しましょう」
「うん!」
◇
周辺の確認を終えた三人は、岩場の外れで休憩することにした。
零は平らな岩へ腰を下ろし、ルシエラから渡された水を飲んでいた。
身体には程よい疲労が残っていたが、以前のように技を使うことへ意識が偏ることは少なくなっていた。
流転を使うべき場面と、使わずに避けるべき場面。
攻撃を重ねるべき瞬間と、無理に追撃しない方がいい瞬間。
その判断を、以前よりも自然にできるようになってきた気がする。
「……今日は、前より落ち着いて戦えたと思う」
零が呟くと、ルシエラが隣へ腰を下ろした。
「ええ。私もそう思うわ」
「でも、まだまだだね。師匠に言われた踏み込みのことも、全然分かってないし」
「全部を一度に覚える必要はないわよ」
ルシエラは零の髪を優しく撫でた。
「今日できるようになったことを、大切にしていけばいいの」
「……うん」
零が頷いたところで、少し離れた場所からガルドが声をかけた。
「おう、零! そろそろいいか?」
「うん。どうしたの?」
「なに、ちょいと見せてぇもんがあってな」
その言葉に、零は顔を上げた。
「……見せたいもの?」
「前に話した鬼拳の技、覚えてるか?」
零は一瞬だけ考え、それから目を輝かせた。
「……七閃?」
「おう。今日のお前を見て、そろそろ教え始めてもいい頃合いだと思ってな」
「……七閃を、教えてくれるの?」
「ああ。ただし、こいつは簡単な技じゃねぇぞ」
ガルドはそう言って、近くの開けた場所へと歩いていった。
「流転は相手の力を利用する技。轟雷は、自分の力を一撃に叩き込む技だ。だが、七閃はそのどちらとも違う」
零は立ち上がり、ガルドの後を追った。
「……どんな技なの?」
「まあ、見てな」
ガルドは少し離れた場所にある大きな岩へ向かって歩いていった。
岩の表面は比較的平らで、ところどころに細かな傷が残っている。
ガルドは岩から少し距離を取り、ゆっくりと構えを取った。
足を開き、重心を僅かに落とす。
それは、これまでの修行で何度も見てきた構えだった。
しかし、零はすぐに、その立ち姿が普段とは違うことに気づいた。
身体のどこにも余計な力が入っていない。
それでいて、次の瞬間にはどの方向へでも動き出せそうな、独特の張り詰めた気配があった。
(……何か、違う)
零は思わず息を止めた。
その瞬間だった。
ガルドの姿が、視界から消えた。
「――っ!?」
次の瞬間、ガルドはすでに岩の前へ踏み込んでいた。
拳が振り抜かれる。
零の目には、それが一撃にしか見えなかった。
だが、耳に届いた音は一つではなかった。
ほとんど重なり合った、短い打撃音。
零がその違和感を理解するより早く、ガルドはすでに拳を収めていた。
「……今の……?」
零は岩へ視線を向けた。
そこには、七つの打撃痕が残されていた。
岩は砕けていない。
しかし、拳の当たった位置は僅かずつ異なり、それぞれに確かな力が込められていることが分かる。
零は思わず岩へ近づいた。
「……七つ?」
「おう」
ガルドが背後から答える。
「今の一瞬で、七発叩き込んだ」
零は振り返った。
「……でも、僕には一回しか見えなかった」
「それが七閃だ」
ガルドは自分の拳を軽く握った。
「爆発的な踏み込みで間合いを詰め、相手が反応するより早く七連撃を叩き込む。だが、速く殴るだけじゃあの動きにはならねぇ」
零はもう一度、岩へ視線を向けた。
七つの痕が残っている。
それなのに、拳が七度動いた光景を思い出すことはできなかった。
「……すごい」
その一言しか出てこなかった。
ガルドはそんな零を見て、楽しそうに口元を緩めた。
「今のお前に必要なのは、踏み込みと拳を別々に考えねぇことだ。七閃は、その先にある技だと思え」
「……踏み込みと、拳を……」
「おう。詳しいことは、修行を始めてから教えてやる」
零は自分の足元へ視線を落とした。
先ほどの戦いで、相手の隙へ踏み込むまでに生まれていた僅かな間。
ガルドの動きには、その間がまったくなかった。
踏み込んだと思ったときには、すでに拳が届いていた。
(……あんなふうに、動けたら)
零は胸の奥が高鳴るのを感じた。
「……僕にも、できるようになるかな」
ガルドは迷わず答えた。
「できるようになるまで教えてやるさ!」
その言葉に、零は顔を上げた。
「……うん!」
少し離れた場所で二人の様子を見守っていたルシエラが、静かに口を開いた。
「ガルド。七閃を教えるのは構わないけれど、零の身体への負担は考えてちょうだいね」
「分かってるって。まずは基礎からだ」
「それならいいけれど」
ルシエラは零へ視線を向けた。
「今日はもう十分動いたでしょう? 修行を始めるのは、また今度にしましょうね」
「うん。分かった」
零は素直に頷いた。
目の前で見せてもらったばかりの技を、すぐに試してみたい気持ちはあった。
けれど、今日は冒険者の依頼を終えたばかりだ。
焦って始めるよりも、万全の状態で教わる方がいい。
「ガルド師匠。次の修行、楽しみにしてるね」
「おう! 覚悟しとけよ、零。七閃は、そう簡単にはものにならねぇからな!」
「……うん。頑張る!」
ガルドは満足そうに頷いた。
やがて三人は岩場を後にし、王都へと続く道を歩き始めた。
◇
王都へ戻った三人は、冒険者ギルドへ立ち寄った。
零は受付で依頼書を差し出し、討伐した魔物の数と特徴、戦闘を行った場所、周辺を確認した範囲について報告した。
職員から詳しい状況を尋ねられると、零は現地で見聞きしたことを一つずつ説明していく。
ガルドとルシエラも必要に応じて補足し、討伐の報告と必要な手続きを済ませた。
受付で依頼の完了が確認されると、零は報酬を受け取り、ほっと息を吐いた。
「……無事に終わってよかった」
「おう。依頼は倒して終わりじゃねぇからな。報告まできっちりやってこそ冒険者だ」
ガルドの言葉に、零は頷いた。
「うん。覚えておく」
ギルドを出ると、王都の通りには夕暮れの光が差し込んでいた。
行き交う人々の声を聞きながら、零はふと自分の拳を見つめた。
流転は、少しずつ実戦でも使えるようになってきた。
轟雷はまだ思うように扱えないが、使うべき場面を見極めることの大切さは、以前よりも理解できている。
そして、今日新たに見せてもらった技。
鬼拳・七閃。
一瞬で間合いを詰め、七つの拳を叩き込む技。
一撃にしか見えなかった拳。
それなのに、岩には七つの打撃痕が刻まれていた。
あの光景が、今も零の脳裏から離れなかった。
「……ねえ、ガルド師匠」
「なんだ、零?」
「七閃って、最初は何から練習するの?」
その問いに、ガルドはにやりと笑った。
「そいつは次の修行で教えてやる!」
「……そっか。楽しみだな」
零が笑うと、ガルドはその頭を大きな手で軽く撫でた。
「俺も楽しみだぜ、零!」
その言葉に、零は嬉しそうに頷いた。
ルシエラはそんな二人を眺めながら、静かに歩調を合わせる。
流転を学び、轟雷に挑み、そして七閃へ。
まだ覚えるべきことは山ほどある。
それでも、今の零には、その一つ一つが楽しみで仕方なかった。
新たな技への期待を胸に、零は二人とともに帰路についた。




