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異世界の彼方より ~少年は神域へと到る~  作者: ナーヴァ


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第三十四章 交わる力の兆し


 ヴィクトリアとセレフィーナがルシエラの屋敷に泊まったあの日から、数日が過ぎた。


 十分に休養を取った零の身体は、すっかり本来の調子を取り戻していた。ヴィクトリアとの手合わせで残っていた痛みも消え、日課の鍛錬を再開しても、以前のような重い疲労を感じることはない。


 けれど、身体が回復しても、零の胸には一つの疑問が残り続けていた。


 あの日、ヴィクトリアとの手合わせで起きた出来事。


 全身の氣を右拳へ集め、鬼拳・轟雷を放とうとしたとき、零は身体の奥にある魔力へと意識を伸ばした。


 その瞬間、氣と魔力が重なったような感覚があった。


 しかも、普段なら氣を集めるために必要だった時間が、ほとんど感じられなかったのだ。


 黒龍との戦いでも、似たような現象が起きている。


 どちらも意図して起こしたわけではない。氣と魔力が本当に融合したのか、それとも別の現象だったのかさえ、まだ分かっていなかった。


 零は自室の椅子に腰を下ろし、開いていた本から視線を上げた。


(……あのとき、どうしてあんなことができたんだろう)


 以前、ルシエラと氣と魔力について調べた際には、二つの力の間にあった強い反発が、以前より弱まっていることが分かっていた。


 しかし、あのとき魔力を動かしたのはルシエラだった。


 自分自身で魔力を動かせたという実感は、今もない。


 ヴィクトリアとの手合わせでは、ルシエラが魔力を動かしてくれたときの感覚を思い出し、そこへ意識を伸ばしただけだった。


 それなのに、あの一瞬だけは何かが違っていた。


(……もう一度、確かめてみたい)


 零はそう考えたが、すぐに以前交わした約束を思い出した。


 自分でも扱い方の分からない力を、一人で試さないこと。


 あの手合わせの後、ルシエラを心配させてしまったことも、零は忘れていなかった。


「……ルシエラに相談しよう」


 本を閉じると、零は椅子から立ち上がった。


     ◇


 ルシエラの部屋を訪ねると、彼女は机に向かい、数冊の書物を広げていた。


 扉を叩く音に顔を上げたルシエラは、零の姿を認めると、柔らかな笑みを浮かべた。


「あら、零。どうしたの?」


「ルシエラ、今ちょっといい?」


「ええ、もちろんよ。何かあったのかしら?」


 零は部屋へ入り、机の前まで歩み寄った。


「この前の手合わせのことなんだけど……氣と魔力について、もう一度調べてみたいんだ」


 その言葉に、ルシエラは僅かに目を細めた。


「……そう。あのときのことが気になっているのね?」


「うん。黒龍と戦ったときにも似たようなことがあったし、どうしてああなったのか知りたくて」


「私も、あれからずっと考えていたわ」


 ルシエラは書物を閉じ、零へ身体を向けた。


「ただ、始める前に確認させてちょうだい。身体の調子は本当に戻っているの?」


「うん。もう痛みもないし、修行も普通にできてるよ」


「それとこれとは別よ。氣と魔力を同時に扱ったとき、あなたの身体にどれほどの負担がかかるのか、まだ分かっていないんだから」


「……うん。それは分かってる」


 零は真剣な表情で頷いた。


「だから、ルシエラと一緒に調べたいんだ。一人では試さないって約束したし」


 その言葉を聞いたルシエラは、少しだけ表情を和らげた。


「……ええ。覚えていてくれて嬉しいわ」


「もちろん。約束したから」


「ふふっ。そうね」


 ルシエラは微笑んだ後、机の上に置かれた書物へ視線を落とした。


「実はね、私も一つ気になっていることがあるの」


「……気になってること?」


「以前、私があなたの魔力を動かしたときと、ヴィクトリアとの手合わせであなた自身が魔力へ意識を伸ばしたとき。その二つでは、起きた現象が明らかに違っていたでしょう?」


「……うん」


「だから今回は、私が直接魔力を動かすのではなく、あなたが意識を向けたときに何が起こるのかを調べたいの」


 零は少し考えてから頷いた。


「……そっか。僕が魔力を動かせなくても、何か変化があるかもしれないってこと?」


「ええ。あなたが自分で魔力を動かせるようになったとは、まだ言えないわ。でも、意識を向けることが何らかのきっかけになっている可能性はあるもの」


 ルシエラはそこで一度言葉を区切った。


「ただし、無理に融合させようとしては駄目よ。今日はあくまで変化を確かめるだけ。私が止めるように言ったら、すぐにやめること。いいわね?」


「うん。分かった」


「それならいいわ。準備をしましょうか」


     ◇


 研究を行うことになったのは、屋敷の中にある静かな一室だった。


 余計な家具の置かれていない室内には、二人が向かい合って座れるだけの広さがある。窓から差し込む光が床を照らし、外からは遠くに鳥の声が聞こえていた。


 零が床に腰を下ろすと、ルシエラもその正面に座った。


「まずは、いつもの状態を確かめましょう。氣も魔力も、無理に動かそうとしなくていいわ」


「うん」


 零は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


 身体の内側へ意識を向けると、慣れ親しんだ氣の流れが感じられる。幼い頃から身近にあったその感覚は、今では呼吸をするのと同じくらい自然なものだった。


 一方、魔力は違う。


 その存在を感じ取ることは以前より容易になっていたが、氣のように思いどおりに扱えるわけではない。


「……どうかしら?」


 ルシエラの声に、零は目を閉じたまま答えた。


「氣はいつもどおり。魔力も感じるけど……やっぱり、氣とは全然違う」


「その違いを、もう少し詳しく教えてくれる?」


「うーん……氣は、自分の身体の一部みたいな感じなんだ。でも魔力は、そこにあるって分かるのに、どうすれば動くのか分からない」


「なるほど……」


 ルシエラは零の言葉を聞きながら、彼の魔力の状態へ注意を向けていた。


「では、今度は魔力へ意識を向けてみて。以前、私が魔力を動かしたときの感覚を思い出せるかしら?」


「……うん。やってみる」


 零はゆっくりと意識を集中させた。


 以前、ルシエラが魔力を動かしてくれたとき、身体の奥が僅かに温かくなった。


 その感覚を思い出しながら、魔力の存在を探る。


(……この辺り、だったかな)


 魔力は確かに感じられる。


 しかし、そこへ意識を向けても、氣のように自由に動かせるわけではなかった。


「……どう?」


 零が尋ねると、ルシエラは少し考えてから答えた。


「魔力に僅かな揺らぎが生じているわ。でも、あなたが意識を向けたことで動いたのか、それとも別の反応なのかは、まだ分からないわね」


「……そっか」


「ええ。だから、今は無理に動かそうとしなくていいの。あなたが何を感じているのか、それを教えてちょうだい」


「うん」


 零は再び意識を集中させた。


 魔力へ注意を向けると、身体の奥に僅かな違和感が生じる。


 以前ほど激しい反発ではないものの、氣と魔力が互いに馴染まないような感覚は残っていた。


「……少し、反発してる感じがする」


「強くなっている?」


「ううん。前と同じくらいだと思う」


「そう。では、一度意識を緩めてみて」


 零が意識を緩めると、違和感も次第に薄れていった。


 ルシエラはその変化を確かめ、少し考え込んだ。


「……やはり、魔力へ意識を向けたときに、何らかの反応が起きているようね」


「でも、僕は魔力を動かしたつもりはないよ?」


「ええ。そこが興味深いところなのよ」


 ルシエラは零へ視線を向けた。


「今の段階では、魔力があなたの意識に反応しているのか、それとも氣の状態が変わることで間接的に影響を受けているのか、判断できないわ」


「……氣の方が変わってるかもしれないってこと?」


「その可能性もあるわね。私が確かめられるのは、主に魔力の変化だから。氣については、あなた自身が感じたことも重要になるの」


 零は納得したように頷いた。


「……じゃあ、僕が感じたことをちゃんと伝えればいいんだね」


「ええ。小さな違いでも構わないわ。気づいたことがあれば教えてちょうだい」


 ルシエラはそう言ってから、少しだけ声を和らげた。


「ただし、無理に何かを起こそうとはしないこと。今は二つの力の関係を知ることが先よ」


「うん。分かった」


     ◇


 しばらく休憩を挟んだ後、二人はもう一度だけ確かめることにした。


 今度は、氣と魔力をそれぞれ別のものとして感じ取るのではなく、同時に意識してみる。


 ただし、魔力を動かそうとはしない。


 ルシエラも直接干渉することはせず、零が意識を向けた際に生じる魔力の変化を慎重に観測していた。


「準備はいいかしら?」


「うん」


「では、始めましょう」


 零は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


 まずは氣を感じ取る。


 身体の内側を巡る流れを確かめながら、そこに魔力の存在を重ねるように意識を向けた。


 二つの力は、確かに同じ身体の中に存在している。


 それなのに、感じ方はまるで違っていた。


(……あのときは、どうしたんだっけ)


 零の脳裏に、ヴィクトリアとの手合わせが蘇る。


 彼女の剣を前に、零は全身の氣を右拳へと集めた。


 鬼拳・轟雷。


 本来なら、強力な一撃を放つためには氣を集める時間が必要だった。


 けれど、あのときは違った。


 ヴィクトリアへ届きたい。


 ただその一心で拳を握り、ルシエラが以前に魔力を動かしてくれたときの感覚を探した。


 すると、氣と魔力が重なったような感覚とともに、いつも必要だった溜めがほとんど消えていた。


(……あのときも、魔力を動かそうとしたわけじゃなかった)


 零は僅かに眉を寄せた。


 あの瞬間、自分が何をしたのかは分からない。


 ただ、魔力の存在を探し、そこへ意識を伸ばしたことだけは覚えている。


 零はその感覚を思い出しながら、身体の内側へ注意を向けた。


 氣は普段どおりに流れている。


 魔力も、確かにそこにある。


 しかし、二つの力が重なるような感覚は訪れなかった。


(……やっぱり、違うのかな)


 そう考えたとき、零はふと、氣へ向けていた意識が僅かに強くなっていることに気づいた。


 魔力を探そうとするあまり、無意識のうちに氣の流れまで変えようとしていたらしい。


(……無理に動かさなくても、いいんだよね)


 零は意識を緩めた。


 氣を必要以上に引き出そうとせず、魔力も動かそうとしない。


 ただ、それぞれがどこにあるのかを感じ取る。


 すると――。


(……あれ?)


 身体の奥にあった違和感が、ふっと消えた。


 それまで確かに感じていた、氣と魔力の間の微かな反発。


 その感覚が、ほんの一瞬だけ途切れたのだ。


 零は思わず息を呑んだ。


 二つの力が一つになったわけではない。


 少なくとも、零にはそう感じられなかった。


 けれど、互いに押し返し合っていたものが、僅かな間だけ静かになった。


(……今のは……)


 もう一度確かめたい。


 そう思い、零が意識を向け直そうとした瞬間だった。


「零、そこまでよ」


 ルシエラの声が響いた。


 零ははっとして目を開き、すぐに意識を緩めた。


 身体の奥に生じていた感覚は、ほどなくして元へ戻っていく。


「……ルシエラ?」


「今、何か感じたでしょう?」


 ルシエラの表情は真剣だった。


「……うん。さっきまであった反発が、一瞬だけ消えた気がしたんだ」


「……そう」


 彼女は小さく呟いたが、すぐに零の顔を覗き込んだ。


「身体に痛みはない? 息苦しさや、気分の悪さは?」


「うん。大丈夫だよ」


「本当に?」


「本当。ちょっとびっくりしただけ」


 零が答えると、ルシエラはようやく肩の力を抜いた。


「……よかったわ」


「でも、ルシエラ。今のって……」


「ええ。私にも、魔力の動きが変わったことは分かったわ」


「……どう変わったの?」


「最初は、あなたが魔力へ意識を向けるたびに、僅かな揺らぎが生じていたの。でも、途中でその揺らぎが一度だけ収まったわ」


「……それって、僕が反発を感じなくなったときかな?」


「その可能性は高いわね。あなたが何を感じていたのか、私には直接分からないけれど、少なくとも魔力の状態には変化があったわ」


 ルシエラはそこで言葉を区切り、少し表情を引き締めた。


「ただ、その直後に魔力が急に乱れ始めたの。だから止めたのよ」


「……そうだったんだ」


「ええ。あのまま続けていたら、どんな影響が出たか分からないわ」


 零は少し驚いたように目を見開いた。


 自分では、反発が消えたことしか感じ取れていなかった。


 けれど、その間にも魔力の状態は変化していたらしい。


「……止めてくれてありがとう、ルシエラ」


 零がそう言うと、ルシエラは少しだけ表情を和らげた。


「どういたしまして。でも、今日はここまでよ」


「……うん」


 零は素直に頷いた。


 もう一度試せば、今の感覚を確かめられるかもしれない。


 そんな思いがなかったわけではない。


 それでも、零は再び目を閉じようとはしなかった。


 自分には分からない変化を、ルシエラは確かに捉えていた。


 だからこそ、今は彼女の判断に従おうと思ったのだ。


     ◇


 研究を終えた後、二人は今日の出来事を振り返っていた。


 零は自分が感じたことを一つずつ言葉にし、ルシエラはそれを聞きながら、観測した魔力の変化と照らし合わせていく。


「……つまり、僕が反発を感じなくなったとき、魔力の揺らぎも収まっていたんだね」


「ええ。ただし、偶然同じタイミングで起きた可能性もあるわ。まだ一度しか確認できていないもの」


「……そっか」


「それに、反発が消えたことと、氣と魔力が融合したことは別よ。今日の現象だけで、二つの力が一つになったとは言えないわね」


 零は真剣な表情で頷いた。


「でも、何か分かるかもしれないんだよね?」


「ええ。少なくとも、激しい戦いの中でなくても、二つの力の関係に変化が生じる可能性は見えたわ」


 ルシエラはそう答えると、少し考え込んだ。


「ただ、気になることもあるの」


「……何?」


「あなたが反発を感じなくなった直後、魔力が乱れ始めたことよ。あれが偶然なのか、それとも反発が消えたことと関係しているのか……そこは慎重に調べる必要があるわね」


「……うん」


 零は自分の右手へ視線を落とした。


 黒龍との戦いでも、ヴィクトリアとの手合わせでも、氣と魔力が重なったような感覚の後には、大きな負担が残っていた。


 今日の現象がそれと同じものなのかは分からない。


 けれど、力の変化に身体が追いつかなくなる可能性があるのなら、無理に試すべきではないのだろう。


「……やっぱり、簡単にはいかないね」


 零が呟くと、ルシエラは小さく笑った。


「そうね。でも、最初から答えが分かっているのなら、研究する必要なんてないでしょう?」


「……それもそうだね」


 零もつられるように笑った。


 ルシエラは机の上に置かれた書物へ視線を向けた。


「今日分かったことをもとに、私の方でも少し調べてみるわ。魔力の変化についてなら、確かめられることがあるかもしれないもの」


「僕も、今日の感覚を忘れないようにする」


「ええ。でも、一人で試すのは駄目よ?」


「分かってるよ」


 零が少しだけ頬を膨らませると、ルシエラは楽しそうに笑った。


「ふふっ。なら、安心ね」


「……もう。ちゃんと約束は守るってば」


「ええ。信じているわ」


 そう言って、ルシエラは零の頭へそっと手を伸ばした。


 優しく髪を撫でられ、零は少しくすぐったそうに目を細める。


 窓の外では、午後の陽射しが庭を明るく照らしていた。


 今日の研究で、氣と魔力の融合について明確な答えが得られたわけではない。


 それでも、零には一つの手掛かりが残された。


 あの一瞬、反発が消えた理由は何だったのか。


 そして、その直後に魔力が乱れ始めたのはなぜなのか。


 まだ分からないことは多い。


 けれど、今は焦らず、一つずつ確かめていけばいい。


 零はそう考えると、隣にいるルシエラへ顔を向けた。


「……ねえ、ルシエラ。また一緒に調べてくれる?」


 ルシエラは、当然だと言わんばかりに微笑んだ。


「もちろんよ、零。私も最後まで付き合うつもりだもの」


「……ありがとう!」


 嬉しそうに笑う零を見て、ルシエラも目を細める。


 氣と魔力の融合。


 その謎を解き明かすための研究は、まだ始まったばかりだった。

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