第三十三章 陽だまりの約束
昨夜はヴィクトリアとセレフィーナもそのままルシエラの屋敷に泊まることとなり、賑やかな夜が明けると、屋敷には穏やかな朝が訪れていた。
窓から差し込む柔らかな光に誘われるように、零はゆっくりと瞼を開いた。しばらく天井を眺めてから身体を起こしてみると、昨日まで残っていた重い疲労は幾分和らいでおり、昨夜は思っていた以上に深く眠れたらしい。
もっとも、完全に回復したわけではなかった。ヴィクトリアとの手合わせで酷使した身体にはまだ僅かな痛みが残っていたが、あの激しい戦いを思い返しても、不思議と嫌な気持ちはしない。
(……楽しかったな)
零は小さく微笑んだ。
ヴィクトリアの剣は、やはり凄かった。ガルドとの修行を重ね、以前よりも多くのことが見えるようになったはずなのに、それでもなお届かない領域がある。けれど、以前のように遠すぎる背中を見上げているだけではない。今の自分なら、あの背中を追いかけていける。そう思えることが、何より嬉しかった。
しばらく手合わせの余韻に浸っていた零だったが、やがて寝台から降りると、ゆっくりと朝の支度を始めた。
◇
朝食の席には、すでにルシエラとヴィクトリア、そしてセレフィーナが揃っていた。
「おはよう、零。よく眠れたかしら?」
「うん。おはよう、ルシエラ。みんなも、おはよう」
「おはよう、零。顔色もよさそうだな」
「おはようございます、零さん。昨夜はよく眠れましたか?」
ヴィクトリアとセレフィーナも、それぞれ穏やかな笑顔で零を迎えた。
「うん。ぐっすり眠れたよ。身体も昨日よりずっと楽になった気がする」
「それはよかったです。ですが、まだ無理はなさらないでくださいね」
「分かってるよ、セレフィーナ」
零が笑って答えると、セレフィーナも安心したように表情を和らげた。
その隣では、ルシエラが楽しそうに二人のやり取りを眺めている。
「ふふっ。セレフィーナがいてくれると、私も安心だわ。零は目を離すと、すぐに身体を動かそうとするもの」
「……そんなに無茶してないと思うけど」
「昨日の手合わせをした後で、それを言うのか?」
ヴィクトリアに指摘され、零は少し困ったように笑った。
「……昨日は、ちょっと頑張りすぎたかも」
「ちょっと、で済むならいいんだがな」
呆れたような言葉とは裏腹に、ヴィクトリアの表情は穏やかだった。
その笑顔を見た瞬間、零の脳裏に昨夜の光景が浮かぶ。
湯気の向こうで見た、いつもとは少し違う彼女の表情。頬を赤く染め、どこか恥ずかしそうにしていた姿を思い出した途端、零はなぜか落ち着かなくなり、そっと視線を逸らしてしまった。
「……零?」
「えっ? な、何?」
「いや……どうかしたのか?」
「ううん! 何でもないよ」
零が慌てて首を振ると、ヴィクトリアは不思議そうに眉を寄せたものの、それ以上は追及しなかった。
その様子を見ていたルシエラが、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……ふふっ」
「ルシエラ?」
「いいえ、何でもないわ。さあ、冷めないうちにいただきましょう?」
零は少し首を傾げたが、やがて目の前の朝食へと視線を戻した。
食卓には穏やかな会話が流れ、窓の外からは小鳥たちの声が聞こえてくる。三人と一緒に食事を取る時間は心地よく、零も自然と笑顔になっていた。
ただ、ヴィクトリアと目が合うたびに、胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなくなる。その理由は、やはり分からないままだった。
◇
朝食を終えた零は、屋敷の庭へ出ていた。
澄んだ空気が頬を撫で、花壇には色とりどりの花が咲いている。庭木の葉が風に揺れるたび、木漏れ日が石畳の上で静かに形を変え、花々の間を小さな蝶が舞っていた。
今日は修行を休むように言われている。身体を動かしたい気持ちはあったものの、無理をして再び皆に心配をかけるわけにもいかず、零は庭に置かれた長椅子へ腰を下ろして、しばらく空を眺めていた。
「……零さん?」
不意に声が聞こえ、振り返ると、そこにはセレフィーナが立っていた。
柔らかな青い髪が朝の光を受けて淡く輝き、その瞳にはいつもの穏やかな優しさが宿っている。
「セレフィーナ。どうしたの?」
「少し庭を歩こうと思っていたんです。零さんも、外の空気を吸いにいらしたんですか?」
「うん。今日は修行ができないから、のんびりしようと思って」
「ふふっ。それはいいことですね。きちんと休むのも大切ですから」
セレフィーナはそう言って微笑むと、零の顔色を確かめるように少しだけ身を屈めた。
「身体の調子はいかがですか?」
「昨日よりずっといいよ。少し痛むところはあるけど、動けないほどじゃないから」
「そうですか。ですが、まだ無理は禁物ですよ」
「分かってるよ。……セレフィーナも、ルシエラと同じこと言うんだね」
零が少しおかしそうに笑うと、セレフィーナもつられるように笑みを零した。
「それだけ、皆さん零さんのことを心配しているということですよ」
「……うん。ありがとう」
零が素直に礼を言うと、セレフィーナは嬉しそうに頷いた。
そのまま彼女が散歩を続けようとしたところで、零はふと昨夜の約束を思い出した。
「あ、セレフィーナ。……今、少し時間ある?」
「ええ。どうかしましたか?」
「昨日、色々教えてくれるって言ってたよね」
その言葉に、セレフィーナは一瞬驚いたような表情を浮かべ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……はい。もちろん覚えていますよ」
「じゃあ、少しお話ししない? 僕、セレフィーナのこと、もっと知りたいから」
零は隣の空いた場所へ視線を向けた。
セレフィーナは少しだけ目を見開いたが、やがて柔らかく頷くと、彼の隣へ静かに腰を下ろした。
「……ええ。喜んで」
◇
風が吹くたびに木々の葉が擦れ合い、花壇からは微かな甘い香りが漂ってくる。二人はしばらく庭を眺めていたが、やがて零が隣へ顔を向けた。
「……ねえ、セレフィーナ。普段は何をして過ごしてるの?」
「そうですね……基本的には、教会にいることが多いですよ」
「教会では、どんなことをしてるの?」
「日によってすることは違いますけれど、色々な方とお会いする機会がありますね」
「……そっか。色んな人が来るんだね」
「ええ。教会には様々な方がいらっしゃいますから」
セレフィーナは穏やかに答えた。
零はその言葉を聞きながら、教会で過ごす彼女の姿を想像していた。自分が怪我をしたとき、何度も優しく声をかけてくれたように、きっと訪れる人たちにも丁寧に接しているのだろう。
「……セレフィーナらしいね」
「そうでしょうか?」
「うん。誰にでも優しいところとか」
「ふふっ。ありがとうございます。でも、零さんも十分お優しいと思いますよ」
「……僕が?」
思いがけない言葉に、零は不思議そうに首を傾げた。
「はい。こうして私のことを知ろうとしてくださるのも、嬉しいですから」
「……そっか」
零は少し照れくさそうに笑った。
すると、セレフィーナも楽しそうに目を細める。
「ところで、零さんは普段どのように過ごしているんですか? ルシエラさんのお屋敷では、修行をされていることが多いのでしょうか?」
「うん。修行したり、本を読んだりかな。ルシエラとお話しすることも多いよ」
「本がお好きなんですね」
「うん。知らないことを知るのは楽しいから」
零はそう答えてから、少し考えるように視線を上げた。
「でも、最近は身体を動かしてる時間の方が長いかもしれない。ガルドのところにいたときも、毎日修行してたし」
「ふふっ。ヴィクトリアさんからも伺いました。とても熱心に取り組んでいらしたそうですね」
「……ヴィクトリアが?」
「はい。零さんがどれほど成長されたのか、嬉しそうにお話ししていましたよ」
その言葉を聞いた零は、思わず目を瞬かせた。
ヴィクトリアが自分のいないところでそんな話をしていたとは知らなかった。胸の奥に温かなものが広がり、零は少し嬉しそうに微笑んだ。
「……そうなんだ」
「ヴィクトリアさんは、本当に零さんのことを大切に思っていらっしゃるんですね」
「……うん。僕も、ヴィクトリアのこと大切に思ってるよ」
零にとっては、ごく自然な返事だった。
セレフィーナはそんな彼の様子を見て微笑み、それから庭へ視線を戻した。
しばらく他愛のない話を続けていたが、ふと零が何かを思い出したように口を開く。
「……ねえ、セレフィーナ。教会って、やっぱり大変?」
「大変、ですか?」
「うん。色んな人が来るんでしょ? セレフィーナは、いつも誰かのことを心配してる気がするから」
その問いに、セレフィーナは少し意外そうに瞬きをした。
「僕が怪我をしたときも、ずっと気にかけてくれたでしょ? 昨日だって、何度も無理しないようにって言ってくれたし」
「それは……零さんが心配でしたから」
「うん。だから、ありがとうって思ってる。でも、セレフィーナはどうなのかなって。疲れたり、困ったりすることはないの?」
零が尋ねると、セレフィーナはすぐには答えず、膝の上で重ねていた手へ一度だけ視線を落とした。
「……そうですね。もちろん、何もかもが思いどおりにいくわけではありません。私にできることにも限りがありますし、どうすればよいのか迷うこともあります」
「……セレフィーナでも?」
「ふふっ。私でも、ですよ」
彼女は少しおかしそうに笑った。
「零さんは、私が迷うことなどないと思っていましたか?」
「……ううん。でも、いつも落ち着いてるから」
「そう見えているのなら、少し嬉しいですね。けれど、自分の選んだことが本当に正しかったのか、後になって考えることもあるんですよ」
零は黙って耳を傾けていた。
普段のセレフィーナは、いつも穏やかで、誰に対しても優しい。その姿しか知らなかった零にとって、彼女が自分の迷いを口にすることは少し意外だった。
「……そっか。セレフィーナも、色々考えるんだね」
「ええ。嬉しいことがあれば喜びますし、悲しいことがあれば胸が痛みます。時には、どうしたらよいのか分からなくなることもありますよ」
そう言って微笑む彼女の表情は、どこか柔らかかった。
零はしばらく考えた後、素直に頷く。
当たり前のことなのかもしれない。けれど、今まで彼が見てきたのは、誰かを助けているセレフィーナの姿ばかりだった。
こうして話していると、少しずつ知らなかった彼女の一面が見えてくる。
「……じゃあ、セレフィーナは何をしてるときが一番楽しいの?」
「一番、ですか?」
「うん。教会にいるときでも、それ以外でも」
セレフィーナは少し考え込んだ。
零は急かすことなく、その答えを待っていた。
「一番かどうかは分かりませんが……誰かとこうして、ゆっくりお話しする時間は好きですよ」
「……お話し?」
「はい。何か特別なことをしなくても、相手の話を聞いたり、自分の考えを伝えたり。そういう時間は、とても大切だと思っています」
零はその言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなった。
「……じゃあ、今も?」
「もちろんです。今、こうして零さんとお話しできて、とても嬉しいですよ」
その返事は、驚くほど自然だった。
「……そっか。僕も楽しいよ」
零が微笑むと、セレフィーナも嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた。
◇
「……そういえば、零さん」
しばらくして、今度はセレフィーナが口を開いた。
「私ばかり質問に答えているのも、少し不公平ではありませんか?」
「……え?」
零が首を傾げると、彼女は楽しそうに微笑んだ。
「昨日、私も零さんのことをもっと知りたいとお伝えしましたよね? ですから、私からも少し質問してよろしいですか?」
「あ……そうだった。うん、もちろん」
零が頷くと、セレフィーナは少し考えるように視線を落とした。
「では……零さんは、どんな時間が好きですか? 修行をしているとき以外でも、何かありますか?」
零は少し考えた。
修行をしている時間は好きだ。新しいことができるようになるのも、強い相手と手合わせをするのも楽しい。けれど、それだけではない。
ガルドと山で過ごした日々や、侯爵家で皆と食卓を囲んだ時間。そして、ルシエラの屋敷で過ごす穏やかな毎日。
思い返してみると、好きな時間はいくつもあった。
「……みんなと一緒にいる時間、かな」
零はそう答えた。
「一人で本を読んだり、修行したりするのも好きだけど……誰かと一緒にご飯を食べたり、お話ししたりするのも好きだよ」
「……そうなんですね」
「うん。昔は、あまりそういうことを考えなかったけど」
零は少しだけ視線を落とした。
かつては、誰かと過ごすことが当たり前だった。その当たり前を失ってから、もう一度誰かと笑い合えるようになるまで、長い時間が必要だった。
けれど、今は違う。
今の零には、帰りを待ち、心配してくれる人たちがいる。何気ない会話を交わし、同じ食卓を囲む時間を、いつしか心から楽しみにするようになっていた。
「……今は、そういう時間が嬉しいんだ」
零が静かに微笑むと、セレフィーナはその横顔を見つめながら、穏やかに頷いた。
「……それは、とても素敵なことですね。零さんがそう思えるようになったことを、私も嬉しく思います」
「……ありがとう」
零は少し照れくさそうに笑った。
すると、セレフィーナも小さく笑う。
「それに、私もその『みんな』の中に入れていただけているのなら、嬉しいですね」
零は不思議そうに首を傾げた。
「……もちろん、入ってるよ?」
「……え?」
「だって、セレフィーナも大切な人だから」
あまりにも自然な言葉だった。
セレフィーナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます、零さん。私にとっても、零さんは大切な方ですよ」
「……うん」
零は嬉しそうに頷いた。
セレフィーナもまた、隣に座る少年へ穏やかな眼差しを向けていた。こうして話していると、零がどんなことを嬉しいと感じ、何を大切にしているのかが、少しずつ分かってくる。
昨夜交わした約束を、今日こうして果たせたことが、彼女にも嬉しかった。
◇
気づけば、太陽は朝よりも高い位置へ昇っていた。
庭を吹き抜ける風も少しずつ温かくなり、遠くからは屋敷の使用人たちが行き交う気配が聞こえてくる。
「……そろそろ戻りましょうか」
セレフィーナが静かに言った。
「零さんも、あまり長く外にいると疲れてしまいますから」
「……もう少し大丈夫だよ?」
「ふふっ。そう言うと思っていました。ですが、今日は休養の日ですからね」
「……分かった」
零は少し名残惜しそうに頷いた。
その様子を見て、セレフィーナは柔らかく目を細める。
「……また、お話ししましょうね」
「うん! 僕も、またセレフィーナとお話ししたい」
「……ええ。私もです」
セレフィーナはそう答え、ゆっくりと立ち上がった。
零も続いて立ち上がろうとすると、彼女がそっと手を差し伸べてくる。
「どうぞ」
「……ありがとう」
零はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
触れた手は温かく、差し伸べられた仕草も自然だった。零が顔を上げると、セレフィーナはいつもと同じように優しく微笑んでおり、その笑顔を見て、零も自然と笑みを返した。
今日、彼女と話したことを思い返す。
普段は教会で過ごしていること。人の話を聞く時間を大切にしていること。そして、いつも穏やかに見える彼女にも、迷ったり悩んだりすることがあるということ。
まだ知らないことは、きっとたくさんある。それでも、昨日より少しだけセレフィーナのことを知れた気がした。
「……ねえ、セレフィーナ」
「はい?」
「また、こうして一緒に過ごそうね」
セレフィーナは嬉しそうに頷いた。
「……はい。約束ですよ」
「うん。約束」
二人は微笑み合い、並んで屋敷へと歩き出した。
朝の陽射しが差し込む庭には、先ほどまで二人が座っていた長椅子が静かに残されている。
何か特別な出来事があったわけではない。ただ言葉を交わし、互いのことを少し知っただけ。
それでも零は、またセレフィーナと話せる日が、今から少し楽しみだった。




