第三十二章 名もなき想い
浴室へと続く廊下には、四人分の足音が響いていた。
「……本当に、四人で入るのか?」
先ほどから何度目になるか分からない問いを口にしたのは、ヴィクトリアだった。普段は剣帝として堂々と振る舞う彼女も、今ばかりは落ち着かないらしく、隣を歩くルシエラへ何度も視線を向けている。
「もう、ヴィクトリアったら。何度確認しても答えは変わらないわよ?」
「……それは分かっている。だが、だからといって簡単に割り切れるものでもないだろう」
「ふふっ。零が誘ってくれたんだもの。せっかくだから、楽しみましょう?」
ルシエラは涼しい顔で微笑んだ。その様子に、ヴィクトリアは何か言い返そうとしたものの、結局は深いため息をつく。
「……お前は本当に、こういうときだけ楽しそうだな」
「あら。いつだって楽しいわよ?」
「……まったく」
二人のやり取りを聞きながら、零は不思議そうに首を傾げていた。
ルシエラと一緒に風呂へ入ることは、今では珍しくもない。それに、今日はヴィクトリアとセレフィーナも一緒なのだ。零にとっては、親しい人たちと過ごせる時間が増えることが、ただ嬉しかった。
「……ヴィクトリア、やっぱり嫌だった?」
零が尋ねると、ヴィクトリアは慌てて首を振った。
「い、いや! そういうわけではないぞ!」
「……そっか。よかった」
零が安心したように微笑むと、ヴィクトリアは言葉を詰まらせた。真っ直ぐに向けられる黒い瞳には、疑いや遠慮など微塵もない。
「……嫌なわけがないだろう」
ヴィクトリアは小さく呟き、零の頭へそっと手を伸ばした。
優しく髪を撫でられ、零は嬉しそうに目を細める。
その様子を見て、セレフィーナも穏やかに微笑んだ。
「ふふっ。零さんが楽しみにしているのですから、私たちも楽しまないといけませんね」
「うん!」
零が元気よく頷くと、ヴィクトリアもようやく小さく笑った。
そんな二人を眺めながら、ルシエラは楽しそうに目を細めていた。
◇
浴室へ足を踏み入れると、温かな湯気が四人を迎えた。
広々とした室内には大きな浴槽が設けられており、磨き上げられた石造りの床には柔らかな灯りが反射している。湯船から立ち上る白い湯気が周囲を淡く包み込み、外の冷えた空気とは対照的な温もりが満ちていた。
「……やっぱり、ここのお風呂は広いね」
零が嬉しそうに呟くと、ルシエラが柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。今日は四人だから、ちょうどいいでしょう?」
「うん。みんなで入っても、まだ余裕があるね」
零は普段と変わらない様子で身体を洗う場所へ向かった。ヴィクトリアとセレフィーナは初めこそ戸惑っていたものの、ルシエラと零の自然なやり取りを見ているうちに、少しずつ緊張が解れていった。
ルシエラはそんな二人を眺めながら、零へ声をかける。
「零。今日は身体に負担をかけないようにしましょうね。長湯はしないこと。それから、少しでも気分が悪くなったら、すぐに教えてちょうだい」
「うん。分かってるよ」
「本当に?」
「本当だってば」
零が少しだけ頬を膨らませると、ルシエラはくすくすと笑った。
「ふふっ。なら、いいわ」
そのやり取りを聞いていたセレフィーナも、穏やかに頷く。
「私も様子を見ていますから、安心してくださいね。ただし、無理をしてはいけませんよ?」
「うん。ありがとう、セレフィーナ」
零が微笑むと、セレフィーナも優しく微笑み返した。
その光景を見て、ヴィクトリアはようやく肩の力を抜いた。
零がこうして安心して過ごせていることは、何よりも喜ばしいことだった。自分が戸惑っているからといって、その穏やかな時間を壊す必要はない。
そう考えると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
◇
身体を洗い終えた四人は、ゆっくりと湯船へ身を沈めた。
温かな湯が身体を包み込むと、零の口から自然と安堵の息が零れた。今日の手合わせで酷使した筋肉が少しずつ解れ、身体の奥に残っていた疲労も和らいでいくように感じられる。
「……気持ちいい」
「ふふっ。そうでしょう?」
隣に座るルシエラが微笑んだ。
向かい側では、ヴィクトリアも落ち着いた様子で湯に浸かっている。セレフィーナはそんな彼女を見て、ほっとしたように表情を和らげていた。
「……こうしていると、不思議なものだな」
ヴィクトリアがぽつりと呟く。
「何が?」
零が尋ねると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「つい先ほどまで、あれほど真剣に剣を交えていたというのに、今はこうして一緒に風呂へ入っている。何とも妙な気分だ」
「……そうだね」
零も小さく笑った。
「でも、僕は嬉しいよ。ヴィクトリアと本気で戦えたし、こうして一緒にいられるから」
「……零」
ヴィクトリアは僅かに目を見開き、それから穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。私も、お前の成長を確かめられて嬉しかったぞ」
普段の凛々しい表情とは違う、柔らかな笑顔だった。
零はその顔を見つめたまま、ほんの少しだけ言葉を忘れた。
いつも見慣れているはずのヴィクトリアの顔が、なぜか今日は違って見える。剣を握るときの鋭い眼差しも、稽古で見せる真剣な表情も知っている。それなのに、こうして穏やかに微笑む彼女から、目を離すのが惜しいような気がした。
「……どうした、零?」
不思議そうに尋ねられ、零はようやく我に返った。
「……ううん。何でもない」
「そうか?」
ヴィクトリアは少しだけ首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
その後も四人は、今日の手合わせやガルドとの修行について穏やかに言葉を交わしていた。
やがて、ヴィクトリアが零の様子を確かめるように顔を向ける。
「零。少し顔が赤いな。そろそろ上がった方がいいのではないか?」
「……え? そうかな」
零は自分の頬へ手を当てた。
確かに、少し熱い気がする。けれど、気分が悪いわけではなかった。
「ううん。大丈夫だよ」
「そうか。だが、今日は無理をしない方がいい。そろそろ上がるとしよう」
ヴィクトリアはそう言って、零が湯から上がるのを手伝おうと腰を上げた。
そのときだった。
「あっ……!」
身体に巻いていたタオルが緩み、濡れた布が足元へ滑り落ちた。
「――っ! 零、向こうを向いていろ!」
突然の声に驚きながらも、零は反射的に顔を背けた。
視界の端に映ったのは、足元へ落ちた白いタオルだけだった。背後では慌ただしく布を拾い上げる気配がしており、普段は落ち着いているヴィクトリアがひどく慌てていることだけは伝わってくる。
「……も、もういいぞ」
少し間を置いて聞こえた声に、零はゆっくりと振り返った。
そこには、頬を赤く染めたヴィクトリアがいた。
「……すまない。驚かせたな」
「……ううん」
零は小さく首を振った。
けれど、ヴィクトリアの顔を見た途端、今度は自分の方が落ち着かなくなってしまった。
先ほどまで自然に交わしていた視線を、なぜか真っ直ぐに向けられない。何か言わなければと思うのに、言葉を探すほど頬が熱くなっていく。
(……何だろう)
零はそっと視線を落とした。
戦いの最中に感じる高揚とも、危険を前にしたときの緊張とも違う。胸の奥が妙にくすぐったく、落ち着こうとすればするほど、ヴィクトリアの恥ずかしそうな表情が頭に浮かんでしまう。
「……零?」
再び名前を呼ばれ、零は思わず肩を揺らした。
「……な、何でもないよ!」
「……そうか?」
ヴィクトリアは不思議そうに首を傾げる。
その仕草を見て、零はますます顔を上げづらくなってしまった。
そんな二人を眺めていたルシエラは、僅かに目を細めた。
いつもなら、零はこうした出来事にも大して動じない。相手がどれほど慌てていようと、不思議そうに首を傾げることの方が多かった。
それなのに、今は自分から目を逸らしている。
その変化が何を意味するのか、まだ決めつけるつもりはなかった。ただ、零の中で何かが少しずつ変わり始めていることだけは感じていた。
ルシエラは柔らかな笑みを浮かべると、そっと零へ声をかけた。
「零。少し顔が赤いわね。のぼせたのかしら?」
そう言って、零の額へ手を伸ばす。
これまで何度も繰り返してきた、何気ない仕草だった。
零も普段なら、その手の温もりに安心して目を細めていたはずだった。
けれど、ルシエラの指先が額に触れた瞬間、零は思わず息を止めた。
顔を上げると、深い紫の瞳がすぐ近くにあった。自分を心配してくれる優しい眼差しも、柔らかな微笑みも、いつもと何一つ変わらない。
それなのに、なぜか今日は、その距離がひどく近く感じられた。
「……零?」
ルシエラが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「……う、ううん。大丈夫」
零は小さく首を振った。
その反応に、ルシエラは少しだけ目を見開いた。
普段なら素直に甘えてくる零が、今日はどこかぎこちない。しかも、嫌がっているわけではなさそうだった。
むしろ、どうしてよいのか分からず戸惑っているように見える。
「……そう?」
ルシエラは優しく微笑み、そっと手を離した。
「でも、無理はしないでね」
「……うん」
零は頷きながら、離れていった彼女の手を目で追っていた。
これまで何度も触れてもらった温もりなのに、なぜか今日は、その感触がいつまでも額に残っているような気がした。
その様子を見ていたセレフィーナが、穏やかに声をかける。
「零さん。そろそろ上がりましょうか。身体が温まったのでしたら、今日はもう十分だと思いますよ」
「……うん」
零は素直に頷いた。
セレフィーナは安心したように微笑むと、少しだけ身を寄せて零の顔色を確かめた。
「無理をせず、ゆっくり休んでくださいね。今日の手合わせで消耗した身体を回復させることも、大切な修行の一つですから」
「……そうだね」
零は小さく笑った。
「ありがとう、セレフィーナ。いつも僕のこと、心配してくれて」
その言葉に、セレフィーナは僅かに目を見開いた。
そして、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「ふふっ。零さんが元気でいてくださることが、私にとっては何より嬉しいことですから」
零はその笑顔を見つめながら、ふと、これまでのことを思い返した。
黒龍との戦いで深い傷を負ったときも、目を覚ました後も、セレフィーナはいつも自分を気遣ってくれた。けれど、彼女自身がどんなことを好み、普段どのように過ごしているのか、零はまだほとんど知らない。
ヴィクトリアとは剣を交え、ルシエラとは同じ屋敷で暮らしている。それに比べると、セレフィーナと過ごした時間はまだ短かった。
いつも自分のことを気遣ってくれる彼女は、自分自身のことになると、あまり多くを語らない。
何が好きで、普段はどんなふうに過ごしているのだろう。
そう考えると、自然と言葉が零の口をついて出た。
「……ねえ、セレフィーナ」
「はい。何でしょう?」
「今度、セレフィーナのことも色々教えてほしいな」
「……私のこと、ですか?」
少し意外そうに目を瞬かせるセレフィーナへ、零は素直に頷いた。
「うん。僕、セレフィーナに助けてもらってばかりで、まだあまりセレフィーナのことを知らないから」
その言葉に、セレフィーナはしばらく零を見つめていた。
やがて、嬉しそうに微笑む。
「……ええ。もちろんです。私でよければ、いくらでもお話ししますよ」
「ほんと?」
「はい。私も、零さんのことをもっと知りたいと思っていましたから」
零は嬉しそうに笑った。
セレフィーナもまた、どこか照れたように微笑んでいる。
その様子を見ていたルシエラは、楽しそうに目を細めた。
「ふふっ。よかったわね、セレフィーナ」
「……ルシエラさん?」
「いいえ。何でもないわ」
ルシエラは意味ありげに微笑む。
ヴィクトリアはそんな二人のやり取りを見ながら、ようやく普段の落ち着きを取り戻しつつあった。
「……さて。セレフィーナの言うとおり、そろそろ上がるとしよう。零も、今日は早めに休めよ」
「うん。分かってる」
零が素直に頷くと、ヴィクトリアは安心したように微笑んだ。
その表情を見た零は、また少しだけ視線を逸らしてしまった。
理由は分からない。
ただ、今は彼女と目を合わせることが、いつもより少しだけ難しかった。
◇
風呂を上がり、着替えを終えた零は、廊下へ出ると小さく息を吐いた。
身体は十分に温まり、先ほどまで感じていた疲労も幾分和らいでいる。けれど、胸の奥には、まだ何とも言えない感覚が残っていた。
ヴィクトリアの笑顔を見たとき、思わず目を奪われたこと。あの小さな騒動の後、彼女と視線を合わせることさえ難しくなってしまったこと。
そして、ルシエラがいつもどおりに額へ触れてくれたとき、なぜかその温もりを強く意識してしまったこと。
どちらも、これまで何度も経験してきたはずの出来事だった。それなのに、今日は何かが違っていた。
零はそっと胸元に手を当てる。
氣を通して他人の感情を感じ取ることはできる。喜びも、悲しみも、不安も、怒りも。言葉にされなくても、相手の心が揺れていることに気づく場面は少なくなかった。
けれど、自分の中に生まれた感覚となると、途端に分からなくなる。
ヴィクトリアの顔を思い出すだけで、頬が熱くなる。
ルシエラの優しさに触れると、これまでとは違う落ち着かなさを覚える。
そして、セレフィーナとは、もっと色々な話をしてみたいと思った。
それぞれ違うはずの気持ちが、今は胸の奥で静かに重なっている。
「……零?」
不意に声をかけられ、零は顔を上げた。
そこには、着替えを終えたヴィクトリアが立っていた。
「……ヴィクトリア」
「どうした? こんなところで立ち止まって。まだ疲れているのか?」
「……ううん。ちょっと考え事をしてただけ」
「そうか」
ヴィクトリアは安心したように微笑んだ。
「今日はもう休め。明日は修行のことなど考えず、ゆっくり過ごすんだぞ」
「……うん。ありがとう」
零が小さく微笑むと、ヴィクトリアは満足そうに頷いた。
「それならいい。おやすみ、零」
「……おやすみ、ヴィクトリア」
彼女は優しく微笑むと、廊下の向こうへ歩いていった。
零はその背中を、しばらく見つめていた。
もう姿が見えなくなったというのに、先ほどの笑顔が頭から離れない。思い返すたびに頬が熱くなり、胸の奥がくすぐったくなる。
これまで、ヴィクトリアに会うことはいつも楽しみだった。剣を教えてもらえることも、一緒に過ごせることも、心から嬉しかった。
けれど、今感じているものは、そのどちらとも少し違う。
彼女の笑顔を、もう一度見たい。
そんな気持ちが、自然と胸に浮かんでいた。
零はしばらくその場に立っていたが、やがて小さく息を吐き、自分の部屋へと歩き出した。
寝台へ身体を預けると、今日一日の出来事がゆっくりと蘇ってくる。
ヴィクトリアとの手合わせ。
ルシエラに心配をかけてしまったこと。
セレフィーナの優しい言葉。
そして、四人で過ごした、少し不思議な時間。
目を閉じると、真っ先に浮かんだのは、ヴィクトリアの柔らかな笑顔だった。
零は無意識に頬へ手を当てる。
まだ、少しだけ熱が残っている。
(……明日も、会えるかな)
そう考えた途端、自然と口元が緩んだ。
その理由を考えてみても、答えは見つからない。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
零は小さく微笑むと、静かに目を閉じた。
明日もヴィクトリアに会えることを、ほんの少しだけ楽しみにしながら。




