第三十一章 届いた想い
――身体が、重い。
深い眠りの底から意識が浮かび上がるにつれ、零は全身にまとわりつくような倦怠感を覚えた。指先を動かすだけでも普段より力が必要で、起き上がろうとすれば身体の芯から疲労が滲み出してくるようだった。
それでも、不思議と痛みはない。
柔らかな寝具に身体を預けたまま、零は微かに漂う馴染みのある香りを感じ取った。重たい瞼をゆっくりと開けば、そこには何度も目にしてきた天井が広がっている。
(……僕の部屋?)
どうやら、ルシエラの屋敷に戻ってきているらしい。
ぼんやりとした頭で記憶を辿るうち、少しずつ手合わせの光景が蘇ってくる。
ヴィクトリアの大剣が描く鋭い軌跡。幾度となく崩された体勢と、どれだけ手を伸ばしても届かなかった彼女の剣技。そして、最後に放った鬼拳・轟雷。
あの瞬間、確かに何かが変わった。
いつものように氣を拳へ集めようとしたとき、零は身体の奥に眠る魔力へ意識を伸ばした。以前、ルシエラが魔力を動かしてくれたときの感覚を思い出しながら、二つの力が触れ合う場所を探ろうとしたのだ。
その直後、身体の奥で何かが重なり、拳へと流れ込んできた。
だが、それがどのようにして起きたのかは分からない。自分の意思で魔力を動かせたという実感もなく、ただ、あの一瞬だけは、いつもとは違う力が拳に宿っていた。
そして――。
(……届いたんだ)
零は静かに目を細めた。
倒れた直後のことは、今も朧げに覚えている。
ルシエラに抱き留められ、セレフィーナに身体を診てもらったこと。そして、ヴィクトリアに自分の拳が届いたのか尋ねたこと。
『ああ。確かに届いたぞ、零』
あの言葉は、今も耳に残っていた。
勝つことはできなかった。それでも、自分の拳は確かにヴィクトリアへ届いたのだ。
その事実を思い返すと、胸の奥に小さな喜びが広がる。
けれど、それと同時に、別の感情も浮かび上がってきた。
(……ルシエラとの約束、破っちゃったな)
以前、氣と魔力について話したとき、ルシエラは自分の見ていないところで試さないようにと言っていた。零も、それを守ると約束した。
それなのに、ヴィクトリアに勝ちたいという気持ちを抑えきれず、自分から魔力へ意識を伸ばしてしまった。
危険だと分かっていた。
ルシエラが心配することも、分かっていた。
それでも、あのときはどうしても、目の前のヴィクトリアへ届きたかったのだ。
「……零?」
聞き慣れた声に顔を向けると、寝台の傍に置かれた椅子に、ルシエラが腰掛けていた。
深い紫の瞳が零をじっと見つめ、目が合った途端、その表情が柔らかく綻ぶ。
「……ルシエラ」
「ええ。おはよう、零」
いつもと変わらない優しい声だったが、零にはその奥に滲む安堵が感じ取れた。
「身体はどう? 痛むところはない?」
「……うん。ちょっと重いけど、痛くはないよ」
「そう。よかったわ」
ルシエラは小さく息を吐くと、零の額にそっと手を添えた。その手の温もりが心地よく、零は自然と目を細める。
「……僕、どれくらい寝てたの?」
「数時間くらいかしら。もう夕方よ」
「そんなに……」
窓へ視線を向ければ、差し込む陽光はすでに赤みを帯びていた。手合わせを始めた頃とは随分違う空の色に、零は改めて長い時間眠っていたことを実感する。
「……ガルド師匠は?」
「あなたの容態を確認してから、宿へ戻ったわ。次の稽古も、あなたがちゃんと回復してからですって」
「……うん」
零は素直に頷いた。
その様子を見て、ルシエラは少しだけ眉を下げる。
「零。まずは、無事に目を覚ましてくれたことを喜ばせてちょうだい」
静かな声に顔を上げると、ルシエラは困ったように微笑んでいた。
けれど、氣を通して伝わってくる感情は、その表情ほど穏やかではなかった。安堵の奥には、まだ消えきらない不安が残っている。
「……ごめんね、ルシエラ」
「……ええ」
ルシエラは零の黒髪を優しく撫でた。
「謝るのは、もう少し後にしましょうか。あなたには、ちゃんとお話しておきたいことがあるもの」
そう言って微笑む彼女の瞳には、普段とは違う真剣さが宿っていた。
零が静かに頷いた、そのときだった。
部屋の扉が開き、セレフィーナとヴィクトリアが姿を見せた。
「零さん、目を覚まされたのですね」
「零! 身体は大丈夫か?」
二人は零が起きているのを見るなり、安堵したように表情を緩めた。
ただ、ヴィクトリアの表情には、どこか気まずそうなものが混じっている。零が眠っている間にも、セレフィーナから今日の手合わせについて注意を受けていたのだ。
「うん。ちょっと疲れてるけど、大丈夫だよ」
「そうか……それならよかった」
ヴィクトリアが微笑んだ、その直後だった。
「ヴィクトリアさん」
セレフィーナの穏やかな声が響く。
「零さんが目を覚まされたことですし、先ほどのお話の続きをしましょうか」
「…………」
ヴィクトリアの表情が、ぴたりと固まった。
「……セレフィーナ。もう十分ではないか?」
「いいえ。まだ十分ではありません」
「…………そうか」
普段なら堂々としている剣帝が、妙に大人しい。
零が不思議そうに二人を見比べていると、ルシエラが小さく笑った。
「ふふっ。零も人のことは言えないわよ?」
「……うん。分かってる」
零は素直に頷いた。
その返事に、ルシエラは僅かに目を見開く。
どうやら、零自身にも思い当たることがあるらしい。
◇
「まず、零さん。今の身体の状態を、どれくらい理解していますか?」
セレフィーナは寝台の傍へ椅子を寄せ、零と目線を合わせた。穏やかな口調は普段と変わらないものの、その眼差しには医療に携わる者としての厳しさが宿っている。
「……まだ、完全には回復してないと思う」
「そうですね。以前の大怪我からは随分回復しましたが、だからといって無理をしてよいわけではありません。特に今日の手合わせでは、身体に大きな負担がかかっていました」
零は黙って頷いた。
「倒れた直後に診察した際も、氣と魔力の流れが不安定になっていました。幸い、大きな損傷は見られませんでしたが、同じことが起きても無事でいられるとは限らないのですよ」
「……うん」
「零さんが強くなりたいと思う気持ちは、私にも分かります。ですが、そのために零さん自身が傷ついてしまっては、悲しいですから」
セレフィーナは優しく微笑んだ。
その声は決して厳しいものではない。けれど、氣を通して伝わってくる感情には、確かな心配が込められていた。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではありません。ただ、ご自分の身体をもっと大切にしてほしいのです」
零が小さく頷くと、今度はルシエラが口を開いた。
「それにね、零。私との約束、覚えているでしょう?」
「……うん」
零は俯くことなく、真っ直ぐにルシエラを見つめた。
「氣と魔力のことは、ルシエラの見ていないところで試さないって約束した」
「ええ。そうね」
ルシエラは静かに頷いた。
「それなのに、どうしてあんなことをしたの?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、零はすぐには答えられなかった。
ルシエラが心配してくれることは、分かっていた。危険だと教えてくれたことも、ちゃんと覚えていた。
それでも、あの瞬間だけは――。
「……ヴィクトリアに、勝ちたかったんだ」
零は小さく口を開いた。
「何度やっても届かなくて……でも、どうしても諦めたくなかった。だから、魔力に触れようとしたんだ」
その言葉に、ルシエラは僅かに目を細めた。
「……そう」
「約束を忘れてたわけじゃないよ。ルシエラが心配することも、分かってた」
零はそこで一度、言葉を切った。
「……それでも、やってしまった。ごめんね」
ルシエラはしばらく零を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……目の前であなたが倒れたとき、私がどんな気持ちだったと思う?」
静かな問いかけだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、零の胸が小さく痛んだ。
ルシエラから伝わってくる感情は、怒りよりもずっと深いものだった。安堵の奥に残る不安と、もう二度とあんな姿を見たくないという強い思い。
零はそっと目を伏せた。
自分は、また大切な人を心配させてしまったのだ。
「……ごめんね、ルシエラ」
「……ええ」
ルシエラは零の黒髪を優しく撫でた。
「あなたがヴィクトリアに勝ちたかったことは、分かっているわ。その気持ちまで否定するつもりはないの」
零はゆっくりと顔を上げた。
「でも、約束を破ってまで、自分でも扱い方の分からない力に手を伸ばしてほしくはなかった。氣と魔力の関係は、まだ分からないことだらけなのよ。以前より反発が弱まったとはいえ、安全に扱えると分かったわけではないんだから」
「……うん」
零は静かに頷いた。
あのとき、ヴィクトリアに勝ちたいと思った気持ちは、今も変わらない。けれど、そのためにルシエラたちを悲しませたいわけではなかった。
強くなりたい。
それでも、自分を大切に思ってくれる人たちの気持ちを、置き去りにはしたくない。
「……次からは、ちゃんと相談する。勝ちたいからって、勝手に試したりしないよ」
零がそう告げると、ルシエラはようやく表情を和らげた。
「ええ。そうしてちょうだい」
彼女はもう一度零の頭を撫で、それからセレフィーナへ視線を向ける。
すると、セレフィーナはゆっくりとヴィクトリアへ顔を向けた。
「さて、ヴィクトリアさん」
「……ああ」
「零さんは、まだ回復の途中なのですよ?」
「……分かっている」
「それなのに、あそこまで本気で手合わせをする必要があったのでしょうか?」
ヴィクトリアはすぐには答えなかった。
脳裏に蘇るのは、手合わせの最後の光景だった。
轟雷を放った直後、なおも左拳を引いた零。黄金に輝く瞳と、その奥に宿っていた揺るぎない意志。そして、次の一撃を予感したとき、自分の背筋を駆け抜けた戦慄。
あの瞬間、ヴィクトリアは確かに零を一人の強敵として見ていた。
もちろん、今の零が自分と互角に戦えるわけではない。剣技も経験も、まだ大きな隔たりがある。それでも、あの一瞬だけは、剣帝としての本能が反応したのだ。
だからこそ、自分は天華流の極技にまで手を伸ばしかけた。
それがどれほど危ういことだったのか、今なら分かる。
「……私にも、考えが足りなかった」
ヴィクトリアは静かに口を開いた。
「零がどれほど成長したのか、確かめたいと思った。それに、零自身も私に挑みたいと望んでいたからな」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、途中から私も熱くなってしまった。最後の一撃を見たときには、手合わせであることを忘れかけていた」
「ヴィクトリア……」
「すまなかった、零」
真っ直ぐに頭を下げられ、零は静かに首を振った。
「……謝らないで、ヴィクトリア。僕が望んだことだから」
自分のために頭を下げるヴィクトリアを見ていると、胸の奥が少し苦しくなる。
「それに……僕は、ヴィクトリアと本気で戦えて嬉しかったんだ」
零の言葉に、ヴィクトリアは僅かに目を見開いた。
「……そうか」
小さく呟いた後、彼女はゆっくりと首を振った。
「だが、それでも私には責任がある。私はお前よりずっと長く戦ってきた。だからこそ、止めるべきところでは止めなければならなかった」
ヴィクトリアは零を見つめたまま、静かに続ける。
「……もし、あのままお前が倒れずにいたら、私はどうしていたか分からない」
その声には、僅かな苦さが滲んでいた。
剣士としては、零の成長が嬉しかった。あの一撃に驚かされ、次にどのような拳が来るのかと胸が高鳴ったことも事実だった。
けれど、それと同時に、自分には零を守る責任もあった。
その二つの思いを、きちんと分けて考えなければならない。
「……でも、ヴィクトリア」
零が小さく口を開いた。
「僕、また挑戦したい」
ヴィクトリアは一瞬、目を見開いた。
零の黒い瞳には、真っ直ぐな意志が宿っている。
その姿を見て、ヴィクトリアは思わず微笑んだ。
「ああ。もちろんだ」
彼女は零の目を見つめ、力強く頷いた。
「だが、次は万全の状態で挑んでこい。そのときも、簡単には勝たせてやらんがな」
「……うん!」
零もまた、嬉しそうに笑った。
そんな二人を見て、セレフィーナは小さく息を吐く。
「……お二人とも、本当に反省しているのでしょうか」
「ふふっ。どうかしらね」
ルシエラが楽しそうに笑った。
ヴィクトリアは気まずそうに咳払いをし、零はきょとんと首を傾げた。
◇
しばらくして、話題は手合わせの最後に起きた現象へと移った。
「……あのときと、同じことが起きたの?」
零はルシエラの説明を聞き、静かに尋ねた。
「黒龍との戦いで、氣と魔力が重なったかもしれないって……前に話してくれたよね」
「ええ。覚えているわね」
ルシエラは頷いた。
「黒龍との戦いで、あなたの氣と魔力が一瞬だけ重なった可能性は、以前から考えていたわ。それに、先日調べたときには、魔力を動かしても以前ほど激しく反発しないことが分かった」
彼女は零の右手へ視線を落とす。
「でも、あのとき魔力を動かしたのは私よ。あなた自身が魔力を扱えたわけではなかったし、二つの力を一緒に使えるようになったと判断するには、まだ早かった」
「……うん」
「だから、今日のことには驚いたの」
ルシエラの紫の瞳が、真剣な色を帯びる。
「あなたが自分から魔力へ意識を伸ばして、その直後に氣と魔力が重なった。少なくとも、私が外から魔力を動かしたときとは、明らかに違っていたわ」
零は自分の右手を見つめた。
あの瞬間の感覚は、微かに覚えている。
ヴィクトリアへ届きたい。
ただ、その一心で拳を握ったとき、身体の奥に眠る魔力へ意識を伸ばしたのだ。
「……ルシエラが前に魔力を動かしてくれたときのこと、思い出してたんだ」
「……あのときの?」
「うん。あのとき、身体の奥が少し温かくなったでしょう? その感覚を探そうとしたんだ」
零はゆっくりと手を握る。
「でも、どうやって魔力が動いたのかは分からない。自分で動かせたっていう感じもしなかったんだ」
「……そう」
ルシエラは考え込むように目を細めた。
零には、その表情が少し意外に映った。
魔法に関することなら、ルシエラはいつも多くの知識を持っている。分からないことを尋ねれば、どんな難しい話でも、零に理解できるよう丁寧に説明してくれた。
そんな彼女が、今は答えを持っていない。
「……ルシエラにも、分からないの?」
零が尋ねると、ルシエラは僅かに目を見開き、それから困ったように微笑んだ。
「ええ。二つの力が重なる可能性は考えていたけれど、どうすればそうなるのかは、まだ分からないの」
彼女は少し考えてから、言葉を続けた。
「それに、今日の轟雷は、いつもとは違っていたでしょう? 氣を集めるための時間が、ほとんど必要なかったように見えたわ」
「……うん」
「それが氣と魔力の重なりによるものなのか、それとも別の理由があるのか。今はまだ判断できないわね」
零は静かに頷いた。
確かに、あのときはいつものように氣を集める時間が必要なかった。けれど、それがなぜなのか、自分でも説明できない。
「もう一度、同じことができそう?」
ルシエラの問いかけに、零は少し考えてから首を振った。
「……分からない。魔力に触れようとはしたけど、どうして重なったのかは分からないから」
「そうよね。なら、今は無理に再現しようとしない方がいいわ」
ルシエラはそう告げると、セレフィーナへ視線を向けた。
「身体の状態は、どうかしら?」
「もう一度、確認してみましょう」
セレフィーナは零に了承を得てから、そっと手を翳した。
掌に宿った淡い光が零の身体を包み込み、内側へと静かに染み渡っていく。魔力とは異なる、清らかな神聖力の温もりに、零は自然と肩の力を抜いた。
しばらくして、セレフィーナは手を下ろす。
「……倒れた直後に比べれば、氣と魔力の流れは落ち着いてきています。ただ、完全に安定したとは言えませんし、身体の消耗も残っていますね」
その言葉に、ルシエラの表情が僅かに和らいだ。
「氣と魔力の関係については、何か分かるかしら?」
「申し訳ありません。少なくとも、今の状態からは判断できません。先ほどの現象が身体にどのような影響を与えたのかも、慎重に見ていく必要があると思います」
「……そうね」
ルシエラは静かに頷いた。
魔帝である彼女にも、聖帝であるセレフィーナにも、今はまだ答えがない。
それだけ、あの現象は異例なのだろう。
零は自分の右手をもう一度見つめた。
自分の中にある、まだ知らない可能性。
それが何なのか、確かめたい気持ちはある。
けれど、今はそれ以上に、目の前の人たちを心配させたくなかった。
「……焦らずに、少しずつ確かめていくよ」
零がそう告げると、ルシエラは優しく微笑んだ。
「ええ。それがいいわ」
◇
夕食を終える頃には、零の顔色も随分よくなっていた。
とはいえ、身体の疲労が完全に抜けたわけではない。普段ならあっという間に食べ終えてしまう料理も、今日はいつもよりゆっくりと口に運んでいた。
それに気づいたルシエラが、何度か心配そうに声をかけてくる。
「零、無理して食べなくてもいいのよ?」
「ううん。美味しいから、ちゃんと食べたい」
零がそう答えると、ルシエラは困ったように微笑んだ。
「もう……本当に、あなたは」
そのやり取りを見ていたヴィクトリアも、どこか申し訳なさそうに目を細める。
「零。明日も無理はするなよ。修行は逃げたりしないのだからな」
「うん。分かってるよ」
「……本当だろうな?」
「本当だってば」
少しだけ頬を膨らませた零に、ヴィクトリアは思わず笑みを零した。
そんな二人を見て、セレフィーナも穏やかに微笑む。
「ふふっ。零さん、明日はしっかり休んでくださいね」
「うん。ありがとう、セレフィーナ」
夕食後は温かい飲み物を囲みながら、四人でゆったりとした時間を過ごした。手合わせの話題は自然と減り、他愛のない会話が続くうちに、部屋にはいつもの穏やかな空気が戻っていた。
やがて、ルシエラが壁の時計へ目を向ける。
「あら。もうこんな時間なのね」
そう言って立ち上がると、零へ柔らかく微笑みかけた。
「零。そろそろお風呂にしましょうか」
「うん」
「今日は疲れたでしょう? 身体を温めて、早めに休みましょうね」
「そうする」
「ふふっ。じゃあ、私も一緒に入るわね」
「うん。分かった」
あまりにも自然なやり取りだった。
零は何の疑問も抱かず、ルシエラも普段と変わらない様子で微笑んでいる。
しかし、その会話を聞いていたヴィクトリアは違った。
「…………待て」
低い声が響いた。
ルシエラが振り返る。
「あら、どうしたの?」
「今……一緒に入ると言わなかったか?」
「ええ、言ったわよ?」
「……零と?」
「もちろん」
ルシエラは涼しい顔で答えた。
ヴィクトリアは一瞬、言葉を失った。
「……ルシエラ。零は男だぞ?」
「知っているわ。今さら何を言っているの?」
「知っていて、なぜそんなに平然としているんだ!?」
思わず声を大きくしたヴィクトリアを見て、ルシエラは口元に手を添えた。
「ふふっ。剣帝ともあろう人が、随分と可愛らしい反応をするのね」
「お前……!」
ヴィクトリアはそこで気づいた。
ルシエラの紫の瞳が、楽しそうに細められていることに。
「……私を揶揄っているな?」
「あら、何のことかしら?」
「ルシエラ!」
ルシエラはくすくすと笑った。
今日の手合わせで零を無茶させたことへの、ちょっとした仕返し。
もちろん、零と一緒に入浴すること自体は、彼女にとって珍しいことではない。ただ、それをヴィクトリアの前で口にすれば、どんな反応が返ってくるのか。
それを分かったうえで、わざと話題にしたのだった。
「……まったく、お前という奴は」
ヴィクトリアは額に手を当てた。
その頬には、うっすらと赤みが差している。
そんな二人を、零は不思議そうに眺めていた。
(……どうしたんだろう?)
ヴィクトリアから伝わってくる感情が、いつもとは違っていた。普段の落ち着いた気配はすっかり鳴りを潜め、今はひどく混乱している。
けれど、なぜそこまで戸惑っているのかが分からない。
(……ルシエラとお風呂に入るだけなのに)
自分にとっては、いつものことだ。何もおかしなことはない。
それなのに、ヴィクトリアは困ったような顔をしている。
しばらく考えていた零は、ふと一つの可能性に思い至った。
(……あ、そっか)
もしかすると、ヴィクトリアも一緒に入りたいのかもしれない。
自分とルシエラだけで行こうとしているから、仲間外れにされたように感じているのではないだろうか。
そう考えると、零は少し申し訳なくなった。
ヴィクトリアは、いつも自分を気にかけてくれる。今日だって、あれほど真剣に手合わせをしてくれた。
それなのに、自分たちだけでお風呂に行こうとしていたのだ。
(……誘ってみよう)
零はぱっと表情を明るくした。
「ねえ、ヴィクトリア」
「ん? どうした、零?」
呼びかけに振り向いたヴィクトリアへ、零は一歩近づいた。
そして――。
「ヴィクトリアも、一緒に入ろ?」
満面の笑みを浮かべた。
「…………っ!」
ヴィクトリアの思考が止まった。
振り向いた先で、零が微笑んでいた。
長い睫毛に縁取られた黒い瞳が、真っ直ぐに自分を見上げている。柔らかな笑みを浮かべたその顔立ちは、少女と見紛うほど可憐でありながら、どこか人の手では生み出せないような気品を宿していた。
これまで何度も顔を合わせてきたはずなのに、どうして今さら、こんなにも目を奪われるのだろう。
ヴィクトリアは言いかけた言葉を忘れ、ただ目の前の少年を見つめていた。
「……ヴィクトリア?」
零が不思議そうに首を傾げる。
その仕草に、ようやく我に返ったヴィクトリアは、自分の頬が熱を帯びていることに気づいた。
「れ、零!? な、何を言っているんだ!?」
「え? お風呂、一緒に入らない?」
「そ、それは……!」
断ろうと口を開く。
けれど、零は返事を待つように微笑んでいる。
その瞳を見つめた途端、ヴィクトリアは再び言葉を失った。
ふと、ガルドの山の家で過ごした日々が脳裏をよぎる。
あのときも、風呂を巡って気まずい思いをしたことがあった。結局、零とは別々に入ることになったのだ。
当時は零を少女だと思い込んでいたが、今は違う。零が男だということを、ちゃんと知っている。
それなのに、今度は零の方から誘ってくるとは。
(……どうして、こうなるんだ……!)
一方の零にとって、ルシエラと一緒に風呂へ入ることは、すでに日常の一部となっていた。だからこそ、親しいヴィクトリアを誘うことにも、特別な意味など感じていなかった。
そんな零の考えを知る由もなく、ヴィクトリアは目の前の少年を見つめていた。
相手は零だ。
自分が剣を教え、成長を見守ってきた少年。そのことは、十分に理解している。
けれど、目の前で向けられる笑顔は、あまりにも無防備で、あまりにも眩しかった。
「……っ、ルシエラ!」
とうとう耐えきれなくなったヴィクトリアが、助けを求めるように振り返った。
しかし――。
「あらあら。零に誘ってもらえるなんて、よかったじゃない」
ルシエラは口元を押さえ、実に楽しそうに笑っていた。
「お前は絶対に面白がっているだろう!」
「ふふっ。そんなことないわよ?」
どう見ても嘘だった。
その隣で、セレフィーナが困ったように微笑む。
「零さん。ヴィクトリアさんにも、少し心の準備が必要なのではありませんか?」
「心の準備……?」
零はきょとんとした顔でセレフィーナを見る。
そして、何かを思いついたように微笑んだ。
「じゃあ、セレフィーナも一緒に入ろ?」
「…………え?」
今度はセレフィーナの動きが止まった。
「みんなで入った方が楽しいと思うんだ」
零はそう言って、二人に向けてもう一度笑いかける。
あまりにも綺麗で、あまりにも嬉しそうな笑顔だった。
セレフィーナは胸元に手を添え、わずかに視線を逸らした。
「……零さん。そのようなお顔でお願いされると、困ってしまいます……」
「……だめ?」
零が、ほんの少しだけ眉を下げた。
その表情を見た瞬間、セレフィーナは慌てて首を振る。
「い、いえ、そういうわけでは……!」
いつも穏やかな聖帝の頬にまで、淡い赤みが差していた。
ヴィクトリアもまた、困り果てたように零を見つめている。
けれど、零はただ嬉しそうに二人の返事を待っていた。
そんな様子を眺めながら、ルシエラは満足そうに目を細める。
(……ふふっ。まさか、こうなるなんてね)
最初は、ヴィクトリアを少し揶揄うつもりだった。それなのに、零は自分から二人を誘ってしまった。
しかも、その笑顔に、剣帝も聖帝もすっかり言葉を失っている。
ルシエラは思わず笑みを深めた。
「ふふっ。それじゃあ、今夜はみんなで入りましょうか」
「ルシエラ!?」
「ル、ルシエラさん!?」
二人の声が綺麗に重なった。
「……嫌なの?」
零が少しだけ不安そうに尋ねる。
その瞬間、ヴィクトリアとセレフィーナは顔を見合わせた。
零の瞳には、ただ純粋な期待が宿っている。
断る理由はいくらでも思いつく。けれど、そのどれもが、目の前の笑顔を曇らせてまで口にするものには思えなかった。
「……い、嫌というわけではないが……」
ヴィクトリアが小さく呟く。
すると、零の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「……あ、ああ。だが、その……」
言葉の続きを探すヴィクトリア。しかし、零はもう嬉しそうに微笑んでいた。
その笑顔を前に、剣帝はとうとう観念したように息を吐いた。
「……分かった。一緒に入ろう」
「やった!」
零が満面の笑みを浮かべる。
ヴィクトリアは思わず顔を逸らした。頬の熱が、なかなか引いてくれない。
そして、零は今度はセレフィーナへと顔を向けた。
「セレフィーナも、いい?」
「……零さん」
セレフィーナは困ったように微笑んだ。
普段なら、もう少し冷静に説明できたはずだった。けれど、目の前の少年は、ただ一緒に過ごしたいと願っているだけなのだ。
その気持ちを無下にすることが、どうしてもできなかった。
「……ええ。私も、ご一緒しますね」
「ほんとに?」
「はい。ただし、零さんはまだ回復の途中ですから、長湯は控えてくださいね」
「うん。分かった!」
零が嬉しそうに頷くと、セレフィーナも小さく微笑んだ。
その笑顔につられるように、彼女の表情も自然と和らいでいく。けれど、頬に残る赤みまでは隠せなかった。
そんな二人を眺めながら、ルシエラは楽しそうに手を合わせる。
「それじゃあ、決まりね」
「……まったく」
ヴィクトリアは深いため息をついた。
「ルシエラ。お前、最初からこうなると分かっていたのか?」
「いいえ?」
ルシエラは悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、とっても面白かったわ」
「……やはり、揶揄っていたのではないか」
「ふふっ。何のことかしら?」
そのやり取りを聞きながら、零は嬉しそうに笑っていた。
「みんなで入れるなんて、楽しみだね!」
零は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を目の前にして、ヴィクトリアは何かを言いかけたまま口を閉じる。隣ではセレフィーナも、困ったように微笑みながら視線を逸らしていた。
つい先ほどまで、あれほど堂々と零を叱っていた二人である。
それなのに今は、ただ一人の少年の笑顔を前に、すっかり調子を狂わされていた。
そんな二人の様子を眺めながら、ルシエラは楽しそうに目を細める。
どうやら今夜は、剣帝にも聖帝にも、勝ち目のない戦いが待っているらしい。




