第三十章 剣帝との再戦
王都に穏やかな陽光が降り注ぐ昼下がり。ルシエラの屋敷では、零が居間のソファに腰掛け、開いた右手をじっと見つめていた。
先日の魔物討伐から数日が経ち、ガルドとの修行も変わらず続いている。流転は少しずつ実戦で使えるようになってきたものの、轟雷については依然として課題が多かった。
全身を巡る氣を一点へ集め、一気に解き放つ。仕組みそのものは理解しているし、時間をかければ実際に放つこともできる。しかし、相手が絶えず動き回る戦闘の最中では、十分な氣を集めることさえ難しい。先日の魔物討伐でも、右拳に氣を集めようとしたところで攻撃を受け、結局は技を断念することになった。
(……どうしたら、もっと早く使えるようになるんだろう)
零が拳を握ったり開いたりしていると、向かいの椅子に座っていたルシエラが、手元の本から顔を上げた。
「また轟雷のことを考えているの?」
「……うん。流転は少しずつ使えるようになってきたけど、轟雷はまだ難しくて。どうしても、氣を集めるのに時間がかかっちゃうんだ」
「ふふっ、随分と熱心ね。でも、ガルドも言っていたでしょう? まずは確実に氣を扱えるようになることが大切だって」
「分かってるよ。ただ、もう少し何かできないかなって」
零の返事に、ルシエラは小さく微笑んだ。
ガルドとの修行が再開して以来、二人は零の成長について何度も話し合っていた。ガルドが身体の使い方や氣の扱いを指導し、ルシエラが魔力の状態や身体への負担を調べる。それぞれの立場から零の変化を見守ってきたからこそ、以前よりも強くなろうとする気持ちは理解できた。
ただ、黒龍との戦いを経て、零の身体には未だ解明できていない変化が起きている。
以前、ルシエラが魔力を動かそうとした際には、氣との間に激しい反発が生じた。しかし、先日改めて調べたところ、二つの力は以前ほど激しく衝突しなかった。僅かな時間ではあったが、魔力の流れを保つことさえできたのだ。
もっとも、それはルシエラが慎重に外から干渉した結果であり、零自身が魔力を操れるようになったわけではない。反発が弱まった理由も、まだ分かっていなかった。
「強くなりたいと思うのは悪いことではないわ。でも、今のあなたは身体の中で何が変わっているのか、まだ十分に分かっていないの。そこは忘れないでね」
「……うん。無理はしないよ」
零が素直に頷くと、ルシエラは安心したように微笑んだ。
そのとき、玄関から来客を知らせる音が響いた。
ルシエラが迎えに出てほどなく、聞き覚えのある声が廊下から届く。
「突然訪ねてすまない、ルシエラ」
「こんにちは、ルシエラさん」
零は弾かれたように顔を上げた。
「……ヴィクトリア! セレフィーナ!」
居間に姿を現した二人を見るなり、零は嬉しそうに駆け寄った。金色の髪を揺らしたヴィクトリアは、その姿を見て表情を和らげる。
「久しぶりだな、零。元気そうで何よりだ」
「お久しぶりです、零さん。お身体の具合はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫だよ! 二人とも、どうしたの?」
「お前の様子を見に来たんだ。師匠のもとで修行を再開したとは聞いていたが、なかなか時間が取れなくてな」
ヴィクトリアはそう答えながら、零の全身へ目を向けた。かつて森で出会ったときには、まともに立つことさえ難しかった少年が、今ではこうして笑顔で自分を迎えている。その事実だけでも嬉しかったが、以前より安定した立ち姿には、ガルドの指導の成果が確かに表れていた。
セレフィーナも零の傍らに歩み寄り、以前負傷した左腕や目に違和感がないか、丁寧に尋ねた。零が修行中も問題なく動かせていると答えると、彼女はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「それなら安心しました。ただ、無理をしてよいということではありませんからね」
「うん。ありがとう、セレフィーナ」
「ふふっ、どういたしまして」
その後、四人は居間で近況を語り合った。零が冒険者として魔物討伐の依頼を受けたことや、ガルドから鬼拳の技を教わっていることを話すと、ヴィクトリアは興味深そうに耳を傾けた。
「流転だけでなく、轟雷も教わっているのか」
「うん。でも、まだ上手く使えなくて。先日の魔物との戦いでも、結局は放てなかったんだ」
「そうか。あの技は威力がある分、扱いが難しいからな。師匠も簡単に使いこなせるとは考えていないだろう」
ヴィクトリアはガルドの弟子だった頃を思い返し、懐かしそうに笑った。
「それにしても、師匠がそこまで教えているとはな。私が頼んだときは、まず基礎を鍛え直してもらえれば十分だと思っていたんだが」
「ガルド師匠、すごく丁寧に教えてくれるよ。厳しいときもあるけど、修行は楽しいんだ」
「そうか。それなら、師匠にお願いした甲斐があった」
ヴィクトリアの声には、かつての師への信頼が滲んでいた。
しばらくして、再び玄関から音が響く。今度は扉が開くなり、屋敷中に聞こえそうな豪快な声が届いた。
「おう、零! 今日もみっちり鍛えてやるぞ!」
いつものように修行へ訪れたガルドは、居間にいる二人を見つけると、意外そうに眉を上げた。
「お? ヴィクトリアにセレフィーナじゃねぇか。珍しい顔ぶれだな!」
「お久しぶりです、師匠」
「こんにちは、ガルドさん」
「がっはっは! こりゃ賑やかでいいな!」
ガルドは機嫌よく笑うと、ルシエラへ視線を向けた。
「そういや、昨日話してた零の氣の流れなんだが、少し試してみてぇことがあってな。今日の修行で様子を見ようと思ってたんだ」
「ええ、覚えているわ。ただし、無理に氣を高めるのは駄目よ。まだ身体の変化を調べている途中なんだから」
「分かってるって。俺だって零を壊すつもりはねぇよ」
慣れた様子で言葉を交わす二人を見て、ヴィクトリアは僅かに目を細めた。どうやら自分が思っていた以上に、零の修行は慎重に進められているらしい。
そのとき、ふと一つの考えが浮かんだ。
「師匠。今日の修行ですが、少し私に時間をいただけませんか?」
「ん? どうした?」
「久しぶりに、零と手合わせをしてみたいんです。以前、師匠のもとで戦ったときから、どれほど成長したのか確かめたくて」
その言葉に、零がぱっと顔を上げる。
「……ヴィクトリアと?」
「ああ。もちろん、お前がよければだが」
「やりたい!」
返事は即座に返ってきた。
ガルドはそんな零を見て愉快そうに笑ったが、ルシエラは少しだけ眉を寄せた。
「手合わせをするのは構わないけれど、零の身体にはまだ分からないことがあるのよ。二人とも、そのことを忘れないでね」
「承知している。無理をさせるつもりはない」
「私も立ち会います。零さんに異常が見られたら、すぐに中止してくださいね」
セレフィーナの言葉に、ヴィクトリアと零は揃って頷いた。
こうして、かつてガルドのもとで拳を交えた二人の再戦が決まった。
◇
王都近郊の草原には、柔らかな風が吹き抜けていた。
普段から零とガルドが修行に使っている場所で、零とヴィクトリアが数歩の距離を空けて向かい合っている。少し離れたところでは、ガルド、ルシエラ、セレフィーナの三人が見守っていた。
「こうして向かい合うのも久しぶりだな、零」
「うん。前に戦ったときのこと、今でも覚えてるよ」
「あの頃のお前は、まだ身体の使い方に随分と無駄があった。だが、今は違うようだな」
ヴィクトリアは零の構えを眺めながら、静かに微笑んだ。
以前と比べて重心が安定し、肩や腕から余計な力が抜けている。足の置き方も、相手の動きに応じてすぐに踏み込める位置へ整えられていた。ほんの僅かな変化だが、長年ガルドのもとで修行を重ねたヴィクトリアには、それがどれほど大きな成長なのか分かる。
「……いい構えだ。師匠に随分と鍛えられたようだな」
「ありがとう。でも、まだまだだよ」
「それを確かめるための手合わせだろう?」
ヴィクトリアが大剣を構えると、零もゆっくりと腰を落とした。
呼吸を整え、全身へ氣を巡らせる。黒かった瞳が鮮やかな黄金色へと変わり、身体の奥から静かな力が湧き上がってきた。
その様子を確かめたガルドが、片手を上げる。
「よし。――始め!」
合図と同時に、零が地面を蹴った。
低く踏み込んで一気に間合いを詰め、ヴィクトリアの右脇腹へ拳を放つ。しかし、ヴィクトリアは上体を僅かに捻るだけで攻撃を躱すと、大剣の柄を使って零の肩口を打とうとした。
零は左腕を添え、接触した瞬間に相手の力の流れを感じ取る。
――鬼拳・流転。
柄の軌道を外側へ逸らし、その動きに合わせてさらに一歩踏み込んだ。空いた胴へ左拳を突き出すが、ヴィクトリアはすでに半歩後退しており、拳は僅かに届かない。
「……なるほど。流転か」
ヴィクトリアは感心したように呟きながら、横薙ぎの一閃を放った。
零は上体を沈めて刃の下を潜り抜け、そのまま背後へ回り込もうとする。だが、ヴィクトリアは大剣を振り抜いた勢いを殺すことなく身体を回転させ、次の斬撃へ繋げていた。
零は咄嗟に後方へ跳び、眼前を通り過ぎる刃を躱す。着地したときには、すでにヴィクトリアが次の構えを取っていた。
「上手くなったな。ただ、流転を使ったあとに少し意識が止まっている。攻撃を逸らしただけで安心していては、次の動きに遅れるぞ」
「……うん。分かった」
「それに、私も師匠から教わっているからな。お前が何を狙っているのか、ある程度は分かる」
零は思わず苦笑した。
そうだった。目の前にいるのは、ガルドのもとで長年修行を重ねた剣士なのだ。自分がようやく覚え始めた技も、彼女にとってはすでに知っているものに過ぎない。
それでも、簡単に諦めるつもりはなかった。
零は再び踏み込むと、今度は正面から拳を放つと見せかけ、途中で重心を移してヴィクトリアの左側へ回り込んだ。先ほどと同じように流転を狙っていると思わせながら、あえて大剣には触れず、踏み込んできた足の外側へ身体を滑り込ませる。
ヴィクトリアの大剣が振り下ろされた瞬間、零はさらに低く沈み、彼女の膝裏を狙って足を払った。
「……ほう!」
ヴィクトリアの表情に、初めて明確な驚きが浮かんだ。
しかし、足を払われるより早く重心を反対側へ移し、踏み込んだ足を軸に身体を回転させる。その動きと同時に大剣の柄が下がり、零の肩口へ迫った。
「っ!」
零は両腕を交差させて受け止めたが、重い衝撃に足が地面を滑った。すぐに後方へ跳んで距離を取ると、ヴィクトリアは追撃せずに大剣を構え直す。
「今のは良かった。私が流転を警戒していると読んで、別の攻め方に変えたんだな」
「……うん。でも、やっぱり当たらなかった」
「当たらなかったからといって、無意味だったわけではない。少なくとも、私の予想を一つ外した。それは立派な成長だ」
零はその言葉を嬉しく思った。
だが同時に、ほんの僅かな違和感も覚えていた。
以前なら、ヴィクトリアに褒められただけで十分だったはずだ。けれど、今はそれだけでは満足できない自分がいる。
もっと先へ。
もう一歩、彼女に近づきたい。
その想いが、胸の奥で静かに膨らんでいった。
◇
手合わせが進むにつれて、二人の動きは少しずつ激しさを増していった。
零は足運びを変え、拳の軌道を工夫し、ときには流転を使わずに相手の力を利用しようとした。ガルドとの修行で覚えたことを一つずつ試しながら、どうにかヴィクトリアの剣を突破しようとする。
しかし、ヴィクトリアの対応は的確だった。
零が正面から攻めれば、僅かな足運びで間合いを外す。側面へ回り込もうとすれば、大剣の長さを活かして進路を塞ぐ。流転によって攻撃を逸らされても、その動きを予測して次の一撃へ繋げてくる。
何より厄介なのは、ヴィクトリアが無理に攻めてこないことだった。
零が反撃を狙いやすい大振りの攻撃はほとんどなく、剣を振るうたびに次の動作へ移る余裕が残されている。どれほど速く踏み込んでも、彼女の剣はすでにそこにあった。
(……やっぱり、すごい)
零は息を整えながら、右拳を握り直した。
流転だけでは、どうしても突破口を開けない。
ならば、轟雷を使うしかない。
零は一度大きく距離を取り、右拳を腰の位置へ引いた。全身を巡る氣を一点へ集めようとした、その瞬間。
「……遅い!」
ヴィクトリアが一気に踏み込んできた。
大剣の切っ先が胸元へ迫り、零は集めかけた氣を解いて身を捻る。刃は辛うじて躱したものの、続く柄の一撃が脇腹へ迫った。
零は左腕を添えて衝撃を逸らし、後方へ跳ぶ。だが、着地したときにはヴィクトリアが再び間合いを詰めており、轟雷を構え直す余裕などなかった。
「轟雷を使いたいのは分かる。だが、今のお前には準備が必要だろう? その時間を私が与えると思うか?」
「……思わない」
「ならば、どうする?」
問いかけとともに大剣が振り下ろされる。
零は横へ跳んで躱し、すぐに踏み込んで反撃する。しかし、ヴィクトリアは剣の腹で拳を逸らし、零が次の動きへ移るより早く間合いを取り直した。
少し離れた場所で、ガルドが腕を組んでいた。
「……さすがはヴィクトリアだな。零が轟雷を使いたがってることも、その弱点も、全部分かった上で戦ってやがる」
「零も色々と工夫しているのだけれど、なかなか届かないわね」
ルシエラの言葉に、ガルドは頷いた。
「ああ。だが、悪いことばかりじゃねぇ。今の零は、自分の技が通じねぇ相手にどう戦うか、必死に考えてる。ああいう経験は、修行だけじゃ簡単には積めねぇからな」
セレフィーナは二人の話を聞きながら、零の様子を注意深く見守っていた。
「それでも、少し疲れが見え始めていますね。ヴィクトリアさんも加減してくださっているようですが……」
「ええ。もう少し様子を見ましょう」
ルシエラはそう答えたものの、零から目を離そうとはしなかった。
戦いの中で、零の氣は何度も強く脈動している。その変化自体は修行でも見られるものだったが、今は身体の奥にある魔力まで、ごく僅かに反応しているように感じられた。
まだ危険な兆候と呼べるほどではない。
けれど、以前とは違う何かが起き始めている。
ルシエラは静かに眉を寄せた。
◇
零はヴィクトリアの斬撃を躱し、すぐさま踏み込んだ。
右拳を放ち、躱されたところへ左拳を繋げる。さらに足を踏み替えて蹴りを繰り出すが、ヴィクトリアは大剣の柄で軌道を塞ぎ、そのまま零の肩口へ打ち込んだ。
「……っ!」
衝撃に身体が傾く。
零は片手を地面について勢いを殺し、すぐに立ち上がった。しかし、肩には鈍い痛みが残り、呼吸も少しずつ荒くなっていた。
「焦るな、零。今の踏み込みは強引だったぞ」
「……うん」
零は短く答え、構え直した。
分かっている。焦って攻めても、ヴィクトリアには届かない。相手の動きをよく見て、無駄な力を使わず、確実な機会を待つべきだということも理解している。
それでも、目の前の剣帝はあまりにも遠かった。
自分がどれほど工夫しても、ヴィクトリアはその先を読んでいる。ようやく隙を見つけたと思っても、次の瞬間には別の構えへ移っており、攻撃が届く頃にはすでに間合いの外へ出ている。
ガルドのもとで修行を始めた頃も、同じように感じた。
ヴィクトリアは強かった。
自分には到底届かない場所に立っている人だった。
だが、あの頃とは違う。
今の零には、積み重ねてきたものがある。何度も倒されながら覚えた足運びも、ガルドから教わった流転も、まだ未熟ながら形になり始めた轟雷も、すべて自分の力になっている。
それなのに、届かない。
(……もっと、強くなりたい)
そう思った瞬間、零の脳裏に、これまでのヴィクトリアの姿が浮かんだ。
森で傷ついていた自分を見つけ、助けてくれたこと。侯爵家へ連れていき、何も分からなかった自分に居場所を与えてくれたこと。ガルドのもとで修行を始めたときも、その成長を誰より喜んでくれたこと。
ヴィクトリアは、零にとって特別な存在だった。
強くて、優しくて、どんなときも頼もしい。
ずっと憧れてきた剣士。
だからこそ、今まで彼女に追いつきたいと思ったことはあっても、本気で勝とうと考えたことはなかったのかもしれない。
けれど、今は違う。
ヴィクトリアの剣を受け、その強さを肌で感じるほど、胸の奥に新しい感情が生まれてくる。
ただ成長を認めてもらいたいわけではない。
褒めてもらいたいだけでもない。
目の前に立つこの人へ、自分の拳を届かせたい。
そして、できることなら――。
(……勝ちたい)
零はゆっくりと息を吸った。
初めて、心の底からそう思った。
ヴィクトリアに勝ちたい。
その想いは、これまで感じたことのないほど強く、胸の奥を熱くしていた。
零は右拳を握り、身体の内側を巡る氣へ意識を向ける。
轟雷ならば、ヴィクトリアの剣に対抗できるかもしれない。しかし、今のままでは技を放つ前に封じられてしまう。どれほど氣を集めようとしても、その僅かな隙を見逃してくれる相手ではなかった。
ならば、どうすればいいのか。
零は呼吸を整えながら、自分の身体の奥へ意識を沈めた。
そこには、馴染み深い氣の流れがある。
ガルドとの修行で何度も感じ、少しずつ扱えるようになってきた力。そのさらに奥には、もう一つ、未だ自分では思うように動かせない力が眠っていた。
魔力。
以前、ルシエラと一緒に調べたとき、ほんの僅かに動いた力。
あのとき、身体の奥に不思議な温もりを感じた。氣とは違うはずなのに、以前のような激しい反発は起こらず、二つの力がほんの少し近づいたように思えた。
その感覚が、今も微かに残っている。
(……あのときの……)
零は魔力の動かし方を知らない。
氣と魔力がなぜ反発するのかも、黒龍との戦いを経て何が変わったのかも、まだ分かっていなかった。黒龍戦の最後に何が起きたのかについても、記憶は曖昧なままだ。
それでも、今は不思議と、身体の奥にある二つの力を以前より近くに感じられた。
まるで、氣の流れの向こう側に、もう一つの流れが寄り添っているような感覚。
それが何を意味するのか、零自身にも分からない。
ただ、直感だけが告げていた。
今なら、何かが変わるかもしれない。
零は僅かに視線を動かし、少し離れた場所で見守っているルシエラを見つめた。
自分の身体に宿る力を調べ、危険がないか何度も確かめてくれた人。焦らず、少しずつ確かめていこうと告げてくれた、その優しさを忘れたわけではない。
だからこそ、今からしようとしていることを知れば、きっと心配させてしまうだろう。
それでも、目の前のヴィクトリアに届きたいという想いを、どうしても抑えられなかった。
「……ごめんね、ルシエラ」
誰にも届かないほど小さな声で呟き、零は再びヴィクトリアを見据えた。
胸の奥で、氣が静かに脈打つ。
その傍らにある魔力へ、零はそっと意識を伸ばした。無理に引き出そうとするのではなく、以前ルシエラが魔力を動かしたときの温もりを思い出しながら、二つの流れが触れ合う場所を探る。
ほんの僅かでいい。
ただ、一瞬だけ。
そう願った次の瞬間、零の内側で、氣と魔力が重なった。
――空気が、軋んだ。
◇
ヴィクトリアは、目の前で起きた変化に息を呑んだ。
零の周囲に、これまでとは明らかに異なる圧力が生まれていた。風が吹いたわけでもないのに足元の草が押し伏せられ、周囲の空気が重く沈み込んでいく。
黄金色の瞳は眩いほどの光を放ち、その輝きは瞳の内側に留まらず、零が僅かに顔を動かすたび、空間へ細い残光を引いていた。
(……何だ、この力は?)
ヴィクトリアは大剣を握り直した。
零の氣が強まったことは分かる。だが、それだけでは説明できない。先ほどまでとは力の質そのものが異なっているように感じられた。
離れた場所では、ルシエラも表情を変えていた。
「……まさか」
「ルシエラさん?」
セレフィーナが問いかけると、ルシエラは零を見つめたまま、信じられないものを見たように呟いた。
「……氣と魔力が、重なっている? そんな、まさか……」
「……何だと?」
ガルドの声にも驚きが滲んだ。
これまでの調査では、魔力を少し動かしても激しい反発が起こらなくなったことしか分かっていない。まして、零が自分の意思で二つの力を重ねたことなど、一度もなかった。
ルシエラはすぐに零の状態を確かめようとしたが、その瞬間、零が右拳を腰の位置へ引いた。
見覚えのある構え。
――鬼拳・轟雷。
ヴィクトリアは即座に反応した。
轟雷は、全身の氣を拳へ集めて放つ強力な一撃だ。その威力を知っているからこそ、これまでの手合わせでは零に十分な時間を与えず、構えに入るたび攻撃を仕掛けていた。
今回も同じように、氣が集まりきる前に間合いを詰めればいい。
そう判断して踏み込もうとした瞬間、ヴィクトリアは異変に気づいた。
(――違う!)
零の右拳には、すでに凄まじい氣が凝縮されていた。
今まさに力を集め始めたのではない。構えを取った瞬間には、すでに一撃を放てる状態になっている。
(……溜めが、ない!?)
ヴィクトリアの背筋に鋭い緊張が走った。
先ほどまで、零は轟雷を放つための時間さえ確保できずにいた。それが今、何の準備もなく、完成した一撃を放とうとしている。
この距離から無理に踏み込めば、轟雷を封じるより早く、その拳を受けることになるだろう。
ヴィクトリアは瞬時に判断を切り替えた。
防ぐのではない。
剣で、迎え撃つ。
大剣を引き、重心を深く落とす。零の右拳へ集まる力を見据えながら、ヴィクトリアは呼吸を整えた。
その構えには、一切の迷いがなかった。
零が地面を蹴る。
黄金の残光が空間を走り、踏み込みと同時に右拳が突き出された。
「――鬼拳・轟雷!」
その声とともに、凝縮された力が解き放たれる。
ヴィクトリアも同時に踏み込んだ。
「――天華流・天華一閃!」
大剣が鋭く閃いた。
ヴィクトリアは正面から力を受け止めようとはせず、踏み込みとともに剣の軌道を僅かに斜めへ変えた。零の拳が放つ力の中心を捉えながら、刃を滑らせるように振り抜き、衝撃の向きを外側へ逃がしていく。
だが、零の一撃は想像以上に重かった。
剣を通して伝わる衝撃が両腕へ食い込み、ヴィクトリアの足元に深い亀裂が走る。剣筋を乱さずに力を逸らし続けようとするものの、そのすべてを捌ききることはできなかった。
次の瞬間、二つの力が激突した。
轟音が草原を揺るがし、二人の足元から土と草が巻き上がった。衝撃は周囲へ広がり、大地には放射状の亀裂が走る。
零とヴィクトリアは、互いに後方へ押し戻された。
ヴィクトリアは両足で地面を捉え、靴底で土を削りながら数歩分の距離を滑る。大剣を握る腕には鋭い痺れが走ったが、重心を崩すことなく、その場で踏み止まった。
一方の零も、後方へ弾かれながら両足で着地していた。衝撃を完全に殺しきれず、足元の土が深く抉れたものの、身体は前へ傾くことなく、構えを保っている。
どちらも倒れてはいなかった。
ヴィクトリアは静かに息を吐き、剣を握る右腕の感覚を確かめた。
天華一閃によって衝撃の大部分は逸らした。それでも、すべてを捌ききれたわけではない。僅かに残った力が防御を越え、腕へ確かな痛みを刻んでいた。
(……届いた、のか)
ヴィクトリアは驚きを隠せなかった。
あの零が、自分に一撃を届かせた。
それは単に威力が増したからではない。これまで轟雷の最大の弱点だった溜めの時間が、まるで消え去ったかのようだった。
もし、あの一撃を自由に放てるようになったなら。
そう考えかけたところで、ヴィクトリアは顔を上げた。
そして――戦慄した。
土埃の向こうに、零が立っていた。
先ほどの衝突で大きく後退したはずなのに、すでに次の踏み込みへ備えるように腰を落としている。右拳を引き戻す動きと入れ替わるように、左拳が身体の脇へ引かれていた。
その構えを見た瞬間、ヴィクトリアの呼吸が止まった。
(……二撃目!?)
零の左拳に、再び異質な圧力が集まり始めている。
まだ先ほどと同じ威力が完成しているわけではない。だが、構えへ移る速さと、そこに生まれ始めた力の気配は、あの一撃が再び放たれる可能性を示していた。
ヴィクトリアの腕には、まだ最初の轟雷による痺れが残っている。
それなのに、零はもう次の拳を構えていた。
(……馬鹿な。あれほどの一撃を放った直後だぞ)
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
轟雷は、氣を集める時間が必要だからこそ対処できる技だった。その制約が失われ、さらに一撃目から二撃目へと途切れることなく繋げられるようになったとしたら、話はまったく変わってくる。
最初の一撃を凌いでも、次が来る。
次を受け止めたとしても、さらにその先があるかもしれない。
相手が体勢を立て直すより早く、強烈な拳を連続して叩き込む。それが実現したとき、どれほど恐ろしい技になるのか。
ヴィクトリアは剣帝としての経験から、その可能性を瞬時に理解してしまった。
そして、それがまだ完成していないことも分かっていた。
零の左拳に集まり始めた力は不安定で、身体の動きにも僅かな乱れが見える。先ほどの一撃を再び放てる保証など、どこにもない。
それでもなお、ヴィクトリアは目の前の少年から視線を逸らせなかった。
今、この瞬間。
零は確かに、自分の知らない領域へ踏み込もうとしている。
(……どこまで行くつもりなんだ、零)
ヴィクトリアは大剣を握り直した。
森で初めて出会ったとき、零は傷つき、何も分からないまま倒れていた。侯爵家へ連れて帰り、少しずつ笑顔を取り戻していく姿を見守った。その後、ガルドのもとで修行を始めたときも、いつか強くなるだろうとは思っていた。
けれど、まさか。
こんなにも早く、自分の剣へ拳を届かせる日が来るとは。
ヴィクトリアの胸に、静かな喜びが広がった。
同時に、剣士としての緊張も消えてはいなかった。今の一撃は確かに危険だったし、もし二撃目が同じように放たれていれば、無傷で凌げたかどうかも分からない。
それでも、彼女は恐怖に呑まれなかった。
目の前の少年が、どれほどの覚悟で自分に挑んでいるのか。
その想いが、ようやく理解できたからだ。
「……見事だ、零」
ヴィクトリアの声が、静かに草原へ響いた。
零は答えない。ただ黄金の瞳で彼女を見据え、左拳を引いたまま、次の一歩を踏み出そうとしている。
ヴィクトリアはゆっくりと大剣を構え直した。
技量も経験も、総合的な実力も、まだ自分の方が上だ。だが、目の前の零は、ただ成長を見せるために戦っているのではない。
自分に勝とうとしている。
その意志を感じ取った以上、剣士として応えないわけにはいかなかった。
「……本当に、強くなったな」
ヴィクトリアの口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
それは戦いに我を忘れた笑みではなく、目の前の相手を一人の武人として認めたからこそのものだった。
彼女は静かに息を吸い、これまでとは異なる構えへ移った。
大剣を握る両手から余計な力が抜け、重心が深く沈む。動作そのものは小さかったが、ヴィクトリアを取り巻く空気が一変した。
離れた場所で見守っていたガルドが、僅かに目を見開く。
「……おい、ヴィクトリア」
その声にも、彼女は視線を動かさなかった。
零の覚悟に応えるため、剣帝としての技を振るおうとしていた。
「――天華流・極技……!」
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
零の身体が、不意に揺れた。
「……あれ?」
左拳に集まりかけていた力が、指の間から零れ落ちるように散っていく。黄金の瞳から溢れていた光も急速に弱まり、空間へ尾を引いていた残光が消え始めた。
零はもう一度氣を巡らせようとしたが、思うように身体が動かなかった。
先ほどまで感じていた魔力の気配は遠ざかり、氣の流れさえ乱れている。全身に重い疲労が押し寄せ、足元の感覚が薄れていった。
(……どうして)
零は左拳を握り直そうとした。
まだ戦いたい。
もう一度、あの拳を放ちたい。
ヴィクトリアに届いたのなら、今度こそ――。
しかし、その想いとは裏腹に、膝から力が抜けていく。
「……っ」
零の身体が前へ傾いた。
「――零!」
ヴィクトリアは即座に構えを解き、大剣を下ろして駆け出した。
その瞬間には、剣士としての緊張も、技を放とうとしていた意識も消えていた。ただ、目の前で倒れようとしている大切な少年のことしか考えられなかった。
だが、彼女が辿り着くより早く、柔らかな魔力の光が零の身体を包み込んだ。
ルシエラの魔法だった。
地面へ倒れる寸前で身体を支えられた零は、駆け寄ったルシエラの腕にそっと抱き留められる。
「……零」
ルシエラの声には、深い心配が滲んでいた。
零は何かを言おうとしたが、上手く声が出ない。呼吸は荒く、身体にも力が入らなかった。
すぐにセレフィーナが膝をつき、零の身体へ神聖力を巡らせる。
「零さん、私の声が聞こえますか?」
「……うん」
「今は無理に動かないでくださいね。少し、お身体を調べますから」
セレフィーナは穏やかに声をかけながら、慎重に状態を確かめていく。零の身体に大きな損傷は見られなかったものの、氣と魔力の流れは不安定で、強い疲労が全身に広がっていた。
ヴィクトリアも傍らに膝をついた。
「零は……大丈夫なのか?」
「今のところ、命に関わるような異常は見られません。ただ、かなり無理をしてしまったようですね」
セレフィーナの返事を聞き、ヴィクトリアは僅かに安堵した。
そのとき、零がゆっくりと顔を動かした。
「……ヴィクトリア」
「……何だ?」
ヴィクトリアが顔を近づけると、零は疲れ切った表情のまま、小さく微笑んだ。
「僕……少しは、届いたかな」
その問いかけに、ヴィクトリアは言葉を失った。
つい先ほどまで、自分へ勝とうと必死に拳を振るっていた少年が、今はただ、あの一撃が届いたのかを確かめようとしている。
ヴィクトリアは剣を握っていた右手へ、そっと視線を落とした。
腕には、まだ僅かな痺れが残っていた。
確かな痛み。
確かな衝撃。
零の拳が、自分へ届いた証だった。
ヴィクトリアは再び零を見つめ、静かに微笑んだ。
「ああ。確かに届いたぞ、零」
その言葉に、零の表情が嬉しそうに和らいだ。
「……そっか」
小さく呟くと、零は安心したように目を閉じた。
ルシエラがそっと髪を撫で、セレフィーナが改めて身体の状態を確かめる。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めると、二人はようやく少しだけ表情を緩めた。
「……眠ってしまったようですね」
「ええ。身体が限界だったのでしょうね」
ルシエラは零を抱きかかえたまま、静かに答えた。
その声は優しかったが、表情には複雑なものが浮かんでいる。零が何をしようとしたのか、彼女にはおおよその見当がついていた。
先ほどの氣と魔力の重なり。
あれは、ルシエラが外から魔力を動かしたときとは明らかに違っていた。
零自身が、何らかの形で二つの力を重ねたのだ。
それがどのようにして起きたのか、なぜ轟雷の溜めが消えたのか、今はまだ分からない。ただ、身体への負担が決して小さくなかったことだけは、目の前の零の様子が物語っていた。
「……すまない」
ヴィクトリアが静かに口を開いた。
「私も、少し熱くなりすぎた。手合わせだということを、途中で忘れかけていた」
ルシエラはすぐには答えず、眠っている零の顔を見つめていた。
代わりに、セレフィーナがゆっくりと顔を上げる。
「……ヴィクトリアさん」
普段と変わらない、穏やかな声だった。
しかし、その眼差しには、いつもより明らかに厳しいものがあった。
「あとで、きちんとお話をさせていただきますね」
「……ああ」
ヴィクトリアは素直に頷いた。
ルシエラも零の髪を撫でながら、小さく息を吐く。
「ええ。零にも、目が覚めたらお話ししないといけないわね」
その言葉を聞いたガルドは、少し離れたところで苦笑した。
先ほどまでの戦いを思い返せば、師として嬉しくないはずがない。自分が教えた轟雷を、零はまだ誰も見たことのない形へ変えようとしていた。
だが、あれは完成した技ではない。
本人でさえ理解できていない力を、無理に引き出した結果だ。
そのことは、ガルドにもよく分かっていた。
「……まったく、とんでもねぇ弟子だぜ」
呆れたように呟きながらも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
一方、ヴィクトリアは静かに自分の右腕へ視線を落とした。
手合わせの勝者は、自分だった。零は二撃目を放つことなく限界を迎え、戦闘を続けられなくなったのだから、勝敗に疑いの余地はない。
それでも、あの光景は忘れられそうになかった。
天華一閃で受けた轟雷の衝撃。
そして、その直後。
土埃の向こうで、すでに次の拳を構えていた零の姿。
あの瞬間に感じた戦慄は、今も鮮明に胸の奥へ残っている。
ヴィクトリアは眠る零へ視線を向けた。
「……次に戦うときは、どうなっているんだろうな」
その声は、誰に聞かせるでもないほど小さかった。
零は答えない。
ただ、ルシエラの腕の中で、穏やかな寝息を立てている。
ヴィクトリアはその姿をしばらく見つめたあと、静かに微笑んだ。
いつか、あの少年が再び自分の前に立つ日が来る。
そのときも、自分は剣を握って迎えよう。
彼がどれほど成長していようとも、胸を張って向かい合える剣士であるために。
そんな決意を胸に、ヴィクトリアはゆっくりと立ち上がった。
しかし、すぐ傍らでは、セレフィーナがまだ厳しい表情を浮かべている。
「ヴィクトリアさん。お屋敷へ戻ったら、先ほどのことを詳しく聞かせてくださいね」
「……分かった」
剣帝は小さく頷いた。
どうやら今日の手合わせは、勝ったからといって、それで終わりにはならないらしい。




