第二十九章 実戦の洗礼
王都の朝は、今日も多くの人々で賑わっていた。
石畳の大通りには荷馬車が行き交い、軒を連ねる店々からは威勢のいい呼び込みの声が聞こえてくる。焼きたてのパンの香りが漂う一角を通り過ぎながら、零は少し先に見えてきた建物へと視線を向けた。
冒険者ギルド。
初めてここを訪れたときには、冒険者として登録するだけでも胸が高鳴ったことを覚えている。初めての依頼で薬草を採取した日のことも、今ではどこか懐かしく感じられた。
あれから様々な出来事があったが、こうして再び依頼を受けに来られたことが、零には嬉しかった。
「ふふっ。随分と楽しそうね、零」
隣を歩いていたルシエラが、零の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「……そんなに顔に出てた?」
「ええ。さっきから何度もギルドの方を見ているもの」
「そっか……。久しぶりだから、ちょっと楽しみなんだ」
零が少し照れたように笑うと、ルシエラはその様子を愛おしそうに見つめた。
「そう。なら、今日はいい一日になるといいわね」
その言葉に零が頷いたところで、後ろからガルドの豪快な笑い声が響いた。
「がっはっは! 冒険者ってのはいいもんだぞ、零! 何が起こるか分からねぇし、思いがけねぇ発見だってある!」
「ガルド師匠も、冒険者だったの?」
「おう! 昔はあちこち歩き回ったもんだ。山を越えたり、魔物を追いかけたりな!」
「……へえ」
興味深そうに目を輝かせる零を見て、ルシエラが呆れたように笑った。
「あら。あなたの場合、魔物を追いかけていたというより、強そうな相手を探していただけじゃないの?」
「がっはっは! 細けぇことはいいんだよ!」
「ふふっ。否定はしないのね」
二人の気安いやり取りに、零も思わず笑みを零した。
やがて三人はギルドの前へ辿り着き、重厚な扉を押し開けた。
建物の中には、朝から大勢の冒険者が集まっていた。依頼掲示板の前で仲間と相談する者、受付で報酬を受け取る者、出発前の準備について話し合う者。それぞれが忙しそうに動き回っていたが、三人が足を踏み入れた途端、その賑わいに僅かな変化が生まれた。
「……おい、あれ」
一人の冒険者が入り口へ視線を向けると、隣にいた男もつられるように振り返り、何かを言いかけたまま口を閉じた。
「まさか……魔帝様か?」
その小さな呟きが周囲の耳に届き、濃紫色の髪を揺らしながら歩くルシエラへと、次々に視線が集まっていく。
王国において三帝の名を知らぬ者は少なく、ましてや冒険者であれば、その実力がどれほど規格外なのかも理解していた。だが、彼らの驚きはそれだけでは終わらなかった。
「……待て。隣にいるのは、拳鬼じゃないのか?」
「拳鬼って……あのガルド・ハーゼンか?」
「間違いねぇ。昔、一度だけ見たことがある」
魔帝と拳鬼。いずれも並の冒険者では到底及ばない実力者であり、その二人が揃ってギルドを訪れるなど、滅多にあることではない。
先ほどまで賑やかだったギルド内には戸惑い混じりのざわめきが広がっていったが、当の二人はそんな様子を気にした素振りも見せなかった。
「あら。随分と注目されているみたいね」
「がっはっは! 別に珍しいことでもねぇだろ!」
「ふふっ。あなたはそうでしょうね」
ルシエラとガルドが普段どおりに言葉を交わしている間にも、冒険者たちの視線は、やがて二人の間を歩く零へと向けられていた。
「……あの子、前にも来てなかったか?」
「ああ、覚えてる。あんな綺麗な子、一度見たら忘れねぇよ」
「それにしても、魔帝様と拳鬼が一緒とはな……」
小さな囁きが交わされる中、零は集まる視線に気づき、不思議そうに首を傾げた。
「……なんだか、すごく見られてるね」
「ふふっ。気にしなくていいわ、零」
「がっはっは! そのうち慣れるさ!」
零は少し困ったように微笑みながら、二人とともに受付へ向かった。
すると、受付の奥から聞き覚えのある低い声が響いた。
「……ルシエラ様?」
声の方へ振り向くと、そこには大柄な男が立っていた。
ヴァイス・ヴォルフラム。
このギルドを束ねるギルドマスターであり、以前、零の冒険者登録を特例で認めてくれた人物だ。
ヴァイスはルシエラへ一礼すると、その隣にいる零へ視線を向けた。
「零か。久しいな」
「うん。久しぶり、ヴァイスさん」
「元気そうで何よりだ。……それで、今日は依頼を受けに来たのか?」
「うん。そのつもりだよ」
ヴァイスが頷いた、そのときだった。
「よう、ヴァイス! 相変わらずでけぇ図体してんな!」
ガルドが気安く声をかけると、ヴァイスは一瞬だけ眉を動かし、それから小さく息を吐いた。
「……ガルド殿まで一緒とは」
「なんだ、その顔は! 久しぶりに会ったんだから、もうちっと嬉しそうにしろよ!」
「あなたがいると、何かと騒がしくなりますので」
「あら、よく分かっているじゃない」
ルシエラが楽しそうに口を挟むと、ガルドは不満そうに眉を寄せた。
「おいおい、二人してひでぇ言い草だな!」
そんな三人の様子を見て、零は静かに笑った。どうやら、ガルドとヴァイスも以前から面識があるらしい。
ひとしきり言葉を交わしたあと、ヴァイスは改めて零へ向き直った。
「それで、どのような依頼を考えている?」
「まだ決めてないんだ。ガルド師匠が、実戦で修行の成果を確かめてみたらどうかって」
「なるほど」
ヴァイスはガルドへ視線を向け、少し考えるように顎へ手を添えると、受付へ戻って一枚の依頼書を取り出した。
「それなら、ちょうどいい依頼がある。王都の外れにある森で、狼型の魔物が群れを作っているという報告が入っている。街道そのものからは離れているが、最近は森の外縁まで姿を見せるようになったそうだ」
「狼型の魔物……」
零が依頼書へ目を落とすと、そこには森の周辺で確認された魔物の討伐について記されていた。複数の個体が目撃されており、単独での行動は推奨されていないらしい。
「群れで行動する魔物は、一体ずつ相手にする場合とは勝手が違う。周囲への注意が必要になる」
ヴァイスはそこで一度言葉を切り、零の隣に立つ二人を見た。
「もっとも、今回はお二人が同行されるのであれば、万一の際にも対応できるでしょう。ただし、零自身が依頼を受ける以上、討伐の判断と行動には責任を持ってもらう」
「うん。分かった」
零が頷くと、ガルドが依頼書を覗き込んだ。
「ほう、群れか。いいじゃねぇか! 流転の練習にもなりそうだ」
「ふふっ。でも、零。無理に覚えた技を使おうとしなくてもいいのよ?」
ルシエラが穏やかに言うと、ヴァイスも同意するように頷いた。
「ええ。依頼を達成することが先です。技を試すために危険を増やすようなことは、避けてください」
「うん。ちゃんと状況を見て考えるよ」
真剣な表情で答える零を見て、ヴァイスは納得したように依頼書を差し出した。
「では、受付で正式に手続きを済ませてくれ」
「ありがとう、ヴァイスさん」
零は嬉しそうに微笑みながら、差し出された依頼書を受け取った。
◇
王都を出てしばらく進むと、周囲の景色は次第に緑を増していった。
街道沿いに広がっていた草原は、やがて背の高い木々が立ち並ぶ森へと変わる。枝葉の隙間から差し込む陽光が地面にまだらな模様を描き、風が吹くたびに木々の葉が静かに揺れていた。
零は森の入り口で足を止め、周囲を見渡した。
「……この辺りなんだね」
「ええ。報告では、森の奥から外縁にかけて目撃されているそうよ」
ルシエラが答えると、ガルドは腕を組みながら森の奥へ視線を向けた。
「よし、零。ここからはお前が先頭だ」
「僕が?」
「おう。今日はお前の依頼だからな。俺たちは後ろからついていく。どう動くかは、お前が考えろ」
零は少しだけ驚いたものの、すぐに頷き、ゆっくりと森へ足を踏み入れた。
木々の間には獣道のような細い道が続いており、足元には落ち葉や折れた枝が散らばっている。零は歩きながら周囲へ意識を向け、風に揺れる葉の音や遠くから聞こえる鳥の声、木々の間を抜ける空気の流れに耳を澄ませた。
すると、それらに混じって、どこかから微かな気配が伝わってきた。
「……あれ?」
零が足を止めると、ガルドが声をかけた。
「どうした?」
「何かいる……気がする」
森の奥へ視線を向ける零を見て、ルシエラが僅かに目を細めた。
「ふふっ。もう気づいたのね」
「……やっぱり?」
「ええ。でも、ここから先は自分で確かめてごらんなさい」
零は頷くと、足音を抑えながら木々の間を進んだ。
しばらくすると、地面に残された足跡を見つけた。犬に似た形をしているが、普通の獣よりも一回り大きく、周囲を調べてみると同じような足跡がいくつも重なっている。
「……複数いるんだ」
「おう。しかも、そう古い跡じゃねぇな」
ガルドが隣から覗き込み、足跡の続く方向へ目を向けた。
「群れってのは、ただ集まってるだけじゃねぇ。互いの動きを見ながら狩りをする奴らもいる。油断すんなよ」
「うん」
零は頷き、静まり返った森の奥を見つめた。
その静けさの向こうには、確かに何かが潜んでいる。
呼吸を整えた零は、再び歩き始めた。
◇
最初に異変を感じたのは、森の中ほどにある小さな開けた場所へ出たときだった。
それまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか途絶えている。木々の隙間から差し込む光は地面に落ちた葉を照らし、風も穏やかで、森そのものは先ほどまでと何も変わらないように見えた。
だが、零の感覚は、近くに複数の気配があることを捉えていた。
「……いる」
そう呟いた直後、左手の茂みが揺れた。
現れたのは、灰褐色の毛並みを持つ狼型の魔物だった。普通の狼よりも大柄で、鋭い牙が覗く口元からは低い唸り声が漏れている。その瞳は零を真っ直ぐに捉えており、今にも飛びかかってきそうな様子だった。
しかし、零はすぐには動かなかった。
一体だけではない。正面の茂みからもう一体、さらに右側の木陰からも別の個体が姿を現し、気づけば五体の狼型魔物が、三人を取り囲むように位置を取っていた。その中でも、前に立つ零へ警戒の視線が集中している。
「……なるほど」
零がゆっくりと構えを取ると、背後で様子を見ていたガルドが、興味深そうに口元を緩めた。
「がっはっは……さて、どうする?」
ルシエラも少し離れた場所で足を止め、穏やかな声をかける。
「零、私たちのことは気にしなくていいわ。あなたは目の前の相手に集中なさい」
「うん」
零が再び狼たちへ視線を向けた、その瞬間だった。
正面の一体が地面を蹴り、鋭い爪を伸ばしながら一直線に飛びかかってきた。
その動きは、零の目には十分に捉えられていた。避けるだけなら難しくなく、踏み込んで拳を振るえば、一撃で倒すこともできるだろう。
けれど、零はすぐに拳を放とうとはしなかった。
(……まずは、流転を試してみよう)
身体を僅かに横へずらし、伸びてきた前脚へ掌を添える。
――流転。
触れた瞬間、相手の勢いに逆らわず、その進む方向を僅かに変えると、狼の身体は零の横を通り過ぎ、着地した先で体勢を崩した。
「……よし」
零が手応えを感じた直後、今度は右側から別の狼が飛びかかってきた。
その動きも視界の端で捉えていたが、再び流転で受け流そうとしたため、身体の向きを変えるのが僅かに遅れてしまう。
(……あ)
このままでも避けられる。
そう判断した零は無理に技を使うことをやめ、軽く地面を蹴って攻撃をかわした。続けて背後から迫ってきた三体目の狼に対しても、身を翻して間合いを外す。
狼たちの牙や爪が零へ届くことはなかったが、その表情には僅かな戸惑いが浮かんでいた。
(……思ったより難しいな)
狼たちの動きが見えないわけではない。ただ、流転を使おうと意識すると、どうしても一体の動きへ注意が向いてしまい、その間にもほかの狼たちは位置を変え、次の攻撃を仕掛けようとしていた。
ガルドとの修行では一人の相手に集中することができたが、今は違う。一体の攻撃を受け流したあと、すぐに別の相手へ対応しなければならないのだ。
「がっはっは! どうした、零! いつもの調子じゃねぇな!」
少し離れた場所からガルドの声が飛ぶ。
「……流転を使おうとすると、ちょっと動きにくい!」
「そりゃそうだ! まだ身体に馴染みきってねぇんだからな!」
その言葉に、零は納得したように息を吐いた。
技を意識しすぎれば、かえって動きがぎこちなくなる。それなら、無理にすべての攻撃を流転で捌く必要はない。
零は改めて構えを整え、狼たちの動きを見据えた。
◇
次に飛びかかってきた狼に対して、零は迷わず踏み込んだ。
伸びてきた前脚を軽くかわし、その懐へ潜り込むと、短く拳を振り抜く。鈍い衝撃とともに狼の身体が吹き飛び、地面を転がって動かなくなった。
ほとんど一瞬の出来事だった。
零はその結果を確かめると、すぐに残る狼たちへ視線を向けた。
(……うん。普通に戦うなら、問題ない)
自分の身体能力だけでも、十分に対応できる相手だ。だからこそ、今度はもう少し落ち着いて技を試せる。
正面から迫ってきた別の狼へ掌を伸ばし、前脚に触れると同時に、相手の勢いを斜め前方へ逃がす。流転によって身体が横へ流れた狼は、着地した先で体勢を崩した。
零はその隙に一歩踏み込み、脇腹へ拳を打ち込んだ。
二体目が倒れた。
残る三体は、すぐには飛びかかってこなかった。距離を取りながら零の周囲をゆっくりと回り始め、その動きを見つめる零も、先ほどまでとは少し違うことに気づいていた。
これまでは目の前の相手へ意識を向けすぎていたが、少し距離を置いて眺めてみると、狼たちが互いの位置を確かめながら動いていることが分かる。
一体が正面に立てば、ほかの個体は左右へ回り込む。こちらが動けば、それに合わせて群れ全体の位置も変わっていく。
(……だったら)
流転は、相手の攻撃を受け流す技。けれど、相手の勢いを利用できるのなら、ただ受け流すだけでなく、その後の自分の動きにも繋げられるはずだ。
零は正面の狼へ向かって一歩踏み出した。
狼が反応して低く身構えた瞬間、零は進む方向を変え、右側へ回り込もうとしていた別の狼へ距離を詰めた。
突然接近された狼が飛びかかってくる。その前脚へ掌を添え、勢いを斜め後方へ流すと、狼の身体は大きく逸れ、仲間の進路を塞いだ。
零はその隙に位置を変え、三体すべてを視界に収められる場所へ移動した。
「……なるほど」
零の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
相手の動きに合わせるだけではなく、自分の立ち位置を変えることで、相手の動きも変わる。
その感覚が、少しずつ掴めてきた。
「いいぞ、零! ようやく周りが見えてきたみてぇだな!」
ガルドの声に零は頷き、ふと自分の右拳へ視線を落とした。
――轟雷。
先日の修行で、初めて形にすることができた技。
あのときの感覚は、今もはっきりと覚えている。身体の内側を巡る力を一箇所へ集め、それを拳とともに解き放つ。
ただし、まだ自在に扱えるわけではない。力を集めるには時間が必要で、少しでも集中が乱れれば、集めた力は散ってしまう。
(……実戦だと、どのくらい使えるんだろう)
零の胸に、静かな好奇心が芽生えた。
目の前の狼たちを倒すだけなら、轟雷を使う必要はない。それでも、動く相手を前にして技を使う感覚は、修行場で岩を相手にする場合とは違うはずだ。
試してみたい。
零は狼たちとの距離を確かめると、右拳へ意識を集中させた。
身体の内側を巡る力が、少しずつ拳へ集まり始める。
しかし、その途中で一体の狼が地面を蹴り、零へ向かって駆け出した。
零はすぐに構えを解き、軽く横へ跳んで攻撃をかわす。拳へ集めかけていた力は、その動きとともに散ってしまった。
(……やっぱり、簡単じゃないね)
技を使うこと自体はできても、相手が動いている状況では、力を集める時間を確保するのが難しい。ただ立ち止まって集中するだけでは、思うようにいかなかった。
「零、轟雷を試してみてぇのか?」
ガルドの問いに、零は頷いた。
「うん。でも、力を集めてる間に相手が来ちゃう」
「そりゃそうだ! 実戦じゃ、相手が待ってくれるわけじゃねぇからな!」
「……うん」
ガルドは楽しそうに笑いながら、零の動きを見つめた。
「相手の動きばっかり見てねぇで、自分がどう動いてるかも考えてみろ!」
その言葉に、零は静かに目を細めた。
(……自分の動き)
相手がどう攻撃してくるか。そればかり考えていたが、自分が動けば相手も動く。
先ほど流転を使ったときも、自分の立ち位置を変えることで、狼たちの連携を崩すことができた。
それなら、轟雷を使うための時間も、自分の動きによって作れるかもしれない。
「……やってみる」
零はそう呟くと、地面を蹴った。
◇
零は正面の狼へ向かって駆け出した。
突然距離を詰められた狼は低く唸りながら身構えたが、零はそのまま攻撃することなく、相手の横をすり抜けた。
狼が振り返ると同時に、左右にいた二体も零を追うように動き始める。
零はその動きを確かめながら木々の間を駆け抜けた。狼たちは素早く追いかけてきたが、木々の間では横に広がることが難しく、先ほどまで零を囲んでいた三体の位置が、少しずつ縦に伸びていった。
(……今なら)
零が足を止めて振り返ると、先頭を走っていた狼が勢いよく飛びかかってきた。
その前脚へ掌を添え、流転によって攻撃の方向を変えると、勢いを逸らされた狼の身体が横へ流れ、後ろから追ってきた仲間の進路を塞いだ。
続く狼が咄嗟に足を止めた瞬間、零は大きく後方へ跳び、二体との距離を取った。
残る一体も木々の間から姿を現したが、先頭の二体が進路を塞いでいるため、すぐには飛びかかれない。
ほんの僅かな時間。
けれど、先ほどまでにはなかった隙が生まれていた。
零はすぐに構えを取り、右拳へ意識を集中させた。
身体の内側を巡る力が少しずつ拳へ集まり始め、黒い瞳が黄金色へと変わる。周囲の空気が微かに震える中、零はその流れを乱さぬよう、静かに呼吸を整えた。
だが、狼たちもすぐに体勢を立て直し、一体が地面を蹴って零へ向かって駆け出した。
(……まだ、足りない)
零は拳へ集まる力を感じながら、相手との距離を測った。
あと少し集中を続ければ、轟雷を放てるかもしれない。けれど、そのために相手の接近を許す必要はなかった。
今の自分には、まだ早い。
そう判断した零は迷わず拳へ集めていた力を解き、迫ってきた狼の攻撃を軽くかわした。右拳に集めていた力が散るとともに、黄金色に染まっていた瞳も、ゆっくりと元の黒へ戻っていく。
そのまま相手の横へ回り込み、すれ違いざまに拳を放つ。
鋭い一撃を受けた狼が地面へ倒れ、動かなくなった。
三体目。
零はゆっくりと息を吐いた。
轟雷を使うことはできなかったが、先ほどよりも長く力を集めることはできた。自分の動きによって相手の位置を変え、技を使うための時間を作る。その考え方は、間違っていなかったのだと思う。
(……あとは、もっと上手く動けるようにならないと)
零は小さく微笑み、残る二体へ視線を向けた。
狼たちは仲間が次々と倒されたことで警戒を強めたのか、低く唸りながら距離を取っている。
零は今度こそ技を試すことにこだわらず、静かに構えを整えた。
次の瞬間、正面の狼が飛びかかってきた。
零はその動きを見極め、伸びてきた前脚へ掌を添える。流転によって攻撃の勢いを横へ逸らすと、そのまま相手の懐へ踏み込み、短く鋭い拳を放った。
拳が狼の胴を捉え、四体目が地面へ倒れる。
最後の一体は、零の動きを警戒するように僅かに後退した。
しかし、零はその距離を一瞬で詰めた。
狼が反応して牙を剥くよりも早く懐へ入り込み、放った拳が相手の身体を捉える。重い衝撃とともに狼は吹き飛び、地面を転がって動かなくなった。
森に、静けさが戻った。
零はしばらく周囲の気配を確かめてから、ゆっくりと構えを解いた。
「……終わったね」
その声に応えるように、背後から豪快な笑い声が響いた。
「がっはっは! よくやったな、零!」
振り返ると、ガルドが満足そうな笑みを浮かべながら歩いてきた。その隣では、ルシエラも穏やかに微笑んでいる。
「ふふっ。お疲れ様、零。楽しそうだったわね」
「……うん。思ってたより、いろいろ試せたから」
嬉しそうに答える零を見て、ガルドは大きく頷いた。
「流転も、最初よりずっとよくなってたぜ。相手の動きを利用して、自分の立ち位置を変えられるようになってきた」
「……うん。少しだけ、感覚が分かってきた気がする」
「おう。ただ、まだ技を意識しすぎると動きが硬くなる。そこはこれからだな」
零が素直に頷くと、ガルドは続けた。
「それと、轟雷を途中でやめた判断も悪くなかった」
「……使えなかったのに?」
「がっはっは! 使えねぇ状況で無理に使う方が問題だろうが!」
ガルドは笑いながら零の肩を軽く叩いた。
「技ってのは、出せりゃいいってもんじゃねぇ。いつ使うか、いつ使わねぇか。それを判断するのも強さのうちだ」
零はその言葉を静かに受け止めた。
轟雷を実戦で使うことはできなかったが、使うために何が必要なのかは、以前よりもはっきりしてきた気がする。
「……そっか。まだまだ、覚えることがいっぱいあるね」
「おう! そういうこった!」
ルシエラが二人のやり取りを聞きながら、楽しそうに目を細めた。
「ふふっ。でも、まずは依頼を終わらせましょう? せっかく討伐したんですもの、きちんと報告しないとね」
「あ……そうだった」
零が思い出したように顔を上げると、ガルドがまた笑った。
「戦いに夢中になって、依頼のことを忘れちまったか!」
「……ちょっとだけ」
零が恥ずかしそうに答えると、ルシエラも小さく笑った。
◇
王都へ戻る頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
三人は冒険者ギルドへ立ち寄り、討伐の報告と必要な手続きを済ませた。受付で依頼の完了が確認されると、零は報酬を受け取り、ほっとしたように息を吐いた。
初めての依頼は薬草採取だった。
あのときも達成できたことが嬉しかったが、今回はまた違う感覚があった。
修行で覚えたことを、実際の冒険者活動で試すことができたのだ。思いどおりにいかなかった部分もあるけれど、それも含めて楽しかった。
「……無事に終わってよかった」
零が小さく呟くと、隣にいたルシエラが微笑んだ。
「ええ。よく頑張ったわね」
「うん。久しぶりの依頼だったけど、楽しかった」
「ふふっ。それなら、また来ましょうね」
「……うん!」
零が嬉しそうに頷くと、ガルドが横から口を挟んだ。
「がっはっは! その前に、今日見つかった課題をしっかり修行しねぇとな!」
「……分かってるよ、ガルド師匠」
「おう! その意気だ!」
ルシエラはそんな二人を見ながら、楽しそうに笑った。
「あらあら。もう次の修行の話? せっかく依頼も終わったんだもの。今日は少しくらい、ゆっくりしてもいいんじゃない?」
「がっはっは! それもそうだな!」
零は二人のやり取りを聞きながら、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの王都には、今日も多くの人々が行き交っている。その賑やかな光景を眺めながら、零は静かに自分の拳を握った。
流転は、少しずつ実戦でも使えるようになってきた。轟雷はまだ思うように扱えないが、今日の冒険では、強い技を覚えるだけでなく、それをいつ、どのように使うかを判断することも大切なのだと知った。
修行場では得られなかった経験が、確かに自分の中に残っている。
零は握った拳をそっと開き、柔らかく微笑んだ。
「……次の修行も、楽しみだな」
その呟きに、ガルドは満足そうに笑った。
「がっはっは! まだまだ教えることは山ほどあるからな!」
「ふふっ。ほどほどにしてちょうだいね。零が夢中になると、時間を忘れてしまうんだから」
「おいおい、そいつは俺だけのせいじゃねぇだろ!」
そんな二人のやり取りを聞きながら、零は楽しそうに笑った。
新しく覚えた技も、今日の冒険も、まだ始まりにすぎない。これからどんなことを学び、どんな景色を見ることになるのだろう。
そんな期待を胸に、零は二人とともにギルドを後にした。




