第二十六章 拳鬼の教え
翌朝。
王都近郊の草原には、まだ朝露が残っていた。
柔らかな風が草を揺らす中、零はガルドと向かい合っていた。少し離れた木陰では、ルシエラが二人の様子を見守っている。
「よし、零。今日はちっと趣向を変えるぞ」
ガルドはそう言うと、いつものように拳を構えることなく、腕を組んで零を見下ろした。
「趣向を変える?」
「おう。ここ数日、お前の動きを見てきたが……そろそろ頃合いだと思ってな」
その言葉に、零は小さく首を傾げる。
「何か、新しいことを教えてくれるの?」
「がっはっは! 察しがいいじゃねぇか!」
ガルドは豪快に笑うと、ゆっくりと右の拳を握った。
「今までお前には、身体の動かし方や拳の振るい方、氣の扱いなんかを叩き込んできた。どれも戦う上じゃ欠かせねぇもんだ。だがな、それだけが武術ってわけじゃねぇ」
零は黙って耳を傾けた。
ガルドの表情には、普段の修行で見せるものとは少し違う、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
「今日は俺の技を見せてやる」
「……ガルド師匠の技?」
「おう。長いこと拳を振るってるうちに、俺なりに磨き上げてきた技が幾つもあってな。まとめて『鬼拳』と呼んでる」
「鬼拳……」
零はその名を小さく繰り返した。
拳鬼と呼ばれるガルドが、自ら磨き上げた技。
それだけで、胸の奥に好奇心が湧き上がってくる。
「どんな技なの?」
「そいつは見た方が早ぇな」
ガルドはにやりと笑うと、零から数歩離れた。
「まずは一つ、見せてやる。零、俺に殴りかかってこい」
「……本気で?」
「遠慮はいらねぇ。ただし、今から見せるのは受ける技だ。俺の動きをよく見ておけよ」
零は頷き、ゆっくりと構えを取った。
身体の内側へ意識を向けると、馴染み始めた力が静かに巡り出す。黒い瞳が黄金色へ変わり、周囲の景色が一段と鮮明になった。
「いくよ、ガルド師匠」
「おう、来い!」
零は地面を蹴った。
一気に間合いを詰め、ガルドの胸元へ拳を突き出す。
これまで何度も繰り返してきた、真っ直ぐな一撃。
ガルドは避けようとしなかった。
代わりに、迫る零の腕へ掌を添える。
その瞬間だった。
「……っ!」
零の拳が、不意に軌道を変えた。
避けられたわけではない。
ガルドの掌が触れた瞬間、拳の進む方向そのものを変えられたのだ。
勢いを保ったまま身体が流れ、零は咄嗟に足を踏み替えた。どうにか体勢を立て直したものの、拳はガルドの身体から大きく外れていた。
「……今のは?」
「がっはっは! 驚いたか!」
ガルドは何事もなかったように笑っている。
零は自分の右腕を見下ろした。
強く押された感覚はなかった。
むしろ、触れられたのはほんの一瞬だったはずだ。
それなのに、拳は狙いから大きく外されていた。
ふと顔を上げると、ガルドは先ほどとほとんど同じ場所に立っていた。足を大きく踏み替えた様子もなく、構えさえほとんど崩れていない。
「……ガルド師匠、ほとんど動いてない」
「おう。わざわざ動く必要がねぇからな」
「僕はあんなに勢いがついてたのに……」
「だからこそだ。お前の力を、俺が全部受け止める必要はねぇ」
ガルドは掌を開き、ゆっくりと腕を動かしてみせた。
「相手の力がどこへ向かってるかを見極めて、その流れを変えてやる。力ずくで押し返すんじゃねぇ。必要なところに、必要なだけ手を添えるんだ」
「……なるほど」
「これが『鬼拳・流転』だ」
零の黄金色の瞳が、僅かに輝きを増した。
「流転……」
「おう。相手の攻撃を受け流す技だ。見た目は地味だが、使いこなせりゃ随分と役に立つぞ」
ガルドはそう言って、もう一度構えた。
「ほれ、今度は違う角度から打ってみろ」
「分かった」
零は一歩踏み込み、左の拳を繰り出した。
今度は正面ではなく、ガルドの脇腹を狙う。
しかし、結果は同じだった。
拳に掌が触れたかと思うと、攻撃の軌道が滑らかに逸らされる。
続けて右拳を放つ。
それも受け流された。
零は距離を取ると、感心したように息を吐いた。
「……すごい。全然、力を使っているように見えない」
「実際、無駄な力はほとんど使ってねぇからな」
「でも、僕の攻撃がどこに来るのか、分かってないとできないよね?」
「そういうこった。相手の動きが読めなきゃ、触れることすらできねぇ。それに、力を逃がす方向を間違えりゃ、自分から攻撃を食らいにいくようなもんだ」
ガルドは一度拳を下ろした。
「勘違いすんなよ。流転は何でも防げる便利な技じゃねぇ。力の差がでかすぎりゃ受け流しきれねぇこともあるし、そもそも触れられねぇ攻撃には使えねぇ」
「……広い範囲をまとめて攻撃されたら、難しいってこと?」
「おう。そういうときは素直に避けろ。技に拘って死んじまったら、元も子もねぇからな」
零は真剣な表情で頷いた。
相手の力を利用するからといって、どんな攻撃にも通用するわけではない。
攻撃を見極め、受け流せるかどうかを判断することまで含めて、一つの技なのだろう。
「……やってみてもいい?」
「そのために見せたんだろうが!」
ガルドは楽しそうに笑い、零の前へ立った。
「今度は俺が打つ。お前は流転で受けてみろ」
「うん」
「最初から速くは打たねぇ。よく見て、俺の拳がどこへ向かうか考えろ」
零は構えを取り直した。
ガルドが右拳をゆっくりと突き出す。
零はその腕へ掌を伸ばした。
触れる。
拳の方向を変えようとする。
だが――。
「おっと」
ガルドの拳は、零の掌を押しのけるようにして進んだ。
零は慌てて身体を捻り、どうにか直撃を避ける。
「……あれ?」
「がっはっは! そりゃ受け流すんじゃなくて、押してるだけだ!」
零は自分の掌を見つめた。
確かに、拳を横へ動かそうと意識した瞬間、腕に力が入っていた。
「もっと力を抜いた方がいいのかな」
「ただ抜きゃいいってもんでもねぇ。力を入れる場所と、その瞬間が大事なんだ」
ガルドは零の手首を軽く取り、腕の位置を直した。
「拳が来るのを待ちすぎるな。相手が打ってきた力を、こっちで止めちまわねぇようにするんだ」
「……うん。もう一回、お願い」
「おう!」
再び拳が伸びる。
零はガルドの動きを見つめながら、掌を添えた。
今度は押し返さないように意識する。
しかし、拳は思うように逸れなかった。
掌が滑り、ガルドの拳が零の肩先に軽く触れる。
「惜しいな。今度は力を抜きすぎだ!」
「……難しいね」
「当たり前だろうが。見ただけで何でもできるなら、修行なんざいらねぇよ!」
ガルドは笑っていたが、その目は零の手の動きを注意深く見ていた。
零もまた、失敗したことを気にするより、どうすれば成功するのかを考えていた。
触れる位置。
力を加える方向。
相手の拳が進もうとする勢い。
そのすべてが、ほんの僅かにずれるだけで結果が変わってしまう。
「……ガルド師匠、もう少しゆっくり打ってもらってもいい?」
「構わねぇぞ。何か気づいたか?」
「うん。拳が当たってから動かそうとすると、遅い気がするんだ」
「ほう?」
「だから、触れる前から、どっちに流すか決めておかないといけないのかなって」
ガルドは目を細めた。
「がっはっは! いいところに気づいたじゃねぇか!」
嬉しそうに笑うと、今度はさらにゆっくりと拳を突き出した。
零はその軌道を見極め、掌を添える。
拳に触れた瞬間、腕を僅かに動かした。
ガルドの拳が、ほんの少しだけ横へ逸れる。
「……!」
零の表情が明るくなった。
だが、喜んだのも束の間だった。
ガルドは拳の軌道が変わると同時に足を踏み替え、別の角度から左拳を突き出した。
「あっ」
零が反応するより早く、その拳が額の前で止まる。
「一本だな!」
「……また取られちゃった」
「がっはっは! だが、今のは悪くなかったぞ!」
ガルドは拳を下ろし、満足そうに頷いた。
その一方で、内心では舌を巻いていた。
流転は、相手の動きを見極め、触れる位置と力を逃がす方向を瞬時に判断しなければならない技だ。
それを零は、僅かな試行のうちに理解し始めている。
無論、今はガルドが動きを合わせているからこそ成立しているにすぎない。実戦で使える段階には、まだ遠かった。
(……ったく、本当に末恐ろしい奴だぜ)
ガルドは胸中で苦笑しながらも、嬉しそうに口元を緩めた。
「まだ形にもなってねぇが、さっきよりは流れを掴めてた。忘れねぇうちに繰り返すぞ」
「うん!」
零はすぐに構えを取り直した。
◇
それから、どれほど拳を交わしただろうか。
零はガルドの攻撃を何度も受け、何度も失敗した。
掌を添える位置が悪ければ拳を逸らせず、力を入れすぎれば押し合いになる。上手く受け流せたと思っても、次の攻撃への対応が遅れてしまう。
それでも、繰り返すうちに僅かな変化が生まれていた。
最初はガルドの拳を横へ押そうとしていた手が、少しずつ自然な動きへ変わっていく。
相手の力を無理に止めるのではなく、その進む先を変える。
頭では理解していたことが、ようやく身体の感覚として結びつき始めていた。
「……今の、少しだけできた気がする」
「おう。だが、まだ俺が合わせてやってるからな」
「分かってる。普通に打たれたら、まだ難しいと思う」
「それが分かってりゃ上等だ!」
ガルドは豪快に笑うと、零の肩を軽く叩いた。
「しかし、お前は本当に面白ぇな。覚えが早ぇのもそうだが、教えたことをそのまま飲み込むんじゃなくて、自分で考えようとしやがる」
「……そうかな?」
「おう。昔、似たような奴がいたぜ」
零は首を傾げた。
「誰?」
「ヴィクトリアだよ」
「ああ……ヴィクトリア」
懐かしい名前に、零の口元が自然と緩んだ。
ガルドは腕を組み、どこか楽しそうに遠くを見た。
「あいつは教えたことを覚えるのも早かったが、それだけじゃねぇ。俺が一つ教えりゃ、すぐに自分の剣に合わせて変えちまう。まったく、教えたこっちが驚かされることばかりだったぜ!」
「ふふっ。ヴィクトリアらしいね」
「がっはっは! まったくだ!」
ひとしきり笑ったあと、ガルドは零へ向き直った。
「だがな、俺はそれでいいと思ってる」
「……それでいい?」
「おう。俺が教えるのは、あくまで俺の技だ。俺の身体で、俺の戦い方に合わせて磨いてきたもんだ。だから、俺と同じ動きができるようになったところで、それが必ずしもお前にとって一番いいとは限らねぇ」
零は静かにその言葉を聞いていた。
「ヴィクトリアにはヴィクトリアの剣がある。俺が教えたことも、あいつは自分の剣に合わせて使ってきた。お前だって同じだ」
ガルドは零の胸元を指さした。
「お前には、お前の身体と力がある。俺の真似だけして満足するんじゃねぇぞ」
「……僕の、戦い方」
「そうだ。まずは俺の技を覚えろ。だが、そこで終わるな。何が必要で、何が合わねぇのか、自分で考えろ」
零は少しの間、自分の手を見つめていた。
ガルドの流転は、確かに見事な技だった。
けれど、ただ同じ動きを繰り返せるようになることが、修行の終わりではないのだろう。
ヴィクトリアが剣を振るう姿を思い出す。
彼女の剣は力強く、それでいて美しかった。
きっと、ガルドから学んだことも、彼女自身の戦い方の中に息づいているのだ。
「……分かったよ、ガルド師匠」
零は顔を上げた。
「まずはちゃんと流転を覚える。それから、僕に合った使い方を考えてみるよ」
その返事を聞いたガルドは、満足そうに大きく頷いた。
「がっはっは! それでこそ俺の弟子だ!」
少し離れた木陰から、柔らかな笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ。随分と楽しそうね、二人とも」
ルシエラが水の入った杯を手に歩いてくる。
「そろそろ休憩にしたらどうかしら? 零も朝からずっと動いているでしょう」
「……あ、もうそんな時間?」
零が空を見上げると、太陽はすでに高い位置まで昇っていた。
夢中になっていたせいで、時間が経つのをすっかり忘れていたらしい。
「がっはっは! 今日はこの辺にしとくか!」
ガルドがそう言うと、零は少し名残惜しそうに拳を開いた。
巡らせていた氣を収めれば、黄金色の瞳もゆっくりと黒へ戻っていく。
「……ねえ、ガルド師匠」
「なんだ?」
「鬼拳って、流転以外にもあるんだよね?」
「おう。長年磨いてきた技だからな。流転以外にも幾つもあるぜ」
「……そんなに?」
「がっはっは! 何年拳を振るってきたと思ってやがる!」
ガルドは楽しそうに笑うと、三本の指を立てた。
「だが、今のお前に教えようと思ってるのは三つだ。今日見せた『流転』、それから『轟雷』と『七閃』だな」
「轟雷と、七閃……」
「おう。どっちも簡単な技じゃねぇ。特に七閃は、俺の技の中でも扱いが難しい部類に入る」
零は興味深そうに目を輝かせた。
「……いつか、それも教えてくれる?」
「がっはっは! 焦るな焦るな! まずは流転をものにしろ。そいつができたら、次を見せてやる」
「うん。楽しみにしてる」
「おう。その意気だ!」
ガルドは零の頭を軽く撫でた。
その様子を見ていたルシエラが、呆れたように微笑む。
「まったく。零が夢中になることばかり増やすんだから」
「がっはっは! 強くなりてぇって言ってんだ。教えてやらなきゃ師匠の名が廃るだろうが!」
「あら、別に反対しているわけじゃないわ。ただ、無理はさせないでちょうだいね」
「分かってるって!」
零は二人のやり取りを聞きながら、小さく笑った。
新しく教わった流転は、まだ思うように使えない。
それでも、掌に残るガルドの拳の感触を思い返すと、自然と次の修行が待ち遠しくなった。
次は、もう少し上手く受け流せるだろうか。
そんなことを考えながら、零は顔を上げ、ガルドとルシエラの後を追って歩き出した。




