第二十七章 雷鳴の先へ
それから、幾日かが過ぎた。
王都近郊の草原では、今日も零とガルドの修行が続いていた。
相手の力を正面から受け止めるのではなく、その流れを感じ取り、僅かな接触によって進む方向を変える。ガルドから教わった『流転』は、言葉にすれば単純な技だったが、実際に身につけるのは容易ではなかった。
それでも、繰り返し拳を交えるうちに、零の動きには少しずつ変化が生まれていた。
「おら、次だ!」
ガルドの声とともに、右拳が零の胸元へ迫る。
零はその拳をよく見つめ、触れる瞬間に身体を僅かに捻った。掌を添えるようにして拳の軌道を変えると、ガルドの攻撃は零の身体を掠めることなく、その脇を通り過ぎていく。
「おっ、いいじゃねぇか!」
だが、ガルドの動きはそこで止まらなかった。
踏み込んだ足を軸に身体を回し、今度は反対の拳を繰り出す。
「……っ!」
零は咄嗟に身を引いたものの、受け流す余裕まではなく、拳は肩先を掠めていった。
「がっはっは! 今のは惜しかったな!」
「……うん。最初の拳は上手くできたと思ったんだけど」
「おう。そいつは間違いねぇ。だが、一つ受け流せたからって安心しちまうと、次の攻撃に対応できなくなる。そこはまだまだ修行が必要だな」
零は小さく頷き、先ほどの感覚を確かめるように自分の掌を見つめた。
最初の頃は、拳に触れた瞬間に力の流れを見失い、ただ押し返すような動きになってしまっていた。それが今では、ガルドが速度を抑えた攻撃であれば、無理に力を込めずとも受け流せるようになっている。
もちろん、実戦で自在に使えるほど完成されたものではない。それでも、以前とは確かに違う感覚が掌に残っていた。
そんな零の様子を眺めていたガルドは、満足そうに頷いた。
「よし。まだ荒削りだが、流転の基本は身についたようだな」
「……本当?」
「おう。力任せに弾くんじゃなく、ちゃんと流れを変えられるようになってきた。あとは実際に使いながら、少しずつ磨いていきゃいい」
その言葉に、零の表情がぱっと明るくなる。
「でも、まだガルド師匠みたいにはできないよ?」
「がっはっは! そこまでできりゃ俺の立つ瀬がねぇだろうが! 技ってのは、一度覚えたら終わりってもんじゃねぇ。何年もかけて磨き続けるもんだ」
ガルドはそう言って笑うと、零の頭を軽く撫でた。
「それに、前にも言っただろう。俺の真似だけして満足するんじゃねぇぞ。お前にはお前の身体に合った使い方があるはずだ」
「……うん。覚えてるよ」
「なら、そろそろ次へ進んでもよさそうだな」
その一言に、零は顔を上げた。
「次って……もしかして?」
「おう。前に話した鬼拳の二つ目だ」
「……轟雷?」
「がっはっは! よく覚えてるじゃねぇか!」
「もちろん。ずっと気になってたから」
期待に満ちた零の表情を見て、ガルドは楽しそうに笑った。
「なら、今日はそいつを見せてやる。ただし、ここじゃ少々具合が悪ぃな」
「どうして?」
「なに、見りゃ分かるさ」
意味ありげな笑みを浮かべたガルドは、草原の向こうへと視線を向けた。
◇
三人が向かったのは、王都からさらに離れた場所にある、岩肌の露出した荒れ地だった。
周囲には大小の岩が点在し、草木もほとんど生えていない。乾いた風が砂を巻き上げ、ときおり地面を転がる小石の音だけが響いていた。
ガルドは周囲に人影がないことを確かめると、前方にそびえる大きな岩へ視線を向けた。
「よし。ここなら問題ねぇだろう」
「……ずいぶん遠くまで来たのね」
ルシエラが周囲を見渡しながら呟く。
「おう。さすがにいつもの場所でぶっ放すわけにはいかねぇからな!」
「ふふっ。相変わらず派手な技が好きなんだから」
「がっはっは! 俺の技なんだから当然だろうが!」
二人のやり取りを聞きながら、零は不思議そうに首を傾げた。
「……そんなにすごい技なの?」
「そいつは自分の目で確かめな!」
ガルドはそう言うと、零たちから十分に距離を取った。
ルシエラも零の肩にそっと手を置き、少し離れた場所へと移動する。
「零、ここから見ていましょう。あの人の轟雷は、近くで受けるようなものではないわ」
「……うん」
ルシエラがそう言うほどの技なのだろうか。
零は期待と好奇心を胸に、ガルドの背中を見つめた。
やがて、ガルドがゆっくりと息を吐く。
左足を前へ踏み出し、腰を落とすと、右拳を深く引いた。
構えそのものは、これまでの修行でも何度も目にしてきたものと大きく変わらない。だが、零はすぐに、その内側で起こり始めた変化に気づいた。
「……?」
ガルドの身体から、普段とは異なる圧力が感じられる。
目に見える何かが現れたわけではない。それでも、全身を巡っていた力が少しずつ右腕へと集まり、握り締められた拳の奥で凝縮されていくのを、零は確かに感じ取っていた。
ガルドは微動だにせず、ただ前方の岩を見据えている。
その静かな姿とは裏腹に、周囲の空気は徐々に張り詰めていった。
「……力を、溜めてる?」
零が小さく呟くと、隣にいたルシエラが頷いた。
「ええ。あの人が長年磨いてきた技の一つよ。よく見ておきなさい」
零は返事をするのも忘れ、ガルドの拳へと視線を向けた。
そのとき、ぴしり、と乾いた音が響いた。
ガルドの足元に細い亀裂が走り、周囲に転がっていた小石が微かに震え始める。
それでもガルドは動かない。
拳へ集められていく力はさらに密度を増し、零には、今にも何かが弾けそうなほど張り詰めているように感じられた。
やがて、ガルドの表情から笑みが消えた。
鋭い眼差しが、前方の岩を射抜く。
そして――。
「――鬼拳・轟雷ッ!!」
ガルドの拳が放たれた。
その瞬間、零には周囲の音が消えたように感じられた。
次いで、凄まじい轟音が押し寄せる。
拳の先で空気が爆ぜ、大地が激しく震えた。解き放たれた衝撃は一直線に荒れ地を駆け抜け、地面を深く抉りながら、その先にそびえる巨大な岩へと襲いかかる。
轟音とともに岩が砕け散った。
無数の岩片が宙を舞い、巻き上がった土煙が周囲の景色を覆い隠す。衝撃によって生じた風が荒れ地を吹き抜け、足元の砂まで激しく巻き上げられた。
「……っ!」
零は思わず腕を上げた。
だが、吹き荒れる風も飛び散った砂礫も、零の身体へ届くことはなかった。
いつの間にかルシエラが二人を包むように障壁を展開しており、荒れ狂う衝撃の余波を静かに受け止めていたのだ。
やがて風が収まり、舞い上がっていた土煙も少しずつ晴れていく。
その向こうに現れた光景を目にした零は、思わず息を呑んだ。
ガルドの前方には、地面を深く抉った一本の巨大な傷痕が刻まれていた。
先ほどまでそびえていた岩は跡形もなく砕け散り、大小さまざまな破片となって周囲に散乱している。
たった一度、拳を振るっただけ。
それだけで、目の前の景色が変わってしまった。
「……すごい」
零の口から、自然と言葉が零れた。
ガルドはゆっくりと拳を下ろし、こちらへ振り返る。
「がっはっは! どうだ、零!」
「今の……本当に拳だけで?」
「おう。俺の拳と、俺自身の力だけだ」
零はもう一度、抉れた大地へ視線を向けた。
これまでにも、ガルドの強さは何度も目にしてきた。初めて出会ったときから、その拳が常人とは比べものにならない力を秘めていることは知っている。
それでも、今の一撃は別格だった。
あれほどの力を一つの拳へ集め、たった一度の攻撃で解き放つ。その光景は、零の想像を遥かに超えていた。
「……僕にも、できるようになるの?」
「そのために教えるんだろうが!」
ガルドが豪快に笑うと、零の瞳に隠しきれない好奇心が浮かんだ。
そんな二人を見ていたルシエラは、小さく息を吐く。
「まったく……相変わらず派手なんだから。零が同じことをできるようになったら、修行場所を考え直さないといけないわね」
「がっはっは! そいつは楽しみだな!」
「もう。楽しみにするところじゃないでしょう?」
呆れたように言いながらも、ルシエラの表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。
零も二人のやり取りに小さく笑ったが、その視線はすぐにガルドの拳へと戻る。
「ガルド師匠。僕にも教えてほしい」
真っ直ぐな眼差しを向けられたガルドは、満足そうに頷いた。
「おう! だが、こいつは流転とはまるで違う技だぞ」
ガルドは自分の右拳を軽く叩きながら、説明を始めた。
「流転は相手の力を受け流す技だ。だが、轟雷は違う。こいつは自分の力を一撃に叩き込むための技なんだ」
「……一撃に、全部?」
「おう。全身の力を拳へ集めて、一気に解き放つ。単純に聞こえるかもしれねぇが、これがなかなか難しい」
ガルドは構えを取り直し、足元から拳へと繋がる身体の動きをゆっくりと示した。
「ただ力を集めりゃいいってもんじゃねぇ。足の踏ん張り、腰の回転、背中や肩の動き、それに力を巡らせる感覚。そいつらが全部噛み合って、初めてあの威力になる」
零は真剣な表情で頷いた。
先ほどのガルドは、ただ拳を振るっていたわけではない。構えを取ってから一撃を放つまで、身体の内側で力を集め続けていた。
そのことを思い返しているうちに、零の中で一つの疑問が浮かぶ。
「……ねえ、ガルド師匠。さっき、拳を出すまで少し時間がかかってたよね?」
「おう。俺の場合はな。あれだけの力を一度に放つには、どうしても溜めが必要になる」
「そうなんだ……」
「だから、実戦じゃ使いどころを考えなきゃならねぇ。相手が黙って待ってくれるとは限らねぇからな」
ガルドはそう言って笑ったあと、再び抉れた地面へ目を向けた。
「だが、あの溜めがあるからこそ、あれだけの威力を生み出せる。無駄に時間をかけてるわけじゃねぇんだ」
零は納得したように頷いた。
ガルドほどの強者であっても、強大な一撃を放つには相応の準備が必要になる。それは技の弱さではなく、あの凄まじい力を生み出すための大切な過程なのだろう。
そう理解すると、零はますます轟雷という技に興味を惹かれた。
「……やってみたい」
「がっはっは! そう言うと思ったぜ!」
◇
零はガルドに教わりながら、荒れ地の一角で構えを取った。
右拳を引き、足を開いて腰を落とす。先ほどガルドが見せた姿を思い返しながら、身体の内側へ意識を向けると、馴染み深い力が静かに巡り始めた。
その力が高まるにつれ、零の黒い瞳が黄金色へと変わっていく。
「まずは力を集める感覚を掴め。いきなり打とうとすんなよ」
「うん。まずは拳に集めるんだね」
「おう。ただし、腕だけでどうにかしようとするな。身体全体を使うことを忘れんじゃねぇぞ」
零は頷き、ゆっくりと呼吸を整えた。
これまでの修行でも、拳へ力を集中させることは何度も行ってきた。だが、轟雷はただ拳を強化するだけの技ではない。
全身を巡る力を一つの場所へ集め、それを散らさずに留めたうえで、一気に解き放たなければならない。
零は右拳へ意識を集中させた。
すると、身体の内側を巡っていた力が徐々に右腕へと流れ込み、握り締めた拳へ集まり始める。
その感覚は、これまでの修行で経験してきたものとよく似ていた。けれど、集めた力をその場に留め続けようとすると、思いのほか難しいことに気づく。
力は常に身体の内側を巡っており、一箇所に集めようとすればするほど、別の方向へ流れようとするのだ。
それでも零は集中を切らさず、拳へ向かう流れを少しずつ強めていった。
「……ほう?」
その様子を見ていたガルドが、小さく声を漏らした。
零の拳へ集まり始めた力は、初めて轟雷を試みる者のそれとは思えないほど大きかった。
足元に落ちていた砂が微かに震え、周囲の空気にも僅かな変化が生まれている。
零自身もその手応えを感じ取っていた。
もう少し。
あと少しだけ、力を集められれば――。
「……っ!」
その瞬間、拳へ向かっていた力の流れが乱れた。
留めていた力が一気に散り、零は思わず構えを解いて自分の右手を見つめた。
「あれ……途中までは上手くできたと思ったのに」
零が不思議そうに首を傾げる一方で、ガルドは内心で驚いていた。
(……おいおい。初めてでそこまで集めやがるか)
轟雷に必要なのは、ただ強大な力を持っていることではない。その力を正確に制御し、身体の動きと噛み合わせながら一撃へと繋げる技術だ。
零はまだ、その技術を身につけていない。
それにもかかわらず、最初の試みであれほどの力を拳へ集めたのは、ガルドの予想を超えていた。
だが、ガルドはその驚きを表に出さず、いつものように豪快な笑みを浮かべる。
「がっはっは! 悪くねぇぞ、零!」
「……でも、途中で散っちゃったよ?」
「おう。力を集めるところまでは上出来だ。だが、集めた力を逃がさずに保つのが難しいんだよ」
ガルドは零の隣に立ち、構えを少し直した。
「力がでかけりゃでかいほど、制御も難しくなる。焦って一度に集めようとすんな。それに、拳ばかり意識しすぎるのもよくねぇ」
「拳だけじゃなくて、身体全部……だよね?」
「おう。足の裏から腰、背中、肩、そして拳まで。身体の動きと力の流れを一つに繋げるんだ。どこか一つでもバラバラになりゃ、上手く力を伝えられねぇ」
零は教わったことを確かめるように、自分の足元へ視線を落とした。
先ほどは拳へ力を集めることばかり考え、身体の使い方までは十分に意識できていなかった。
もう一度構えを取り直し、今度は足の踏ん張りから腰、背中、肩へと意識を巡らせていく。
力を拳へ集めるだけではなく、身体全体で支えるように。
すると、先ほどよりも滑らかに力が流れ始めた。
しかし、その状態を保とうとした途端、やはり拳に集めていた力が乱れてしまう。
「……難しいね。集めることはできても、そのままにしておくのが上手くいかない」
「がっはっは! そう簡単にできる技じゃねぇからな! 今日は力を集める感覚を掴むだけでも十分だ。焦らずやっていきゃいい」
ガルドの言葉に、零は頷いた。
その様子を少し離れた場所から見守っていたルシエラが、穏やかに微笑む。
「ふふっ。ずいぶん楽しそうね、零」
「うん。難しいけど、すごく面白いよ」
零が笑顔で答えると、ルシエラはどこか嬉しそうに目を細めた。
「それならよかったわ。でも、無理はしないでちょうだいね。あれだけの力を扱うんですもの、焦りは禁物よ」
「分かってる。ちゃんと気をつけるよ」
「ええ。いい子ね」
優しく微笑むルシエラを見て、零も小さく笑った。
そして再び自分の右拳へ視線を戻したとき、ふと、先ほどから気になっていたことを思い出した。
「……ねえ、ガルド師匠」
「おう、なんだ?」
「轟雷って、力を溜める時間が必要なんだよね?」
「おう。俺が使うときはな」
零は少し考え込むように視線を落とした。
先ほど見たガルドの轟雷は、間違いなく凄まじい威力を持っていた。だが、もしあの一撃を放つまでの時間を短くできたなら、戦いの中でも使える場面が増えるのではないだろうか。
「……その時間って、もっと短くできないのかな?」
ガルドは一瞬、目を丸くした。
そして、楽しそうに口元を緩める。
「がっはっは! そりゃ短くできるに越したことはねぇさ!」
「でも、やっぱり難しい?」
「おう。力を集める速さを上げりゃ、それだけ制御も難しくなる。無理に急げば、せっかく集めた力が散っちまうことだってある」
ガルドはそう言ってから、零の拳へ目を向けた。
「それに、まずはきちんと溜められるようになることが先だ。そこができなきゃ、時間を縮めるも何もねぇからな」
「……そっか。そうだよね」
零は納得したように頷き、自分の右手を開いた。
確かに、今の自分は集めた力を留めることさえ満足にできていない。それなのに、最初から時間を短くすることばかり考えていては、肝心の技そのものを身につけられないだろう。
けれど、ガルドの話を聞いても、零の中に生まれた疑問が消えることはなかった。
あの凄まじい一撃を、もっと自在に扱うことができたなら。
そんな想像をするだけで、胸の奥がわくわくしてくる。
「……いつか、できるようになったらすごいよね」
零がぽつりと呟くと、ガルドはその横顔を見つめ、にやりと笑った。
「おう。できるもんなら、やってみやがれ!」
その言葉に、零は顔を上げた。
「うん!」
迷いのない返事だった。
ガルドは満足そうに頷くと、再び零の構えを確かめる。
「よし、なら続きだ! 今度はさっきより少しだけ長く、力を留めることを意識してみろ」
「分かった!」
零は右拳を握り直し、ゆっくりと呼吸を整えた。
今の自分には、ガルドが見せた轟雷はまだ遠い。力を集めることはできても、それを保ち、身体の動きと一つにして解き放つには、まだ多くのことを学ばなければならない。
それでも、あの一撃が生み出した光景を思い返すたびに、胸の奥から新たな好奇心が湧き上がってくる。
いつか、自分の拳でもあの威力を生み出せるようになりたい。
そして、できることなら――。
そこまで考えた零は、僅かに微笑んだ。
今はまだ、答えを急ぐ必要はない。
目の前にある一つ一つのことを、確かめながら身につけていけばいいのだから。
零は静かに意識を集中させ、再び身体の内側を巡る力へと感覚を向けた。
乾いた風が吹き抜ける荒れ地に、ガルドの豪快な笑い声が響く。
その傍らで、零の新たな修行が続いていた。




