第二十五章 静かなる変化
ガルドとの修行が再開してから、数日が過ぎた。
王都近郊の草原では、今日も朝から零とガルドが向かい合っていた。
「おらっ! そんなんじゃ当たらねぇぞ、零!」
ガルドの拳が眼前を横切る。
零は上体を沈めてそれを躱すと、地面を蹴って一気に間合いを詰めた。黄金色の瞳が師の動きを捉え、踏み込みと同時に放った拳がガルドの胸元へ迫る。
しかし、その一撃は大きな掌に受け止められた。
「ほう、いい踏み込みだ!」
ガルドが笑うより早く、零は軸足を動かして次の拳を繰り出す。以前なら攻撃を続けることばかりに意識が向いていたが、今は相手の反撃にも備え、重心を崩さないようにしていた。
ガルドは二撃目を受け流し、すかさず反撃に転じる。
零はその動きを見て後方へ跳ぼうとした。
だが、僅かに遅い。
「ほら、一本だ!」
ガルドの指先が零の額に軽く触れた。
「あっ……」
零は足を止めると、悔しそうに額へ手を当てた。
「今の、避けられると思ったのに」
「がっはっは! 考えは悪くなかったぞ。だが、俺がどう動くか見てからじゃ遅ぇこともある。相手の次の動きを予測しろ」
「……なるほど。僕が二発目を打った時点で、もう反撃するつもりだったんだね」
「おう、そういうこった!」
零は先ほどの攻防を思い返した。
ガルドの拳を避けることばかり考えていたが、最初から反撃を想定していれば、別の動き方もできたはずだ。
「もう一度、お願いしてもいい?」
「いいぜ! 今度は簡単に取らせるなよ!」
「うん!」
再び構えた零の口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
それからも二人は幾度となく拳を交えた。
ガルドの攻撃は決して速さだけに頼ったものではない。僅かな視線の動きや重心の変化を見逃さず、零が次にどう動くかを読んでいる。
その技量の高さを改めて実感するたび、零の胸には憧れと好奇心が膨らんでいった。
やがてガルドが片手を上げる。
「よし、そこまでだ!」
零は足を止め、ゆっくりと息を整えた。身体を巡らせていた氣を収めると、黄金色の瞳は元の黒色へと戻っていく。
「どうだった、ガルド師匠?」
「悪くねぇな。まだ動きは甘いが、前よりずっと考えて戦うようになった。それに、氣の扱いも落ち着いてきたじゃねぇか」
ガルドの言葉に、零は自分の拳を見つめた。
修行を再開した当初は、以前の限界を超えるほど氣を高めると、思った以上の力が拳に乗ってしまうことがあった。
だが、数日間の鍛錬を通じて、少しずつその感覚を掴めるようになってきている。
もちろん、まだ自在に扱えるわけではない。今の自分がどこまで力を引き出せるのかも、分からないままだ。
「……まだ難しいところはあるけど、前よりは扱いやすくなってきたと思う」
「そいつは結構! だが、力を高めることばかり考えるなよ。どれだけ強い拳でも、当たらなきゃ意味がねぇからな!」
「うん。ちゃんと覚えておくよ」
ガルドは満足そうに頷くと、豪快に笑った。
「がっはっは! よし、少し休むぞ!」
◇
草原の端にある木陰では、ルシエラが二人の修行を見守っていた。
零が近づくと、彼女は微笑みながら水の入った杯を差し出す。
「お疲れさま、零。今日も随分と頑張っていたわね」
「ありがとう、ルシエラ」
零は杯を受け取り、冷たい水を口に含んだ。
額に浮かんだ汗を拭いながら隣に腰を下ろすと、ルシエラがそっと髪を整えてくれる。
「ふふっ。楽しそうだったわね」
「うん。ガルド師匠と戦うと、自分に足りないものがよく分かるんだ」
「あら、頼もしいことを言うようになったわね」
「でも、まだ一度も当てられてないんだよね」
零が少し残念そうに笑うと、後からやってきたガルドが声を上げた。
「がっはっは! そう簡単に当てられてたまるかよ!」
「ふふっ。それもそうね」
ルシエラは楽しげに笑ったあと、零へ視線を戻した。
「それでね、零。今日は少し試してみたいことがあるの」
「試してみたいこと?」
「ええ。以前、あなたと話した氣と魔力のことよ」
その言葉に、零の表情が変わった。
「……僕の魔力を、もう一度動かしてみるの?」
「そう。ただし、あなたの身体に負担がかからないよう、慎重に確かめるつもりよ」
零はしばらく考えたあと、頷いた。
黒龍との戦いを経て、自分の内側にある二つの力の感覚が、僅かに変わったように感じていた。
以前はまったく別々だったものが、今は少しだけ近づいているような、不思議な感覚。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
「……僕も、確かめてみたい」
「ふふっ。そう言うと思ったわ」
ルシエラは優しく微笑んだが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「でも、前に何が起きたかは覚えているでしょう?」
「うん。僕は何が起きたのか、よく覚えてないけど……ルシエラが止めてくれたんだよね」
「ええ。だから、今回は少しでも異常があれば、すぐに中止するわ」
ルシエラはそう言って、ガルドへ視線を向けた。
「ガルド、あなたも傍にいてくれる?」
「おう。何かあったときのためだな」
「ええ。もちろん、何も起こさないつもりだけれど」
「がっはっは! そりゃそうだ!」
ガルドは笑いながらも、その眼差しには普段とは違う真剣さがあった。
「零、お前も無理はするなよ。少しでもおかしいと思ったら、すぐに言え」
「分かってるよ、ガルド師匠」
零が頷くと、ルシエラは満足そうに微笑んだ。
◇
十分に休息を取ったあと、三人は草原の奥にある開けた場所へ移動した。
周囲に人影はなく、穏やかな風が草を揺らしている。
ルシエラは零の前に立つと、改めて身体の状態を確認した。
「疲れや痛みはない?」
「うん。大丈夫だよ」
「そう。なら、始めましょうか」
ルシエラは零の胸元へそっと手を添え、もう片方の手を背中へ回した。
以前、零の魔力を調べたときと同じ姿勢だった。
「少し触れているわね」
「うん」
零は自然に身体の力を抜いた。
ルシエラは静かに目を閉じ、零の身体に宿る魔力の流れへ意識を集中させる。
零には膨大な魔力が存在している。しかし、本人はその動かし方が分からず、これまで一度も自分の意思で扱うことができなかった。
だからこそ、以前はルシエラが外から干渉し、その魔力を動かそうとしたのだ。
だが、あのときは魔力が動いた直後、別の力が激しく反発し、零の身体から凄まじい力が噴き出した。
今回は、同じことを繰り返すわけにはいかない。
「……零、始めるわよ」
「うん」
ルシエラは慎重に魔力の経路を探り、その流れへ僅かに働きかけた。
零の身体に眠る魔力が、ほんの少しだけ動く。
その瞬間、ルシエラはいつでも干渉を断てるよう意識を研ぎ澄ませた。
しかし――。
「……あら?」
予想していた激しい反応は起こらなかった。
魔力を動かした瞬間、もう一つの力が確かに反応した。だが、ルシエラの予想に反して激しい衝突には至らず、僅かな時間だけ魔力の流れを保つことができた。
「……零、何か感じる?」
「……少しだけ、身体の奥が温かい気がする」
「痛みや苦しさは?」
「ううん。どっちもないよ」
「そう……」
ルシエラは零の表情を確かめた。
苦痛に顔を歪める様子はなく、呼吸にも乱れは見られない。
それでも、彼女はそれ以上魔力を動かそうとはしなかった。
今は、以前との違いを確かめるだけで十分だった。
ルシエラが静かに干渉を解くと、零の身体に宿る魔力は元の状態へ戻っていく。
「……これで終わりよ」
彼女が手を離すと、零は不思議そうに胸元を見下ろした。
「もう終わったの?」
「ええ。今回は何も起こらなかったわね」
「……何か分かった?」
零の問いに、ルシエラは少し考えてから答えた。
「少なくとも、以前とは反応が違ったわ。あのときは魔力をほんの少し動かしただけで、もう一つの力が激しく反発したの。でも、今回はそこまでの衝突は起こらなかった」
「……じゃあ、やっぱり二つの力が変わってるんだね」
「その可能性は高いわ。ただ、何が変わったのかまでは分からないの。反発が完全になくなったわけでもないし、二つの力を一緒に使えるようになったと判断するのは、まだ早いわね」
それが黒龍との戦いによる影響なのか、それとも別の理由があるのか。今の段階では、答えを出すことはできない。
「……ルシエラ」
「なあに?」
「僕も、いつか魔力を使えるようになるのかな?」
零の問いに、ルシエラは少し驚いたように目を瞬かせたあと、柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。どうかしらね。でも、以前は難しかったことが、今は少し変わっているのかもしれないわ」
「……そっか」
零は自分の手を開いたり閉じたりしながら、何かを考えているようだった。
「もし使えるようになったら、ルシエラに教えてもらった魔法も使ってみたいな」
「あら。それは楽しみね」
「うん。まだ全然分からないけど、できることが増えたら嬉しいから」
その言葉に、ルシエラは優しく目を細めた。
「そうね。でも、焦らず少しずつよ。あなたの身体に何が起きているのか、きちんと確かめてからにしましょう」
「分かった。僕も、無理はしないよ」
零が頷くと、ルシエラは安心したように微笑んだ。
そこへ、少し離れた場所で様子を見守っていたガルドが歩いてきた。
「どうやら、前とは違ったみてぇだな」
「ええ。少なくとも、以前のような激しい反発は起こらなかったわ」
「ほう。そいつは興味深ぇな」
ガルドは零へ視線を向けた。
「ま、難しいことはルシエラに任せるとして、お前はまず今の力をしっかり扱えるようにならねぇとな」
「うん。もちろん、そのつもりだよ」
「がっはっは! いい返事だ!」
ガルドは満足そうに笑い、零の頭を軽く撫でた。
「明日も修行だぞ、零!」
「うん! よろしくお願いします、ガルド師匠!」
◇
その日の夕方。
屋敷へ戻った零は、居間のソファに腰を下ろしていた。
窓の外では、夕日が庭を柔らかな橙色に染めている。
零は自分の掌を眺めながら、昼間の出来事を思い返していた。
ガルドとの修行では、まだまだ学ぶことがたくさんある。そして、ルシエラと試した魔力のことも、分からないことばかりだった。
それでも、以前はまったく動かせなかった魔力が、今日は僅かながら動いたという。
もちろん、自分で動かせたわけではない。
けれど、その事実は零にとって、とても興味深いものだった。
「……零?」
声に振り返ると、ルシエラが紅茶の入ったカップを手に立っていた。
「何を考えていたの?」
「……今日のこと。僕の魔力って、どんな感じなんだろうって」
「あら。まだ気になっていたのね」
「うん。自分の身体の中にあるのに、全然分からないのって不思議だなと思って」
ルシエラは微笑みながら隣に腰を下ろした。
「そうね。魔力は誰もが同じように扱えるわけではないもの。あなたの場合は、特に分からないことが多いわ」
「……ルシエラでも?」
「ええ。私にも知らないことはたくさんあるわよ」
零は少し驚いたように彼女を見つめた。
「……そうなんだ」
「ふふっ。長く生きているからといって、何でも知っているわけではないもの」
そう言って微笑むルシエラを見て、零も小さく笑った。
「じゃあ、これから一緒に調べていけるね」
「あら。私にも教えてくれるつもり?」
「うん。何か分かったら、ちゃんとルシエラにも教えるよ」
「ふふっ。それは頼もしいわね」
ルシエラは嬉しそうに零の髪を撫でた。
零はその手の温もりを感じながら、そっと彼女の肩へ寄りかかる。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
「……ねえ、ルシエラ」
「なあに?」
「明日も、少しだけ魔力のことを教えてくれる?」
「ええ、もちろん。でも、まずはガルドとの修行を頑張らないとね」
「うん。それも楽しみなんだ」
零が微笑むと、ルシエラも優しく微笑み返した。
穏やかな夕暮れの中、二人はしばらく寄り添いながら過ごしていた。




