第二十三章 力の胎動
ガルドが王都へ到着した翌日のことだった。
昼食を終えた零は、ルシエラとともに屋敷の居間で過ごしていた。
窓から差し込む陽光が室内を柔らかく照らし、テーブルの上では淹れたての紅茶が湯気を立てている。零は読みかけの本を膝に置き、ルシエラが魔法で浮かせた小さな光の球を興味深そうに眺めていた。
「……魔力を細かく調整すると、こんなふうに動かせるんだね」
「ええ。大切なのは、ただ魔力を注ぎ込むことではなく、どれだけ正確に扱えるかということよ」
ルシエラが指先を動かすと、光の球は二つに分かれ、互いの周りをゆっくりと回り始めた。
零はその動きを目で追いながら、感心したように頷く。
「ルシエラ、すごいね」
「ふふっ。ありがとう。零なら、練習すればできるようになるわ」
ルシエラが微笑んだ、そのときだった。
玄関から来客を知らせる音が響いた。
「あら、お客様みたいね」
「……誰だろう?」
ルシエラは光の球を消すと、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと見てくるわね」
そう言って居間を出ていくルシエラを見送り、零は本をテーブルに置いた。
しばらくすると、玄関の方から聞き覚えのある豪快な笑い声が響いてきた。
「がっはっは! 久しぶりだな、ルシエラ!」
「あらあら、ガルド。相変わらず声が大きいわね」
「お前も相変わらずだな! ちっとも変わってねぇじゃねぇか!」
「ふふっ。女性に向かって、もう少し気の利いた言い方はできないのかしら?」
「がっはっは! そういうところも昔のままだな!」
そんな親しげなやり取りを聞き、零の表情がぱっと明るくなった。
「……ガルド師匠?」
椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。
廊下を抜けた先には、見覚えのある大柄な男が立っていた。
鍛え上げられた肉体に、堂々とした佇まい。以前と変わらない豪快な笑みを浮かべたその男は、零の姿を見ると大きく目を見開いた。
「おお! 零じゃねぇか!」
「ガルド師匠!」
零が嬉しそうに駆け寄ると、ガルドは大きな手でその頭をわしゃわしゃと撫でた。
「がっはっは! 久しぶりだな! 元気そうじゃねぇか!」
「うん。ガルド師匠も元気だった?」
「当たり前だろうが! この俺がそう簡単にくたばるかよ!」
豪快に笑うガルドを見上げながら、零も嬉しそうに微笑んだ。
山の家で過ごした日々を思い出す。厳しい修行も、何度も繰り返した基礎鍛錬も、今となっては懐かしい思い出だった。
「……また会えて嬉しいよ、ガルド師匠」
零がそう言うと、ガルドは一瞬だけ目を丸くした。
そして、照れくさそうに鼻を鳴らす。
「へっ。相変わらず素直な奴だな、お前は」
そう言いながらも、その表情には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
そんな二人を見て、ルシエラも穏やかに微笑む。
「ふふっ。再会を喜ぶのはいいけれど、立ち話もなんでしょう? 中へどうぞ」
「おう! 邪魔するぜ!」
◇
居間へ案内されたガルドは、ソファに腰を下ろすと、向かいに座る零をじっと見つめた。
「……さて、零。ヴィクトリアから話は聞いてるぞ」
先ほどまでの豪快な笑みが少しだけ薄れ、その眼差しに真剣な色が宿る。
「黒龍とやり合ったんだってな」
「……うん」
「それで、腕と目まで失ったって話じゃねぇか」
零は静かに頷いた。
「でも、セレフィーナが治してくれたから、今は大丈夫だよ」
「そうか……」
ガルドは短く答えると、零の左腕へ視線を向けた。
「ちょいと見せてみろ」
「うん」
零が左腕を差し出すと、ガルドはその手を取り、ゆっくりと動かしてみせた。肘や手首の動き、指先の感覚を一つずつ確かめていく。
「痛みはねぇか?」
「うん。全然」
「違和感は?」
「特にないよ。前と同じように動かせる」
「ふむ……」
ガルドはしばらく零の腕を確かめたあと、左目にも視線を向けた。
「目の方はどうだ?」
「ちゃんと見えてるよ」
「そうか。なら、ひとまずは安心だな」
ガルドは零の手を離すと、深く息を吐いた。
「まったく……ヴィクトリアから話を聞いたときは、さすがに肝を冷やしたぜ」
「……心配かけてごめんね」
「謝るこたぁねぇ。生きて戻ってきたんなら、それで十分だ」
そう言って、ガルドは零の頭を軽く撫でた。零はその大きな手の温もりを感じながら、小さく微笑んだ。
やがて、ガルドは表情を引き締める。
「それで、黒龍とはどんな戦いだったんだ?」
零は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
森で黒龍と遭遇したこと。これまで戦ってきた魔物とは比べものにならないほど強大だったこと。そして、どれだけ攻撃を重ねても、ほとんど通じなかったこと。
ガルドは途中で口を挟むことなく、零の話に耳を傾けていた。
「……ガルド師匠は、龍と三日三晩戦って勝ったんだよね」
「ああ。前にも話したな」
「うん。あのときは、ただ凄いって思ってた。でも……」
零は一度言葉を切り、黒龍との戦いを思い返した。
どれだけ拳を振るっても傷一つつけられなかった漆黒の鱗。圧倒的な力の差を前に、必死に攻撃を凌ぎ続けた時間。そして、最後には立ち上がることさえできなくなった自分。
あのとき、零の脳裏にはガルドの姿が浮かんでいた。
三日三晩、龍と戦い続け、最後には打ち倒したというガルド師匠。
その話がどれほど途方もないことだったのか、黒龍と戦った今なら、以前よりもずっとよく分かる。
「……黒龍と戦ってみて、ガルド師匠がどれだけ凄いことをしたのか、少し分かった気がする」
零は静かにガルドを見上げた。
「……僕は、ガルド師匠みたいに龍を倒すことはできなかったよ。最後に何かが起きたみたいだけど、そのときのことは覚えていないんだ」
その言葉に、ガルドは僅かに眉を上げた。
「……俺と比べてんのか?」
「うん。ガルド師匠は三日三晩も戦い続けたんでしょう? 僕は、あの黒龍を相手に何もできなくなってしまったから」
ガルドはしばらく零を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……馬鹿野郎。俺だって、あのときは死ぬかと思ったんだぞ」
「……うん。前にもそう言ってたね」
「ああ。それに、龍ってのはどいつもこいつも同じ強さってわけじゃねぇ。お前が戦った黒龍がどんな奴だったのか、俺にはまだ分からねぇしな」
ガルドはそう言うと、にやりと笑った。
「それに、今のお前と俺とじゃ、積んできた鍛錬の量が違う。そんなもん、比べたって仕方ねぇだろうが」
「……そっか」
「おう。今できねぇことがあるなら、これからできるようになりゃいい。それだけの話だ」
零はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「……うん。もっと強くなりたいな」
「がっはっは! そうこなくっちゃな!」
ガルドの豪快な笑い声に、零も小さく笑みを浮かべた。
すると、隣に座っていたルシエラが口を開いた。
「それに、あの黒龍との戦いでは、零の力に私たちにも分からない変化が起きていたのよ」
「ほう?」
「黒龍との戦いで、氣と魔力が一瞬だけ重なり合った可能性があるの。それに、戦いのあとからは、以前ほど強く反発していないようなのよ。ただ、まだ実際に二つの力を動かして確かめたわけではないわ」
ガルドは腕を組み、興味深そうに唸った。
「……そいつは妙な話だな」
「ええ。私もまだ詳しくは分かっていないわ。だからこそ、調べるとしても慎重に進めるつもりよ」
「そりゃそうだ。訳の分からねぇ力を無理に引き出して、また倒れられちゃ困るからな」
ガルドは頷くと、零へ視線を戻した。
「ま、難しい話は後だ。まずは今のお前がどれだけ動けるのか、見せてもらおうじゃねぇか」
「うん!」
零は嬉しそうに頷いた。
◇
三人が向かったのは、屋敷の庭だった。
ガルドは庭の中央に立つと、周囲を見渡した。
「ここなら軽く身体を動かすくらいはできそうだな」
「ええ。でも、屋敷を壊すようなことはしないでちょうだいね?」
ルシエラが微笑みながら言うと、ガルドは豪快に笑った。
「がっはっは! 分かってるって! 今日は様子を見るだけだ!」
「あなたの『軽く』は、昔からあまり信用できないのよね」
「おいおい、まだそんなこと言ってんのか!」
「ふふっ。冗談よ」
気安く言葉を交わす二人を見て、零は少し不思議そうに首を傾げた。
「……二人って、昔から知り合いなの?」
「あら、言っていなかったかしら?」
ルシエラは微笑んだ。
「ええ。ガルドとは、もう随分と長い付き合いなのよ」
「そういうこった。まあ、こいつとは昔から何かと縁があってな」
「ふふっ。そうね」
零は二人を交互に見つめ、納得したように頷いた。
「……そうだったんだ」
「ほら、零。お喋りはこのくらいにして、始めるぞ」
「うん」
零は庭の中央へ歩み出ると、ガルドの指示に従ってゆっくりと構えを取った。
足を開き、腰を落とす。呼吸を整えながら拳を前へ突き出し、踏み込みに合わせて重心を移していく。
その一連の動きを見て、ガルドは僅かに目を細めた。
「……ほう」
零は構えを変え、続けていくつかの動きを披露した。
無駄の少ない足運び。安定した重心。そして、以前よりも滑らかになった力の伝達。
ガルドは腕を組んだまま、満足そうに頷いた。
「悪くねぇ。随分と身体の使い方が上手くなったじゃねぇか」
「……本当?」
「ああ。基礎もちゃんと覚えてやがる。修行が終わってからも続けてたみてぇだな」
「うん。教えてもらったこと、忘れたくなかったから」
その返事に、ガルドは嬉しそうに笑った。
「がっはっは! いい心掛けだ!」
ひととおり動きを確認すると、ガルドは零へ向き直った。
「よし。身体の動きに大きな問題はなさそうだな。これなら修行を再開しても大丈夫そうだ」
「……よかった」
「ただし、最初から飛ばしすぎるなよ。まずは今の身体の状態を確かめながら、少しずつ慣らしていくぞ」
「うん」
ガルドは頷くと、続けて口を開いた。
「よし。次はあの力……いや、氣を使ってみろ」
「……氣?」
「ああ。ヴィクトリアから聞いたぞ。あの力の名前が分かったんだってな」
「うん」
「身体の動きは問題なさそうだが、黒龍との戦いを経て、そっちにも変化があるかもしれねぇからな」
零は頷くと、静かに呼吸を整えた。
身体の内側に意識を向け、馴染みのある力をゆっくりと巡らせていく。
普段と変わらない感覚だった。身体の奥から湧き上がる温かな力が、腕や脚へと流れていく。
「……どうだ?」
「うん。いつもと変わらないと思う」
「そうか。なら、少しずつ力を高めてみろ。無理はするなよ」
「うん」
零は意識を集中させ、身体に巡る氣を徐々に強めていった。
やがて、黒い瞳が淡い黄金色へと変化し始める。
それは以前にも見られた変化だった。
ガルドは零の様子を見守りながら、周囲に漂い始めた独特の圧迫感を感じ取っていた。
「……ふむ」
目に見えるものではない。だが、零が力を高めるにつれ、空気そのものが少しずつ重くなっていくような感覚があった。
ルシエラも、その変化に気づいていた。
氣は魔力とは異なる力であり、二人ともその正確な量を把握できるわけではない。それでも、零から伝わってくる圧力が徐々に強まっていることは分かった。
そして――。
「……あれ?」
零が小さく声を漏らした。
「どうした?」
「……なんだろう。いつもと少し違う気がする」
零は不思議そうに自分の手を見つめた。
身体に巡る力は、確かに以前と同じものだった。制御にも問題はなく、意識した通りに氣が流れている。
けれど、何かが違う。
以前なら、そろそろ限界に近づいていたはずだった。
それなのに、今はまだ余裕がある。
零は慎重に、もう一段階だけ力を高めてみた。
しかし、身体に負担は感じなかった。
むしろ、まだその先があるような、不思議な感覚さえあった。
「……まだ、いける」
零は思わず呟いた。
以前の自分なら、ここまで力を高めれば、身体の奥に限界が近づく感覚があった。
だが、今は違う。
まるで、それまで知らなかった余地が、身体の内側に広がっているかのようだった。
零は慎重に氣を高めていった。
瞳の黄金色が次第に鮮やかさを増し、それに伴って周囲の空気がさらに重くなっていく。
まるで周囲の空気が、目に見えない重みに押し潰されていくかのようだった。
「……おいおい」
ガルドの表情が変わった。
かつて山の家で修行をしていた頃も、零が力を高める姿は何度も見ている。
しかし、今感じている圧迫感は、そのときのものとは明らかに違っていた。
ガルドは思わず目を細めた。
一方、ルシエラの表情には驚きとともに、僅かな不安が浮かんでいた。
目の前の零は、苦しそうな様子を見せていない。
それでも、これまで感じたことのないほどの圧力が、零の身体から伝わってくる。
「……零?」
ルシエラが静かに呼びかけると、零は不思議そうに彼女を見つめた。
「……ルシエラ。僕、まだ余裕があるみたい」
その言葉に、ルシエラは表情を引き締めた。
「ええ……でも、もう十分よ。そこで止めてちょうだい」
いつになく真剣な声だった。
零はすぐに頷くと、身体に巡らせていた氣を静かに収めた。
鮮やかな黄金色に染まっていた瞳が、ゆっくりと元の黒色へ戻っていく。
それとともに、庭を満たしていた重苦しい圧迫感も薄れ、周囲にはいつもの穏やかな空気が戻ってきた。
「……今のは、何だったんだろう?」
零が首を傾げると、ルシエラは少し考えてから口を開いた。
「恐らくだけれど……あなたの氣の最大出力が、以前よりも大幅に上がっているのだと思うわ」
「……最大出力?」
「ええ。普段の氣の流れや扱い方は、これまでと変わっていないように見える。でも、今のあなたは、以前なら限界に近かったはずの状態でも、まだ余裕があるのでしょう?」
「うん。もっと力を出せそうだった」
ルシエラは静かに頷いた。
「正確にどれほど増えたのかは分からないわ。けれど、さっきの圧力は、私が以前に感じたものよりも遥かに強かった。それなのに、あなた自身はまだ限界を感じていなかった……」
零は驚いたように自分の手を見つめた。
「……そんなことがあるんだ」
「少なくとも、私には何が起きたのか分からないわ」
ルシエラは真剣な表情で続けた。
「黒龍との戦いが何らかのきっかけになった可能性はあるけれど、今はまだ断定できないわね」
すると、ガルドが腕を組みながら口を開いた。
「なるほどな……。俺も昔の零の力は覚えてるが、今の圧力は明らかに別物だったぜ」
「ええ。だからこそ、慎重に確かめる必要があるわ」
「だろうな。どこまで力を出せるのか分からねぇ以上、無闇に限界を試すわけにもいかねぇ」
ガルドは頷くと、零へ視線を向けた。
「零。今の力、自分でどう感じた?」
「……不思議な感じだった。前ならもう限界だったはずなのに、まだずっと先があるような気がして」
「ふむ……」
ガルドはしばらく考え込んだあと、にやりと笑った。
「こりゃ、思ってた以上に面白いことになってやがるな」
「ガルド師匠?」
「がっはっは! 安心しろ。無茶なことをさせるつもりはねぇよ」
そう言うと、ガルドは零の肩に大きな手を置いた。
「ただな、零。力が増えたからって、それだけで強くなったわけじゃねぇ。大事なのは、その力をどう扱うかだ」
零は真剣な表情で頷いた。
「……うん」
「今のお前には、まだまだ覚えなきゃならねぇことが山ほどある。せっかくの力だ。きっちり使いこなせるようにならねぇとな」
「うん。教えてほしい、ガルド師匠」
その言葉に、ガルドは嬉しそうに笑った。
「おう! 任せとけ!」
ルシエラも二人の様子を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「ふふっ。それなら、まずは増大した氣を安全に扱えるようになることが先決ね。氣と魔力の調査については、そのあとで少しずつ進めましょう」
「そうだな。まずは基本からだ」
ガルドは大きく頷くと、零へ向き直った。
「がっはっは! こりゃ、鍛え甲斐がありそうだ!」
ガルドは楽しそうに笑うと、零の頭を軽く叩いた。
「零! 明日からは予定どおり、王都の近郊でみっちり鍛えてやるからな!」
零は迷うことなく微笑んだ。
「うん! よろしくお願いします、ガルド師匠!」
「がっはっは! いい返事だ!」
ガルドの豪快な笑い声が、庭に響き渡る。
黒龍との戦いを経て、零の内に眠る力は大きく変化していた。しかし、その力の全貌は、まだ誰にも分からない。
そして今、再び師のもとで学ぶ日々が始まろうとしていた。




