第二十二章 拳鬼の帰還
朝の柔らかな陽光が、寝室の窓から差し込んでいた。
「……ん」
零は小さく身じろぎをすると、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前には見慣れた濃紫色の髪があり、頬には柔らかな温もりが触れている。身体を包み込む腕の感触から、今日もルシエラに抱きしめられたまま眠っていたのだと分かった。
「……おはよう、ルシエラ」
「あら、おはよう、零。よく眠れたかしら?」
「うん。ぐっすり眠れたよ」
「ふふっ。それはよかったわ」
ルシエラは嬉しそうに微笑むと、零を抱き寄せる腕に少しだけ力を込めた。零もその温もりに身を預けたまま、彼女を見上げる。
「今日も可愛い寝顔だったわよ。もう少し眺めていたかったくらい」
「……そう?」
「ええ。ねえ、零。もう少しこうしていましょうか?」
零は窓の方へ目を向けた。まだ朝日は昇り始めたばかりで、部屋の中には穏やかな静けさが残っている。
「……じゃあ、もう少しだけ」
「ふふっ。いい子ね」
ルシエラは満足そうに微笑み、零の黒髪を優しく撫でた。
こうして一緒に眠ることは、二人にとって珍しいことではなかった。零はルシエラの愛情を素直に受け入れており、彼女もまた、そんな零を可愛がることが何よりの楽しみになっていた。
しばらくして、零がぽつりと呟いた。
「……お腹空いたな」
「あら、もう? もう少し甘えてくれてもいいのよ?」
「……今もこうしてるよ?」
不思議そうに首を傾げる零に、ルシエラは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「ふふっ。それもそうね。でも、私はもっと甘えてほしいの」
「……そうなんだ」
「ええ。だから、これからも遠慮しなくていいのよ?」
「うん。分かった」
あまりにも素直な返事に、ルシエラは思わず頬を緩めた。
「もう、本当に可愛いんだから」
そう言って、もう一度零をぎゅっと抱きしめる。零はそのまま彼女の腕の中に収まっていたが、やがて小さく口を開いた。
「……ルシエラ」
「なあに?」
「そろそろ朝ごはん、食べたいな」
「あらあら。仕方ないわね」
ルシエラは名残惜しそうに腕を緩めると、零の頭を最後にもう一度撫でた。
「それじゃあ、朝食にしましょうか」
「うん」
零が嬉しそうに頷くと、ルシエラも穏やかに微笑んだ。
◇
朝食の席には、焼きたてのパンや卵料理、色鮮やかな果物が並んでいた。
零が席につくと、ルシエラが軽く指先を動かし、ティーポットを宙に浮かせた。温かな紅茶がカップへ注がれる様子を眺めながら、零はすっかり見慣れたその光景に小さく笑みを浮かべる。
「いただきます」
「ええ、召し上がれ」
零はパンを一口食べると、満足そうに頬を緩めた。
「……美味しい」
「ふふっ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
ルシエラは紅茶を口に運びながら、向かいに座る零へ視線を向けた。
「そういえば、ガルドからの返事はまだみたいね」
「うん。ヴィクトリアが連絡してくれてるから、もう少し待ってみようと思う」
「そうね。ガルドにも予定があるでしょうし、すぐには返事ができないのかもしれないわ」
零は頷き、再びパンを口に運んだ。
ガルドが再び教えてくれるかどうかは、まだ分からない。それでも、零は不安よりも期待の方が大きかった。
あの山の家で過ごした日々を思い返すと、今でも学びたいことが次々と浮かんでくる。
「ふふっ。そんなに楽しみなのね」
「……分かる?」
「ええ。あなたを見ていれば分かるわ」
ルシエラは微笑んだあと、少しだけ真剣な表情になった。
「でも、零。修行が始まっても、無理はしないこと。いいわね?」
「うん。約束する」
「それならいいわ」
黒龍との戦いで負った傷は、セレフィーナの神聖力によって癒やされている。失われた左腕と左目も再生され、日常生活に支障はない。それでも、あれほどの出来事を経験したばかりなのだ。ルシエラとしては、どうしても慎重にならざるを得なかった。
そんな彼女の心配を察したのか、零は柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、ルシエラ」
「あら、どうしたの?」
「いつも心配してくれるから」
ルシエラは僅かに目を丸くしたあと、嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ。当然でしょう? あなたは私の大切な子なんだから」
そう言って、優しく微笑む。
零もまた、その言葉に穏やかな笑みを返した。
◇
それから数日が過ぎた。
零はルシエラに文字や魔法について教わりながら、いつもと変わらない穏やかな日々を過ごしていた。書斎で本を読んだり、庭で身体を動かしたりと、特別なことのない時間が続いている。
その日の午前中も、零は屋敷の庭でガルドから教わった基本の動きを確かめていた。
足を開いて構えを取り、ゆっくりと拳を突き出す。踏み込みに合わせて重心を移し、腰から肩、腕へと力を伝えていく。
かつて山の家で何度も繰り返した動きだった。
初めの頃は思うように身体を動かせず、ガルドから何度も姿勢を直された。力任せに拳を振るえば叱られ、足運びが乱れれば最初からやり直しになる。そんな日々を重ねるうちに、零は少しずつ身体の使い方を覚えていった。
今では、以前ほど意識しなくても自然に身体が動く。
それでも、零は一つ一つの動きを丁寧に確かめていた。
「……ふっ」
短く息を吐き、拳を突き出す。
風を切る音が響き、零の黒髪が僅かに揺れた。
そのまま動きを止めると、零はゆっくりと構えを解いた。
黒龍との戦いでは、これまで身につけてきた技がほとんど通じなかった。どれだけ拳を振るっても、あの漆黒の鱗を傷つけることさえできなかったのだ。
だが、だからといって、ガルドから教わったことが無駄だったとは思わない。
あの修行で身につけた身体の使い方は、黒龍との戦いでも確かに役立っていた。圧倒的な力の差を前にしても、ガルドから教わった動きは、攻撃を凌ぐための支えとなっていたのだ。
まだまだ未熟ではあるが、自分が以前よりも強くなっていることは確かだった。
零は自分の拳を見つめ、静かに握り締める。
「……まだまだ、強くなれるはずだ」
その声には、迷いよりも期待が込められていた。
今の自分には届かない強さがある。けれど、そこへ辿り着く方法も、きっとまだ知らないだけなのだろう。
零は小さく微笑むと、もう一度構えを取った。
◇
その日の午後。
書斎で本を読んでいた零の耳に、玄関から来客を知らせる音が届いた。
顔を上げて耳を澄ませていると、やがて廊下からルシエラの声が聞こえてくる。
「零、お客様よ」
「はーい」
本を閉じて玄関へ向かうと、そこには見慣れた金髪の女性が立っていた。
「ヴィクトリア!」
「やあ、零。元気にしていたか?」
「うん。ヴィクトリアも元気だった?」
「ああ、もちろんだ」
ヴィクトリアは嬉しそうに駆け寄ってきた零を見て、柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。相変わらず元気そうだな」
そんな二人を見ていたルシエラが、楽しそうに口を開いた。
「それで、ヴィクトリア。今日は何か用事があったのかしら?」
「ああ。師匠から返事が届いたんだ」
その言葉に、零が顔を上げた。
「……ガルド師匠から?」
「ああ。零のことを伝えたら、もう一度鍛えてくれるそうだ」
「……本当?」
零の黒い瞳が、嬉しそうに輝いた。
「もちろんだ。黒龍との戦いについても、直接話を聞きたいと言っていたぞ」
「……そっか。よかった」
零は胸の前で小さく拳を握った。
その様子を見て、ヴィクトリアは楽しそうに笑う。
「ははっ! そんなに嬉しいか?」
「うん。またガルド師匠に教えてもらえるから」
「そうか。師匠もきっと喜ぶだろうな」
ヴィクトリアはそう言うと、ルシエラへ視線を向けた。
「それと、修行場所についても了承してくれた。王都の近郊で構わないそうだ」
「あら、それは助かるわね」
「ああ。氣と魔力の調査にも立ち会ってくれると言っていたぞ。ただ、まずは零の今の身体の状態を確かめたいそうだ」
その言葉に、零は少し首を傾げた。
「……僕の身体?」
「黒龍との戦いで大怪我をしたことも伝えてあるからな。傷が治ったとはいえ、以前と同じように動けるかどうかは、実際に見て判断したいそうだ」
「なるほどね。ガルドがそう言ってくれるなら、私も安心だわ」
ルシエラは納得したように頷いた。
零の身体をよく知るガルドが確認してくれるのであれば、これからの修行を進めるうえでも心強い。
「それに、師匠も零がどれほど成長したのか、気になっているようだったぞ」
「……僕も、ガルド師匠に見てもらいたいな」
零が嬉しそうに微笑むと、ヴィクトリアも穏やかに頷いた。
「そうだな。私も今の零がどれほど動けるのか、楽しみにしている」
そこで、ルシエラが尋ねた。
「それで、ガルドはいつ頃こちらへ来られるのかしら?」
「ああ。実はもう、王都へ向かっているそうだ。近いうちに到着すると思う」
「……じゃあ、もうすぐ会えるんだね」
「そういうことだ」
ヴィクトリアの返事を聞き、零は自然と笑みを浮かべた。
久しぶりに師匠と会える。そして、もう一度あの人から武術を学ぶことができる。
そう思うだけで、これから始まる修行への期待が一層大きくなっていった。
◇
その数日後、王都の城門を一人の大柄な男がくぐった。
鍛え上げられた肉体に、堂々とした佇まい。肩には旅の荷物を担ぎ、その足取りには長年の鍛錬によって培われた揺るぎない安定感があった。
男は賑やかな街並みを見渡すと、懐かしそうに目を細めた。
「……久しぶりの王都だな」
行き交う人々の間をゆっくりと歩きながら、ヴィクトリアから届いた知らせを思い返す。
零が黒龍と戦い、命を落としかけたという話を聞いたときは、さすがに驚いた。
あの規格外の才能を持つ弟子が、そこまで追い詰められたというのだ。
「まったく……零の奴、とんでもねぇ相手とやり合いやがって」
男は呆れたように呟いた。
ヴィクトリアからは、失った腕や目も再生され、今では元気に過ごしていると聞いている。それでも、実際に会って確かめるまでは、少なからず気にかかっていた。
「まあ、元気だってんなら、それでいい」
そう言って小さく笑うと、男は肩の荷物を持ち直した。
思い返せば、山の家で過ごした三か月は、なかなか面白い時間だった。
教えたことを驚くほどの速さで吸収し、次々と自分のものにしていく零の姿には、何度も驚かされたものだ。
そんな弟子が、今度は自らの意思で再び教えを請いたいと言ってきた。
「……ったく。嬉しいことを言ってくれるじゃねぇか」
男の口元に、楽しげな笑みが浮かぶ。
あれから零はどれほど成長したのか。そして、あの黒龍との戦いで何を経験し、何を得たのか。
聞きたいことは山ほどあるが、まずは元気な顔を見てやりたい。
「さて……今度はどこまで鍛えてやれるかねぇ」
男は王都の街並みを見渡し、豪快に笑った。
「がっはっは! 楽しみじゃねぇか!」
――拳鬼、ガルド・ハーゼン。
かつて零に武術の基礎を叩き込んだ師が、再び王都の地を踏んだ。




