第二十一章 新たなる可能性
王城を後にした頃には、空が茜色に染まり始めていた。
城門を出たところでヴィクトリアとセレフィーナに別れを告げ、零はルシエラとともに屋敷への帰路についていた。西へ傾いた陽光が王都の街並みを照らし、石畳の上には行き交う人々の長い影が伸びている。
「今日は随分と賑やかな一日だったわね」
隣を歩くルシエラが、どこか楽しげに言った。
「うん。王様との謁見もあったし、お茶会にも招かれたからね」
「それに、セレフィーナとも随分仲良くなったみたいじゃない?」
「そうだね。また一緒にお茶を飲む約束もしたし」
「あら、あの子が自分からそんな約束をするなんて、珍しいこともあるものね」
ルシエラは微笑ましそうに目を細めた。
零も今日のお茶会を思い返す。初めは少し緊張していたものの、王妃エリザベートの気さくな人柄もあって、思っていたよりずっと穏やかな時間を過ごすことができた。何より、セレフィーナとの距離が縮まったことが嬉しかった。
「それにしても、零。あなた、今日は随分と思い切ったことを話したわね」
「氣のこと?」
「ええ。私にもまだ話していなかった名前だもの」
「ごめん。隠していたわけじゃないんだ。ただ、僕もまだ上手く説明できなくて」
「責めているわけじゃないわよ。あなた自身、最近になって知ったのでしょう?」
「うん。夢の中で、父様がそう呼んでいたんだ」
「氣、ね……」
ルシエラはその響きを確かめるように呟いた。
五百年以上もの時を生きてきた彼女にとっても、零の力は未知の存在だった。しかし、名前があると分かったことで、これまで漠然としていた疑問が少しだけ輪郭を持ったように思えた。
そんなルシエラを見上げ、零は口を開いた。
「ルシエラ。帰ったら、少し相談したいことがあるんだ」
「あら、何かしら?」
「僕の力について、気になることがあって」
ルシエラは零の表情を見て、からかうような笑みを収めた。
「分かったわ。屋敷でゆっくり聞きましょう」
零は頷き、再び前を向いた。
黒龍との戦いを終えてから、ずっと気になっていたことがある。まだ自分でも上手く説明できない、ほんの僅かな変化。その正体を知りたいという思いが、零の中で少しずつ強くなっていた。
*
屋敷へ戻った二人は、そのまま居間へ向かった。
ルシエラが指先を軽く動かすと室内の灯りがともり、ほどなくして魔法で運ばれてきた紅茶がテーブルに並べられた。湯気とともに穏やかな香りが広がり、零はカップを手に取る。
「さて、零。相談したいことがあるのでしょう?」
「うん。氣と魔力のことなんだけど」
零が切り出すと、ルシエラは静かに耳を傾けた。
「前に、僕の魔力を動かそうとしてくれたことがあったよね」
「ええ。もちろん覚えているわ」
あのとき、ルシエラは零の身体に宿る魔力へ干渉し、それを動かそうとした。しかし、その瞬間、魔力とは異なる力が激しく反発し、零の身体に大きな負担がかかったため、すぐに干渉を中断せざるを得なかった。
たった一度の試みだったが、その危険性を知るには十分だった。
「あのときは、私も驚いたわ。まさか、魔力を動かそうとしただけで、あれほどの反発が起きるなんてね」
「うん。でも、今は少し違う気がするんだ」
「違う?」
ルシエラが問い返すと、零は自分の内側にある感覚を思い返した。
「黒龍と戦ったあとから、二つの力が少しだけ近づいたように感じるんだ」
「近づいた……?」
「うん。混ざり合っているわけじゃないし、一つになったわけでもない。ただ、前よりも少しだけ、お互いを受け入れているような……そんな感じがする」
その言葉に、ルシエラの表情が変わった。彼女はすぐには答えず、零の説明を確かめるように考え込んでいる。
「だから、もしかしたら今なら魔力を動かそうとしても、前みたいに反発しないのかもしれない」
「実際に試したの?」
「ううん。まだ何もしてない。僕には魔力の動かし方も分からないから」
「そう……」
ルシエラはカップに伸ばしかけた手を止めた。
脳裏に浮かんだのは、黒龍との戦いで目にした光景だった。圧倒的な力を持つ黒龍を相手に、零は最後まで諦めず、そして最後に、それまでとは明らかに異なる一撃を放った。
あの瞬間、零の力に何らかの異常な変化が起きたことは間違いない。ルシエラは以前から、そこに氣と魔力の双方が関係しているのではないかと考えていた。
だが、あの場で何が起きたのかを確かめる術はなく、推測の域を出なかった。
それが今、零自身の言葉によって新たな意味を持ち始めていた。
以前は魔力への干渉を拒むように反発した力が、黒龍との戦いを境に、僅かながら互いを受け入れ始めている。もし零の感覚が正しいのなら、あの一撃の直前に何かが起き、それによって二つの力の関係が変化した可能性がある。
そして、その変化こそが、あの規格外の一撃を生み出したのだとすれば――。
ルシエラの中で、これまで別々に存在していた疑問が、一つにつながった。
「……なるほどね」
思わず漏れた声に、零が顔を上げる。
「ルシエラ?」
「零。あなたの話を聞いて、一つの考えが、ほとんど確信に変わったわ」
「どんな?」
「あの黒龍との戦いで、あなたの氣と魔力は、一瞬だけ重なり合ったのだと思う」
零は驚いたように目を見開いた。
「二つの力が?」
「ええ。私はあのとき、あなたの力に何か異常な変化が起きたと感じていたの。でも、何が起きたのかまでは分からなかった」
ルシエラは言葉を選びながら続ける。
「けれど、今のあなたの話を聞いて、ようやく納得できた気がするわ。二つの力が何らかの形で重なったのだとすれば、あの一撃にも説明がつく」
「そうだったんだ……」
「もっとも、どうしてそんなことが起きたのかは分からないわ。今のあなたが同じことをできるとも限らないし、二つの力が本当に反発しなくなったのかも、まだ確かめていないもの」
零は自分の手を見つめた。
黒龍との戦いで、自分が最後に何をしたのか。意識が曖昧だったこともあり、零自身にも詳しいことは分からなかった。ただ、自分の知らないところで、二つの力に何らかの変化が起きたのかもしれない。
「確かめることはできるかな」
「できるかもしれないわ。でも、慎重に進める必要があるわね」
ルシエラは真剣な表情で零を見た。
「以前の反発がなくなったと決まったわけではないもの。今の感覚だけで安全だと判断することはできないわ。だから、私の見ていないところで試したりしないこと。いいわね?」
「うん。約束する」
零が素直に答えると、ルシエラは安心したように表情を和らげた。
「それならいいわ。氣と魔力の関係については、私も一緒に調べてあげる」
「ありがとう、ルシエラ」
「どういたしまして。それに、私自身も興味があるもの。こんな不思議な力、長く生きてきた私でも初めてよ」
そう言って微笑むルシエラに、零もつられて笑みを浮かべた。
まだ答えは出ていない。それでも、分からないことがあるなら調べればいい。零にとって、それは不安よりも好奇心を強く刺激するものだった。
そして、もう一つ。零にはルシエラへ伝えたいことがあった。
「それとね、ルシエラ」
「あら、まだ何かあるの?」
「僕、もう一度ちゃんと修行がしたいんだ」
その言葉に、ルシエラは少しだけ目を丸くした。
「修行?」
「うん。もっと強くなりたい」
零は迷わず答えた。
「黒龍と戦って、思い知らされたんだ。僕よりずっと強い相手がいるって」
あの戦いでは、拳は届かず、どれだけ動いても追いつけなかった。これまで身につけてきたものが、まるで通用しないほどの力の差があった。
だが、零の中に残っていたのは、恐怖や悔しさだけではない。
「僕、ガルド師匠に色々教わったけど、まだまだ知らないことがたくさんあると思うんだ」
「そうでしょうね。あの人の教えを、三か月で全て身につけられるはずもないもの」
「うん。だから、もっと先を教わってみたい。それに、氣のことも、魔力のことも、ちゃんと知りたいんだ」
ルシエラは静かに零を見つめた。
目の前の少年は、自分の力を過信しているわけではない。届かなかった相手を知り、自分に足りないものを理解したうえで、さらに強くなりたいと願っている。
「あなたらしいわね」
ルシエラは穏やかに微笑んだ。
「分かったわ。氣と魔力の調査は私が手伝いましょう。武術については、やっぱりガルドが適任でしょうね」
「また、ガルド師匠に教えてもらえるかな?」
「本人に聞いてみないと分からないけれど、きっと悪い話ではないと思うわ」
零の表情が明るくなる。
「ただし、以前と同じように山へ行く必要はないわね。今回は私も調査に立ち会いたいし、王都の近郊で修行できる場所を探すのがいいでしょう」
「ガルド師匠に、こっちまで来てもらうの?」
「ええ。その方が色々と都合がいいもの。もっとも、ガルドの予定もあるでしょうから、まずは相談ね」
零は少し考えてから、口を開いた。
「それなら、ヴィクトリアにも相談したいな」
「あら、私も同じことを考えていたわ。ガルドへの連絡は、弟子であるヴィクトリアにお願いするのがいいでしょうね」
「うん」
「なら、明日にでも連絡を取ってみましょうか」
こうして、零の新たな修行へ向けた話が動き始めた。
*
翌日の午後、ルシエラから相談したいことがあると伝えられたヴィクトリアは、騎士としての仕事を一区切りさせてから屋敷を訪れた。
「それで、相談というのは?」
居間のソファに腰を下ろしたヴィクトリアが、零とルシエラを交互に見た。
「実は、もう一度ガルド師匠に修行をお願いしたいんだ」
零がそう告げると、ヴィクトリアは驚いたように目を見開いた。
「師匠に、もう一度修行を?」
「うん。もっと強くなりたいんだ」
ヴィクトリアはすぐには答えなかった。黒龍との戦いで零がどれほどの重傷を負ったのかを知っているからこそ、その言葉を軽く受け止めることはできなかった。
「零。身体の方は、もう大丈夫なのか?」
「うん。セレフィーナのおかげで、ちゃんと元に戻ったよ」
「そうか。それならいいんだが……」
ヴィクトリアは零の顔を見つめた。そこには以前と変わらない落ち着いた表情があったが、その瞳には確かな意思が宿っている。
「黒龍との戦いで、自分の力がまだ足りないって分かったんだ。だから、もう一度ガルド師匠に教わりたい」
その言葉を聞いたヴィクトリアは、しばらく考えたあと、口元に笑みを浮かべた。
「そうか。なら、私から師匠に連絡してみよう」
「本当?」
「ああ。零がそこまで言うのなら、私も力になりたい」
「ありがとう、ヴィクトリア」
「礼にはまだ早いぞ。師匠が来てくれるかどうかは、これから確認するんだからな」
そう言いながらも、ヴィクトリアはどこか嬉しそうだった。師であるガルドが再び零を鍛えることになれば、自分もその様子を見ることができるかもしれない。
「それに、今の零を見たら、師匠も何か感じるはずだ。もう一度教えを請いたいと聞けば、きっと喜ぶだろう」
「そうかな?」
「ああ。師匠は、強くなろうとする者には惜しまず教える人だからな」
ヴィクトリアの言葉に、零は嬉しそうに笑った。
そこで、ルシエラが会話に加わった。
「それと、ヴィクトリア。今回の修行では、私も零の力について調べたいと思っているの」
「氣と魔力のことか?」
「ええ。昨日、零から興味深い話を聞いたのよ」
ルシエラは、黒龍との戦いのあとから零が感じている変化について説明した。以前は激しく反発した二つの力が、今はほんの僅かに寄り添っているように感じられること。そして、あの最後の一撃に、氣と魔力の双方が関係していた可能性が高いと考えていること。
話を聞き終えたヴィクトリアは、真剣な表情になった。
「なるほど。そんな変化があったのか」
「ええ。ただし、実際に魔力を動かして確かめたわけではないわ。だから、慎重に調べる必要があるの」
「そうだな。以前のような反発が起きる可能性もあるわけか」
「その通りよ。だから、修行場所は王都の近郊がいいと思っているの。私も立ち会えるし、何かあったときにも対応しやすいでしょう?」
「分かった。師匠には、そのことも伝えておこう」
「それと、氣と魔力の調査をするときには、ガルドにも立ち会ってもらいたいの」
ヴィクトリアは少し意外そうな顔をした。
「師匠にも?」
「ええ。零の身体の使い方を教えてきたのはガルドでしょう? 武術の面から見て、気づくことがあるかもしれないわ」
「なるほど。それなら師匠にも話しておく」
ヴィクトリアは納得したように頷いた。
「黒龍との戦いで何があったのか、零がどれほど回復しているのか。それも含めて、私から師匠に伝えよう」
「お願いするわね」
「ああ、任せてくれ」
ヴィクトリアは零へ視線を向けた。
「零。師匠の修行は、前より厳しくなるかもしれないぞ」
「うん。覚悟してる」
「そうか。なら、私も楽しみにしている」
その返事に、零も微笑み返した。
まだ、ガルドが王都へ来られるかどうかは分からない。修行の日程も具体的な内容も決まっていないが、これから何をするべきなのかは、少しずつ見えてきた。
ガルド師匠のもとで武術をさらに磨き、ルシエラとともに氣と魔力の謎を解き明かしていく。その先にどれほどの強さが待っているのか、今の零には想像もつかなかったが、だからこそ胸が躍った。
「また、ガルド師匠に会えるのが楽しみだな」
零が呟くと、ヴィクトリアは楽しそうに笑った。
「まだ決まったわけではないが、きっと会えるさ」
「あら、零ったら。あの厳しい修行を、そんなに楽しみにしているの?」
「うん。まだ知らないことを教えてもらえるのが、楽しみなんだ」
その答えに、ルシエラとヴィクトリアは顔を見合わせた。
「まったく、あなたらしいわね」
「ははっ! 師匠が聞いたら喜ぶだろうな」
二人の笑顔を見て、零も自然と頬を緩めた。
あの黒龍との戦いで、零は自分の未熟さを思い知らされた。しかし、あの経験は彼の歩みを止めるどころか、まだ知らない強さへの興味を、以前にも増して大きくしていた。
いつか、今の自分には届かない場所へ辿り着くために。
零はこれから始まる新たな修行へ、静かな期待を膨らませていた。




