第十九章 王城への招待
王都の教会で目を覚ましてから、数日が経った。
セレフィーナの治療によって失われた左腕と左目は再生し、零の身体は以前と変わらず動くようになっていた。しかし、傷が癒えたからといって、黒龍との戦いで味わった無力感まで消えたわけではない。
あのとき、自分の攻撃はほとんど通じず、逃げることさえ許されないまま一方的に追い詰められた。圧倒的な力を前に恐怖を感じたことも、はっきりと覚えている。
それでも、今の零の胸に残っているのは、恐怖よりも強い悔しさだった。あのような存在を前にしても、自分の力で立っていられるようになりたい。その思いは、以前にも増して強くなっていた。
そんなある日、零のもとへヴィクトリアが一つの知らせを持ってきた。
「零。少し話があるんだ」
「……どうしたの?」
寝台に腰掛けていた零が顔を上げると、ヴィクトリアはその傍らに椅子を引き寄せた。
「国王陛下が、零に会いたいと仰っている」
「……国王陛下?」
「ああ。今回の黒龍の件について、私から報告はしてあるんだが、零本人にも確認したいことがあるそうだ。それに、零自身にも興味を持たれているらしい」
思いがけない話に、零は目を瞬かせた。国王といえば、この国を治める人物だ。ヴィクトリアやルシエラが三帝と呼ばれるほどの存在だということは知っていたが、まさか自分が国王と直接顔を合わせることになるとは考えてもいなかった。
「……僕が、王様に?」
「ああ。ただし、堅苦しい謁見ではない。陛下と王妃陛下、それから私たち三帝が同席するだけの、非公開の席だ」
「……そうなんだ」
零は少し考え込んだ。黒龍について尋ねられるのなら、答えられることは多くない。何より、最後に何が起きたのか、自分自身にも分かっていなかった。
そんな零の様子を見て、ヴィクトリアが穏やかに微笑む。
「無理に話す必要はない。覚えていることだけで十分だ。私も傍にいる」
「……うん。分かった」
零は小さく頷いた。
◇
その日のうちに、零はヴィクトリアたちに付き添われ、王城を訪れた。
高くそびえる城壁を抜け、磨き上げられた石畳の廊下を進む。天井には繊細な装飾が施され、壁には歴代の王族と思われる肖像画が並んでいた。どこを見ても見慣れないものばかりで、零は歩きながら何度も視線を巡らせてしまう。
「……すごいね」
「ふふっ。初めて見ると驚くでしょう?」
隣を歩くルシエラが楽しそうに笑った。
「……うん。こんなに大きなお城、初めて見た」
「そうでしょうね。もっとも、見た目ばかり立派にしても仕方がないと思うけれど」
「……ルシエラ?」
「何でもないわ」
どこか含みのある笑みに、零は不思議そうに首を傾げた。
「ですが、あまり周囲ばかり見ていると、転んでしまいますよ?」
反対側から、セレフィーナが優しく声をかけた。
「……うん。気をつける」
零が小さく頷くと、セレフィーナは安心したように微笑む。
「それにしても、こうして一緒に王城を歩けるほどお元気になられて、本当によかったです」
「……セレフィーナのおかげだよ。ありがとう」
「ふふっ。どういたしまして」
そんな二人のやり取りを見て、ヴィクトリアも穏やかに目を細めていたが、やがてルシエラへと視線を向けた。
「ルシエラ。陛下の前では、少し言葉を選んでくれよ」
「あら、私はいつだって礼儀正しいつもりよ?」
「……そういうところだ」
そのやり取りに零が小さく笑みを浮かべたところで、一行は大きな扉の前へと辿り着いた。
扉の両脇に立つ近衛兵がヴィクトリアたちの姿を認めると、静かに頭を下げる。
「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
重厚な扉がゆっくりと開かれ、その先には豪奢でありながら落ち着いた雰囲気を持つ一室が広がっていた。大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、中央には上質な木製の卓と椅子が置かれている。王の権威を誇示する謁見の間ではなく、少人数で会話を交わすための部屋らしい。
その奥では、二人の人物が零たちを待っていた。
一人は、堂々とした佇まいの男性だった。威厳を感じさせる姿勢と、こちらを静かに見据える眼差し。身にまとった衣装は華美すぎず、それでも一目で高い地位にある人物だと分かる。
もう一人は、その隣に座る女性だった。青い髪が窓から差し込む光を受けて柔らかく輝き、同じく青い瞳には穏やかな知性が宿っている。上品な微笑みを浮かべたその姿からは、王妃としての気品と、どこか人を安心させる温かさが感じられた。
ヴィクトリアが一歩前へ進み、恭しく頭を下げる。
「アルフレッド陛下、エリザベート王妃陛下。神楽零をお連れしました」
「うむ。ご苦労だった、ヴィクトリア」
アルフレッドの視線が、ヴィクトリアの隣に立つ零へと向けられる。その瞬間、国王の目が僅かに見開かれた。
艶やかな漆黒の髪に、同じ色をした大きな瞳。整いすぎているほど端正な顔立ちは、少年というよりも可憐な少女を思わせる。この国では珍しい黒髪と黒い瞳も相まって、その姿にはどこか神秘的な雰囲気が漂っていた。
隣に座るエリザベートも、零の姿を見て一瞬だけ目を丸くする。
「あら……」
小さく声を漏らした王妃は、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「ヴィクトリアちゃんからお話は伺っていましたけれど……本当に愛らしい方ですのね」
「……え?」
思いがけない言葉に、零は小さく首を傾げた。その仕草さえも可憐で、エリザベートの笑みが一層深まる。
アルフレッドは小さく咳払いをすると、改めて零へ声をかけた。
「……君が神楽零か」
「……はい」
零は緊張を隠しきれないまま、背筋を伸ばした。
「アルフレッド・フォン・アルヴェリアだ。今日はよく来てくれたな」
「エリザベート・フォン・アルヴェリアです。お会いできて嬉しいですわ、零さん」
王妃は柔らかく微笑んだ。
零は二人の顔を見比べ、丁寧に頭を下げる。
「……お招きいただき、ありがとうございます」
「そう畏まらなくてよい。今日は公の謁見ではないからな」
アルフレッドはそう告げると、目の前の椅子を示した。
「まずは座ってくれ」
零が席に着くと、ヴィクトリアたちもそれぞれ腰を下ろす。それを確認してから、アルフレッドは改めて口を開いた。
「身体の具合はどうだ?」
「……はい。もう大丈夫です」
その答えを聞いて、セレフィーナも静かに頷いた。
「私も診させていただきましたが、身体の回復は順調です。左腕も左目も、今は問題なく動いているようです」
「そうか。セレフィーナ、お前にも礼を言わねばならんな」
「ありがとうございます、国王陛下。零さんが無事に回復されて、私も安心しております」
セレフィーナは穏やかに微笑んだ。その表情には、零がこうして元気な姿を見せていることへの、心からの喜びが滲んでいた。
「セレフィーナちゃんも、本当にお疲れさまでしたね」
「ありがとうございます、王妃陛下」
エリザベートの労いに、セレフィーナは柔らかな笑みを返した。
そのとき、ルシエラが小さく息を吐く。
「まったく。あれほどの大怪我から回復したばかりの子を、わざわざ城まで呼びつけるなんて。相変わらず人使いが荒いのね、アルフレッド」
部屋の空気が一瞬だけ静まった。零は思わずルシエラへ顔を向ける。国王に向かって、随分と遠慮のない物言いだった。
しかし、アルフレッドは怒るどころか、慣れた様子で苦笑した。
「相変わらず手厳しいな、ルシエラ。無理をさせるつもりはない。ヴィクトリアから、体調に問題はないと聞いていたのだが」
「あら、そういう問題ではないでしょう? もう少し気遣いというものを覚えたらどうかしら」
「……耳が痛いな」
そのやり取りを見ていたエリザベートが、静かに口を開いた。
「ルシエラちゃん」
「……何かしら、エリザベート?」
それまで余裕たっぷりだったルシエラの表情が、ほんの僅かに強張った。
王妃は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、穏やかに続ける。
「零さんを心配なさるお気持ちは分かりますわ。でも、陛下も決して無理をさせようとしているわけではありませんのよ」
「……それは、分かっているけれど」
「でしたら、今日は穏やかにお話ししましょうね」
「……ええ。そうね」
ルシエラは小さく視線を逸らした。普段なら誰に対しても堂々としている彼女が、王妃の前では妙に大人しくなっている。零は思わず目を瞬かせた。
その様子に気づいたヴィクトリアが、口元を押さえて笑いを堪えている。
「……ヴィクトリア?」
「いや、何でもない」
そう答えるヴィクトリアの肩が、僅かに震えていた。
◇
ひとしきり場が落ち着いたところで、アルフレッドは表情を引き締めた。
「さて、零。ここからは少し真面目な話をさせてもらいたい」
「……はい」
「今回の黒龍については、ヴィクトリアから詳しい報告を受けている。ただ、実際に遭遇した零にしか分からないこともあるだろう」
アルフレッドは一度言葉を区切り、零の表情を確かめた。
「無理のない範囲で構わない。あの黒龍が現れたとき、何か異変や前触れのようなものはなかったか?」
零は少し考え込んだ。
「……その日は、ルシエラに頼まれて、薬草を採りに森へ行っていたんです。最初は特に変わったこともなくて……」
零はそこで一度言葉を止め、森での出来事を思い返した。
「……でも、突然あの黒龍が現れました。それまでは、何の気配も感じなかったんです」
「……前触れもなく、か」
「……はい」
アルフレッドは静かに頷き、ヴィクトリアへ視線を向けた。
「探知結界にも、事前の反応はなかったのだったな」
「はい。王都の結界が異常を捉えたのは、黒龍が姿を現した後でした」
ヴィクトリアの答えに、アルフレッドは僅かに眉を寄せる。
「それほどの存在が、何の兆候もなく王都の近くに現れたというわけか……」
ルシエラもまた、静かに口を開いた。
「普通では考えられないことよ。あれほどの力を持つ存在なら、本来はもっと早く気づけるはずだもの」
その言葉に、部屋の空気が僅かに重くなる。
アルフレッドはしばらく考え込んでいたが、やがて零へ視線を戻した。
「もう一つ、聞いてもよいか?」
「……はい」
「ヴィクトリアの報告では、君は黒龍と戦い、重傷を負ったと聞いている。最後のことについて、何か覚えていることはあるか?」
零は膝の上に置いた左手を見つめた。黒龍の巨体、圧倒的な力、そして失われていく身体の感覚。思い出せるのは、そこまでだった。
「……最後は、あまり覚えていません。身体が動かなくなって……もう、何も見えなくなって……」
零は小さく息を吐いた。
「……すみません。そこから先は、分からないんです」
「いや、謝る必要はない。話してくれて感謝する」
アルフレッドは静かに首を振り、ヴィクトリアへ視線を向けた。
「ヴィクトリア。零が最後のことを覚えていないのなら、君が目撃したことをここで話してくれるか」
「はい」
ヴィクトリアは姿勢を正し、静かに口を開いた。
「私とルシエラが現場に到着したとき、零はすでに左腕と左目を失うほどの重傷を負っていました。それでも、黒龍に向かって凄まじい一撃を放ち、その翼を断ち切ったのです」
その言葉に、エリザベートが僅かに表情を曇らせる。
「……翼を、か」
「はい。しかし、その直後、黒龍の周囲に空間の裂け目が現れ、黒龍はその中へと姿を消しました」
アルフレッドは眉を寄せた。
「空間の裂け目……。それが黒龍自身の力によるものかどうかも、分からないのだったな」
「はい。私たちにも、原因は分かっていません」
アルフレッドは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……しかし、不可解だな。それほどの重傷を負いながら、あの黒龍の翼を断ち切ったというのか。一体、どうやってそんな一撃を放ったのだ?」
「……それが、私にも分かりません」
ヴィクトリアは僅かに眉を寄せた。
「確かにこの目で見ました。ですが、あの一撃がどのような力によるものだったのか、私にも判断できませんでした」
「……そうか」
アルフレッドは次にルシエラへ視線を向ける。
「ルシエラ。お前にも分からないのか?」
ルシエラは一瞬だけ沈黙し、零へと視線を向けた。
あの子が持つ未知の力について、分かっていることはあまりにも少ない。不確かな情報を、今ここで広めるべきではない。
「……ええ。あの一撃がどうやって放たれたのか、私にも分からないわ」
「……そうか」
アルフレッドはそれ以上、追及しなかった。零自身に記憶はなく、現場に居合わせたヴィクトリアとルシエラにも、あの一撃の仕組みは分かっていない。今ここで問い詰めても、答えが出るとは限らない。
「ならば、まずは黒龍の出現と消失について調査を進めるべきだな。王都の安全に関わる問題だ」
「はい。私もそう考えています」
ヴィクトリアが頷き、セレフィーナも静かに同意した。
「私も、必要であれば協力いたします」
「頼む」
◇
黒龍事件についての話が終わると、部屋の空気は少しずつ和らいでいった。
エリザベートが零へと視線を向ける。
「ところで零さん。少し、私からもお尋ねしてよろしいかしら?」
「……はい。何でしょうか?」
「ヴィクトリアちゃんから、零さんのお話を聞いていますの。とても優しくて、少し頑張りすぎてしまうところのある子だと」
零は少しだけ目を見開いた。
「……ヴィクトリアが、そんなことを?」
「ええ。それはもう、大切そうにお話ししていましたわ」
「お、王妃陛下……!」
その言葉に、ヴィクトリアが僅かに顔を赤くした。
エリザベートは楽しそうに微笑む。
「あら、何か間違ったことを言いましたか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
普段は凛々しい剣帝が、珍しく言葉に詰まっている。零はそんな彼女を不思議そうに見つめた。
「……ヴィクトリア?」
「……何でもない。気にしないでくれ」
エリザベートはその様子を微笑ましそうに眺めていたが、やがて零へ視線を戻した。
「零さん。これから、どのように過ごしていきたいと思っていますか?」
「……これから、ですか?」
「ええ。今回のようなこともありましたし、あなた自身がどうしたいのかを、少し聞いてみたいのです」
零は少し考え込んだ。
黒龍との戦いで、自分がどれほど未熟だったのかを思い知らされた。だが、ヴィクトリアとルシエラが助けに来てくれたおかげで、今もこうして生きている。セレフィーナが懸命に治療してくれたことも、夢の中で聞いた両親の言葉も、零の胸の奥に深く残っていた。
「……僕は、もっと強くなりたいです」
静かだが、迷いのない声だった。
「……僕の力は、ほとんど通じませんでした。最後に何が起きたのかも、覚えていなくて……」
零は膝の上に置いた左手を見つめる。
「……でも、みんなのおかげで、こうして生きていられます。だから、もっと強くなりたいんです。次は、自分の力で立っていられるように」
その言葉を聞いたヴィクトリアが、静かに目を細めた。ルシエラもまた、何も言わずに零を見つめている。
アルフレッドはしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……そうか。良い答えだ。強さを求める理由は人それぞれだ。だが、君が自分の意思で前へ進もうとしているのなら、その気持ちは大切にするといい」
「……はい」
零は小さく微笑んだ。その様子を見て、エリザベートも穏やかに頷いた。
「ふふっ。やはり、一度ゆっくりお話ししてみたいですわね」
「……え?」
「実は、この後、小さなお茶会を開こうと思っているのです。よろしければ、零さんもご一緒しませんか?」
思いがけない誘いに、零は目を瞬かせた。
「……僕が、ですか?」
「ええ。もちろん、ヴィクトリアちゃんたちも一緒ですわ。今日は少し難しいお話が続きましたから、今度はゆっくりお茶を楽しみましょう」
零は少し戸惑いながらも、隣に座るヴィクトリアへ視線を向けた。彼女は安心させるように微笑み、小さく頷く。
「……それなら、ぜひ」
「まあ、嬉しいですわ」
エリザベートの笑顔が、さらに柔らかくなった。
その隣で、ルシエラが小さく息を吐く。
「……まったく。相変わらず、気に入った子には積極的なのね」
「あら、ルシエラちゃん。もちろん、あなたもご一緒してくださいますわよね?」
「……ええ。分かっているわ」
普段なら軽口の一つでも返しそうなルシエラが、あっさりと頷いた。その様子に、ヴィクトリアが小さく笑う。
「ふふっ」
「……何かしら、ヴィクトリア?」
「いや、何でもない」
ルシエラは僅かに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
そんなやり取りを眺めながら、零は不思議そうに首を傾げる。王城へ来る前は、国王や王妃と話すことに緊張していた。
アルフレッドには国王としての威厳があったが、零の話にも真摯に耳を傾けてくれた。エリザベートもまた、初めて会った自分に優しく接してくれている。
王族という存在は、もっと遠いものだと思っていた。それだけに、二人の温かな態度は零にとって少し意外だった。
「さて、私はそろそろ執務に戻らねばならんな」
アルフレッドがそう告げて立ち上がる。
「零。今日は話を聞かせてくれて感謝する。また機会があれば、ゆっくり話そう」
「……はい。ありがとうございました」
零は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
アルフレッドは穏やかに頷くと、エリザベートへ視線を向ける。
「後は任せたぞ、エリザベート」
「ええ。お任せくださいませ」
王妃は柔らかく微笑んだ。
アルフレッドが部屋を後にすると、エリザベートは零たちへ向き直った。
「それでは皆さん、参りましょうか」
その言葉に、ヴィクトリアとセレフィーナが頷き、ルシエラも静かに立ち上がった。零は彼女たちに続き、王妃の案内で部屋を後にする。
こうして、国王夫妻との初めての謁見は幕を閉じた。




