第18章 再会
温かい。
意識が浮かび上がるよりも先に、零は身体を包み込む柔らかな温もりを感じていた。すぐ近くからは誰かの穏やかな声が聞こえ、その響きに耳を傾けているだけで、不思議と心が安らいでいく。
やがてゆっくりと視界が開けると、そこには見覚えのない部屋が広がっていた。淡い陽光が差し込む窓や、木の温もりを感じさせる家具。そのどれもが初めて目にするはずなのに、なぜか胸の奥には懐かしさが込み上げてくる。
まるで、遠い昔に置き忘れてきた大切な何かに、再び触れたような感覚だった。
柔らかな寝台の傍らには、一人の男性が立っていた。男性は優しげな表情でこちらを見つめ、穏やかな声で呟く。
「……よく眠っているな」
「ええ。さっきまであんなに元気だったのに」
すぐ近くから女性の笑い声が聞こえた。零の視界が僅かに揺れ、そこで初めて、自分が誰かの腕に抱かれていることに気づく。
顔を上げようとしても、思うように身体が動かない。手足はひどく小さく、声を出そうとしても意味のある言葉にはならなかった。
(……あれ?)
何かがおかしい。けれど、その違和感の正体を確かめるよりも先に、女性が愛おしそうに微笑んだ。
「ふふっ。起きちゃったみたい」
「そうか。なら、少し抱かせてくれないか?」
「もちろん」
女性の腕から男性の腕へと、零の身体がそっと移される。大きな手が小さな背中を支え、壊れ物を扱うように優しく抱き上げてくれた。
「……零」
男性が名前を呼んだ瞬間、零の胸が小さく震えた。
(……この声……)
遠い記憶の中に残る、懐かしい響き。あの日から幾度となく思い返してきた、忘れようのない声だった。
(……父様……?)
聞き間違えるはずがない。目の前にいるのは、六歳の頃に失ったはずの父親だった。
そして、先ほどから聞こえていた女性の声にも思い至る。
(……母様……)
もう二度と聞くことはできないと思っていた、二人の声がそこにあった。
零は思わず顔を上げようとしたが、小さな身体は思うように動かない。それでも、父親の腕の中にいるという事実だけで、胸の奥が熱くなっていく。
「この子が生まれてから、もう随分と経った気がするな」
「ふふっ。まだそんなに経っていないでしょう?」
「そうだな。だが、不思議なものだ。零がいるだけで、毎日がこんなにも違って見える」
父親は穏やかに微笑み、腕の中の零へと視線を落とした。その眼差しには深い愛情が滲んでいたが、やがて何かを思い出したように、表情が僅かに引き締まる。
「……ただ、一つだけ気がかりなことがある」
母親もまた、その言葉に静かに頷いた。
「……零の力のことね」
「ああ」
父親は零を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「零が宿す氣は、あまりにも強大だ。この力が知られれば、いずれこの子の運命を狂わせることになるかもしれない」
その声には、我が子の未来を案じる父親としての想いが込められていた。
母親は父親の傍らへ歩み寄ると、零の小さな頬を優しく撫でる。
「えぇ。だからこそ、私達で守りましょう」
「ああ。この子が自らの未来を選べるように。何としても守り抜こう」
二人の視線が重なる。そこにあったのは、ただ力を恐れる気持ちではなく、大切な我が子を守ろうとする揺るぎない決意だった。
「この子には、幸せになってほしいもの」
「ああ。いつか零が、自分の人生を心から笑って歩めるようにな」
その言葉を聞いた瞬間、零の胸の奥に懐かしさと切なさが入り混じった感情が広がった。
幼い頃に聞いた優しい声。もう二度と触れられないと思っていた温もり。それらが今は、こんなにも近くにある。
(……父様……母様……)
零は必死に顔を上げようとした。二人の顔をもっとよく見たい。もう一度、その手に触れたい。
けれど、願いとは裏腹に視界は次第に霞み始め、差し込んでいた陽光も、部屋の輪郭も、ゆっくりと薄れていく。
(……待って……)
まだ聞きたいことがある。まだ伝えたいことがある。零は消えゆく温もりを追いかけるように、小さな手を伸ばそうとした。
(……母様……!)
声にならない呼びかけとともに、世界は静かに暗闇へと沈んでいった。
◇
かすかな鳥の声が聞こえた。
遠くで風が木々を揺らす音がしている。零はゆっくりと意識を浮上させ、ぼんやりと目を開いた。
最初に見えたのは、見慣れない白い天井だった。
「……ん……」
喉から小さな声が漏れる。身体には長い間眠っていたような重さが残っており、意識もまだはっきりとしない。
(……ここ、どこ……?)
そう考えたとき、すぐ近くから聞き覚えのある声がした。
「……零?」
ゆっくりと顔を向けると、そこにはヴィクトリアがいた。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。いつも凛々しい彼女が、今はどこか泣きそうな表情で自分を見つめている。
「……ヴィクトリア……?」
「ああ、私だ。零……!」
その声を聞いた瞬間、零の胸の奥に温かなものが込み上げてきた。
黒龍との戦いの最後、自分はもう二度と会えないのだと思っていた。それでも、もう一度だけ会いたいと願った。
その人が、今、目の前にいる。
「……よかった」
零の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……また、会えた……」
その言葉に、ヴィクトリアは一瞬だけ目を見開いた。やがて零の手をそっと包み込み、震える声で答える。
「……ああ、おかえり」
零は彼女の手を弱く握り返し、安心したように微笑んだ。
しばらくの間、二人は何も言わなかった。言葉にしなくても、互いの温もりがそこにあることだけで十分だった。
やがて零は、自分が寝台に横たわっていることに気づく。
「……ここは……?」
「王都の教会だ。森で倒れていた零を、私たちがここまで運んできたんだ」
「……森……」
その言葉を聞いた瞬間、記憶の断片が脳裏をよぎった。
黒い巨体。圧倒的な力。そして、身体を引き裂かれるような痛み。
零は無意識のうちに左腕へ視線を向けた。
「……あれ……?」
失ったはずの左腕が、そこにあった。
ゆっくりと左手を持ち上げ、指先を動かしてみる。指を曲げ、開き、もう一度握る。その動きには何の違和感もなく、確かに自分の腕だった。
「……どうして……」
続いて、左目へと手を伸ばす。
失われ、何も見えなくなったはずの瞳。けれど、今は両目で周囲の景色を捉えることができていた。
「……治ってる……」
「ああ。セレフィーナが治してくれた。失った腕も、目も、すべてだ」
ヴィクトリアの声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
零はしばらく、自分の左手を見つめ続けた。
もう二度と動かせないと思っていた手が、確かにそこにある。けれど、あのときの感覚が消えたわけではなかった。
骨が砕ける音も、身体を貫いた痛みも、視界が暗くなっていく感覚も、今なお鮮明に覚えている。
思い出した途端、左肩の奥が疼いたような気がした。実際にはもう傷など残っていないのに、零は反射的に左腕を抱き寄せる。
「……零?」
ヴィクトリアの声に、零は小さく首を振った。
「……大丈夫」
そう答えたものの、声は思うように出なかった。
ヴィクトリアは何か言いかけたが、無理に問いただすことはしなかった。ただ、零の傍らに座り直し、その手を握り続けた。
◇
しばらくして、部屋の扉が開いた。
「零!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、ルシエラだった。
彼女は寝台の上で身体を起こしている零を見ると、目を大きく見開き、その場で一瞬だけ足を止めた。
「……目が、覚めたのね」
「……ルシエラ」
名前を呼んだ途端、ルシエラは零を優しく抱きしめた。
抱きしめられた零は、ルシエラから伝わってくる感情の気配を感じ取っていた。深い安堵と喜び。そして、その奥には、まだ拭いきれない悲しみと後悔が滲んでいる。
零は何も尋ねなかった。ただ、そっとルシエラの背中へ手を回す。
「……ただいま、ルシエラ」
その一言に、彼女の腕がわずかに震えた。
「……ええ。おかえりなさい、零」
ルシエラは零を抱きしめたまま、しばらく離れようとしなかった。零もまた、彼女の温もりに身を委ねていた。
やがてルシエラが身体を離すと、その後ろに立っていた女性が静かに歩み寄ってきた。
真珠色の長い髪に、澄んだ翡翠色の瞳。白と金を基調とした衣装を身にまとったその女性は、零の顔を見て柔らかく微笑んだ。
「お目覚めになったのですね。よかったです」
穏やかな声だった。
零は少し戸惑いながら、彼女を見上げる。
「……あの、あなたは……?」
「申し遅れました。私はセレフィーナ・サンクティアと申します」
女性は胸元へそっと手を添え、丁寧に名乗った。
「聖帝と呼ばれていますが、どうか気負わずに接してくださいね」
「……聖帝……」
零は小さく呟いた。
三帝の一角。ヴィクトリアやルシエラと並び称される存在であり、先ほどヴィクトリアが自分の身体を治してくれたと話していた人物でもある。
零は慌てて姿勢を正そうとしたが、セレフィーナが優しく制した。
「無理をなさらないでください。まだ目を覚ましたばかりなのですから」
「……ありがとうございます。僕は、神楽零です」
「零さん、ですね。よろしくお願いいたします」
セレフィーナは微笑んだ。
「ヴィクトリアさんとルシエラさんから、少しだけお話を伺っています。ですが、こうしてお話しするのは初めてですね」
「……はい」
零は一度、自分の左腕へ視線を落とした。失ったはずの腕が元通りになっているという事実は、今でも信じられないほどだった。
「……ヴィクトリアから聞きました。僕の身体を治してくれたんですよね」
「はい。ですが、こうして無事に目を覚ましてくださったことが、何より嬉しいです」
その穏やかな言葉に、零は深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
「どういたしまして。ですが、今はどうか無理をなさらないでくださいね」
セレフィーナは優しく微笑むと、零の身体の具合を確かめた。
「痛むところや、違和感のあるところはありませんか?」
「……痛みはありません。腕も、目も……ちゃんと動きます」
「それなら安心しました。傷はすべて治癒していますが、何か異変を感じたら、すぐに教えてくださいね」
「……分かりました」
零が静かに頷くと、セレフィーナも安心したように微笑んだ。
その後、零はふと森での出来事を思い出した。
「……ヴィクトリア」
「どうした?」
「……あの黒龍は、どうなったの?」
その問いに、ヴィクトリアの表情が僅かに引き締まった。ルシエラもまた、静かに零へ視線を向ける。
「……黒龍は、空間に現れた裂け目に呑み込まれて消えた。どこへ行ったのかは、私たちにも分からない」
「……消えた……?」
「ああ。少なくとも、あの場所からはいなくなった」
零は小さく目を見開いた。
あれほど圧倒的だった存在が、突然姿を消した。その事実に安堵しながらも、胸の奥には釈然としないものが残った。
「……僕、最後の方は……あまり覚えてないんだ」
零は俯きながら呟いた。
「……もう、何も見えなくなって……」
そこで言葉が途切れる。
ヴィクトリアは零の表情を見つめ、静かに頷いた。
「そうか。無理に思い出さなくていい」
その声は、普段よりもずっと柔らかかった。
ルシエラもまた、零の髪をそっと撫でる。
「今は休むことだけ考えなさい。難しいことは、後でいいのよ」
「……うん」
零は小さく頷いた。
◇
それからしばらくして、零は再び寝台に横になっていた。
ヴィクトリアたちは近くにいるが、無理に話しかけてくることはない。静かな部屋の中で、零は天井を見つめながら、先ほど見た夢を思い返していた。
温かな腕。優しい声。そして、自分を見つめていた二人の顔。
(……父様と、母様……)
六歳の頃に失った、大切な家族。
もう二度と会うことのできない人たちが、あの夢の中では確かに自分を抱きしめてくれていた。
(……僕が、もっと小さかった頃の記憶……?)
零には、あの光景を見た覚えがなかった。けれど、夢だと片づけてしまうには、あまりにも鮮明だった。
声の響きも、腕の温もりも、頬に触れた指先の感触も、まるでずっと心の奥に眠っていた何かが、ほんの少しだけ顔を覗かせたようだった。
そして何より、両親が自分の未来を案じ、守ろうとしてくれていたことが、胸に深く残っていた。
(……父様……母様……)
零はそっと目を閉じる。
もう二度と会うことはできない。それでも、あの夢の中で感じた温もりは、確かに自分の中に残っている。
寂しさとともに、どこか穏やかな気持ちが胸の奥へ広がっていった。
零はその感情を抱えたまま、ゆっくりと息を吐く。
そして、ふと気づいた。
(……あれ?)
身体の奥に、奇妙な感覚があった。
これまで、零の内側には二つの異なる力が存在していた。一つは幼い頃から自分の中にあった不思議な力。もう一つは、この世界へ来てから知った魔力。
その二つは、互いに近づこうとすると反発し合い、どこか噛み合わない感覚があった。
けれど、今は違う。
零は意識を自分の内側へ向けた。
すると、以前なら反発していたはずの二つの力が、ほんの僅かに寄り添っているように感じられた。
混ざり合っているわけではない。完全に一つになったわけでもない。ただ、以前よりも少しだけ、互いを受け入れているような、不思議な感覚だった。
(……どうしてだろう)
理由は分からない。黒龍との戦いで何かが起きたのかもしれないが、そのときの記憶は途切れている。
零はもう一度、二つの力へ意識を向けた。
そのとき、ふと夢の中で聞いた父親の言葉が蘇った。
『零が宿す氣は、あまりにも強大だ』
(……氣)
零はその言葉を、心の中で静かに繰り返した。
幼い頃から自分の中に存在し、当たり前のように使ってきた不思議な力。父親が言っていたのは、間違いなくこの力のことだ。
(……そっか。この力は、氣っていうんだ)
今まで名前すら知らなかった力に、ようやく名前が与えられた。
零は自分の内側にある力を、以前より少しだけ身近に感じていた。
(……父様は、この力のことを知っていたんだ……)
夢の中で聞いた父親の声。その言葉からは、自分の力を恐れる気持ちだけでなく、何よりも零の未来を守りたいという想いが伝わってきた。
なぜ父親は、この力を隠そうとしていたのだろう。そして、あの頃の両親は、自分の力についてどこまで知っていたのだろうか。
今となっては、確かめることもできない。
零は静かに息を吐き、ゆっくりと目を開いた。
ふと視線を動かすと、傍らにはヴィクトリアが座っていた。少し離れたところではルシエラが静かにこちらを見守り、セレフィーナも穏やかな表情を浮かべている。
その光景を見て、零は胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
あの森で、すべてが終わると思った。もう誰にも会えないのだと、覚悟した。それでも、自分はこうして生きている。
零は布団の上に置かれた左手を、そっと握りしめた。
(……僕は、まだ生きている)
その当たり前の事実が、今は何よりも大切に思えた。
窓の外では、柔らかな風が木々を揺らしていた。
零はそっと目を閉じる。その胸の奥には、今も父親の声が残っている。
『この子が自らの未来を選べるように』
失われていた記憶の欠片。そして、初めて知った自分の力の名。
零はまだ、その言葉が持つ本当の意味を知らない。
けれど、あの温かな声だけは、もう忘れたくないと思った。




