第十七章 聖帝の救済
王都から森へと続く街道を、一人の騎士が疾走していた。
剣帝、ヴィクトリア・フォン・ヴァレンタイン。
大地を蹴るたびに金色の髪が大きく揺れ、その姿は凄まじい速度で街道を駆け抜けていく。
彼女の頭上では、魔帝ルシエラ・エレノワールが紫紺の髪を風になびかせながら飛翔していた。魔力を用いて空を駆けるその速度は、地上を走るヴィクトリアにも劣らない。
二人が目指しているのは、王都近郊に広がる森だった。
少し前、二人は森の方角から異常な力の気配を感じ取っていた。
自然に発生するようなものではない。何か強大な存在が力を振るっているとしか思えないほどの異変だった。
「ルシエラ! 異変の正体は分かったか!」
走りながら問いかけるヴィクトリアに、ルシエラは前方を見据えたまま首を振った。
「いいえ。ただ、あの森で何かが起きているのは間違いないわ」
ルシエラは魔力の流れを探りながら、眉をひそめた。
王都の近くで、これほどの異常が起きている。もし強大な魔物が現れたのなら、王国の監視に何らかの反応があってもおかしくないはずだ。
だが、事前にそのような知らせは届いていない。
そして何より、ルシエラには気がかりなことがあった。
今日、零は彼女に頼まれて薬草を採りに出かけていた。その行き先が、まさに今、異変の起きている森だったのだ。
危険なことを頼んだつもりはなかった。零の実力も知っているし、普段なら過度に心配するようなことではない。
それでも、胸の奥に広がった不安は消えてくれなかった。
「……零」
思わず零の名を呟いた、そのときだった。
森の方角から、凄まじい力が溢れ出した。
「――っ!?」
ルシエラが息を呑むのと、ヴィクトリアが表情を険しくしたのは、ほぼ同時だった。
「……何だ、この力は」
走る速度を落とすことなく、ヴィクトリアが森の方角を睨む。遠く離れているというのに、肌を刺すような圧迫感が伝わってきた。
ルシエラもまた、信じられないものを感じ取っていた。
「……何なの、この力は。魔力だけじゃない……?」
彼女が驚いているのは、その膨大な量だけではなかった。魔力の中に、これまで感じたことのない何かが存在している。
「ルシエラ、あれが何なのか分かるか?」
「……いいえ。私にも分からないわ」
その答えに、ヴィクトリアの表情がさらに険しくなる。
五百年以上を生きる魔帝ですら正体を掴めない力が、零の向かった森で発生している。
二人は互いに目を合わせることなく、さらに速度を上げた。
やがて、前方に森の輪郭が見え始める。
上空を飛ぶルシエラの視界は、地上を走るヴィクトリアよりも遥かに広い。だからこそ、森の入口付近にそびえ立つ異様な影に、彼女は誰よりも早く気づいた。
木々を遥かに超える巨体。陽光を鈍く反射する漆黒の鱗と、空を覆うかのように広げられた巨大な翼。
その姿を認識した瞬間、ルシエラは目を見開いた。
「――黒龍!?」
「何だと!?」
ヴィクトリアが顔を上げる。街道の先、森の入口付近に見える巨大な黒い影は、確かに龍の姿をしていた。
なぜ、こんな場所に黒龍がいるのか。
王国は何をしていたのか。
次々と疑問が浮かぶが、それを考えている余裕はなかった。
ルシエラの視線が、黒龍の前方に浮かぶ小さな人影を捉えたからだ。
「…………零?」
黒い髪と華奢な身体には、見覚えがあった。
見間違えるはずもない。そこにいたのは、今朝、自分が薬草採取を頼んだばかりの零だった。
しかし、その姿は彼女の知る少年とはあまりにもかけ離れていた。
黒髪の一部は白銀に染まり、開かれた右目は黄金に輝いている。身体の周囲では空間そのものが歪み、得体の知れない力が絶え間なく溢れ続けていた。
そして、何より。
左腕が、ない。
肩から先を失った身体は血に染まり、左目も酷く損傷している。遠くからでも分かるほどの重傷を負っているにもかかわらず、零は空中に浮かんだまま微動だにしなかった。
「零っ!!」
ルシエラの悲鳴にも似た叫びが響く。
ヴィクトリアもまた、その声に導かれるように視線を向けた。そして、零の姿を認めた瞬間、胸を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
あれほどの傷を負って、なぜまだ動けているのか。
そもそも、零はどうやって空中に浮かんでいるのか。
理解できないことばかりだったが、二人の呼びかけに反応しないことだけは、はっきりしていた。
零はゆっくりと右拳を引く。
その構えを目にしたヴィクトリアの脳裏に、一人の男の姿が浮かんだ。
幼い頃から何度も見てきた、師の構え。
拳鬼、ガルド・ハーゼン。
零の姿勢は、彼が拳を放つ際のそれによく似ていた。
だが、何かが違う。ガルドが拳を放つ際に見せる、力を蓄えるための動作がないのだ。
その違和感の正体を考える間もなく、零の右拳が突き出された。
音は、なかった。
拳が黒龍に触れたわけでもない。それなのに、次の瞬間には黒龍の片翼が消失し、その背後に広がる森と大地までもが、一直線に抉り取られていた。
何が起きたのか理解する間もなく、遅れて凄まじい轟音が響き渡る。
「くっ……!」
押し寄せた衝撃に、ヴィクトリアが地面を強く踏み締める。ルシエラも咄嗟に魔力の障壁を展開し、空中で体勢を保った。
やがて衝撃が収まると、二人は再び黒龍へと目を向けた。
片翼を失った巨体の傍らに、黒い裂け目が生じていた。
「……空間が裂けている?」
ルシエラが目を細める。
黒龍は何かに引き寄せられるように、その裂け目の中へと呑み込まれていった。やがて巨体が完全に消えると、裂け目も何事もなかったかのように閉じてしまう。
「……転移? いえ、誰かが……?」
ルシエラは小さく呟いたが、その先を考える余裕はなかった。
零の身体を包んでいた力が急速に弱まり、空間の歪みが消えていく。それと同時に、白銀に染まっていた髪も徐々に元の黒色を取り戻していった。
やがて、零の身体から力が完全に失われる。
空中に浮かんでいた小さな身体が傾き、そのまま落下し始めた。
「――零っ!!」
ヴィクトリアは反射的に地を蹴った。
落下する零へ向かって跳躍し、空中でその小さな身体を抱き留めると、衝撃を殺しながら地面へと降り立つ。
腕の中に収まった少年は、驚くほど軽かった。
「零! しっかりしろ!」
返事はない。
顔を覗き込んだヴィクトリアは、そこで初めて、零が負っている傷の深刻さを間近で知ることになった。
失われた左腕に、酷く損傷した左目。衣服の下にも無数の傷があり、呼吸は浅く、不規則だった。
これほどの重傷を負いながら、零は一体どれほどの時間、あの黒龍と戦っていたのだろう。
「……零、聞こえるか?」
頬に触れながら呼びかけても、閉じられた瞼は動かない。
ヴィクトリアは震えそうになる手を押さえ、零の身体を抱き直した。今は取り乱している場合ではない。少しでも早く、治療を受けさせなければならなかった。
「ヴィクトリア!」
ルシエラがすぐ傍らに降り立つ。
彼女もまた、零の惨状を目にした瞬間、顔から血の気が引いた。だが、立ち尽くしていたのはほんの一瞬だった。
「零をできるだけ動かさないで。今、治療するわ」
ヴィクトリアが頷くのを確認すると、ルシエラは零の身体へ両手をかざした。
淡い光が生まれ、傷ついた肉体を包み込む。
ルシエラの回復魔法によって流れ続けていた血が少しずつ止まり、深い傷も徐々に塞がっていった。
しかし、傷の状態を確かめるにつれて、彼女の表情は険しくなっていく。
肋骨が折れ、肺も損傷している。左腕と左目に至っては、単なる治療で元に戻せる状態ではなかった。
ルシエラは回復魔法も扱える。出血を止め、損傷した肉体を癒すことはできるが、失われた腕や瞳を完全に再生させることはできない。
「……ルシエラ」
ヴィクトリアが低い声で尋ねた。
「零は、助かるのか?」
ルシエラは治療の手を止めずに答える。
「出血は抑えたわ。内臓の傷も、できる限り治している。でも、これだけでは足りない」
「ならば、どうすれば……」
「セレフィーナよ」
ルシエラは顔を上げた。
「セレフィーナなら、失われた腕も目も治せる。今すぐ教会へ運びましょう」
その言葉を聞いたヴィクトリアは、零を抱く腕に力を込めた。
「ああ。行こう」
二人は王都へと引き返した。
ヴィクトリアは零に負担をかけないよう身体を支えながら、可能な限りの速度で街道を駆ける。その傍らを飛ぶルシエラは、移動中も回復魔法を維持し続けていた。
呼吸が弱まるたびに魔力を注ぎ、再び出血しそうな傷があれば、すぐに治療する。
それと同時に、彼女は周囲への警戒も怠らなかった。
黒龍は確かに姿を消した。だが、あの奇妙な空間の裂け目が何だったのか、まだ分かっていない。再び現れないという保証は、どこにもなかった。
零の傷を癒すことに集中したい。それでも、もし新たな脅威が現れれば、今度こそ自分が守らなければならない。
ルシエラは魔力の流れを維持したまま、周囲の気配を探り続けた。
ヴィクトリアもまた、腕の中の零を見つめながら、胸の奥に重いものを抱えていた。
かつて、森で傷つき倒れていた零を見つけたのは、自分だった。
あのときも、その小さな身体は傷だらけだった。それが今、再び自分の腕の中で命を失いかけている。
もし、もっと早く異変に気づいていたら。
もし、黒龍が現れる前に零を見つけていたら。
後悔はいくらでも浮かんでくる。
だが、ヴィクトリアはそれを振り払うように前を向いた。
今、零に必要なのは謝罪でも後悔でもない。
命を救うことだ。
「……必ず助ける」
誰に聞かせるでもなく呟くと、ヴィクトリアはさらに足を速めた。
◇
教会の扉が勢いよく開かれた。
「セレフィーナ!」
静かな建物に、ヴィクトリアの切迫した声が響く。
その声を聞きつけ、奥から一人の女性が姿を現した。
真珠のように淡く輝く髪と、澄んだ翡翠色の瞳。白と金を基調とした衣装を身にまとった彼女こそ、三帝の一角、聖帝セレフィーナ・サンクティアだった。
「ヴィクトリアさん? ルシエラさん? そんなに慌てて、いったい何が……」
問いかけようとしたセレフィーナの視線が、ヴィクトリアの腕に抱かれた零へと向けられる。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……こちらへ。すぐに治療します」
セレフィーナは事情を尋ねることなく二人を奥の部屋へ導いた。
寝台へ零を横たえると、傷の状態を確かめる。ルシエラの回復魔法によって出血は抑えられ、損傷した内臓もある程度修復されていたが、左腕と左目は失われたままだった。
「ルシエラさんが応急処置をしてくださったのですね」
「ええ。でも、私の魔法ではこれ以上は……」
「十分です。おかげで、まだ間に合います」
セレフィーナはそう答えると、零の身体へ静かに両手をかざした。
「セレフィーナ……零は助かるのか?」
ヴィクトリアの問いに、彼女は迷わず頷いた。
「助けます。この方は、私が必ず助けます」
その声に焦りはなかった。
目の前の少年がどれほど深刻な傷を負っているのか、セレフィーナは正確に理解している。決して容易な治療ではない。それでも、彼女の翡翠色の瞳には一片の迷いも浮かんでいなかった。
やがて、祈りに応えるかのように柔らかな光が生まれ、零の身体を包み込んだ。
魔力とは異なる、清らかで温かな輝き。
聖帝セレフィーナが操る神聖力だった。
光が傷ついた肉体へと染み込んでいくにつれて、零の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
折れていた肋骨が繋がり、損傷した肺も本来の形へと修復されていった。ルシエラの回復魔法では治しきれなかった傷も、次々と塞がっていく。
だが、セレフィーナの治癒はそこで終わらなかった。
彼女は静かに目を閉じ、さらに神聖力を注ぎ込む。
すると、失われた左肩の先に光が集まり始めた。
「……これは」
ヴィクトリアが思わず息を呑む。
光の中で、零の左腕が少しずつ形作られていく。
肩から上腕、肘、前腕へと再生が進み、やがて手首から指先に至るまで、失われていた腕が元の姿を取り戻した。
さらに、酷く損傷していた左目にも光が宿る。傷ついた組織が修復され、閉じられた瞼の下で、失われていた瞳が再び形作られていった。
ヴィクトリアはその光景を、祈るような思いで見つめていた。
隣に立つルシエラも、言葉を発しようとはしない。
二人とも、ほんの少し前まで零がどれほど危険な状態にあったのかを知っている。
だからこそ、目の前で失われた身体が再生していく光景から、一瞬たりとも目を離すことができなかった。
やがて、部屋を満たしていた光がゆっくりと薄れていく。
セレフィーナが両手を下ろしたとき、寝台に横たわる零の身体には、もはや傷一つ残っていなかった。
「……終わりました」
セレフィーナの額には薄く汗が滲み、普段よりもわずかに呼吸が深くなっていた。
失われた左腕と左目の再生に加え、全身に及ぶ損傷の修復。聖帝である彼女にとっても、決して軽い治療ではなかった。
それでも、零の呼吸が安定していることを確かめると、セレフィーナは穏やかに微笑んだ。
「この方の身体は、すべて治癒しました。もう命の心配はありません」
「……本当、なのね」
ルシエラが、確かめるように尋ねた。
セレフィーナは静かに頷いた。
その瞬間、ルシエラは深く息を吐いた。
ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩んだようだった。
「……よかった」
声が震える。
魔帝と呼ばれる彼女が、これほど無力さを感じたことは、そう多くない。
脳裏から離れないのは、つい先ほど目にした零の姿だった。失われた左腕、血に染まった身体、今にも途絶えそうな呼吸。
あと少し遅れていたら、二度とあの子の声を聞けなかったかもしれない。
そう思うと、安堵したはずの胸が再び締めつけられた。
一方、ヴィクトリアは寝台の傍らへ歩み寄ると、零の右手をそっと握った。
温かかった。
森で抱き留めたときには失われかけていた温もりが、今は確かにそこにある。
「……零」
小さく名を呼ぶ。
だが、返事はなかった。
零は穏やかな呼吸を繰り返しているものの、目を閉じたまま動こうとしない。
ヴィクトリアは、握っていた手を見つめた。
「……セレフィーナ。零は、いつ目を覚ます?」
その問いに、セレフィーナは少しだけ表情を曇らせた。
「申し訳ありません。それは、私にも分かりません」
「……どういうことだ?」
「身体の傷はすべて治癒しました。ですが、意識が戻らない理由については、私にも分からないのです。今は、目を覚ますのを待つしかありません」
ヴィクトリアは何も答えられなかった。
零が黒龍と戦っていたことは確かだ。だが、二人が到着するまでの間に何があったのか、どれほどの苦痛を味わったのかは分からない。
まして、零の身に何が起きているのかなど、今の彼女たちには知る術もなかった。
「……私が、もっと早く駆けつけていれば」
ヴィクトリアが俯く。
その言葉を聞いたルシエラは、静かに首を振った。
「それを言うなら、私だって同じよ。零に森へ行くよう頼んだのは、私なんだから」
「ルシエラ……」
「危険なんてないと思っていたわ。零なら大丈夫だって、勝手に安心していた」
ルシエラは寝台に横たわる零を見つめた。
「……あの子が、こんな目に遭うなんて」
言葉の最後が、かすかに震えた。
ヴィクトリアは何も言わず、零の手を握り続けた。
「ヴィクトリアさん、ルシエラさん」
静かな声が、二人の間に落ちる。
セレフィーナは穏やかな表情で、二人を見つめていた。
「お二人がここまで連れてきてくださったからこそ、治療することができたのです。ルシエラさんが命を繋ぎ、ヴィクトリアさんが守ってくださった。そのおかげですよ」
責めるでも、慰めるでもない。
ただ、確かな事実を伝えるような声だった。
「今は、この方が目を覚ますのを待ちましょう」
セレフィーナは再び零へと視線を向けた。
「目を覚ましたとき、そばに誰かがいてくれる。それだけでも、きっと心強いはずですから」
ヴィクトリアは、握っていた零の手にわずかに力を込めた。
「……ああ。そうだな」
ルシエラも寝台の傍らへ歩み寄り、零の黒髪を優しく撫でる。
いつもなら、何か一つくらい冗談を口にしていただろう。
けれど、今はそんな気持ちにはなれなかった。
「……おやすみなさい、零」
その声は、いつになく優しかった。
セレフィーナは二人の様子を見守りながら、静かに祈りを捧げた。
失われた腕は戻った。
傷ついた瞳も、肉体も、すべて元どおりになった。
聖帝の神聖力によって、零の命は救われたのだ。
それでも、寝台に横たわる少年は目を覚まさない。
静かな部屋には、規則正しく繰り返される零の寝息だけが響いていた。




