第十六章 絶望の厄災(後編)
ルシエラの屋敷では、ヴィクトリアとルシエラが向かい合っていた。
「それにしても、随分と零のことが気に入ったようだな」
「ふふっ、そういうヴィクトリアだって、人のことは言えないでしょう?」
「……否定はしないさ」
ルシエラが楽しげに笑い、手元のカップを持ち上げた、そのときだった。
「――っ!」
二人の表情が、同時に変わった。何の前触れもなく、それまで何の気配もなかった場所に凄まじい魔力が出現したのだ。
その異質な魔力は、三帝である二人でさえ無視できないほどのものだった。
「……何、この魔力」
ルシエラはカップを置き、鋭い視線を窓の外へ向けた。
「ルシエラ、今のは何だ?」
「分からないわ。けれど、突然現れた。それも、そう遠くない場所に……」
魔力の感じられる方角を見つめていたルシエラの表情が、強張った。
「……まさか。あの方角、零が向かった森よ」
「……何だと?」
ヴィクトリアの顔色が変わる。零が向かった場所と、異常な魔力が出現した場所。偶然だと片づけるには、あまりにも近すぎた。
「ルシエラ、行くぞ」
「ええ。全速力で向かいましょう」
二人は迷うことなく立ち上がり、屋敷を飛び出した。
◇
「……が、はっ……!」
零の口から、赤い血が溢れた。
地面に叩きつけられた身体は、もはや自分のものとは思えないほど重かった。胸の奥が焼けるように痛み、息を吸おうとするたび、内側から鋭い何かが突き刺さるような激痛が走る。
折れた肋骨が肺を傷つけていた。
「……っ、は……っ……」
何度息を吸おうとしても胸がうまく膨らまず、空気が入ってこない。視界は揺れ、手足には力が入らなかった。
それでも零はどうにか顔を上げたが、そこにはすでに漆黒の巨体が迫っていた。
黒龍は倒れた零の様子を窺うこともなく巨大な前脚を振り上げ、その鋭い爪を容赦なく振り下ろした。
――避けないと。
そう思っても身体は動かず、逃げるどころか身を捩ることさえできない。
零は咄嗟に、身体の奥に残る力を左腕へと集めた。
ガルド師匠との修行で、何度も繰り返した動作。受け止めるのではなく、攻撃の軌道を逸らす。
左腕を掲げ、頭上から迫る爪を外側へと受け流そうとした瞬間、凄まじい衝撃が零を襲った。
爪の軌道が僅かに逸れたものの、逸らしきれなかった一本が左目を抉り、続けざまに別の爪が掲げた左腕へと深く食い込んだ。
振り抜かれる勢いに巻き込まれ、左腕が肩口から引き千切られる。
「――――っ!!」
声にならない悲鳴が漏れ、零の身体は地面へと投げ出された。肩口から溢れ出す血が、地面を赤く染めていく。
全身を駆け巡る激痛に思考が白く染まるが、その痛みさえ次第に遠ざかり、まるで他人の身体に起きていることのように感じられた。
左腕がない。左目も、見えない。
「……ぁ……」
何かを言おうとしても、口から零れるのは血と掠れた息だけだった。
もう、身体は動かなかった。
黒龍の足音が地面を震わせながら近づいてくる。零は残された右目でその姿を見上げ、ぼんやりと思った。
――ああ。ここで、死ぬんだ。
不思議と、その考えはすんなりと胸に落ちた。もう逃げることも戦うこともできず、目の前の存在は、それほどまでに強大だった。
黒龍が再び前脚を持ち上げる。その爪が振り下ろされる刹那、零の脳裏を、これまでの日々が駆け巡った。
かつて、龍と三日三晩戦い続け、最後には打ち倒したというガルド師匠。その話を聞いたときは、ただ凄いとしか思わなかった。けれど、今なら分かる。龍という存在がどれほど恐ろしく、それと戦い続けて勝利することが、どれほど途方もないことなのか。
「……あぁ……ガルド師匠は……凄いな……」
血に濡れた唇から、微かな声が零れた。
厳しかった修行の日々が思い出される。何度も地面に転がされ、立ち上がるたびにまた倒された。それでも、少しずつ身体の動かし方が分かるようになり、昨日できなかったことが今日はできるようになっていった。
その小さな積み重ねが、零には嬉しかった。
――楽しかったな。
その記憶に重なるように、ヴィクトリアの顔が浮かんだ。初めてこの世界で目を覚ましたとき、傍にいてくれた人。何も話そうとしなかった自分を無理に問い詰めることなく、ただ見守ってくれた。
剣を振るう姿は美しく、強く、いつかあの人とも本気で戦ってみたいと思った。
そして、ルシエラ。いつも楽しそうに笑いながら、知らないことを教えてくれた。文字を覚え、冒険者になり、初めて自分で依頼を受けた。
まだ読めない本も、知らない魔法も、たくさんある。
侯爵家で過ごした日々も、山奥での修行も、ルシエラの屋敷での何気ない時間も、どれも少し前の自分には想像もできなかったものばかりだった。
零はぼんやりと空を見上げた。
少し前の自分なら、死を前にしても、これほど何かを惜しむことはなかったかもしれない。生きていることに特別な意味を感じられず、明日が来ても来なくても、きっと何も変わらないと思っていた。
でも、今は違う。
もう一度、みんなに会いたかった。
またガルド師匠に稽古をつけてもらいたかったし、ヴィクトリアの剣をもっと見ていたかった。ルシエラとも、まだ知らない世界の話をしたかった。
これから先にも、きっと楽しいことがある。そう思えるようになっていたのに、もう叶わない。
迫り来る黒龍の爪が、零の視界を覆っていく。その光景を見つめながら、零の唇が小さく動いた。
「…………死にたくな……いな」
それは力強い決意でも、誰かに助けを求める声でもなかった。もうどうにもならないと分かっていながら、それでも零れ落ちた、か細い本音だった。
零の右目から光が失われ、やがて意識は深い闇へと沈んだ。
◇
命の灯火が、今にも消えようとしている。
身体はとうに限界を迎え、意識さえ失われていた。それでもなお、その身に刻まれた生存本能だけが、迫り来る死を拒み続けていた。
――まるで、最後に零れ落ちた願いを叶えるかのように。
相反する二つの力が、互いの境界を越え、ひとつに溶け合った。
その瞬間、零の身体から凄まじいエネルギーが解き放たれた。
轟音とともに大地が震え、零を中心に無数の亀裂が走る。周囲の木々が一斉に軋み、枝葉が激しく揺さぶられ、根元から傾いていった。
黒龍の爪が零に届くよりも早く、膨れ上がった力が周囲へと押し寄せる。振り下ろされていた前脚が押し戻され、黒龍の巨体が大きく揺らいだ。
溢れ出した力は周囲の空間さえも歪ませ、零の姿が揺らめいて見えるほどに膨れ上がっていく。
先ほどまで地面に倒れていた小さな身体が、何かに引き上げられるように宙へ浮かび上がった。
黒髪の一部が白銀の輝きを帯び、閉じられていた瞼が開かれる。黄金に染まった右の瞳には、しかし、意志の光は宿っていなかった。
ただ死を拒絶するかのように、膨大な力だけが零の身体から溢れ続けていた。
宙に浮かんだ零の身体が、静かに動いた。
右足を引き、腰を落とし、残された右腕を構える。その動作には一切の迷いがなく、まるで意識を失っていることさえ忘れさせるほど自然なものだった。
それは、ガルド師匠のもとで何万回と繰り返し、身体に刻み込んできた基本の構えだった。
その姿を捉えた瞬間、黒龍の巨体が強張った。零から溢れ出す異常なエネルギーが、黒龍の本能を激しく刺激する。
次の瞬間、黒龍は弾かれたように巨体を捩り、零の正面から逃れようとした。それは思考による判断ではなく、ただ生き延びるための反射的な行動だった。
そして、零の右拳が放たれた。
音は、なかった。
黒龍との間には、拳が届くはずもない距離がある。だが、その拳が伸びきったときには、黒龍の片翼も、その背後に広がる森も、すでに消えていた。
遥か彼方まで大地が抉れ、森を一直線に貫く巨大な傷跡だけが残されていた。
一拍遅れて、天地を揺るがす轟音が響き渡った。
まるで、そこにあったものすべてが、初めから存在しなかったかのように。
たった一振り。ただの拳の一撃が、森の地形そのものを変えてしまった。
黒龍が苦悶の咆哮を上げる。咄嗟に回避したことで致命的な直撃こそ免れたものの、片翼を失った巨体は大きく傾き、零から距離を取ろうと後退した。
だが、零の周囲では今なお空間が歪み続けており、その力が衰える気配はない。
黒龍がそれ以上近づこうとしない中、その背後で突如として空間が裂けた。何の前触れもなく現れた漆黒の闇が、傷ついた黒龍を包み込む。
その闇は、黒龍の巨体を引きずり込むように呑み込んでいった。
闇が閉じられると、辺りには奇妙な静寂が訪れた。
そして――。
零の周囲を歪ませていた力が、急速に薄れていった。白銀に輝いていた髪も元の黒へと戻り、黄金の瞳が静かに閉じられる。
宙に浮かんでいた小さな身体から、すべての力が失われた。
支えを失った零の身体が、力なく地上へと落ちていった。




