第十六章 絶望の厄災(前編)
零が薬草を採りに出かけてから、しばらく経った頃。
ルシエラの屋敷に、一人の訪問者がやってきた。
「久しぶりだな、ルシエラ」
応接室に姿を現したのは、長い金髪と澄んだ青い瞳を持つ女性だった。
王国が誇る三帝の一角、剣帝ヴィクトリア・フォン・ヴァレンタイン。
「あら、ヴィクトリア。今日はどうしたの?」
「近くまで来たのでな。少し顔を出そうと思ったんだ。それに、零の様子も気になっていた」
「ふふっ。そういうことなら、ゆっくりしていってちょうだい」
ルシエラに勧められ、ヴィクトリアは向かいのソファへ腰を下ろした。
「それで、零は?」
「今はちょっとお出かけ中よ。私が頼んだ薬草を採りに行ってもらっているの」
「一人で行ったのか?」
「ええ。街から少し離れた森の入り口付近だから、危険はほとんどないわ」
「そうか。あの辺りなら問題ないだろう」
ヴィクトリアは小さく頷いた。
ガルドのもとで修行を終えた零は、以前とは比べものにならないほど成長していた。実際にその力を目にしたヴィクトリアも、森の入り口で薬草を集める程度なら心配はないと考えている。
「では、帰ってくるまで待たせてもらおう」
「もちろんよ。零も喜ぶと思うわ」
ほどなくして、二人の前に紅茶が運ばれてきた。
ヴィクトリアはカップを手に取り、香りを確かめてから口をつける。
「それにしても、零はどうだ? ここでの暮らしには慣れたか?」
「ええ。毎日楽しそうに過ごしているわよ。最近は冒険者にもなったの」
「冒険者に?」
意外そうに顔を上げたヴィクトリアに、ルシエラは頷いた。
「先日、初めての依頼を達成したところよ。今日は文字のお勉強も始めたの」
「そうだったのか」
ヴィクトリアはカップを置き、初めて零と出会ったときのことを思い返した。
あのときの零は、目を覚ましてもほとんど言葉を発さず、何かを諦めたような瞳をしていた。それが今では、自分から新しいことを学び、外の世界へ足を踏み出そうとしている。
「本当に、変わったのだな」
「ふふっ。そうね。でも、まだまだ知らないことばかりだから、毎日が新鮮みたい」
「それは何よりだ」
ヴィクトリアは穏やかに頷いたあと、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、零の力については何か分かったか?」
「残念だけど、まだ分からないことのほうが多いわね。魔力とは明らかに性質が違うし、私も初めて見る力だもの」
「お前でも分からないのか」
「ふふっ。だからこそ、調べがいがあるのよ」
そう言って笑うルシエラだったが、その眼差しには研究者としての真剣さが宿っていた。
「ただ、無理に力を使わせるつもりはないわ。零の身体にどんな影響があるのか、まだ分かっていないもの」
「そうだな。慎重に進めてくれ」
「ええ。もちろんよ」
ヴィクトリアはその返事に頷き、再び紅茶へと手を伸ばした。
零が戻ってきたら、修行の成果についても少し話を聞いてみよう。
そんなことを考えながら窓の外へ目を向けると、青く澄んだ空の下、庭の木々が穏やかに揺れていた。
◇
一方、その頃。
零は街を離れ、森の入り口付近で薬草を探していた。
ルシエラから渡された小さな袋を腰に下げ、教えてもらった特徴を思い返しながら、足元の植物を一つずつ確かめていく。
「細長い葉と、小さな花……」
似たような草は見つかるものの、探しているものとは少し違う。
零は慌てず、森の縁に沿って歩き続けた。
やがて、木々の根元に小さな花をつけた草が群生しているのを見つける。
「……あった」
しゃがみ込んで葉の形を確かめると、ルシエラが描いてくれた絵とよく似ていた。
零は茎を傷めないように気をつけながら、必要な分だけ摘み取っていく。袋の中に薬草が少しずつ増えていくのを見て、自然と頬が緩んだ。
これなら、日が沈む前に十分帰れそうだ。
最後の一本を摘み取った零が、立ち上がろうとしたときだった。
不意に、背筋を冷たいものが走った。
零は動きを止め、ゆっくりと顔を上げる。
先ほどまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか消えていた。木々の葉も揺れを止め、森全体が息を潜めているかのようだった。
何かがいる。
そう感じた瞬間、目の前の空間が黒く歪んだ。
◇
――光さえ届かぬ、深淵の彼方。
闇の中で、何者かが静かに言葉を紡ぐ。
「さあ、神楽零」
その声には、かすかな愉悦が滲んでいた。
「今度は、どこまで抗える?」
闇が蠢く。
まるで、その言葉に応えるかのように。
◇
歪んだ空間から、巨大な影が姿を現した。
漆黒の鱗に覆われた身体が現れ、巨大な翼が広がる。そのあまりの大きさに周囲の木々が押し倒され、幹の折れる音が次々と響いた。
鋭い爪を備えた四肢が大地を踏みしめると、地面が沈み込み、足元から細かな振動が伝わってくる。
そして、眼下のすべてを見下ろすような双眸が、零を捉えた。
「……黒い龍?」
思わず声が漏れた。
いつか龍と戦ってみたい。
以前、そんなことを口にした覚えがある。
だが、まさか本当に出会うとは思っていなかった。それも、魔物がほとんど現れないと聞いていた森の入り口で。
零は目の前の巨体を見上げた。
想像していた以上に大きい。見上げるほどの身体を覆う鱗は鈍い光を帯び、その鋭い爪は、軽く触れただけでも人間の身体を引き裂いてしまいそうだった。
心臓が早鐘を打ち、背筋を冷たい汗が伝う。
これほどの存在を相手に、自分はどこまで戦えるのだろう。
胸の奥には僅かな期待もあったが、それを上回る緊張と恐怖が全身を支配していた。
零は一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
――落ち着け。
ガルドとの修行でも、相手の力に呑まれれば身体は思うように動かなくなった。どれほど強い相手でも、まずはよく見て、呼吸を乱さないこと。
繰り返し教えられてきた言葉を思い出しながら、零は再び黒龍へと視線を向けた。
恐ろしさが消えたわけではない。
それでも、先ほどまで速くなっていた呼吸は落ち着き、強張っていた身体にも少しずつ感覚が戻っていた。
黒龍が前脚を持ち上げる。
その動きを見た瞬間、零は地面を蹴った。
直後、巨大な爪が先ほどまで立っていた場所へと振り下ろされる。
轟音とともに大地が砕け、舞い上がった土砂が周囲へ飛び散った。
零は着地すると同時に距離を取り、黒龍の動きを観察する。
攻撃が見えなかったわけではない。だが、その巨体からは想像もつかないほど速かった。
黒龍は頭を持ち上げ、何事もなかったかのように零を見下ろした。
零は街へ続く道へと一瞬だけ視線を向ける。
その先には王都がある。
もし、この龍が王都へ向かえばどうなるだろうか。
先ほどの一撃で砕けた大地を思い返せば、その被害は容易に想像できた。
だからといって、自分がこの龍を止められる保証もない。
零は視線を戻し、黒龍を見据えた。
まずは相手の力を確かめる。
そう判断すると、両拳を構え、身体の奥に眠る力を意識した。
その力が全身を巡るにつれ、漆黒の瞳がゆっくりと黄金色へ染まっていく。
重心を落とし、足の位置を整える。
黒龍の前脚がわずかに動いた。
零はその動きを見逃さず、横へと跳ぶ。
直後、巨大な爪が地面を抉った。
飛び散る土砂の間を抜け、零は黒龍の側面へと回り込む。だが、黒龍は巨体を僅かに捻るだけで零の動きに追いつき、続けざまに爪を振り下ろしてきた。
零は踏み込もうとしていた足を引き、身体を反転させる。
頭上を通り過ぎた爪が木々を薙ぎ倒し、折れた幹が地面へと崩れ落ちた。
それを避けながら、零は黒龍の足元へと潜り込んだ。
今度こそ懐へ入れた。
踏み込んだ足から腰、肩へと力を伝え、零は渾身の拳を漆黒の鱗へと叩き込む。
――ガンッ!
硬質な音が響いた。
しかし、黒龍は微動だにしなかった。
「……っ!」
零はすぐさま距離を取った。
拳を打ち込んだ場所には、傷一つついていない。それどころか、拳から肘にかけて鋭い痛みが走っていた。
拳が触れた瞬間、凄まじい反発が零の腕を襲った。鱗そのものが異常な強度を持っているだけではない。零の拳に込められた力が、黒龍の身体を揺らすことさえできなかったのだ。
零は痛む拳を握り直す。
ガルドとの修行で、何度も何度も打ち込んできた拳。以前よりも速く、強くなったはずの一撃が、まるで通じない。
それでも、零はすぐに諦めることはしなかった。
黒龍の巨体を見上げながら、次の攻撃を考える。
鱗が硬いのなら、別の場所を狙えばいい。足元から攻撃しても通じないのであれば、動きの隙を探すしかない。
黒龍が低く唸り、再び前脚を振り上げた。
零はその動きに合わせて地面を蹴り、爪の軌道から外れる。さらに迫ってきたもう一方の前脚を身を屈めて躱すと、足運びを変えて黒龍の背後へと回り込んだ。
だが、黒龍もまた、零の動きを見失ってはいなかった。
巨体を捻り、長い尾を地面すれすれに振り抜く。
零は即座に跳躍し、その一撃を躱した。
足元を通過した尾が地面を抉り、周囲の木々をまとめて薙ぎ倒す。
空中で身体を捻った零は、倒れかけた木の幹を蹴って方向を変え、黒龍の側頭部へと迫った。
狙うのは、黒龍の眼だ。
しかし、拳が届く寸前、黒龍が首を振った。
零は攻撃を断念し、咄嗟に腕を交差させる。
直後、黒龍の頭部が凄まじい勢いで迫り、零の身体を弾き飛ばした。
「くっ……!」
空中で体勢を立て直し、零は両足で地面を滑るように着地する。
腕には痺れるような痛みが残っていたが、まだ動かせる。
零は息を整えながら、黒龍を見上げた。
攻撃を躱すことはできる。
相手の動きを見極め、隙を突くこともできている。
だが、こちらの攻撃は通じない。
それどころか、黒龍はまだ本気で戦っているようには見えなかった。
零がどれほど速く動こうとも、黒龍は僅かな動作で対応してくる。まるで、自分の力を試されているかのようだった。
それでも、ここで動きを止めるわけにはいかない。
零は再び拳を構え、黒龍の動きへと意識を集中させた。
次の瞬間、黒龍の巨体が動いた。
振り下ろされる爪を見極め、零は地面を蹴る。
続けて放たれたもう一方の爪を紙一重で躱し、その懐へと飛び込んだ。
先ほどまでの攻防で、黒龍の動きは少しずつ見えてきていた。
今なら、もう一撃。
そう考え、拳を振るおうとした瞬間だった。
黒龍の双眸が、僅かに細められた。
次の瞬間、それまで零の動きに合わせていた巨体が、突如として凄まじい速度で動き出した。
視界の端で、黒い影が走った。
――尾だ。
零は即座に攻撃を中断し、身体を捻った。
だが、先ほどまでとは比較にならない。
あまりにも速い。
それまで躱せていた攻撃が、まるで別のものに変わったかのようだった。
零は咄嗟に両腕を交差させ、迫り来る一撃に備えた。
だが、その程度の防御では、黒龍の一撃を受け止められるはずもなかった。
凄まじい衝撃が、零の身体を直撃した。
骨の砕けるような音が耳の奥で響き、視界が白く染まる。
息をすることさえ許されないほどの衝撃に、零の身体は弾き飛ばされ、木々を次々とへし折りながら宙を舞った。
そして――。
轟音とともに、地面へと叩きつけられた。




