第十五章 忍び寄る影
窓から差し込む柔らかな陽光が、書斎の床を淡く照らしていた。
零が初めて冒険者として依頼を達成してから、数日が経っていた。あの日以来、屋敷では変わらず穏やかな時間が流れている。
そんなある日の午前、零は書斎の机に向かい、目の前に置かれた紙を興味深そうに見つめていた。そこには、見慣れない形の文字がいくつか書き記されている。
「さて、零。今日は約束していた文字のお勉強を始めましょうか」
向かいに腰掛けたルシエラが、楽しそうに微笑んだ。
「うん。よろしくお願いします」
零が丁寧に頭を下げると、ルシエラは小さく笑みをこぼす。
「ふふっ。そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
「でも、教えてもらうんだから」
「律儀なのね」
ルシエラは筆記具を手に取り、紙の上に一つの文字を書き記した。
流れるような線で描かれたそれは、零が元の世界で見てきた文字とは、まるで異なる形をしていた。
「……不思議な形だね」
「そうでしょうね。でも、慣れてしまえば難しくないわ」
読み方を教わった零は、手本を確かめながら筆記具を動かした。
しかし、見慣れない曲線は思うように形にならない。書き上げた文字を手本と見比べると、線の傾きや曲がる位置が少しずつ違っていた。
零はその違いを一つずつ確かめ、もう一度書き直す。今度は線の運び方にも気を配り、慎重に形を整えていった。
「……できた」
先ほどよりも、ずっと手本に近い文字が紙の上に並んでいた。
「ふふっ。上手よ、零」
「ありがとう、ルシエラ」
褒められた零は、満足そうに書き上げた文字を眺めた。
それからも、ルシエラの授業は続いた。
新しい文字を覚え、何度も書いて形を確かめる。似た文字を取り違えることもあったが、一度違いを理解すると、次からは正確に見分けられるようになった。
零は教えられたことを覚えるだけでなく、自分から文字の特徴を見つけ、疑問に思ったことを尋ねてくる。その理解の早さには、ルシエラも感心せずにはいられなかった。
「本当に覚えるのが早いわね」
「そうかな?」
「ええ。初めてとは思えないくらいよ」
「ありがとう。もっと覚えたいな」
零は楽しそうに答えると、再び紙へと視線を戻した。
やがて、いくつかの文字を覚えたところで、ルシエラは短い言葉を書いてみせた。
零は教わった文字を一つずつ追い、ゆっくりと読み上げていく。まだ滑らかとは言えなかったが、最後まで読み終えると、その表情が明るくなった。
「……読めた」
「ええ。ちゃんと読めていたわよ」
今まで意味の分からなかった文字が、自分の知っている言葉になる。
街で見かけた看板も、ギルドで目にした書類も、いつかは自分で読めるようになるのだろう。そう考えると、まだ知らない文字にも自然と興味が湧いてきた。
練習した言葉の中には、今いる王国を指すものもあった。
零はその文字を眺めながら、ふと顔を上げる。
「ねえ、ルシエラ。ほかの国のことも、本に書いてあるの?」
「ええ、もちろんよ。少し見てみる?」
ルシエラは本棚から一冊の本を取り出し、零の隣で開いた。
そこには、山脈や河川、幾つもの国の境界が描かれた大きな地図が載っていた。
「これが、この大陸の地図よ。私たちがいる王国は、ここね」
指し示された場所を確かめた零は、地図全体へと視線を巡らせた。
今いる王国でさえ、まだ知らない場所ばかりだ。それなのに、その外側にはさらに広い世界が続いている。
山を越えた先には何があるのだろう。遠く離れた国では、どんな人々が暮らしているのだろう。
地図に描かれた土地を眺めていると、次々に新しい疑問が浮かんでくる。
「……いつか、行ってみたいな」
「ふふっ。そうね。いつか旅をしてみるのも素敵かもしれないわ」
「うん。いろんな場所を見てみたい」
まだ見ぬ世界に思いを馳せる零の横顔を、ルシエラは穏やかな眼差しで見守っていた。
しばらく地図を眺めたあと、彼女は本を閉じる。
「さて、そろそろ休憩にしましょうか」
机の上には、文字の練習に使った紙が何枚も重なっていた。最初に書いたものと比べれば、後半の文字は随分と形が整っている。
零はそれらを眺め、満足そうに頷いた。
「楽しかった。ありがとう、ルシエラ」
「ふふっ。どういたしまして」
ほどなくして、二人の前に温かな紅茶と焼き菓子が運ばれてきた。
零は菓子を一つ口に運び、広がる優しい甘さに頬を緩める。ルシエラも紅茶を口にしながら、くつろいだ様子でその姿を眺めていた。
「ねえ、ルシエラ」
「なあに?」
「また、教えてくれる?」
「もちろんよ。零が覚えたいだけ、いくらでも教えてあげるわ」
「ありがとう」
零の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
長い年月を生きてきたルシエラにとっても、誰かの成長をこんなふうに楽しみにする時間は、どこか新鮮なものだった。
焼き菓子を食べ終えた零が、紅茶の残るカップをそっと置いたときだった。
「あら、そういえば……」
ルシエラが何かを思い出したように顔を上げる。
「零、午後は何か予定があるかしら?」
「ううん。特にはないよ」
「それなら、一つお願いしてもいい?」
零が頷くと、ルシエラは机の端に置かれた本を片づけながら続けた。
「少し薬草を採ってきてほしいの。調合に使うものなんだけれど、ちょうど手持ちが少なくなっていてね」
「薬草?」
「ええ。前に冒険者のお仕事で採ってきたものとは違う種類よ」
ルシエラは新しい紙を一枚取り出し、薬草の特徴を簡単に描いてみせた。
細長い葉が幾重にも重なり、茎の先には小さな花がついている。零は描かれた絵をじっと見つめ、その形を頭に入れた。
「この薬草は、街から少し離れた森の入り口付近に生えているわ。奥まで入る必要はないから、見つけた分だけ採ってきてくれれば十分よ」
ルシエラは説明を続けながら、先日のことを思い返していた。
初めての依頼を終えて帰ってきた零は、どこか満足そうな表情を浮かべていた。せっかく冒険者になったのだから、こうして少しずつ経験を積むのもいいだろう。
それに、今回頼む場所は普段から危険の少ないところだ。
王都周辺には魔物の接近を察知するための結界も張られている。森の入り口付近で薬草を集める程度なら、特に心配することもないだろう。
「どうかしら、零?」
「うん。分かった。僕に任せて」
「ふふっ。頼もしいわね。でも、日が沈む前には帰ってくるのよ?」
「うん。分かってる」
零は頷くと、描かれた薬草の特徴をもう一度確かめた。
冒険者になってから、まだ日が浅い。それでも、こうして誰かに何かを頼まれることは、零にとって素直に嬉しいことだった。
それが、いつも自分のことを気にかけてくれるルシエラの頼みなら、なおさらだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「あら、そんなに急がなくてもいいのよ?」
「大丈夫。まだ明るいし、早めに行けばゆっくり探せるから」
「そうね。それじゃあ、お願いしようかしら」
ルシエラから薬草を入れるための小さな袋を受け取ると、零は椅子から立ち上がった。
書斎を出る前に振り返れば、ルシエラがいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「気をつけてね、零」
「うん。行ってきます」
「ええ。いってらっしゃい」
零が部屋を出ていくと、書斎には再び静けさが戻った。
ルシエラは机の上に残された練習用の紙を手に取る。そこには、まだ少しぎこちないものの、丁寧に書かれた文字が並んでいた。
指先で紙の端を揃えると、彼女はそれを大切そうに重ねた。
ふと窓の外へ目を向ければ、空はよく晴れており、庭の木々が柔らかな風に揺れている。
いつもと変わらない、穏やかな午後だった。
◇
――光さえ届かぬ、深淵の彼方。
そこには、ただ闇があった。
時の流れすら曖昧なその場所で、何者かが静かに言葉を紡ぐ。
「……ようやく、ここまで来たか」
声には喜びも怒りもない。
ただ、永い時を待ち続けた者だけが持つ、奇妙な静けさがあった。
「さあ、神楽零」
その名が呼ばれた瞬間、闇がわずかに揺らいだ。
「抗ってみせよ。その身が砕けようとも」
声の主は、何かを思い描くように言葉を途切れさせる。
「……我に、お前の可能性を示してみせろ」
やがて、闇の奥から微かな笑い声が漏れた。
それは愉悦とも、嘲笑ともつかない。
ただ、その声を聞く者がいたならば、理由も分からぬまま背筋を凍らせただろう。
「……今度こそ、な」




