第十四章 初めての冒険
朝食を終えた零は、向かいに座るルシエラへと視線を向けた。
「……ルシエラ、一つ聞いてもいい?」
「あら、なあに?」
「……冒険者になるには、どうすればいいの?」
ルシエラは手にしていたカップを静かに置いた。
「冒険者? そういえば、前に興味があるって言っていたわね」
「……うん。前から気になってたんだ。僕も、やってみたいなって」
零が静かに答えると、ルシエラは柔らかく目を細めた。
零と出会ってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、彼が何かに興味を持ったとき、普段は静かな瞳にわずかな輝きが宿ることを、ルシエラは知り始めていた。
「ふふっ。いいんじゃないかしら。冒険者になれば、いろいろな場所へ行く機会も増えるでしょうし」
「……じゃあ、僕でもなれる?」
「もちろんよ。ただし、ギルドで登録する必要があるわ。普通はそのときに実力試験を受けるのだけれど……」
ルシエラはそこで言葉を切り、意味ありげに微笑んだ。
先日の庭での出来事が、脳裏によみがえる。
零が自ら引き出した未知の力は、彼女の張った障壁を破るほどの威力を持っていた。まだ本人ですら十分に理解していない力を、不特定多数の前で披露させるのは避けたいところだ。
「登録には私も付き添うわ。ちょうどギルドマスターにも顔を出しておきたいし」
「……いいの?」
「ええ。私が一緒なら、手続きも少しは楽になるでしょうから」
零は小さく頷いた。
「……ありがとう、ルシエラ」
「ふふっ。どういたしまして」
◇
冒険者ギルドは、王都の大通りに面した大きな建物だった。
分厚い木製の扉を開けると、酒場にも似た賑やかな空気が二人を迎える。広い室内には武器や防具を身につけた冒険者たちが集まり、壁一面の掲示板には無数の依頼書が貼り出されていた。
零は足を止め、興味深そうに周囲を見渡した。
剣を腰に提げた者、背中に弓を負った者、杖を手に仲間と相談している者。見慣れない装備や光景の一つ一つが新鮮で、自然と視線が動いてしまう。
「……ここが冒険者ギルドなんだね」
「ええ。依頼を受けたり、達成した仕事の報酬を受け取ったりする場所よ」
ルシエラが答えた、そのときだった。
受付に立っていた若い女性が、二人の姿に気づいて動きを止めた。
「……ルシエラ様?」
「あら、こんにちは」
気軽に挨拶を返すルシエラとは対照的に、受付嬢は慌てて背筋を伸ばした。
「よ、ようこそお越しくださいました。少々お待ちいただけますでしょうか。すぐにギルドマスターへお知らせいたします」
「ええ、お願いするわ」
受付嬢は丁寧に一礼し、奥へと姿を消した。
そのやり取りを見ていた冒険者たちの間にも、静かなざわめきが広がり始める。
「……おい、あの方って、まさか」
「ああ。魔帝ルシエラ様だ」
「なんで魔帝様がこんなところに……?」
「それより、隣にいる子は誰だ?」
自然と零へ視線が集まった。
艶やかな黒髪に、吸い込まれそうな黒い瞳。中性的な顔立ちは少女と見紛うほど整っており、幼さを残しながらも、どこか人を寄せつけがたい気品を漂わせている。
何より、この世界では珍しい黒髪が、零の存在をいっそう際立たせていた。
「あんな綺麗な子、初めて見たぞ……」
「どこかの貴族のお嬢様か?」
「気になるなら聞いてみればいいだろ」
「馬鹿言うな。魔帝様が連れてきた相手だぞ」
その言葉に、周囲の冒険者たちは揃って口を閉ざした。
三帝の一角、魔帝ルシエラ・エレノワール。
その実力は王国でも広く知られており、冒険者の間では、彼女の機嫌だけは決して損ねてはならないと語られている。
曰く、魔帝を本気で怒らせれば、国が一つ滅びかねない。
真偽のほどは定かではないものの、少なくとも、それを確かめようとする命知らずはここにはいなかった。
一方の零は、そんな周囲の反応には気づかず、壁に並ぶ依頼書を興味深そうに眺めていた。
やがて、建物の奥から重々しい足音が響いてくる。
現れたのは、筋骨隆々の大男だった。
磨き上げたようなスキンヘッドに、鋭い眼光。分厚い胸板と太い腕は、衣服の上からでも鍛え抜かれていることが分かる。顔に刻まれた古傷も相まって、その姿には歴戦の戦士らしい威圧感があった。
男が姿を現した途端、周囲の冒険者たちが自然と道を開ける。
しかし、その大男はルシエラの前まで来ると、深々と頭を下げた。
「ルシエラ様。ようこそお越しくださいました」
「あら、ヴァイス。久しぶりね」
「はい。お越しになると分かっていれば、お迎えの準備をいたしましたものを」
「ふふっ。そんな大げさなことをしなくてもいいのよ」
ヴァイスは困ったように眉を下げた。
「そういうわけには参りません。よろしければ、私の部屋へご案内いたします」
「ええ。少しお願いもあるの」
「承知しました。では、こちらへ」
ヴァイスは自ら先に立ち、二人を奥へ案内した。
その姿を見送った冒険者たちは、しばらく呆然としていた。
「……あのギルドマスターが、あんなに丁寧に話すところ初めて見たぞ」
「相手が相手だからな……」
「それにしても、あの子は何者なんだ?」
興味は尽きなかったが、誰一人として二人を追いかけようとはしなかった。
◇
ギルドマスター室は、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
壁には王国周辺の地図が掛けられ、棚には分厚い資料が整然と並んでいる。大きな執務机の向こうには、ヴァイスの体格に合わせて作られた頑丈そうな椅子が置かれていた。
「改めまして、お久しぶりです。ルシエラ様」
「本当に久しぶりね。あなたも立派になったものだわ」
「おかげさまで、何とか務めを果たしております」
「ふふっ。赤ん坊の頃から知っているけれど、こんなに大きくなるなんてね」
「……ルシエラ様」
ヴァイスの表情が、わずかに引きつった。
「その話は、どうかご容赦ください」
「あら、どうして? 昔は私の顔を見るたびに泣いていたのに」
「私はもう四十七ですので……」
「私からすれば、まだまだ若いわよ?」
ルシエラが楽しそうに微笑むと、ヴァイスは諦めたように小さく息を吐いた。
そのやり取りを見ていた零は、改めて目の前の大男へ視線を向ける。
これほどの巨躯を持つ人物にも、当然ながら赤ん坊だった頃がある。
当たり前のことではあるが、それを知っているルシエラの長い年月を思うと、何とも不思議な気分になった。
「……ルシエラって、本当に長生きなんだね」
「あら。今さら気づいたの?」
「……知ってはいたけど、改めて実感したかな」
零の真面目な返答に、ルシエラはくすりと笑った。
「ふふっ。そういうところも可愛いわね」
ヴァイスは軽く咳払いをして、話を本題へ戻した。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか」
「この子の冒険者登録をお願いしたいの」
ルシエラは隣に座る零へ視線を向けた。
「神楽零よ。今は私が面倒を見ているの」
「……神楽零です。よろしくお願いします」
零が静かに頭を下げると、ヴァイスも丁寧に応じた。
「私はこのギルドのマスター、ヴァイス・ヴォルフラムと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
挨拶を交わしたあと、ヴァイスは改めて零を見つめた。
「それにしても、ずいぶんとお美しいお嬢さんですな」
「あら、ヴァイス。この子、男の子よ?」
「…………は?」
ヴァイスの表情が固まった。
そして、もう一度零を見る。
長い睫毛に縁取られた瞳、整った顔立ち、細身の身体。どう見ても可憐な少女にしか見えない。
「……失礼しました。てっきり、お嬢様かと」
「……よく間違えられるので、気にしないでください」
零は特に気分を害した様子もなく答えた。
その落ち着いた態度に、ヴァイスは感心したように頷いた。
「なるほど……失礼ながら、見た目だけでは分からないものですな」
「ふふっ。でしょう?」
なぜか得意げなルシエラに、ヴァイスは苦笑するしかなかった。
「では、登録の手続きを進めましょう」
ヴァイスは机の引き出しから用紙を取り出し、零の前へ差し出した。
「こちらに必要事項をご記入ください」
「……はい」
零は用紙を受け取り、そこに並んだ文字へ目を落とした。
しかし、しばらく眺めても意味が分からない。
見慣れない形の文字が整然と並んでいるものの、何を記入すればよいのかすら判断できなかった。
「……ルシエラ。この文字、僕には読めないみたい」
「あら、そうだったわね。まだこちらの文字は教えていなかったもの」
「……うん」
零はもう一度用紙を見つめ、ふと疑問を抱いた。
「……そういえば、言葉は分かるのに、文字は読めないんだね」
「ええ……確かに不思議ね」
ルシエラも興味を示したように、零の手元へ視線を落とす。
「……どうしてなんだろう」
「それは私も気になるわね。今度、時間のあるときに調べてみましょうか」
「……うん。お願い」
零が頷くと、ルシエラは柔らかく微笑んだ。
「それと、文字は私が教えてあげるわ。この世界のことも、少しずつ覚えていきましょうね」
「……ありがとう。助かるよ」
零が礼を述べると、ルシエラは嬉しそうに目を細めた。
そのやり取りを見ていたヴァイスは、胸の内で小さな驚きを覚えていた。
魔帝ルシエラ・エレノワール。
その名を知らぬ者はいないほどの存在が、目の前の少年に文字を教えると約束し、冒険者登録にまで付き添っている。
少なくとも、ヴァイスがこれまで知る彼女の姿とは、少し違っていた。
ルシエラにとって、この少年はそれほど大切な存在なのだろう。
そう考えたヴァイスは、余計な詮索をせず、静かに手続きを進めることにした。
登録用紙はルシエラが代筆し、必要な事項を埋めていく。
そして最後に、ヴァイスが口を開いた。
「本来であれば、登録時には実力試験を受けていただく決まりとなっております」
「ええ、知っているわ。ただ、今回は免除してもらえないかしら」
「……免除、ですか」
ヴァイスの表情が引き締まった。
「この子の実力については、私が保証するわ」
その一言に、ヴァイスはしばらく沈黙した。
魔帝が自ら実力を保証する。
それがどれほど重い意味を持つのか、彼には十分理解できていた。
ヴァイスは改めて零へ視線を向けた。
先ほどまでの穏やかな表情とは違う、歴戦の戦士らしい鋭い眼差し。
しかし、零はその視線を受けても、特に動じる様子はなかった。
ただ静かに、ヴァイスを見返している。
その落ち着いた態度に、ヴァイスはわずかに目を細めた。
「……本来、試験の免除は容易に認められるものではありません。しかし、ルシエラ様が直々に保証されるのであれば、私の権限で特例といたしましょう」
「ありがとう、ヴァイス」
「ただし、登録ランクは規定どおりFランクからとなりますが、よろしいでしょうか」
「もちろんよ。零もそれでいいわよね?」
「……うん。最初から少しずつ覚えていきたいから」
零の返答に、ヴァイスは小さく頷いた。
「では、これで登録は完了です。零さん、冒険者ギルドへようこそ」
差し出された登録証を受け取り、零はそこに刻まれた文字を静かに見つめた。
まだ読むことはできない。
それでも、今日から自分が冒険者になったのだという実感が、少しずつ湧いてくる。
「……ありがとうございます」
そう告げた零の口元には、控えめながらも確かな喜びが浮かんでいた。
◇
ギルドマスター室を出た二人は、受付へ戻った。
先ほどの受付嬢が二人の姿に気づき、丁寧に一礼する。
「ルシエラ様。お手続きはお済みでしょうか」
「ええ。この子の登録をお願いしたの」
「かしこまりました。では、依頼をお探しでしょうか?」
受付嬢は零へ視線を向けた。
そして、一瞬だけ言葉を失いかけた。
近くで見る零は、先ほど遠目に見たとき以上に美しかった。
透き通るような肌に、艶やかな黒髪。静かな黒い瞳は不思議なほど印象的で、わずかに首を傾げる仕草さえ、絵画の一場面のように見えてしまう。
だが、彼女はすぐに気持ちを引き締めた。
相手は魔帝ルシエラが直々に連れてきた人物である。失礼な態度を取るなど、あってはならない。
「初めてのご依頼でしたら、こちらの薬草採取はいかがでしょうか。王都近郊で採取できるもので、Fランクの方にもおすすめしております」
「……薬草採取ですか」
「はい。指定された薬草を必要な数だけ集めていただく依頼です」
零は少し考え、ルシエラへ視線を向けた。
「……僕、それをやってみたい」
「ふふっ。いいんじゃないかしら」
ルシエラは頷き、受付嬢から依頼内容の説明を受けると、零にも分かるように薬草の特徴や採取場所を教えた。
葉の形や茎の色、よく似た植物との見分け方。
零は真剣に耳を傾け、必要なことを一つ一つ頭に入れていく。
「それから、採取するのは森の入口付近までよ。奥には入らないこと。もし何かあったら、すぐに戻ってくるのよ?」
「……分かった」
「あと、足元にも気をつけてね。慣れない場所でしょうし……」
「……ルシエラ」
「なあに?」
「……心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
零が穏やかに答えると、ルシエラは言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「……そうね」
少し名残惜しそうに、それでも笑顔を浮かべる。
「行ってらっしゃい、零」
「……うん。行ってきます」
零は小さく手を振り、一人でギルドを後にした。
ルシエラは、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
◇
王都を出てしばらく歩くと、緩やかな丘の向こうに草原が広がっていた。その先には小さな森があり、今回の薬草は森の入口付近で採取できるという。
穏やかな風が草を揺らし、遠くでは小鳥の鳴き声が聞こえる。
零は足を止め、周囲を見渡した。
柔らかな陽射しの下、草花が風に揺れている。王都の賑わいとは違う静けさがあり、遠くまで続く景色を眺めているだけでも、不思議と気持ちが落ち着いた。
「……綺麗なところだね」
誰に聞かせるでもなく呟くと、零はルシエラに教わった薬草を探し始めた。
葉は三枚に分かれ、茎の根元がわずかに赤い。
似た植物も多いため、特徴を一つずつ確かめる必要があるという。
零は草むらにしゃがみ込み、目についた植物を慎重に見比べていった。
それらしい草を見つけても、すぐには摘み取らない。葉の形や茎の色を確認し、教わった特徴と照らし合わせる。
戦いであれば一瞬の判断で身体を動かせる零だったが、初めて見る植物を見分けるとなれば、そう簡単にはいかなかった。
何度か別の草を見間違えながらも、焦ることなく探し続ける。
しかし、思っていたよりも目当ての薬草は見つからなかった。
似た植物はいくつもあるのに、教わった特徴と完全に一致するものがなかなか見当たらない。
零は一度立ち上がり、周囲を見渡した。
「……この辺りには、あまり生えていないのかな」
少し考えた末、場所を変えてみることにした。
草原を抜け、森の入口に近づくと、木々の間から差し込む陽射しが地面にまだらな模様を描いていた。足元には背の低い草が生い茂り、先ほどまでとは少し違う植物も見受けられる。
零はその一角にしゃがみ込み、慎重に葉を確かめた。
そして、ようやく。
「……あった」
目の前の一株は、葉の形も茎の色も教わったとおりだった。
零は傷つけないように丁寧に摘み取り、手のひらに載せて確かめる。
たった一本の薬草。
それでも、自分の力で初めて見つけたものだと思うと、自然と口元が緩んだ。
「……なるほど。こういう場所に生えているんだね」
薬草を袋へしまうと、零は周囲の地面にも目を向けた。
先ほどまでは植物そのものの特徴ばかりを追っていたが、生えている場所にも共通点があるのかもしれない。
そう考えて探し方を変えてみると、少し離れた木の根元にも同じ薬草が見つかった。
零は一株ずつ状態を確かめ、必要な分だけを丁寧に摘み取っていく。最初こそ時間がかかったものの、特徴を覚えるにつれて見分けるのも早くなり、やがて依頼に必要な数を揃えることができた。
袋の中身を確認した零は、近くの木陰に腰を下ろして一息ついた。
そのとき、頭上から小さな鳴き声が聞こえた。
「……?」
顔を上げると、枝の上に一羽の小鳥が止まっていた。
柔らかな羽毛に包まれた小さな身体と、つぶらな瞳。小鳥は零を警戒する様子もなく、じっとこちらを見つめている。
「……こんにちは」
小さく声をかけると、小鳥は不思議そうに首を傾げた。
零はゆっくりと片手を差し出す。
すると、小鳥は一度羽を広げ、ふわりとその指先へ舞い降りた。
「……あ」
予想していなかった出来事に、零はわずかに目を見開いた。
小さな足が指に触れ、くすぐったい感触が伝わってくる。
「……ふふっ、くすぐったい」
思わずこぼれた笑みに、小鳥は答えるように一声鳴いた。
零は驚かせないように動きを止め、その小さな姿を眺める。
穏やかな風が黒髪を揺らし、木漏れ日が白い頬を照らしていた。
しばらくして小鳥が飛び立つと、零はその姿を目で追った。
「……またね」
青い空へ消えていく小さな影を見送ってから、零は立ち上がった。
初めての依頼は、思っていた以上に手間のかかるものだった。それでも、薬草を探す時間も、思いがけない小鳥との出会いも、零にとっては新鮮な経験だった。
袋の口をしっかりと結び、零は来た道を振り返る。
「……そろそろ戻ろうかな」
◇
一方、その頃。
屋敷へ戻ったルシエラは、書斎で本を開いていた。
しかし、どうにも内容が頭に入ってこない。
ページをめくっては、ふと窓の外へ視線を向けてしまう。
「……大丈夫かしら」
零の実力は、十分に理解しているつもりだった。
少なくとも、王都近郊で薬草を採る程度のことで危険に陥るような子ではない。
そもそも、王都周辺には探知結界が張り巡らされている。危険な魔物が現れれば、すぐに異常を知らせるはずだ。
まして、零が向かったのは王都からそう遠くない場所である。心配する理由など、どこにもない。
そう頭では分かっているのに、どうにも落ち着かなかった。
道に迷ってはいないだろうか。薬草は見つかっただろうか。慣れない依頼で、無理をしていないだろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、ルシエラは小さく笑った。
「……まるで、初めておつかいに出した母親みたいね」
五百年以上もの時を生きてきた。
幾度となく危険な場所へ足を踏み入れ、数え切れないほどの魔物と対峙してきた。
それなのに、たった一人の少年が薬草を採りに行っただけで、こんなにも気を揉んでいる。
ルシエラは開いていた本を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
「……早く帰ってこないかしら」
その声には、自分でも気づかないほど柔らかな響きがあった。
◇
夕方になる前に、零は無事ギルドへ戻ってきた。
受付へ向かうと、先ほどの女性がすぐに気づいて微笑んだ。
「おかえりなさいませ、零さん。薬草採取はいかがでしたか?」
「……無事に集められました。確認をお願いします」
零は袋を差し出した。
受付嬢は中身を取り出し、一本ずつ丁寧に確認していく。
どれも傷みが少なく、状態は良好だった。
「はい、問題ありません。依頼達成です」
「……よかった」
零は安堵したように息をつき、わずかに微笑んだ。
その表情を見た受付嬢は、思わず言葉を止めた。
――ずるい。
あんな笑顔を見せられたら、誰だって見惚れてしまう。
けれど、すぐに気を取り直し、報酬の入った小袋を差し出した。
「こちらが今回の報酬になります。初めてのご依頼、お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
零は丁寧に礼を述べ、小袋を受け取った。
中に入った硬貨を手のひらへ取り出し、しばらく眺める。
決して多い金額ではない。
けれど、自分で仕事をして手に入れた、初めての報酬だった。
「……これが、僕の稼いだお金なんだね」
そう呟く零の声には、静かな喜びが滲んでいた。
受付嬢も自然と頬を緩める。
「またいつでもいらしてくださいね」
「……はい。またお願いします」
零は丁寧に頭を下げ、ギルドを後にした。
◇
屋敷へ戻ると、玄関先にはルシエラの姿があった。
「おかえりなさい、零」
「……ただいま、ルシエラ」
零はそう答えると、大切そうに持っていた小袋を取り出した。
「……依頼、無事に終わったよ」
「あら、そうなのね。どうだった?」
「……思っていたより難しかったけど、楽しかった。それに、ちゃんと報酬ももらえたんだ」
そう言って、零は袋の中の硬貨を見せた。
普段と変わらない落ち着いた口調だったが、その瞳には隠しきれない喜びが宿っていた。
ルシエラはその姿を見つめ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ふふっ。そう……よかったわね、零」
そして、気づけば零をそっと抱きしめていた。
「……ルシエラ?」
「ごめんなさいね。無事に帰ってきてくれて、嬉しくて」
零は少し驚いたものの、抵抗することなく、その腕に身を任せた。
ルシエラの身体から伝わる温もり。
それとは別に、零にはもう一つ、感じ取れるものがあった。
そこには、零の帰りを案じていた気持ちと、無事に戻ってきたことへの深い安堵があった。そして何より、ただ零がそこにいてくれるだけで嬉しいと感じる、温かな愛情が満ちていた。
その柔らかな気配に触れた瞬間、零の胸に懐かしい感覚が広がった。
(……ああ)
遠い昔、まだ幼かった頃。
母様に抱きしめられたときにも、こんな温かな気配を感じていた。
零はそっと目を閉じた。
懐かしい記憶に触れても、不思議と胸は苦しくならなかった。ただ、失ってしまったはずの安らぎが、今もこうして自分のそばにあることを、静かに感じていた。
「……ルシエラ」
「なあに、零?」
零は少しだけ顔を上げた。
「……ただいま」
一度は伝えたはずの言葉を、もう一度。
今度は、少しだけ甘えるような声で。
ルシエラは一瞬目を見開き、それから零を抱く腕に、そっと力を込めた。
「……ええ。おかえりなさい、零」
その温もりは、遠い記憶の中にある母様のものとは違う。
それでも、胸の奥に広がる安らぎは、あの頃と少しだけ似ていた。




