第十二章 平穏な日常
――柔らかい。
微睡みの中、零が最初に感じたのは、身体を包み込むような心地よい温もりだった。
随分と寝心地のいいベッドだ。
そんなことを考えながら、零はもう少しだけ眠っていたいという誘惑に身を委ねていた。
ふわりと鼻先をくすぐる、ほのかに甘い香り。
頭を預けている場所は柔らかく、耳元には微かな音が聞こえている。
とくん、とくん。
規則正しく繰り返されるその音は、不思議と心を落ち着かせてくれた。
……けれど。
(……ベッドって、こんな音がしたっけ)
眠りの底に沈んでいた意識が、少しずつ浮かび上がってくる。
零が小さく身じろぎすると、頬に触れていた柔らかなものが僅かに揺れた。
「……ん♡」
頭上から、甘く艶を含んだ声が漏れる。
それと同時に、背中へ回されていた腕が、零をもう少しだけ抱き寄せた。
(……?)
ベッドが声を出すはずもない。
そんな当たり前のことを、眠りの残る頭でぼんやりと考える。
ゆっくりと瞼を開く。
最初に見えたのは、紫色の布地だった。
それから、視界の端を流れる長い髪。
夜の闇を溶かし込んだような、深い紫色。
見覚えのあるその色に、零は何度か瞬きをした。
「……おはよう、零」
頭上から、楽しそうな声が降ってきた。
顔を上げると、すぐ近くにルシエラの顔があった。
鮮やかな紫の瞳が、悪戯っぽく細められている。
「……ルシエラ?」
「ふふ。よく眠れた?」
「……うん」
零は素直に頷いた。
そこでようやく、自分が置かれている状況を理解する。
どうやら、ベッドだと思っていた柔らかな感触は、ルシエラの胸元だったらしい。
零は彼女に抱き締められたまま眠っていたのだ。
「……いつからいたの?」
「夜中からよ。あなた、全然起きないんだもの」
「……そうなんだ」
ルシエラは零の顔をじっと見つめた。
驚く様子も、慌てる様子もない。
ただ、いつもと変わらない黒い瞳でこちらを見上げている。
「……それだけ?」
「……?」
「普通はもう少し、驚いたりするものじゃない?」
零は不思議そうに首を傾げた。
そして、少し考えてから尋ねる。
「……一緒に寝たかったの?」
「…………え?」
今度はルシエラが瞬きをする番だった。
予想していた反応とは、随分違う。
顔を赤くして飛び起きるか、慌てて離れようとするか。少なくとも、何かしらの動揺は見せると思っていた。
それなのに、零はあまりにも自然にそう尋ねてきた。
「……あなたねぇ。私がどうしてここにいるのか、気にならないの?」
「一緒に寝たかったんじゃないの?」
「それは……」
ルシエラが言葉を探していると、零はふわりと微笑んだ。
「……言ってくれればよかったのに」
ルシエラは思わず息を呑んだ。
ただでさえ、現実離れした美貌の持ち主だ。
黒髪に縁取られた中性的な顔立ちは、どこか神秘的で、見つめているだけでも目を奪われる。
そんな少年が、何の計算もなく、あまりにも無防備に微笑んだのだ。
ほんの一瞬、ルシエラは自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
(……なるほどね)
脳裏に浮かんだのは、零を見つめるヴィクトリアの姿だった。
(……あの子の気持ち、少し分かった気がするわ)
ルシエラは小さく息を吐く。
どうやら、思っていた以上に手強い相手らしい。
「……あなた、本当に変わってるわね」
「……そう?」
「ええ。とびきりね」
呆れたように言いながらも、ルシエラの口元には笑みが浮かんでいた。
五百年以上生きてきた彼女にとって、相手の反応を予想することはそう難しいことではない。
けれど、この少年はどうにも勝手が違う。
仕掛けたはずの自分が、いつの間にか振り回されている。
ルシエラは零の頭を軽く撫でた。
「さあ、そろそろ起きましょうか。朝食にしましょう」
「……うん」
零が身体を起こすと、ルシエラもゆっくりと腕を解いた。
窓の向こうには、柔らかな朝日が差し込んでいる。
こうして、魔帝の屋敷で過ごす最初の朝が始まった。
◇
身支度を整えた零が食堂へ向かうと、そこには少し奇妙な光景が広がっていた。
食卓の上を、白い皿が音もなく滑っていく。
その後を追うように、銀の食器がふわりと宙を舞い、それぞれ決められた位置へと並んでいった。
厨房の方からは、鍋の蓋が開く音がする。
けれど、そこに人の姿はない。
零は足を止めた。
視線の先で、今度は水差しがひとりでに傾き、透明な水を杯へ注ぎ始める。
一滴もこぼすことなく注ぎ終えると、水差しは静かに元の位置へ戻った。
「……すごい」
思わず、そんな言葉が零の口からこぼれた。
「あら、もう来たの?」
声のした方を見ると、ルシエラが厨房から姿を現した。
その後ろでは、布巾が宙を舞い、調理台を丁寧に拭いている。
「ルシエラ、これって」
「ん? ああ、魔法よ」
ルシエラは何でもないことのように答えた。
「掃除も洗濯も料理も、いちいち手でやっていたら面倒でしょう? だから、普段は魔法に任せているの」
「……全部?」
「ええ、全部。もっとも、細かいところは自分で調整するけれどね」
そう言って、ルシエラが軽く指を動かす。
すると、厨房から焼きたてのパンが載った籠がふわりと浮かび上がり、二人の待つ食卓へ運ばれてきた。
零の黒い瞳が、その動きを追いかける。
「……すごいね」
「ふふ。そうでしょう?」
ルシエラは満足そうに微笑んだ。
ところが、零の視線は彼女ではなく、宙を漂う食器へと向けられたままだ。
「どうやって動かしてるの?」
「魔力で動きを制御しているのよ。物を浮かせるだけなら簡単だけれど、料理みたいに複雑な作業になると、少し工夫が必要ね」
「……そうなんだ」
零は感心したように頷く。
その表情は、普段よりも明らかに生き生きとしていた。
ルシエラはそんな零を眺めながら、僅かに眉を上げる。
「……ねえ、零」
「……なに?」
「今朝、私に抱き締められていたときより、ずっと嬉しそうじゃない?」
「うん。魔法って、すごいね」
迷いのない即答だった。
ルシエラはしばらく零を見つめ、それから額に手を当てた。
「……まったく。魔法に負けるなんて思わなかったわ」
「……?」
「何でもないわ。ほら、座りなさい」
促されるまま、零は椅子へ腰を下ろした。
目の前には、温かなスープと焼きたてのパン、それに色鮮やかな料理が並んでいる。
「……いただきます」
零が小さく手を合わせると、ルシエラは興味深そうにその仕草を見つめた。
「それ、あなたの国の習慣?」
「……うん。食べる前に言うんだ」
「へえ。面白いわね」
ルシエラは頬杖をつきながら、零が食事を始めるのを眺めた。
一口、スープを飲む。
優しい味が口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
「あら、よかった」
零が素直に感想を告げると、ルシエラは嬉しそうに目を細めた。
「魔法で作っているとはいえ、味付けはちゃんと考えているのよ」
「……ルシエラ、料理も上手なんだね」
「当然でしょう? 何年生きていると思っているの」
どこか得意げな返事に、零は小さく笑った。
その穏やかな表情を見て、ルシエラは満足そうに頷いた。
「そうだわ。零、今日は一緒に出かけましょうか」
「……出かける?」
「ええ。あなたの服も日用品も、まだ十分には揃っていないでしょう? せっかくだから、王都を案内してあげる」
零は少しだけ目を見開いた。
この世界に来てから、街をゆっくり歩く機会はほとんどなかった。
見知らぬものが、きっとたくさんあるのだろう。
「……行ってみたい」
「決まりね」
ルシエラは楽しそうに笑った。
「ふふ。あなたに似合う服も、たくさん選んであげる」
「……そんなに必要?」
「必要よ。私が選びたいんだから」
「……そうなんだ」
あっさりと納得する零を見て、ルシエラはまた笑みを深める。
どうやら今日は、退屈せずに済みそうだった。
◇
朝食を終えた後、零はルシエラに案内され、屋敷の一室へと足を運んだ。
そこには見慣れない器具や、複雑な模様の刻まれた道具がいくつも並んでいた。
「約束したでしょう? あなたの身体を調べさせてもらうわ」
「……うん」
「安心なさい。今日はあなたの魔力には触れず、外側から状態を観察するだけよ」
ルシエラの表情は、先ほどまでとは違って真剣だった。
零を椅子へ促す前に、彼女は道具の一つを手に取り、慎重に確かめる。
昨日のような事態を、二度と起こすわけにはいかない。
零は促されるまま、椅子へ腰を下ろした。
ルシエラが何かを呟くと、淡い光が零の周囲に浮かび上がる。
いくつもの光の輪が、ゆっくりと身体の周りを巡り始めた。
何かを調べられているのだろうということは分かる。
けれど、何をどう調べているのか、零にはさっぱり理解できなかった。
ただ、ルシエラが時折難しそうな顔をしていることだけは分かった。
光の輪は何度か形を変え、ときには細かな文字のようなものを浮かび上がらせた。
零には、その意味も読み取れない。
しばらくして、ルシエラが小さく指を振ると、周囲の光が静かに消えた。
「……どう?」
「そうね。少なくとも、今の調査では昨日のような反発は起きなかったわ」
ルシエラは並んだ道具に視線を向け、考え込むように顎へ指を添えた。
「でも、まだ分からないことだらけね。焦らず調べていきましょう」
「……うん」
零は頷いた。
何を調べていたのかは分からなかったけれど、ルシエラが慎重に進めようとしていることは伝わってきた。
「さて。難しい話はここまでにして、買い物に行きましょうか」
ルシエラはいつもの笑みを浮かべた。
「今日はあなたに王都を案内してあげる。楽しみにしてなさい」
「……うん」
零は椅子から立ち上がった。
窓の外には、朝よりも高く昇った太陽が見える。
◇
屋敷を出ると、穏やかな陽光が二人を迎えた。
王都の通りには多くの人々が行き交い、あちらこちらから賑やかな声が聞こえてくる。
道沿いには様々な店が軒を連ね、色鮮やかな布地や見慣れない道具が並んでいた。
焼きたてのパンの香りに、香辛料の混じった食欲をそそる匂い。
荷車の車輪が石畳を転がる音や、客を呼び込む商人たちの声が、絶え間なく響いている。
「……すごい」
零は思わず呟いた。
この世界に来てから、これほど多くの人々が集まる場所をゆっくり歩いたことはなかった。
目に映るものすべてが新鮮で、自然と視線があちらこちらへ向いてしまう。
「ふふ。王都は初めて?」
「……うん。こんなに人がいるんだね」
「ここは王国でも特に賑やかな場所だからね。お店も多いし、珍しいものもたくさんあるわよ」
ルシエラは楽しそうに笑いながら、零の隣を歩いていた。
腰まで流れる深い紫色の髪に、鮮やかな紫の瞳。
華やかな装いに包まれたその姿は、雑踏の中でもひときわ目を引く。
だが、人々の視線を集めている理由は、その美貌だけではなかった。
「……おい、あれって」
「ああ、魔帝様だ」
「ルシエラ様、今日もお美しいわね……」
行き交う人々の間から、囁きが聞こえてくる。
三帝の一角、魔帝ルシエラ・エレノワール。
王都に暮らす者ならば、その名を知らぬ者はほとんどいない。
けれど、人々の視線はやがて、その隣を歩く小柄な人物へと移っていった。
「……隣の子、誰だ?」
「随分と綺麗な女の子ね……」
「魔帝様のお知り合いかしら?」
黒髪に黒い瞳。
この世界では珍しいその色彩に加え、まるで精巧な人形を思わせるほど整った顔立ち。
幼さを残しながらも、どこか神秘的な雰囲気を纏う零の姿に、思わず足を止める者さえいた。
そんな周囲の反応など気にも留めず、零は通りに並ぶ店々へ興味深そうな視線を向けている。
「ふふ。随分と注目されているわね、零」
「……そう?」
「ええ。あなたのことを、みんな気にしているみたいよ」
零は不思議そうに周囲を見回した。
確かに、こちらを見ている人が何人かいる。
けれど、特に気にする様子もなく、再び通りに並ぶ店々へ視線を戻した。
次々と目に飛び込んでくる見慣れない品々に、零の表情が僅かに明るくなる。
ルシエラはそんな様子を楽しみながら、零の手を取った。
「ほら、あまり離れないでね。人が多いから、はぐれたら大変でしょう?」
「……うん」
零は何のためらいもなく、その手を握り返した。
ルシエラは一瞬だけ目を瞬かせる。
からかうつもりで手を取ったのに、零はごく当たり前のように応じてきた。
ルシエラは何も言わず、零の歩幅に合わせて歩き始めた。
そのときだった。
零の視線が、ふと通りの向こうへ向けられる。
人混みの中に、少し変わった姿の少女がいた。
年の頃は零とそう変わらないだろうか。
けれど、その頭には人間にはないものがあった。
三角形の耳。
柔らかそうな毛に覆われたそれが、周囲の音に反応するようにぴくりと動いている。
さらに、腰のあたりからは細長い尻尾が伸び、歩くたびにゆらゆらと揺れていた。
「……ルシエラ」
「なあに?」
「……あの子、耳が……」
零の視線を追ったルシエラは、すぐに納得したような表情になった。
「ああ、獣人ね。猫の獣人よ」
「……獣人?」
「そう。人間とは少し違う特徴を持つ種族ね。あの子の場合は、耳と尻尾が分かりやすいでしょう?」
零は改めて少女へ目を向けた。
少女は露店の前で店主と楽しそうに話している。
耳がぴくりと動き、尻尾がゆったりと左右に揺れる。
「……本当に動いてる」
「ふふ。飾りじゃないもの」
零が興味深そうに見つめていると、少女がふとこちらへ顔を向けた。
視線が合う。
少女は不思議そうに首を傾げ、その頭の耳がぴくりと動いた。
零は少しだけ目を瞬かせ、それから小さく会釈した。
少女もにこりと笑い、軽く手を振り返してくる。
「……あ」
零の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「あなたの世界には、獣人はいなかったの?」
「……うん。初めて見た」
「そう。なら、驚くのも無理はないわね」
ルシエラは穏やかに微笑んだ。
「この王都では、人間も獣人も普通に暮らしているわ。もちろん、他にも色々な種族がいるけれどね」
「……そうなんだ」
零はもう一度、少女の方へ視線を向けた。
少女は買い物を終えたらしく、小さな包みを抱えて歩き出す。
その姿は、耳と尻尾を除けば、ごく普通の少女と何も変わらなかった。
「……面白い世界だね」
「あら。気に入った?」
「うん。知らないことが、たくさんある」
零の声には、微かな弾みがあった。
「ふふ。なら、今日はもっと色々なものを見せてあげるわ」
◇
二人が次に訪れたのは、通り沿いにある大きな衣料品店だった。
店内には色とりどりの服が並び、壁際には美しい刺繍の施された衣装が飾られている。
零は物珍しそうに周囲を見回した。
「……服がいっぱい」
「当然でしょう? ここは王都でも品揃えのいいお店なのよ」
ルシエラは慣れた様子で店内を進んでいく。
すると、店員らしき女性が二人に気づき、丁寧に頭を下げた。
「ルシエラ様、いつもありがとうございます。本日は……」
女性の視線が、零へ向けられる。
その瞬間、言葉が途切れた。
「……まあ、なんて可愛らしいお嬢様!」
店員は思わず声を上げた。
「本日はお嬢様のお洋服をお探しでしょうか?」
零は小さく瞬きをした。
また女の子に間違えられている。
けれど、今さら訂正するほどのことでもない。
そう考えていると、隣から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ。残念だけれど、この子は男の子よ」
「……えっ?」
店員の女性が目を丸くした。
改めて零の顔を見つめ、それから慌てたように頭を下げる。
「も、申し訳ございません! あまりにもお綺麗でしたので……!」
「……大丈夫です」
零は気にした様子もなく答えた。
その反応に、女性はかえって恐縮してしまったようだった。
「さあ、零。せっかく来たんだから、色々試してみましょう」
「……うん」
ルシエラは早速、並んだ服を眺め始めた。
落ち着いた色合いの上着に、動きやすそうなズボン。
上質な布で仕立てられた外套や、細かな装飾の施された衣装まで。
彼女は次々と服を手に取り、零の身体に合わせていく。
「……これもいいわね。でも、こっちの方が似合うかしら」
「……そんなに買うの?」
「まだ決めていないわよ。まずは試着してみないと」
そう言って、ルシエラは何着もの服を零へ手渡した。
零は少しだけ困ったようにそれらを見つめたが、結局、素直に試着室へ向かった。
しばらくして。
「……どう?」
試着室から出てきた零を見て、ルシエラは僅かに目を見開いた。
黒を基調とした上着に、身体の線を邪魔しない細身のズボン。
余計な装飾のない服装が、かえって零の整った顔立ちを際立たせていた。
「……へえ」
ルシエラは感心したように呟く。
「やっぱり、あなたはこういう服が似合うわね」
「……そう?」
「ええ。とても綺麗よ」
零は自分の服を見下ろした。
「……動きやすいね」
ルシエラは思わず笑ってしまった。
「あなた、本当にそればっかりね」
「……?」
「褒めているのよ」
その後も、何着か試着を重ねた。
淡い色の上着を着れば柔らかな雰囲気になり、濃い色の外套を羽織れば、どこか神秘的な印象が強まる。
店員の女性も、すっかり見惚れている様子だった。
「本当に、どのお洋服もよくお似合いですね……」
「でしょう?」
なぜかルシエラが得意げに答える。
零は二人の様子を眺めながら、少しだけ首を傾げた。
結局、普段着として使える服を何着かと、動きやすい靴、それに外套を購入することになった。
「……ありがとう、ルシエラ」
「どういたしまして。私が選びたかっただけだから、気にしなくていいわ」
ルシエラは満足そうに微笑んだ。
そして、店員から受け取った包みへ軽く手をかざす。
次の瞬間、包みが何の前触れもなく姿を消した。
零は目を瞬かせた。
「……消えた?」
「ふふ。異空間収納よ」
「……異空間?」
「簡単に言えば、普通の空間とは別の場所に物をしまっておく魔法ね。必要になったら、いつでも取り出せるわ」
零は、先ほどまで包みがあった場所をじっと見つめた。
そこには何もない。
「……すごい」
「でしょう? 荷物を持ち歩かなくて済むから便利なのよ」
「……僕にも使えるかな」
何気なく零が呟く。
その言葉に、ルシエラの表情が僅かに変わった。
「……今は駄目よ」
「……うん。分かってる」
零は素直に頷いた。
魔法を使おうとすれば、またあの反発が起きるかもしれない。
その危険性は、零自身も理解している。
「あなたの身体のことが分かれば、いつか使えるようになるかもしれないわ。それまでは我慢してちょうだい」
「……うん」
ルシエラは優しく微笑んだ。
零はもう一度、何もない空間へ視線を向けた。
魔法とは、本当に不思議なものだ。
◇
店を出た後も、二人は王都の通りを歩き続けた。
その後もルシエラに案内されながら、零は日用品を扱う店をいくつか巡り、これからの生活に必要なものを買い揃えた。
途中、露店で売られていた焼き菓子を買い、並んで食べる。
零は見慣れない形の菓子を不思議そうに眺めていたが、一口食べると小さく頷いた。
「……おいしい」
「気に入った?」
「……うん」
「なら、また買いに来ましょうか」
そんな何気ない会話を交わしながら、二人は歩いていく。
ルシエラは時折、零が何に興味を示すのかを観察していた。
魔法を使った道具には目を輝かせる。
珍しい食べ物にも興味を持つ。
けれど、宝石や高価な装飾品にはほとんど関心を示さない。
(……本当に分かりやすいようで、分かりにくい子ね)
ルシエラは内心で苦笑した。
そのとき、零の足がふと止まった。
通りの向こうに、大きな建物が見えた。
他の店とは少し雰囲気が違う。
入口には武器や防具を身につけた人々が集まり、ひっきりなしに出入りしている。
大きな剣を背負った男。
弓を携えた女性。
鎧を身につけた者もいれば、軽装のまま歩いている者もいる。
零は、その光景をじっと見つめた。
ふと、建物から出てきた一人の冒険者に目が留まる。
特別な装備を身につけているわけではない。
けれど、その足運びには無駄がなく、人混みの中でも重心がほとんどぶれていなかった。
(……綺麗な歩き方)
ガルドのもとで繰り返した修行が、自然と思い出される。
立ち方、足の運び、重心の置き方。
以前の自分なら、きっと気にも留めなかっただろう。
零は少しだけ興味深そうに、その背中を見送った。
「……ルシエラ」
「なあに?」
「……あれは?」
ルシエラは零の視線を追い、納得したように頷いた。
「ああ、冒険者ギルドね」
「……冒険者?」
「そう。魔物の討伐や護衛、採集なんかを仕事にする人たちよ。依頼を受けて、その報酬で生活しているの」
「……魔物の討伐」
零の視線が、建物の入口へと戻る。
「……あの人たち、強いの?」
「人によるわね。駆け出しもいれば、騎士顔負けの実力者もいる。中には、とんでもない強者だっているわよ」
零の黒い瞳に、微かな興味の色が宿った。
強い人たちがいる。
その言葉が、胸の奥に小さく残る。
ガルドのもとで過ごした三か月。
呼吸の仕方から、立ち方、拳の振るい方まで。
教わったことは、まだまだたくさんある。
そして、自分が知らない強さも、きっとこの世界には存在するのだろう。
「……冒険者って、誰でもなれるの?」
零が尋ねると、ルシエラは少しだけ意外そうに目を瞬かせた。
「あら。興味があるの?」
「……うん」
零は素直に頷いた。
「……ちょっと、やってみたい」
ルシエラは零の顔を見つめた。
その瞳には、先ほど魔法を見ていたときとは少し違う光が宿っている。
好奇心。
そして、それだけではない何か。
ルシエラは零の視線の先にある冒険者ギルドを見つめ、それから小さく頷いた。
「そうね。ただ、今は身体のことがあるでしょう? すぐに危険な仕事をするのは感心しないわ」
「……うん」
零は素直に頷いた。
魔力と未知の力が反発したときの、あの苦しさはまだ覚えている。
無理をするつもりはなかった。
けれど。
もう一度、建物へ視線を向ける。
次々と出入りする冒険者たち。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな期待が芽生えてくる。
「……いつか、やってみたいな」
ぽつりと零が呟いた。
「そうね。まずはあなたの身体のことを、もう少し調べてから考えましょうか」
「……うん」
二人は再び歩き始めた。
王都の賑わいは、相変わらず絶えることがない。
けれど零は、もう一度だけ、遠ざかっていく建物を振り返った。
その黒い瞳には、確かな好奇心が宿っていた。
ルシエラはそんな横顔を見つめ、静かに微笑む。
どうやら、この少年との暮らしは、思っていた以上に退屈しそうにない。




