第十一章 宣戦布告
最初に感じたのは、背中を受け止める柔らかな寝台と、身体を包む布の温もりだった。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「……まだ?」
「もう少し待て、ルシエラ」
「分かってるわよ。でも、そろそろ目を覚ましてもいい頃でしょう?」
「だからといって、そんなに覗き込む必要はないだろう」
「あら。そう言うあなたも同じことしてるじゃない」
「私は――」
聞き覚えのある声だった。
一人はヴィクトリア。もう一人は、確か――。
零は重たい瞼をゆっくりと開いた。
ぼやけた光が視界に入り、思わず目を細める。霞んでいた景色が少しずつ輪郭を取り戻していくと、すぐ近くに金色と紫色が見えた。
「あ……零?」
「零!」
何度か瞬きをして、ようやく二人の顔を認識する。
ヴィクトリアとルシエラだった。
二人とも、驚くほど近い。
「……近い」
「…………」
ヴィクトリアが固まった。
次の瞬間、何事もなかったかのように身体を起こし、零から距離を取る。
「す、すまない」
「あら。目が覚めて最初に言うことがそれ?」
対してルシエラは離れようとせず、むしろ面白そうに紫の瞳を細めた。
「……だって、近いから」
「ふふ。そうね」
いつもの、人をからかうような笑みだった。
けれど、零はその笑顔を見つめながら、少しだけ不思議に思った。
「……何?」
「……ううん」
笑っているのに、心配していたことが分かる。
ヴィクトリアも、ルシエラも。
自分が目を覚ましたことで、二人の内側に張り詰めていたものが、ようやく緩んだように感じられた。
零は視線を天井へ向けた。
知らない部屋だった。身体には布団が掛けられており、どうやら寝台に寝かされているらしい。
そこまで確認したところで、意識を失う直前の記憶が少しずつ戻ってきた。
ルシエラに身体を調べてもらっていた。
自分の中にある魔力を、ほんの少し動かしてもらって――。
「……っ」
身体を起こそうとした瞬間、内側に鈍い痛みが走った。
「零!」
ヴィクトリアがすぐに手を伸ばし、肩を支える。
「無理に起きるな」
「でも……」
「まだ寝てなさい」
ルシエラからも、いつもの軽さを抑えた声が飛んできた。
「身体の中であれだけのことが起きたのよ。今は休むのも仕事」
「……うん」
零は大人しく枕へ頭を戻した。
「……どのくらい寝てたの?」
「数時間だ。ルシエラが診てくれていたが、なかなか目を覚まさなくてな」
ヴィクトリアはそう答えると、僅かに視線を落とした。
「……心配した」
「…………」
零はヴィクトリアを見つめ、それから小さく頷いた。
「……ごめんね」
「謝る必要はない。君が無事なら、それでいい」
その声はいつもより柔らかかった。
零はしばらく天井を見つめてから、二人へ視線を向ける。
「……僕、どうなったの?」
部屋の空気が僅かに変わった。
ヴィクトリアがルシエラを見る。ルシエラもその視線を受け、先ほどまで浮かべていた笑みを消すと、寝台の横に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「零。これから話すことは、まだ私にも分からないことが多いわ」
「うん」
「だから、今の時点で分かっていることだけ話すわね」
零は黙って頷いた。
「私があなたの魔力を動かしたところまでは覚えてる?」
「……うん。少しだけ」
「その直後、あなたの中にある別の力が反応したの」
別の力。
零には心当たりがあった。
森で初めて掴み、ガルドのもとで少しずつ扱えるようになったもの。拳へ集め、身体へ巡らせてきた力だ。
「……あの力?」
「たぶんね。あなたが普段使っている力そのものが何なのか、私にはまだ分からない。でも、一つだけはっきりしたことがあるわ」
紫の瞳が真っ直ぐ零を見る。
「あなたの魔力と、その力は反発してる」
「……反発?」
「ええ。普段はお互いに干渉していないみたい。でも、私があなたの魔力を動かした瞬間、もう一つの力がそれを押し返したの」
零は自分の胸元へ視線を落とした。
今は何も感じない。いつもと同じだった。
「それで……僕は?」
「二つの力があなたの身体の中でぶつかったの。ヴィクトリアと二人で何とか抑え込んだけれど、止めるのが少しでも遅れていたら、どうなっていたか分からないわ」
ルシエラはそこで僅かに言葉を止めた。
「もしもっと大きな魔力を動かしていたら……最悪の場合、あなたの身体が耐えられなかった可能性もある」
「…………」
零は何も言わなかった。
怖くないわけではない。ただ、それ以上に自分の中で起きたことがよく分からなかった。
二つの力。
一つは、ずっと自分の中にあったもの。
もう一つは、この世界へ来てから知った魔力。
どちらも自分の中にあるはずなのに、互いを拒んでいる。
「……ごめんなさい、零」
不意に、ルシエラが言った。
零が顔を上げる。
「私がもう少し慎重に調べていれば、こんなことにはならなかったわ」
その表情に、いつもの気まぐれな笑みはなかった。
「分からないものを調べる以上、危険があることは承知していたつもりだった。でも、今回は私の見通しが甘かった。あなたを危険な目に遭わせたのは事実よ」
「…………」
零はしばらくルシエラを見つめていた。
そして、小さく首を横に振る。
「……ルシエラが止めてくれたんでしょう?」
「それは……そうだけど」
「だったら、ありがとう」
「…………」
ルシエラが目を瞬かせた。
「僕、自分の中で何が起きてるのか分からなかったから。ルシエラがいなかったら、もっと大変だったと思う」
責める様子も、無理に慰めようとする様子もない。
零はただ、自分が思ったことをそのまま口にしていた。
「……そう」
ルシエラは僅かに目を伏せ、それから静かに微笑んだ。
「ありがとう、零。でも、だからこそ次は同じことを繰り返さないようにするわ」
「……うん」
「それと、少なくとも原因が分かるまでは、魔法を使おうとしないで。自分で魔力を動かそうとするのも、誰かに魔力を刺激させるのも駄目よ」
「……分かった」
零は素直に頷いた。
けれど、少し考えてから尋ねる。
「じゃあ……僕は魔法を使えないの?」
その声には、ほんの僅かな残念さが混じっていた。
この世界へ来て初めて魔法を目にした時、何もないところから生まれた炎を見て、純粋に不思議だと思った。
自分にも使えるのだろうかと、少しだけ期待した。
結局、その時は何も起こらなかったけれど。
「使えないとは言ってないわ」
ルシエラが答える。
「今は使わせられない。それだけよ」
「……違うの?」
「全然違うわ。どうして反発するのか、もう一つの力が何なのか、二つがどういう状態であなたの中に存在しているのか。そこが分かれば、方法が見つかる可能性はある」
「……使えるようになる?」
零はそう尋ねたものの、先ほど感じた痛みを思い出し、無意識に胸元へ手を添えた。
期待がないわけではない。けれど、あの感覚をもう一度味わいたいとも思わなかった。
「可能性はあるわ。ただ、約束はできない。それを確かめるためにも、もっと調べる必要があるの」
「……うん」
零は静かに頷いた。
その様子を見たルシエラは、改めて釘を刺す。
「ただし、勝手に試すのは禁止よ」
「……うん」
「絶対よ?」
「分かった」
「あなた、好奇心でやりそうなのよねぇ」
「しないよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「ほら」
ルシエラが額へ手を当て、ヴィクトリアが小さく息を吐いた。
「零。そこは『絶対にしない』と言うところだ」
「……じゃあ、絶対にしない」
「今言い直しても説得力がないぞ」
「…………」
零が少し困った顔をする。
張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
ルシエラもそれを感じ取ったのか、肩から力を抜く。
「まあ、その辺りも含めて――」
そこで一度言葉を切ると、先ほどまでの真剣な表情はどこへやら、いつもの笑みを浮かべた。
「零。あなた、しばらく私の家に住みなさい」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
零が瞬きをする。
ヴィクトリアも瞬きをした。
「……は?」
先に声を出したのはヴィクトリアだった。
「あら、何よ」
「待て。なぜそうなる」
「なぜって、当然でしょう? この子の身体を調べるのよ。一緒にいた方が都合がいいじゃない」
「だからといって、住む必要は――」
「あるわよ」
ルシエラは先ほどまでのふざけた調子を少しだけ引っ込めた。
「さっき説明したでしょう? 零の身体には、まだ分からないことが多すぎるの。もしまた同じことが起きたら、すぐに対処できる場所にいた方がいいわ」
今度はヴィクトリアを見る。
「少なくとも魔力に関してなら、あなたより私の方が役に立つわよ」
「…………」
ヴィクトリアは反論しなかった。
戦いであれば、自分が零を守ればいい。だが今回起きたのは、外から襲いかかってきた敵によるものではなく、零自身の内側で起きた異常だ。
その原因を調べ、何かが起きた時に対処するという点で、ルシエラ以上に適した者をヴィクトリアは知らなかった。
「……それは、認める」
「でしょう?」
ルシエラが満足そうに頷く。
けれど、零は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ考えていた。
ルシエラの言っていることは分かる。自分でも、自分の中にあるものを理解していない。
今回のようなことがまた起こる可能性があるなら、ルシエラの近くにいた方がいいのだろう。
それでも。
「……僕は、ヴィクトリアといたい」
その言葉に、ヴィクトリアの動きがぴたりと止まった。
ルシエラも意外そうに目を瞬かせると、零とヴィクトリアを交互に見つめた。
「……あら。どうしてヴィクトリアと一緒にいたいの?」
零は少しだけ首を傾げた。
どうして、と聞かれても、深く考えたことなどなかった。
ヴィクトリアと一緒にいると安心する。
自分を森から連れ帰ってくれた。何も話せなかった時も、無理に聞こうとはしなかった。ガルドのところへ連れていってくれたし、帰ってきた時もそばにいてくれた。
だから、零にとって答えはごく当たり前のものだった。
「……ヴィクトリアのこと、好きだから」
「…………っ!?」
その瞬間、ヴィクトリアの顔が一気に真っ赤になった。
普段はどんな強敵を前にしても揺るがない剣帝が、今は目の前の少年のたった一言に完全に固まっている。
「……ヴィクトリア?」
「…………」
「……大丈夫?」
「……だ、大丈夫だ!」
明らかに大丈夫ではなかった。
真っ赤になった顔を隠すように視線を逸らしているが、耳まで赤く染まっている。
そんなヴィクトリアを見て、ルシエラが小さく目を細めた。
「……へぇ」
その口元には笑みが浮かんでいたものの、ほんの一瞬だけ、その笑顔が止まっていた。
「私より、ヴィクトリアがいいの?」
「うん」
零は迷わず頷いた。
「……ずいぶん即答するのね」
「だって、ルシエラのことはまだよく知らないから」
「…………そう」
ルシエラは小さく笑い、二人を見比べた。
その紫の瞳には、先ほどまでとは少し違う興味の色が宿っていた。
「零」
ヴィクトリアがようやく口を開いた。
まだ頬に残る熱を誤魔化すように、一度小さく咳払いする。
「君の気持ちは……その、嬉しい」
「うん」
「だが、私も、しばらくはルシエラのところにいるべきだと思う」
「…………」
零の表情が僅かに曇った。
「……そう」
視線が少しだけ下がる。
その小さな落胆を見た瞬間、ヴィクトリアは思わず身を乗り出していた。
「い、いや。ずっと会えなくなるわけではないぞ」
零が顔を上げる。
「私も仕事で王都へ来ることはある。それに……時間を作って、君に会いに来る」
「……ほんと?」
「あ、ああ」
「……よかった」
零がほんの少し笑った。
その笑顔を見たヴィクトリアの表情も、自然と柔らかくなる。
けれど、すぐ横から小さな笑い声が聞こえ、はっとした。
「……何だ、ルシエラ」
「別に?」
「その顔は何だ」
「何でもないわよ」
口元を押さえながら、ルシエラが顔を逸らす。
ヴィクトリアは眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。
零だけが不思議そうに二人を見比べている。
「とにかく」
ルシエラが話を戻した。
「しばらくはここにいなさい。まずは魔力を動かさずに、あなたの身体の状態を調べるところから始めるわ。今回みたいなことは、もう起こさないようにする」
零はヴィクトリアを見る。
ヴィクトリアが頷いた。
「ルシエラなら信用できる」
「……ヴィクトリアがそう言うなら」
零は少し考えてから、ルシエラへ顔を向けた。
「分かった。僕、ここにいる」
「決まりね」
ルシエラは満足そうに微笑んだ。
こうして零は、しばらくの間、魔帝ルシエラ・エレノワールのもとで暮らすことになった。
◇
翌日。
窓から差し込む午後の日差しが、屋敷の廊下を明るく照らしていた。
十分に休息を取った零は、まだ身体の奥に僅かな重さを感じるものの、ゆっくりと歩ける程度には回復していた。
ルシエラが確認した限り、今すぐ問題になるような異常は見られないという。ただし、身体の中にある二つの力については、まだ何も解決していない。
そのため、当面は安静に過ごすことを約束させられていた。
「それでは、私は一度侯爵家へ戻る」
玄関先でヴィクトリアが告げる。
零もルシエラとともに、彼女を見送りに来ていた。
「零」
「うん」
「先ほども言ったが、無茶はするな」
「うん」
「身体に何か違和感があれば、すぐルシエラに言うんだ」
「分かった」
「自分だけで魔力を動かそうとするな」
「しないよ」
「それから――」
「ヴィクトリア」
ルシエラが呆れたように声を挟んだ。
「何だ」
「あなた、いつまで言ってるの?」
「必要なことを確認しているだけだ」
「さっきから同じこと三回くらい言ってるわよ」
「…………」
ヴィクトリアが黙る。
零は気にした様子もなく彼女を見上げた。
「ヴィクトリア」
「何だ?」
「……また来る?」
ヴィクトリアの表情がふっと柔らかくなった。
「ああ。約束する」
「……うん」
零が嬉しそうに頷く。
ヴィクトリアも微笑み返したが、背後から聞こえた小さな咳払いに気づき、慌てて表情を引き締めた。
「で、では、またな。零」
「またね、ヴィクトリア」
ヴィクトリアが屋敷を出ていく。
零は扉の前に立ったまま、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
やがて扉が閉じ、屋敷の中に静けさが戻る。
「さて」
背後から声がした。
零が振り返ると、ルシエラが腕を組み、壁へ背を預けていた。
その顔には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「これで二人きりね、零」
「……うん」
あまりにも普通に返され、ルシエラは一瞬だけ目を細めた。
それから壁を離れ、零へ歩み寄る。
「ねえ、零。私ね、自分で言うのもなんだけど、結構魅力的な女だと思ってるの」
「……そうなの?」
「そこは否定しないのね」
「綺麗だとは思うよ」
「…………」
ルシエラの足が止まった。
あまりにも自然に言われたため、一瞬だけ反応が遅れた。
「……あなた、それ」
「?」
「いえ。何でもないわ」
調子を狂わされる。
本当に。
ルシエラは小さく息を吐き、改めて零を見る。
「五百年以上生きてきたけれど、私を前にしてここまで平然としている男は、あなたが初めてよ」
「……そうなんだ」
「少しは驚いてくれてもいいんじゃない?」
「……驚いたよ?」
「…………」
その顔は、どう見ても驚いていなかった。
ルシエラはしばらく零を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「いいわ。決めた」
「……何を?」
ルシエラが零の前まで歩み寄る。
少しだけ身を屈め、黒い瞳を正面から覗き込んだ。
紫と黒。
二つの瞳が近い距離で向かい合う。
「覚悟なさい、零」
「……?」
何も分かっていない顔。
それがまた、少しだけ癪に障る。
だからルシエラは、挑むように紫の瞳を細めた。
「いつかあなたの方から、私と一緒にいたいって言わせてあげるわ」
零は少し考えた。
そして。
「……頑張って?」
「…………」
数秒の沈黙の後、ルシエラは耐えきれなくなったように、くすりと笑った。
「……あなた、本当に調子狂うわね」
その言葉の意味も分からないまま、零は小さく首を傾げた。




