第十章 魔帝との邂逅
翌朝。
朝食を終えた零は、ヴィクトリアとともに侯爵家を出た。
向かう先は王都。昨日、ヴィクトリアの口から告げられた一人の人物――ルシエラ・エレノワールに会うためだった。
三帝が一人、魔帝。
その呼び名から、零は漠然とヴィクトリアに似た人物を想像していた。剣帝であるヴィクトリアがそうであるように、きっと厳格で、近寄りがたい雰囲気を持った人物なのだろう、と。
もっとも、それを本人に言えば、ヴィクトリアは少し複雑な顔をしたかもしれない。
馬車に揺られながら窓の外へ目を向けていた零は、ふと正面へ視線を戻した。
「……ヴィクトリア」
「ん?」
「ルシエラって、どんな人?」
その問いに、ヴィクトリアはすぐには答えなかった。
腕を組み、何かを考えるように目を伏せる。
「そうだな……」
やがて口を開いたものの、そこでまた言葉が止まる。
強く、知識も豊富で、魔法に関して彼女の右に出る者はいない。信用もできる。
昨日聞いた限りでは、非の打ち所がない人物のように思えた。
けれど。
「……会えば分かる」
最終的に返ってきたのは、それだけだった。
零は小さく首を傾げた。
「説明できないの?」
「できないわけではない」
「じゃあ、難しい?」
「……ある意味では」
ますます分からない。
けれど、ヴィクトリアがそれ以上話そうとしなかったため、零も追及することはなく、再び窓の外へ目を向けた。
しばらく馬車に揺られていると、遠くに高い城壁が見えてきた。その向こうにはいくつもの尖塔が伸び、さらに奥には一際大きな城が青空の下に佇んでいる。
近づくにつれて人の数も増えていく。
荷を満載した馬車や、武器を腰に提げた者たち、旅装に身を包んだ家族――様々な人々が、同じ場所へ向かっていた。
王都。
この世界へ来てから、零が初めて目にする大都市だった。
やがて馬車が巨大な門へ近づくと、その前には長い列ができていた。
商人らしい馬車もあれば、徒歩の者もいる。鎧や武器を身につけた者たちの姿も少なくない。
一人ずつ衛兵の確認を受け、それから城壁の内側へ通されているようだった。
零は窓越しにその光景を眺める。
「……いっぱい並んでる」
「ああ。王都へ入る者は、基本的にあそこで身元や荷を確認される」
「僕たちも?」
「いや」
ヴィクトリアが短く答える。
その言葉どおり、馬車は列の最後尾へ向かわず、御者はそのまま門へ近づいていく。
列の横を進む馬車に気づき、並んでいた者たちの視線が集まった。一瞬、不満そうな顔をする者もいたが、馬車に刻まれた紋章へ気づいた途端、その表情が変わる。
「……ヴァレンタイン侯爵家だ」
誰かが呟いた。
「じゃあ、あの馬車……」
「剣帝様か?」
ざわめきが小さく広がっていく。
門を守る衛兵たちもすぐに気づき、姿勢を正して馬車へ向かって敬礼した。
馬車が止められることはなく、そのまま開かれた門を通り抜ける。
零は窓の外から、隣へ視線を移した。
「……ヴィクトリアって、すごい人なんだね」
「今さらか?」
「うん」
即答だった。
ヴィクトリアが何とも言えない顔になる。
零にとってヴィクトリアは、自分を森から連れ帰ってくれた人であり、侯爵家で何度も様子を見に来てくれた人であり、そして自分が追いつきたいと思うほど強い人だった。
剣帝であり、侯爵令嬢。
もちろん、その肩書きは知っている。けれど、周囲の人々が向ける眼差しを見て、ようやく少しだけ実感した。
自分が普段話している相手が、この国では特別な存在なのだということを。
門を抜けると、零の目の前に王都の街並みが広がった。
「…………」
大きな石造りの建物が並び、その間を数え切れないほどの人々が行き交っている。
店先には見たことのない品々が並び、色とりどりの看板が通りを飾っていた。その向こう、遠くには城が見える。
侯爵家の周囲とも、ガルドと暮らした山とも、森とも違う。
この世界に来てから初めて見る景色だった。
零はしばらく黙って眺めていた。
そして、小さく。
「……綺麗だね」
その言葉に、ヴィクトリアが零を見る。
以前の零なら、こうして景色を眺め、自分から感想を口にすることなどなかっただろう。
「ああ」
だからヴィクトリアも、それ以上は何も言わなかった。
ただ僅かに表情を和らげ、零と同じように窓の外へ目を向ける。
馬車は王都の大通りを進んでいった。
◇
やがて馬車が止まったのは、王都の中心部から少し離れた一角だった。
零が馬車から降りると、目の前には立派ではあるものの、侯爵家の屋敷ほど巨大ではない邸宅が建っていた。
「ここ?」
「ああ」
ヴィクトリアが扉へ向かい、零もその後を追った。
呼び鈴を鳴らして、しばらく。
返事はない。
ヴィクトリアがもう一度鳴らすが、やはり何も聞こえてこなかった。
「……留守?」
「いや」
ヴィクトリアの眉間に、わずかに皺が寄った。
「いるはずだ」
「分かるの?」
「昨日、連絡してある」
「……忘れてるとか」
「…………」
沈黙。
どうやら可能性はあるらしい。
さらにしばらく待っていると、ようやく屋敷の奥から足音が聞こえてきた。
ゆっくりと近づいてきたそれが扉の前で止まり、やがて扉が開く。
「はぁい……」
気の抜けた声とともに姿を現した女性を見て、零は瞬きをした。
想像していた人物とは、ずいぶん違った。
年齢は二十代前半ほどに見える。
腰まで流れる髪は、夜を溶かし込んだような深い紫。寝起きなのか少し乱れており、その隙間から覗く瞳もまた紫色だった。
ただし、髪よりも鮮やかで、光を宿したように妖しく輝くその瞳には、一度目を向ければ自然と引き込まれてしまいそうな不思議な色香があった。
そして、問題は服装だった。
随分と気楽な格好ではあるものの、布地は少なく、胸元は大きく開いている。身体へ緩く沿う生地は、豊かな曲線を隠すどころか、むしろ際立たせていた。
寝起きだからなのか、それとも普段からそうなのか。
零には判断がつかなかった。
少なくとも、普通なら目のやり場に困る格好なのだろう。
「……ルシエラ」
ヴィクトリアの声が低くなった。
「あら、ヴィクトリア」
「その格好は何だ」
ルシエラが自分の身体を見下ろす。
「何って、服だけど?」
「それは見れば分かる」
「なら聞かなくてもいいじゃない」
「客人を迎える格好ではないと言っているんだ!」
「あら」
ルシエラは胸元へ目を落とし、それから何でもないように首を傾げた。
「家の中なんだから、これくらい普通でしょう?」
「普通ではない」
「相変わらず堅いわねぇ」
「君が緩すぎるんだ!」
二人のやり取りを眺めながら、零は思った。
確かに。
会えば分かる。
「それで?」
ルシエラはヴィクトリアの苦言などどこ吹く風で、欠伸を噛み殺しながらその横へ視線を移した。
「昨日言ってた子って――」
そこで、ルシエラの言葉が止まった。
零を見る。
ただ、それだけだった。
けれど、眠気を残していた紫の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「…………」
「……?」
零が首を傾げる。
ルシエラは何も言わず、頭の先から足元まで、今度はゆっくりと零を見る。
五百年を超える時を生きてきたルシエラは、人間も、亜人も、魔族も、その長い生涯の中で数え切れないほど目にしてきた。美しいと称えられた者だって、一人や二人ではない。
けれど――。
目の前の少年には、そのどれとも違う何かがあった。
艶やかな黒い髪に、深く澄んだ黒い瞳。まだ幼さを残しているはずなのに、不思議なほど整った顔立ち。
ただ美しいだけではない。
触れれば壊れてしまいそうな儚さと、目を逸らすことを許さないような不可思議な存在感。
まるで、誰かが長い時間をかけて、一つ一つ丹念に形を整えたかのような――。
「……すごいわね」
ぽつりと、ルシエラが呟いた。
「何が?」
零が尋ねる。
「あなたよ」
「僕?」
「ええ」
ルシエラは一歩近づき、妖しく輝く紫の瞳で、すぐ近くから零を覗き込んだ。
距離は近い。
それでも零は気にした様子もなく、ただ黒い瞳でルシエラを見返していた。
「こんな綺麗な男の子、初めて見たわ」
「…………」
今度はヴィクトリアが黙った。
零が瞬きをする。
「……男って分かるの?」
「え?」
ルシエラが逆に不思議そうな顔をした。
「分かるわよ」
「どうして?」
「どうしてって……見れば分かるでしょう?」
顔立ちだけではない。
骨格や肩、腰の僅かな違い。立った時の重心や、呼吸に伴う身体の動き。
それらを無意識に近いほど自然に拾い上げる観察眼を、ルシエラは五百年を超える年月の中で培っていた。本人にとっては、特別なことですらない。
「…………」
零がヴィクトリアを見る。
ルシエラもつられるようにそちらを見る。
ヴィクトリアは無言だった。
「……ヴィクトリア?」
「何だ」
「もしかして、あなた……」
「本題に入るぞ」
「待ちなさい。ちょっと面白そうな話が――」
「本題に入るぞ」
二度目は少し強かった。
ルシエラは数秒ヴィクトリアを眺めた後、紫の瞳を細め、口元を楽しそうに緩めた。
「……ふぅん」
「何だ、その顔は」
「別に?」
明らかに別にではなさそうだった。
それでもヴィクトリアは無視して、屋敷の中へ入るよう促した。
ルシエラも踵を返しかける。
けれど、その直前、ふと零へ視線を戻した。
自分の格好を見て慌てるでもなく、胸元から目を逸らすでも、逆に視線を奪われるでもない。
最初からずっと、零が見ているのは自分の顔――紫の瞳だった。
「…………」
ルシエラの眉が僅かに上がる。
けれど何も言わず、そのまま屋敷の中へ入っていった。
◇
「――なるほどね」
一通りの事情を聞き終えたルシエラは、ソファの背もたれへ身体を預けた。
向かいには零とヴィクトリアが座っている。
話したのは、零がこの世界の人間ではないこと。森で漆黒の魔狼と遭遇したこと。そして、零が魔力とは異なる正体不明の力を持っていること。
すべてではない。
けれど、調査に必要だと判断したことについて、ヴィクトリアは隠さなかった。
「それで私のところへ来た、と」
「ああ」
「未知の力、ねぇ……」
ルシエラの視線が零へ向く。
先ほどまでの気怠げな様子は、もうほとんど残っていない。代わりに紫の瞳の奥で輝いているのは、純粋な興味だった。
「零」
「うん」
「少し調べてもいい?」
「……何するの?」
「最初は見るだけよ」
ルシエラが微笑む。
ただ笑っただけなのに、妖しく輝く紫の瞳と相まって、その仕草には妙な色香が滲んだ。
「安心して。優しくしてあげる」
「……うん」
零は普通に頷いた。
「…………」
ヴィクトリアが無言でルシエラを見る。
「あら、何?」
「……いや」
「言いたいことがあるなら言えば?」
「ない」
「そう?」
ルシエラは楽しそうに笑った。
零は二人を交互に見る。
やはり仲が悪いのだろうか。
けれど、嫌っているようには感じられなかった。呆れや苛立ちに似たものはあっても、その根底にあるものは決して悪意ではない。
不思議な関係だった。
「じゃあ、始めましょうか」
ルシエラが立ち上がり、零も促されるまま別室へ移動した。
そこには本棚や机のほか、零には用途の分からない道具がいくつも並び、床には複雑な紋様が刻まれている。
「ここに立って」
指示された場所へ零が立つ。
ルシエラは少し離れ、じっと零を観察した。
詠唱はなく、魔法陣が新たに浮かび上がることもない。ただ、妖しく輝く紫の瞳が零へ向けられているだけだった。
零には、何をされているのか分からない。
けれどルシエラの意識は、すでに目の前の少年の表面など見てはいなかった。身体を巡る魔力、その流れや量、僅かな揺らぎまでを一つずつ拾い上げていく。
やがて。
「…………え?」
ルシエラの眉が動いた。
ヴィクトリアが反応する。
「どうした?」
「ちょっと待って」
ルシエラは零へ近づくと、今度は真正面からその身体を見つめ、僅かに目を細めた。
「……零」
「うん」
「あなた、本当に魔法を使えないの?」
「使えなかった」
「一度も?」
「うん」
ルシエラは黙り込み、再び零を見る。
何度確認しても結果は変わらない。
「……おかしいわね」
「何がだ?」
「この子の魔力量よ」
ヴィクトリアの表情が引き締まる。
「多いのか?」
「多いなんてものじゃないわ」
ルシエラはしばらく考えた後、零を見つめたまま言った。
「純粋な量だけなら――私にも匹敵するわね」
「……君に?」
さすがのヴィクトリアも驚きを隠せなかった。
三帝が一人、魔帝ルシエラ・エレノワール。
魔法という一点において、王国で彼女と肩を並べる者はいない。その本人が、魔法を一度も使えない少年の魔力量を、自分に匹敵すると評した。
「零。何か感じる?」
「……魔力?」
「そう」
零は目を閉じた。
以前、侯爵家でも試したことがある。
身体の内側へ意識を向けると、そこには確かに何かがあった。
ガルドのもとで少しだけ扱えるようになった力とは、何かが違う。もっと曖昧でありながら、それでも確かに存在しているもの。
「……あると思う」
「動かせる?」
零は意識を集中させ、魔力と思われるものへ触れようとする。
しかし。
「……駄目」
「動かない?」
「うん」
「ふむ……」
ルシエラは顎へ指を添えた。
これだけの魔力を持ちながら、自力ではほとんど動かせない。そんな例を知らないわけではないが、零ほどの量となれば話は別だった。
「なら、少しだけ外から動かしてみましょうか」
「できるの?」
「誰に言ってるのよ」
自信たっぷりに笑って、ルシエラが零へ近づき、手を伸ばした。
「少し触るわね」
「うん」
零が頷く。
ルシエラの手が零の胸元へ添えられた。
魔力の流れを捉えるには、それが一番分かりやすい。もう片方の手を背中へ回し、身体の中を通る魔力の経路へ意識を集中させる。
傍から見れば、零を抱き寄せているようにも見えた。
「…………」
ヴィクトリアの眉がわずかに動いた。
「……ルシエラ」
「何?」
「近くないか?」
「触れないと調べられないもの」
「そこまで密着する必要があるのか?」
「この方が分かりやすいのよ」
「…………そうか」
「あら?」
ルシエラの口元が僅かに上がる。
「何か不満?」
「ない」
「そう?」
「ああ」
「……?」
零だけが二人の間で首を傾げた。
何が問題なのか、よく分からない。
「まあいいわ。零、力を抜いて」
「うん」
「私があなたの魔力を少しだけ動かす。変な感じがするかもしれないけれど、抵抗しないで」
「分かった」
零が目を閉じる。
ルシエラも表情を改め、意識を研ぎ澄ませた。
膨大な魔力が眠っている。
これほどの量が存在しているというのに、不自然なほど静かだった。まるで深い湖の底に沈んでいるかのように、微動だにしない。
その表面へ、ルシエラがそっと指を触れる。
ほんの僅か。
本当に僅かだけ。
零の中にある魔力を――動かした。
瞬間。
「――っ!?」
零の身体が跳ねた。
ルシエラの目が見開かれる。
「零?」
ヴィクトリアが立ち上がる。
次の瞬間だった。
零の身体の奥深くから、魔力とはまったく異なる何かが爆発的に膨れ上がった。
「な――」
ルシエラが反応するより早く、二つの力が衝突した。
轟音とともに空気そのものが弾け飛ぶ。
床に刻まれていた紋様が一瞬で光を失い、部屋中の家具が壁へ叩きつけられた。
「くっ……!」
ヴィクトリアの身体が吹き飛ぶ。
咄嗟に受け身を取り、床を滑りながら勢いを殺す。
ルシエラもまた零から引き剥がされ、そのまま後方へ弾き飛ばされた。
「っ……!」
壁へぶつかる寸前、ルシエラの周囲へ魔法障壁が展開される。
一枚目が衝撃を受けた瞬間、音を立てて砕け散った。続く二枚目にも大きな罅が走り、それでもどうにか勢いを殺す。
「……何、これ」
床へ着地したルシエラが顔を上げる。
その声からは、先ほどまでの気怠さも余裕も消えていた。
部屋の中心。
零がいた。
その身体は床から離れ、荒れ狂う力によって宙に浮いている。
「……ぁ……っ」
苦しげな声が漏れ、黒髪が激しく揺れていた。
そして。
その瞳。
「……零……?」
ヴィクトリアが息を呑む。
黒ではない。
黄金。
かつて手合わせの中で目にした時よりも、遥かに強く。
零の瞳は、眩いほどの黄金に輝いていた。
――あの時とは違う。
手合わせの時、零は自らの意思であの力を引き出していた。けれど今は違う。
本人の意思など関係なく、力だけが荒れ狂っている。
それだけではない。
零の周囲では、溢れ出す力のせいなのか、空間そのものが歪んで見えた。
「……っ」
ヴィクトリアが立ち上がる。
全身を内側から引き裂かれているかのような激痛に、零の顔が歪む。その身体の内側では、二つの力が激しくぶつかり合っていた。
そしてルシエラにも、今ははっきりと感じ取れていた。
魔力ではない。
零の内側から噴き上がっている、もう一つの巨大な力。
ヴィクトリアから話には聞いていたが、実際に感じるのとでは、まるで違う。
「……何なのよ、これ……」
妖しく輝く紫の瞳が見開かれる。
分からない。
長い生涯の中で魔法を学び、研究し、この世界に存在する数え切れないほどの力と現象を目にしてきた。魔法に関する知識なら、誰にも劣らないという自負もある。
それでも、この力をルシエラは知らなかった。
だが、未知への興味を覚えている場合ではない。
目の前で零が苦しんでいる。
「ヴィクトリア!」
鋭い声が飛ぶ。
「零を押さえて!」
「分かった!」
問い返すことすらしなかった。
ヴィクトリアが床を蹴る。
荒れ狂う力が身体を打ち、服と金色の髪を激しく揺らす。それでも止まらず、一歩、さらに一歩と零へ近づいていく。
「零!」
伸ばした手が零の腕を掴んだ。
瞬間、凄まじい衝撃が腕を伝う。
「っ……!」
それでも離さない。
ヴィクトリアはさらに踏み込み、宙に浮いていた零の身体を力ずくで引き寄せると、反対の腕を身体へ回し、そのまま背後から抱えるようにして押さえ込んだ。
「零、私だ! 聞こえるか!」
「…………」
返事はない。
黄金の瞳は開いている。
けれど、そこにヴィクトリアを認識している様子はなかった。
「ルシエラ!」
「そのまま押さえて!」
ルシエラも踏み出す。
複数の魔法障壁を重ね、自分の周囲へ展開した。
荒れ狂う力が襲いかかり、最前面の障壁が砕け散る。続く障壁にも罅が走った。
それでも、ルシエラは止まらない。
「……冗談でしょう」
思わず声が漏れた。
自分が動かした魔力は、本当に僅かだった。それなのに、今、目の前で暴れているものは何だ。
魔力ではない。
正体すら分からない。
だが、原因は分かっている。
自分が零の魔力を動かした、その瞬間にこの力は噴き出した。
ならば、止めるべきものも分かっている。
「私がやったんだから……!」
さらに一歩。
罅の入った障壁が砕けると、すぐに次の障壁を展開する。
「私が止めるわよ!」
ヴィクトリアに押さえられた零へ手を伸ばす。
一度、弾かれた。
指先が痺れる。
それでも、もう一度。
今度は届いた。
零の胸元へ掌を押し当てる。
「――捕まえた」
ルシエラは目を閉じ、意識を零の内側へ沈める。
分からない方には触れない。
触れることすら危険だと、本能が告げている。
なら、自分に分かるものだけを掴めばいい。
魔力。
先ほど自分が動かした流れ。
それだけを捉える。
「……戻りなさい」
力任せではなく、丁寧に。それでも決して逃がさず、動き始めた魔力を元の場所へ押し戻していく。
抵抗するように、もう一つの力が膨れ上がった。
「っ……!」
ヴィクトリアの腕の中で、零の身体が大きく震える。
「零!」
「離さないで!」
「分かっている!」
二人の声が重なる。
ルシエラは手を離さず、少しずつ暴れていた魔力を沈めていった。
やがて。
魔力の流れが止まった。
それに呼応するように未知の力も勢いを失い、歪んで見えていた空間が元へ戻っていく。
零の瞳を満たしていた黄金の輝きも徐々に弱まり、やがて本来の黒へ戻った。
そして、部屋に静寂が訪れる。
「…………」
零の身体から完全に力が抜ける。
「零!」
ヴィクトリアがその身体を抱き止めると、零の目が静かに閉じた。
「ルシエラ」
「待って」
ルシエラがすぐに膝をつき、零の胸元へ手を添えて状態を確認する。
数秒。
ヴィクトリアには、それが妙に長く感じられた。
「……大丈夫。生きてる」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィクトリアの肩から僅かに力が抜けた。
「そうか……」
「ただ、しばらくは起きないでしょうね」
ルシエラの声に、先ほどまでの軽さはなかった。
ヴィクトリアは腕の中の零を見る。
「……何が起きた」
「まだ全部は分からない。でも――一つは分かったわ」
「何だ?」
「反発してる」
「反発?」
「零の魔力と、もう一つの力よ」
ルシエラの紫の瞳が、眠る零へ向けられる。
「あなたから聞いてはいたけれど……まさか、ここまでとは思わなかったわ」
頭の中で、今起きた現象を何度も組み直す。
自分が動かしたのは魔力だけ。それも、本来なら零自身が気づくかどうかというほどの僅かな量だった。
それなのに、もう一つの力は魔力が動いた瞬間に反応した。
まるで、侵入してきた異物を排除するように。
「普段は干渉していない。けれど魔力を動かした途端、もう一つの力がそれを押し返した」
「では、零が魔法を使えないのは……」
「可能性は高いわね」
ヴィクトリアから聞いた話では、以前、零自身が魔法を使おうとした時も、魔力はほとんど動かなかったという。
もしあの時にも身体の中で同じことが起こりかけていたのだとすれば、魔力そのものをほとんど動かせなかったからこそ、大きな反発には至らなかったのかもしれない。
今回は違う。
魔帝であるルシエラが、外部から直接動かした。
その結果、二つの力が真正面から衝突した。
「……私の失敗ね」
ぽつりとルシエラが言った。
ヴィクトリアが彼女を見る。
「知らなかったのだろう」
「それでもよ。調べると言ったのは私だもの」
ルシエラは眠る零を見つめた。
いつもの気怠げな笑みは、どこにもない。
「……この子に魔力を使わせるのは危険よ」
ヴィクトリアの表情が険しくなる。
「どの程度だ?」
「分からない。でも、さっき私が動かしたのは本当に僅か。それだけで、あれだけの反発が起きた」
ルシエラが壊れた部屋を見回す。
砕けた窓に、倒れた家具。床には亀裂まで走っている。
そして何より、三帝である二人を、一瞬とはいえ同時に吹き飛ばした力。
「もし零自身が魔法を覚えて、本格的に魔力を動かしたら……」
その先を想像する。
自分に匹敵するほどの魔力と、それに真正面から衝突してなお押し負けなかった未知の力。
そんなものが、零という小さな身体の中で本気でぶつかり合ったなら。
「……零自身が壊れるわ」
静かな声だった。
ヴィクトリアの腕が、ほんの僅かに零を抱く力を強める。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて。
「……これは、放っておけないわね」
ルシエラが呟いた。
ヴィクトリアが顔を上げる。
「調べるつもりか?」
「ええ」
今度の返答に、普段の軽さはなかった。
「こんな状態で何も分からないまま放り出す方が危険でしょう。それに――」
ルシエラは一度言葉を切り、眠っている零を見る。
未知だから知りたい。
確かに、その気持ちもある。
けれど、それだけではなかった。
「私が始めたことだもの。少なくとも、安全だと言えるところまでは付き合うわ」
「……そうか」
ヴィクトリアは短く答えた。
それで十分だった。
ルシエラはもう一度、零へ視線を落とす。
胸の奥に残った違和感は消えていない。
先ほど触れた二つの力。
自分にさえ匹敵する膨大な魔力と、それを真正面から押し返した正体不明の力。
それでもなお、ルシエラには思えてならなかった。
先ほど感じたものが、あの力のすべてではないのではないか、と。
今は互いに拒絶し合い、辛うじて均衡を保っている。
もし、その均衡が本当の意味で崩れたなら――。
「…………」
ルシエラは眠る零へそっと手を伸ばし、黒い髪を撫でるように指先で触れた。
先ほど自分が危険に晒してしまった少年は、何も知らず静かに眠っている。
その寝顔を見つめながら、ルシエラは妖しく輝く紫の瞳を僅かに細めた。
――もしくは。
壊れるのは、この世界かもね。




