第九章 告白
山を下りてから、侯爵家へ戻るまでにはそれなりの時間がかかった。
三か月前にも通った道を進みながら、零は窓の外へ視線を向けていた。
あの頃は、目に映るものすべてが初めてだったはずなのに、それらへ心を向けるだけの余裕がなかった。見知らぬ土地も、遠くに連なる山々も、ただ流れていく景色の一部でしかなかった。
けれど今は違う。
道の脇に広がる草原や、途中ですれ違う荷馬車。その一つ一つを自然と目で追っていると、この世界には自分の知らないものがまだいくらでもあり、いつかそれを自分の目で見てみたいと思えた。
そんなことを考えているうちに見覚えのある街並みが現れ、その向こうに大きな屋敷が見えてきた。
ヴァレンタイン侯爵家。
この世界へ来た零が、初めて身を寄せた場所。
その姿を目にした瞬間、胸の奥に小さな温かさが生まれた。
「……帰ってきた」
意識するより先に、そんな言葉が零の口から零れた。
隣にいたヴィクトリアが僅かに目を見開く。
零自身は、自分が何を口にしたのか深く考えていないようだった。
ヴィクトリアはそんな横顔をしばらく見つめると、やがて柔らかく笑った。
「ああ」
それ以上は、何も言わなかった。
屋敷へ到着すると、使用人たちが二人を出迎えた。三か月ぶりに見る顔も多く、その中には以前、零の身の回りを世話していた者たちもいる。
「お帰りなさいませ、ヴィクトリア様」
恭しく頭を下げた使用人たちの視線が、その隣に立つ零へ移る。
「零お嬢様も、お帰りなさいませ」
「…………」
零が足を止めた。
隣でヴィクトリアの肩が僅かに揺れる。
山を下りる途中、確かに約束した。
今度は、自分で説明してくれ、と。
零もそれを覚えている。
「あの」
使用人たちが顔を上げる。
「僕、男だよ」
一瞬、玄関前から音が消えた。
誰も何も言わず、零だけが不思議そうに首を傾げる。
「……聞こえなかった?」
「いや、聞こえている」
額へ手を当てたヴィクトリアがそう答えた、その直後。
「――ええっ!?」
誰かの声を皮切りに、静まり返っていた玄関前が一気に騒がしくなった。
◇
「……なるほど」
屋敷へ戻ってからしばらくして。
応接室には零とヴィクトリア、そしてアルベルトとエレノアが集まっていた。
アルベルトは向かいに座る零を静かに見つめていたが、エレノアは先ほどから何度も零の顔を確かめている。
「まあ……本当に、男の子だったのですね」
「……うん」
「ずっと?」
「……生まれた時から」
その答えを聞いた瞬間、隣に座っていたヴィクトリアの眉が僅かに動いた。
昨日、自分もほとんど同じことを聞いたのを思い出したのだろう。
エレノアは零の顔を右から眺め、今度は少し身体を傾けて左から眺める。それでも何か腑に落ちないらしく、「でも……」と呟いたところで、アルベルトが静かに妻の名を呼んだ。
「エレノア」
「ええ、分かっています」
そう答えながらも、その視線はまだ零から離れない。
やがて扉がノックされ、入ってきたメイドが零の着替えを腕に抱えたまま一礼した。
「零様。お着替えをお持ちいたしました」
「……ありがとう」
零が受け取ろうとして、手を止める。
白を基調としたブラウスに、柔らかな色合いのスカート。
どう見ても、以前まで零が着せられていたものと同じ女物だった。
零は服を見て、メイドを見て、それからエレノアへ視線を移す。
「……僕、男だって言ったよね?」
「ええ」
エレノアはにこやかに頷いた。
「存じていますよ?」
「…………」
零はもう一度、手渡された服へ目を落とす。
「……じゃあ、これは?」
「とても似合うと思いまして」
あまりにも迷いのない答えだった。
「母上」
すぐさまヴィクトリアが口を挟む。
「何です?」
「零は男です」
「ええ。先ほど聞きました」
「でしたら、なぜスカートを用意するのですか」
「あら。男の子が着てはいけないという決まりがあるのですか?」
「そういう問題では……」
珍しく言葉に詰まるヴィクトリアを見てから、零は手元の服を眺めた。
少し考え、そのまま受け取る。
「……別に、着られるならいいけど」
「零!?」
なぜかヴィクトリアが一番驚いた。
「今まで着てたし」
「今までは君が女の子だと思われていたからだ!」
「……服は服じゃない?」
「君はもう少し気にした方がいい!」
そのやり取りを眺めながら、エレノアが口元へ手を当てて楽しそうに笑い、アルベルトは小さく息を吐いた。
三か月前には、なかった光景だった。
あの頃の零なら、何を渡されても黙って受け取り、何を言われても気にすることはなかっただろう。
けれど今は、疑問に思えば尋ねる。ヴィクトリアと言葉を交わし、僅かながら表情も変わる。
たったそれだけのことが、以前の零を知る三人には大きな変化として映っていた。
やがて騒ぎも落ち着き、応接室に穏やかな静けさが戻る。
零は向かいに座るアルベルトとエレノア、それから隣のヴィクトリアへ順に目を向けた。
この屋敷へ来たばかりの頃、彼らは零に何も聞かなかった。
何者なのか。
どこから来たのか。
なぜあの森にいたのか。
知りたいことはいくらでもあったはずなのに、零が何も話せないことを察して、ただ待ってくれた。
あの頃なら、それに安堵していたのかもしれない。
けれど今は。
聞かれていないからこそ、自分から話しておきたいと思った。
零は自分の膝へ視線を落とし、指を僅かに握る。
「あの……話しておきたいことがある」
先ほどまでとは違う声音に、三人の視線が集まった。
一度だけ小さく息を吸い、零は顔を上げる。
「僕は――この世界の人間じゃない」
誰も言葉を挟まなかった。
何から話せばいいのか、零自身にも分からない。
自分にとって当たり前だった世界を、この人たちへどう説明すればいいのか。それ以前に、なぜ自分がここにいるのかさえ分かっていない。
しばらく考えてから、零はゆっくりと言葉を続けた。
「……朝、家を出たんだ。学校に行くつもりだった。でも、気づいたらあの森にいた」
ヴィクトリアの瞳が僅かに細められる。
彼女が零を発見した、あの森。
「どうしてここに来たのかは、僕にも分からない。帰れるのかも……分からない」
そこで一度、言葉が途切れた。
それでも三人は何も急かさず、零が再び口を開くのを待っている。
やがて零は、小さく息を吐いた。
「父様と母様は……もういない」
エレノアの表情が変わった。
「僕が小さい頃に、死んだ」
先ほどまでと比べて、声が僅かに小さくなっている。
ヴィクトリアはそれに気づいた。
零の視線も、少しずつ下がっていく。
「昔……黒い獣が来たんだ」
黒い毛に覆われた巨大な身体。
暗闇の中で、自分を見つめていた姿。
長い間、忘れていた。
いや。
忘れることでしか、生きられなかった記憶。
「父様と母様が、僕を守ってくれて……それで……」
膝の上に置かれた指先が震えた。
自分の中から溢れ出した、あの力。
何も分からなかった。
止めることもできなかった。
ただ怖くて、目の前で起きていることを理解することさえできなかった。
「僕の中にあった何かが……急に、溢れて……」
声が掠れる。
零は何度か唇を動かした。
続けなければならないと思うのに、喉の奥に何かが張りついたように、次の言葉が出てこない。
それでも、ようやく絞り出す。
「それで……僕が……母様を――」
そこで止まった。
その先にある言葉を、零は知っている。
ずっと自分の中にあった。
けれど、それを声にすることだけはできなかった。
俯いたまま、零の肩が僅かに震える。
ヴィクトリアは息を呑んだ。
先ほどまで確かに戻っていたはずのものが、零の瞳から少しずつ失われていく。
その目を、ヴィクトリアは知っていた。
侯爵家へ連れてきた直後。
目を覚ました零が見せた、何も映していないような瞳。
三か月の間に、零は変わった。
笑うようになった。
自分から話すようになり、戦いたいと望み、もっとこの世界を知りたいと言った。
確かに強くなったのだ。
けれど、強くなったことと、傷が消えたことは同じではない。
そのことをヴィクトリアが改めて思い知らされた時、隣で衣擦れの音がした。
エレノアが立ち上がっていた。
ゆっくりと零の前まで歩み寄る。
零が気配に気づいて顔を上げると、エレノアは何も尋ねず、その小さな身体を腕の中へ抱き寄せた。
「…………」
背中へ回された腕。
髪を包むように添えられた手。
何かから守るように、優しく、それでも離さない抱き方。
「……もう、いいのですよ」
耳元で聞こえた声に、零の身体が固まった。
温かかった。
その温もりを、零は知っている。
ずっと昔。
まだ何も失っていなかった頃。
眠る前に抱き締めてもらった時も、怖い夢を見た時も、同じような温かさに包まれていた。
――母様。
ほんの一瞬だけ、記憶の中の姿と重なった。
けれど、すぐに違うと分かる。
母ではない。
母はもういない。
今、自分を抱き締めてくれているのはエレノアだ。
分かっているのに、なぜか離れたいとは思わなかった。
どうすればいいのか分からず、最初は腕を下ろしたまま立ち尽くしていた零だったが、やがて指先がほんの少しだけ動いた。
そして、エレノアの服を小さく掴む。
その目元に滲んだものに、零自身は気づいていなかった。
エレノアも何も言わない。
ただ、零が自分から離れるまで、その身体を抱き締めていた。
アルベルトは静かに二人を見守っていた。
今、この少年に必要なのは問いかけではなく、妻の腕の温もりなのだと分かっているからこそ、何も言わなかった。
ヴィクトリアもまた、黙ったまま零を見つめていた。
一人で立てるようになったからといって、一人にしていいわけではない。
零の傷は、これからも簡単には消えないのだろう。
ならば、その傷を抱えたままでも歩いていけるように、自分も支える者の一人でありたい。
そう思った時、ほんの一瞬だけ――自分が、そばにいたいと思った。
なぜそんなふうに思ったのか。
その小さな違いに、ヴィクトリア自身はまだ気づいていなかった。
やがて零が落ち着くと、エレノアはゆっくりと腕を解いた。
零は僅かに俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
その瞳に宿る光は弱く、先ほどの記憶がまだ心の奥に残っていることが分かる。
それでも、その光が完全に消えることはなかった。
アルベルトが静かに口を開く。
「話してくれてありがとう、零」
それだけだった。
別の世界から来たという話も、理解できない力の話も、疑うことも問い詰めることもしない。
零はしばらくアルベルトを見つめた。
「……信じるの?」
「ああ」
あまりにも迷いのない返事に、零は僅かに目を見開いた。
アルベルトはそれ以上、何も言わない。
だから零も、それ以上は聞かなかった。
「……ありがとう」
小さくそう答えたあと、零は一度呼吸を整えた。
まだ、話しておきたいことがある。
「……それと、あの森にいた黒い獣」
その言葉に、ヴィクトリアの表情が引き締まった。
「僕……前にも見たことがある気がする」
「前にも?」
「あの時。父様と母様が死んだ時にいたのも……黒い獣だった」
ヴィクトリアの目が鋭くなる。
「零。それは、あの魔狼と同じ個体だったということか?」
零はすぐには答えなかった。
記憶の中に残る黒い獣と、あの森で自分を追い詰めた黒い獣。
二つの姿を思い返してから、ゆっくりと首を横に振る。
「……分からない。ただ、似てた。たぶん」
「似ていた……」
「うん。でも……同じだったような気もする」
それ以上は言えなかった。
同じだと断言できるだけのものを、零は何も持っていない。
ヴィクトリアは少し考えてから、確認するように口を開く。
「同じ個体だった可能性もある、ということか」
「……うん」
再び、部屋に沈黙が落ちる。
零はこの世界の人間ではない。
にもかかわらず、彼が元いた世界にも、あの魔狼と酷似した黒い獣が存在していた。
そしてこの世界へ来た直後、零は再びそれと遭遇している。
ただの偶然と片づけるには、あまりにも奇妙だった。
「……父上」
沈黙を破ったのはヴィクトリアだった。
「もう一つ、報告しておくべきことがあります。零の力についてです」
零が顔を向ける。
「以前から、零が私たちの知らない力を持っていることは分かっていました。そして今回、私は実際にその力を使う零と手合わせをしました」
ヴィクトリアの脳裏に、あの時の光景が蘇る。
黒から鮮やかな黄金へ変わった瞳。
身体の奥から溢れ出し、拳へと宿った未知の力。
直接相対したからこそ、その異質さをより強く感じた。
「あれが何なのか、私には分かりません。ただ、少なくとも私の知る魔力と同じものだとは思えない」
「森へ向かっていた時に感じたものか?」
アルベルトの問いに、ヴィクトリアは頷いた。
「おそらくは」
零も自分の手へ目を落とした。
「……僕も、よく分からない。ずっと前からあったけど、ガルド師匠のところで少しだけ使い方が分かるようになっただけだから」
そして零の中には、それとは別に、この世界へ来て初めて知った力も存在している。
魔力。
以前、この屋敷の訓練場で魔法を使おうとした時、零自身もそれが自分の中にあることは感じていた。
けれど、魔法は発動しなかった。
「零には魔力もある。だが、以前試した時には魔法を使えなかった」
ヴィクトリアはそこまで話すと、僅かに表情を険しくした。
「この世界の人間ではないこと。正体の分からない力を持っていること。そして、あの魔狼との関係……事情は私たちが考えていた以上に複雑なのかもしれません」
アルベルトも少し考えたあと、低い声で答える。
「この件を、不用意に外へ出すべきではないな」
「私もそう思います」
ヴィクトリアは迷わず頷いた。
零に悪意があるかどうかとは、別の問題だった。
別の世界から来た人間が存在し、誰も知らない力を持っている。その事実が広まれば、興味だけで近づく者ばかりとは限らない。
危険視する者もいるだろう。
その力を利用しようとする者が現れる可能性もある。
そして何より、零自身の意思とは関係なく、大きな何かへ巻き込まれることも考えられた。
「ですが、分からないままにしておくのも危険です」
ヴィクトリアは零を見る。
幼い頃、制御できなかった力によって何が起きたのか。
今は以前より扱えるようになっているとはいえ、その正体すら分かっていない。
「調べた方がいいと思います。零自身のためにも」
「……調べられる人がいるの?」
零の問いに、ヴィクトリアは答えようとして――止まった。
その瞬間、零はヴィクトリアから伝わってくるものが僅かに揺れたのを感じた。
怒りでも、嫌悪でもない。
むしろ、その奥にあるものは確かな信頼に近い。
それなのに、そこへどうにも言葉にしづらい気の重さが混ざっている。
零には、その理由までは分からない。
ただ一つ分かったのは、ヴィクトリアがこれから口にしようとしている相手を信用していながら、できれば頼りたくないと思っているらしいことだった。
アルベルトも娘の僅かな沈黙を見逃さなかった。
「一人、いるのではないか?」
「…………います」
やはり、声が重い。
零はヴィクトリアを見つめる。
「……嫌そうだね」
「気のせいだ」
「でも、すごく嫌そう」
「気のせいだ」
二度言った。
けれど、零に伝わってくるものは変わらない。
「嫌いなの?」
「嫌いではない」
そこだけは即答だった。
その言葉と同時に伝わってきた感情にも、嘘は感じなかった。
「……じゃあ、仲が悪い?」
「…………」
今度は答えがない。
「ヴィクトリア?」
ヴィクトリアはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「零。世の中には、信用できることと気が合うことが必ずしも一致しない相手がいるんだ」
妙に実感の籠もった言葉だった。
アルベルトは小さく息を吐き、エレノアは困ったように笑っている。
「実力は疑いようがない。それに、未知のものに関する知識で、あの人以上の者を私は知らない。何より……こういう話を任せられる程度には口も堅い」
「信用してるんだ」
「ああ。そこは疑っていない」
零は僅かに首を傾げた。
やはりヴィクトリアから感じるものにも、相手への不信はない。
なのに、会わせることには明らかに気が進んでいない。
「……なのに、会いたくないんだ」
「零」
「……何?」
「君は時々、妙なところで鋭いな」
「……?」
理由の分からない零が首を傾げると、ヴィクトリアは小さく息を吐いた。
できることなら頼りたくない。
ましてや、零を直接会わせるとなればなおさらだ。
あの人物の性格を考えれば、何が起こるか分かったものではない。
それでも。
別の世界から来た零と、その身に宿る未知の力。
その正体を探るために必要な知識を持ち、なおかつ零の秘密を任せられる人物となれば、思い浮かぶのは一人しかいなかった。
「……分かった。私から話を通そう」
零がヴィクトリアを見上げる。
「誰?」
ヴィクトリアはすぐには答えなかった。
その名前を口にすることすら、どこか気が進まないように見える。
やがて観念したように、小さく息を吐いた。
「――ルシエラ・エレノワール」
王国において、その名を知らぬ者はほとんどいない。
三帝が一人。
――魔帝、ルシエラ・エレノワール。




