第八章 頂への挑戦(後編)
「君が望んだ――剣帝を」
――空気が変わった。
ヴィクトリアが大剣を構えた、それだけだった。
だというのに、零には目の前にいる人物が先ほどまでとはまるで別人になったように感じられた。
足の位置、重心、呼吸。そのすべてに無駄がなく、ガルド師匠のもとで三か月を過ごして身体の使い方を知ったからこそ、その構えに隙がないことが分かる。
どこから踏み込んでも、あの大剣が待っている。
それでも零の口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
怖くないわけではない。目の前に立っているのが、自分より遥かに強い存在だということも分かっている。
それなのに胸の奥では、恐怖よりも強い何かが膨らんでいた。
もっと見たい。もっと知りたい。
自分の知らない強さを――剣帝と呼ばれるヴィクトリアが、どこまで高い場所にいるのかを。
「……行くよ」
「ああ」
零が地面を蹴った。
黄金の瞳でヴィクトリアを捉えたまま一気に間合いを詰め、地面から足、腰、背中、肩へと力を繋いで右拳を放つ。
だが、ヴィクトリアの大剣が僅かに動いただけで、拳が届くより早く巨大な刀身が進路を塞いだ。
「っ……!」
零は踏み込みを止めて身体を沈めた。直後、頭上を大剣が横薙ぎに通過し、その風圧だけで黒髪が大きく揺れる。
すぐさま懐へ潜り込もうとするが、ヴィクトリアはすでに半歩下がっていた。
追って拳を放つ。
避けられれば左から右へ繋ぎ、蹴りを挟んでさらに拳を重ねる。
それでも届かない。
ヴィクトリアは必要最低限の動きだけで零の攻撃を外し、そのたびに大剣の切っ先が進路を塞いだ。
刃は向けられていない。それでも当たればただでは済まないことくらい分かる。
(近づけない)
素手で戦っていた時とは、まるで違う。
剣という一本の武器が加わっただけで、ヴィクトリアを中心とした空間そのものが支配されているようだった。無理に入れば先に剣が届き、間合いを外せば追われる。
それでも零は止まらず、剣をかわしながら僅かな隙を探し続けた。
その姿を見ていたガルドが、口元を僅かに上げる。
三か月前なら、とっくに終わっていただろう。
ただ速く、ただ強いだけで、身体の使い方すら知らなかった零が、今は剣帝を前にして考えながら動いている。
「まだ遠いな」
ガルドが呟いた直後、零の頬のすぐ横を大剣が通り過ぎた。
紙一重でかわすが、その回避先にはすでにヴィクトリアがいる。
「遅い」
迫る大剣の腹を、零は両腕を交差させて受けた。
「――っ!」
身体が浮き、数メートルほど地面を滑って片膝をつく。
まともに斬られたわけでもなく、ヴィクトリアも力を抑えている。それでも両腕には痺れが残るほど重い。
零はゆっくりと立ち上がり、黄金の瞳でヴィクトリアを見つめた。
まだ見えていない。
自分が知りたいものは、こんなものではない。
「……ヴィクトリア」
「なんだい?」
「もっと先を、見せて」
ヴィクトリアの青い瞳が僅かに細められた。
やがて彼女は、その言葉に応えるように大剣を静かに構え直す。
「――いいだろう。ならば、ついてこい」
「……うん」
零は息を吐き、自分の内側へ意識を向けた。
もっと深く。
今よりも、もう少しだけ。
身体の奥底にある力へさらに手を伸ばした瞬間、零の周囲を満たす気配が膨れ上がった。
「……おいおい。まだ上がんのかよ」
ガルドの目が鋭くなる。
ヴィクトリアも動かず、目の前の零を見つめていた。
すでに黄金へ染まっていた瞳がさらに強く輝いている。黒髪に変化はないが、その小さな身体から感じる圧力は明らかに先ほどまでとは違っていた。
「……それが、君の全力か?」
「分からない。どこまで出せるのか、僕も知らないから」
「そいつはまだ、自分の力が何なのかすら知らねぇからな」
ガルドの言葉に、ヴィクトリアが小さく息を吐く。
「……本当に、君はどこまで行くつもりなんだろうね」
答えはない。
零自身にも分からない。ただ今は、目の前にある頂へ少しでも近づきたかった。
地面が爆ぜるような勢いで踏み込み、空気を裂く拳を放つ。
ヴィクトリアがかわす。
零は止まらず、拳から蹴りへ、蹴りから次の踏み込みへと身体を繋げ、その勢いを殺さず攻撃を重ねていく。
三か月かけて叩き込まれた動きに、膨大な力が重なっていた。
先ほどより明らかに速い。
それでも、当たらない。
拳はヴィクトリアの頬を掠める直前で空を切り、次の攻撃も、その次も、まるで放つ場所を先に知られているかのようにかわされていく。
(違う)
三か月前の零なら、そう思ったかもしれない。
だが今は分かる。
ヴィクトリアは未来を見ているわけではない。
視線や呼吸、足の向き、重心、肩と腰の僅かな動き――攻撃が始まる前に生まれる無数の兆候を読み取っている。
さらに厄介なのは、それだけではなかった。
(……誘われてる)
自分で選んだと思った場所へ踏み込めば、そこにはすでに剣がある。かわした先にはヴィクトリアがいる。
こちらが動かされているのだ。
ガルド師匠との修行を経たからこそ、それが理解できる。
そして理解できるからこそ、その異常さも分かった。
「……すごい」
思わず零の口から零れる。
「戦っている最中だよ、零」
「うん」
返事をしながら、また踏み込む。
今の自分では、まだ届かない。
それが悔しいのに、不思議と胸は高鳴っていた。
もっと強くなれば。
もっと身体を使えるようになれば。
もっとこの力を知れば。
いつか――。
そう考えた瞬間、ヴィクトリアが大きく後ろへ下がった。
零も追わない。
二人の間に距離が生まれ、それまでとは違う空気が流れる。
「零」
「……うん」
大剣を構えたヴィクトリアが、静かに告げる。
「……歯を食いしばれ」
「…………」
何かが来る。
そう悟った零は腰を落とし、黄金の瞳でヴィクトリアの全身を見据えた。
呼吸も、足も、肩も、剣も、一つとして見逃さない。
ヴィクトリアはまだ目の前にいる。
その唇が動いた。
「――天華流」
零の意識が研ぎ澄まされる。
何が来る。
どこから来る。
僅かな動きすら逃さぬよう目を凝らし――ほんの一瞬、瞬きをした。
瞼が開く。
「――っ?」
いない。
目の前にいたはずのヴィクトリアが、消えている。
気配を探すより早く。
「《瞬華》」
声がした。
後ろから。
「――!」
振り向く暇はなかった。
脇腹へ、大剣の腹による徹底して制御された一撃が叩き込まれる。
それでも意識を刈り取るには十分だった。
視界が揺れ、黄金の光が薄れて瞳が元の漆黒へ戻っていく。
(……見えなかった)
それを最後に、零の意識は途切れた。
◇
最初に感じたのは、身体の横に残る鈍い痛みだった。
「……ん」
零がゆっくり目を開くと、空と木々が見えた。少し離れたところでは、ガルドが腕を組んで立っている。
「起きたか」
「……ガルド師匠」
「気分は?」
「……ちょっと痛い」
「そりゃそうだろ」
身体を起こして脇腹に手を当てる。
折れてはいない。ただ、重いものをぶつけられたような痛みが残っていた。
そこで、途切れる直前の記憶が戻ってくる。
天華流。
目の前から消えたヴィクトリア。
後ろから聞こえた声。
「ヴィクトリア」
「ここだよ」
振り向けば、少し離れた場所にヴィクトリアがいた。大剣はすでに収められている。
「何したの?」
「最後のことかい?」
「うん。見てたのに、いなくなった。どこに行ったのか、全然分からなかった」
ヴィクトリアは零の様子を確認してから、その前へ歩いてきた。
「人間は、瞬きを完全になくすことはできない。どれほど集中して相手を見ていても、必ず一瞬だけ視界が閉ざされる」
「……瞬き?」
「ああ。君も最後、私を見ていただろう?」
「……うん」
「そして、瞬きをした。君が目を閉じたその瞬間に、私は動いたんだ」
零の目が僅かに見開かれる。
先ほどヴィクトリアが立っていた場所から、自分が倒れていた場所へ視線を移した。
「……瞬きしてる間に、あそこから僕の後ろまで?」
「ああ」
「僕が瞬きするのも、分かってたの?」
「最初から正確な瞬間が分かっていたわけではないよ。呼吸や視線、瞼の僅かな動きを見ながら、その瞬間を待つんだ」
ヴィクトリアは続ける。
「相手の瞬きを読み、その一瞬に合わせて踏み込む。そして視界が戻るより先に死角へ抜ける。言葉にしてしまえば、それだけの技だよ」
零は先ほどの光景を頭の中でもう一度辿った。
仕組みだけなら単純だ。
けれど実際には、相手の瞬きを読む目と、一瞬で間合いを詰める速度、身体をぶらさず死角へ抜ける技術――そのすべてが必要になる。
「僕が見えなかったんじゃなくて……ヴィクトリアが、見えない時を選んだんだ」
ヴィクトリアの口元が僅かに緩む。
「そういうことだ」
「……天華流って?」
「私の剣術だよ。誰かから受け継いだ流派ではない」
ヴィクトリアは大剣の柄へ手を添えた。
「師匠から教わった身体の使い方も、これまで戦場で学んだことも、自分で積み重ねてきたものも。その全てを私なりに磨いて、剣へ落とし込んだ」
「昔っからそういう奴だったからな」
ガルドが口を挟む。
「一つ教えりゃ、そのまま使わねぇ。勝手に弄って、自分が使いやすい形にしやがる」
「師匠、その言い方はどうなんです?」
「事実だろ」
「否定はしませんが」
天華流。
ヴィクトリアだけの剣。
そして《瞬華》。
零の黒い瞳が、再び興味に輝く。
「……もう一回」
「駄目だ」
即答だった。
「君は今、一度意識を失ったんだよ。今日は終わりだ」
「……もう一回だけ」
零の眉が、ほんの少しだけ下がった。
「っ……」
黒い瞳が僅かに上目遣いでこちらを見ている。
本人にそのつもりなどなく、ただ純粋にもう一度見たいだけなのだろう。
分かっているのに、一瞬だけ許してしまいそうになった。
(……これは、ずるいな)
「おいヴィクトリア。今、負けかけただろ」
「負けていません!」
「いや今の間は危なかったぞ」
「気のせいです」
「……?」
零だけが意味を理解できず、首を傾げる。
ヴィクトリアは咳払いを一つした。
「そんな顔をしても駄目だよ、零」
「……どんな顔?」
「それを自覚していないのが一番厄介なんだよ……」
「?」
「とにかく今日は終わりだ。痛みは?」
「まだ少し」
「明日になっても残るようなら、必ず言うんだよ」
「……分かった」
零が頷くと、ヴィクトリアはようやく安心したように息を吐いた。
零の服は土と汗で汚れ、ヴィクトリアも同じような状態だった。
「お前ら、そのまま下りんのか?」
ガルドが呆れたように言う。
「風呂入ってから帰れ。汗臭ぇぞ」
「師匠」
「事実だろ」
「……僕も?」
「お前もだ」
零は自分の服の匂いを確かめようとして、ヴィクトリアに止められた。
「やめなさい」
「……うん」
三人は家へ戻る。
道中、ヴィクトリアは隣を歩く零を何度か見た。
三か月前、この山へ連れてきた時の零は必要なこと以外ほとんど口にせず、笑うことも、自分から何かを望むことも少なかった。
それが今は、強くなりたいと言い、悔しがり、楽しみ、もっと見たいと願う。
「ヴィクトリア?」
「いや」
ヴィクトリアは柔らかく笑った。
「師匠に預けて正解だったと思ってね」
零は少し前を歩くガルド師匠を見る。
三か月の間、何度も拳を向け、何度倒されても立てと言ってくれた人。
「……うん」
小さく、それでも迷いなく頷いた。
◇
家へ戻ると、ガルドは二人に風呂を使うよう言い、自分は夕食の準備をすると台所へ向かった。
零は着替えを手に取り、ヴィクトリアとともに浴室へ向かう。
そして脱衣所へ入ったところで、足を止めた。
「どうしたんだい?」
「……ヴィクトリアも入るの?」
「ああ」
「……一緒に?」
「そうだが?」
零は考える。
侯爵家で用意された女性用の服に、使用人たちから呼ばれていた「お嬢様」。そして少し前まで、ガルド師匠も自分を「嬢ちゃん」と呼んでいた。
「……ヴィクトリア」
「なんだい?」
「僕――」
「ああ、そうか」
何かに気づいたようにヴィクトリアが頷いた。
「恥ずかしいんだね?」
「……違う」
「気にする必要はないよ。私たちは同じ女同士なんだから」
「…………」
確定した。
ヴィクトリアは、自分を女だと思っている。
「……ヴィクトリア」
「ふふ」
「……なに?」
「いや。零にも、こういうところがあるんだと思ってね」
「こういうところ?」
「恥ずかしがったりするところだよ」
「……恥ずかしいわけじゃない」
「無理をしなくていい。私も気にしないから」
「僕が気にするんだけど」
「?」
ヴィクトリアが首を傾げる。
「とりあえず、先に言いたいことが――」
「仕方のない子だな」
「え?」
ヴィクトリアの姿が揺らいだ。
次の瞬間には目の前に立っており、同時に零の上着が消えていた。
「…………」
ヴィクトリアの手には、先ほどまで零が着ていた上着が握られている。
「……速い」
思わず感想が漏れた。
王国最強の一角たる剣帝が誇る技量の、あまりにも無駄な使用だった。
用途は最悪だったが。
「これならもう諦めもつくだろう?」
「だから僕、さっきから言おうと思ってたんだけど」
「うん?」
零はヴィクトリアを見上げた。
「僕、男だよ」
「…………」
世界が止まった。
少なくとも、ヴィクトリアにはそう感じられた。
「……男?」
「うん」
「…………男?」
「うん」
ヴィクトリアは零の顔を見て、身体へ視線を落とし、もう一度顔を見る。
「……いつから?」
「生まれた時からだけど」
「そういう意味じゃない!!」
脱衣所に声が響き、零が少しだけ目を丸くした。
「じゃあ、どういう意味?」
「君は……君は……!」
言葉が続かない。
今まで目の前にいたのは、美しく、可愛らしく、どこか放っておけない年下の少女だと思っていた。
だが実際には、自分より二つ年下の少年だった。
そう認識した途端、中性的で整った顔立ちも、艶やかな黒髪も、こちらを見上げる大きな黒い瞳も、何一つ変わっていないはずなのに違って見える。
「と、とにかく服を着なさい!」
「脱がせたのヴィクトリアだけど」
「いいから着なさい!」
「……うん」
零は素直に上着を受け取る。
ヴィクトリアは勢いよく背を向けた。
「風呂は別々だ!」
「……最初からそう言ってるんだけど」
「…………」
確かに、思い返せば零は一緒に入ることを嫌がっていた。
それを勝手に恥ずかしがっていると勘違いしたのは自分だ。
その背中を見ながら、零は僅かに眉を寄せる。
昔から、人の感情が揺れると零にはなんとなくそれが分かった。
言葉や考えていることが読めるわけではない。ただ、怒りや悲しみ、喜びや嫌悪といった大まかな気配だけが、ぼんやりと伝わってくる。
今のヴィクトリアから感じるものは、そのどれとも少し違っていた。
ひどく落ち着かず、大きく揺れている。それでも嫌な感じはなく、少なくとも自分を嫌っているようには感じなかった。
(……なんだろう)
こんなヴィクトリアの気配は初めてだった。
「……ヴィクトリア」
「な、なんだい?」
呼びかけただけで、その揺れが僅かに大きくなる。
「……僕、何かした?」
「してない!」
「……でも」
「何もしていない! 君は何も悪くないから、そんな顔をするな!」
怒ってはいない。
それは分かるからこそ、余計に理由が分からない。
「……分かった」
零がそう答えると、ヴィクトリアの気配がほんの少しだけ落ち着いた。
「それより零。君は……私が君を女の子だと思っていたことに、いつ気づいたんだ?」
「……侯爵家にいた時。服とか、お嬢様って呼ばれてたから」
「最初からじゃないか!!」
「……でも、別に困らなかったし」
「私が困っているんだ!」
「……なんで?」
「なんででもだ!」
また気配が揺れ、零は首を傾げる。
「なぜ言わなかったんだ……」
「……聞かれなかったから」
「…………」
ヴィクトリアは天井を仰いだ。
「……少し、師匠と話をしてくる」
「ガルド師匠?」
「ああ」
声は妙に落ち着いている。
だが、零にも分かる。まったく落ち着いていない。
脱衣所を出ていくヴィクトリアの背中を見送りながら、零は思った。
――ガルド師匠が危ない気がする。
◇
「師匠!」
「あぁ?」
台所で夕食の準備をしていたガルドが、面倒そうに振り返る。
ヴィクトリアは真っ直ぐその前まで歩いていった。
「零が男だと知っていたんですか!?」
「ああ? 知ってるぞ」
あまりにもあっさりした返事に、ヴィクトリアの動きが止まる。
「……知って、いた?」
「だからそう言ってんだろ」
「いつからです?」
「いつだったか……修行始めてすぐだったか? 本人に言われた」
「本人に!?」
「ああ。俺も嬢ちゃんって呼んでたからな。零の奴、『僕、女の子じゃないよ』とか言いやがって」
ガルドは当時を思い出したのか、愉快そうに笑った。
「いやぁ、ありゃ驚いたぞ。あの面で男だからな」
ヴィクトリアは笑えない。
「……師匠。なぜ私に言わなかったんです?」
「ん?」
「零が男だということです!」
ガルドは数秒ほどヴィクトリアを見てから、首を傾げた。
「言ってなかったか?」
「…………」
ヴィクトリアのこめかみが僅かに引きつる。
「言ってません!」
「そうだったか?」
「そうです!」
「まあ、別にどうでもいいだろ。男でも女でも零は零だ」
「よくありません!」
即答したヴィクトリアに、ガルドが目を瞬く。
「なんでだ?」
「それは……!」
言いかけて止まる。
なぜ困るのか。
同じ部屋で過ごしたことがあるから。
女性用の服を用意したから。
先ほど一緒に風呂へ入ろうとしたから。
それどころか、恥ずかしがっているのだと思い込み、服まで――。
「…………っ!」
「お前、どうした?」
「なんでもありません!」
「顔赤ぇぞ」
「赤くありません!」
「赤いだろ」
「赤くありません!」
押し切ろうとするヴィクトリアを怪訝そうに眺めていたガルドが、やがて何かに気づいたように目を細めた。
「……まさか、今まであいつを嬢ちゃんだと思ってたのか?」
「…………」
答えない。
それが答えだった。
一拍置いて、家全体が震えそうな笑い声が響いた。
「がっはっはっはっはっ!!」
「師匠!」
「こりゃ傑作だ!」
「笑い事ではありません!」
「いや、笑うだろこれは!」
「何がおかしいんですか!」
「全部だ!」
「師匠!!」
そこへ。
「……何してるの?」
二人が同時に振り向く。
廊下の入口に、服を着直した零が立っていた。
「零」
「……うん」
「どうしてここに?」
「声が聞こえたから」
当然だった。
あれだけ叫べば聞こえる。
零は二人を交互に見た。
「……喧嘩?」
「違う」
「違ぇよ」
二人の返事だけは綺麗に重なる。
「……そう」
ならいいかと思ったものの、ヴィクトリアから感じる気配は先ほどよりさらに乱れていた。
「……ヴィクトリア。やっぱり僕、何かした?」
「していない! 君は何もしていない。本当に何もしていないから、気にしなくていい!」
「……そう?」
「ああ!」
「……なら、いいけど」
そんな二人を見比べ、ガルドが口元をにやりと歪める。
「なるほどなぁ」
「師匠」
「俺ぁ何も言ってねぇぞ?」
「顔が言っています」
「気のせいだ」
ヴィクトリアは鋭く睨むが、ガルドはどこ吹く風だ。
零だけがまた首を傾げていた。
◇
風呂は当然ながら別々になった。
食事を終え、帰り支度を整える頃には、山を照らしていた陽も少しずつ傾き始めていた。
三か月を過ごした家の前に立ち、零は荷物を背負う。
持ってきた時より何かが増えたわけではない。それでも不思議と、三か月前と同じ場所には思えなかった。
「忘れもんはねぇな?」
「……たぶん」
「たぶんってなんだ」
「忘れてたら、今は分からないから」
「そりゃそうだがよ」
ガルドが呆れたように頭を掻く。
そのやり取りを見て、ヴィクトリアが小さく笑った。
三か月前なら、こんな会話はなかった。
ガルドが何かを言い、零がそれに返す。たったそれだけのことが、今では当たり前になっている。
「それじゃあ、行こうか」
「……うん」
ヴィクトリアに促されて歩き出した零は、数歩進んだところで足を止めた。
「……ガルド師匠」
「あ?」
振り返り、少しだけ迷ってから口を開く。
「また来てもいい?」
ガルドは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつものぶっきらぼうな顔へ戻った。
「好きにしろ。別に門なんざねぇ。来たきゃ勝手に来い、追い返しゃしねぇよ」
零の表情が僅かに緩む。
「……うん」
「ただし、次来る時までに鈍ってたら一からやり直しだからな」
「……鈍らないよ」
「言ったな?」
「うん」
即答すると、ガルドは満足そうに鼻を鳴らした。
「なら、とっとと行け」
「……またね、ガルド師匠」
「おう」
それだけだった。
大げさな別れの言葉も、感傷的なやり取りもない。
けれど零には、それで十分だった。
ここには、また来られる。
そう思えるだけでよかった。
零はもう一度だけ小さな家を振り返ると、ヴィクトリアとともに山道を下り始めた。
◇
木々の間を抜ける風が、二人の髪を揺らしていく。
行きに通った時と同じ道のはずなのに、零には少し違って見えた。
三か月前はヴィクトリアの後ろをついて歩いていたが、今はその隣を歩いている。
ただ、先ほどから妙に静かだった。
零が隣を見ると、視線が合う直前にヴィクトリアが前を向く。
しばらくしてもう一度見れば、今度は確かに目が合ったものの、僅かに肩を強張らせてまた顔を逸らされた。
(……やっぱり変だ)
しかも、脱衣所から感じている気配の揺れも続いている。
怒りでも嫌悪でもない。それなのに、零が近づいたり顔を向けたりするたびに大きくなる。
零は足を止めた。
「……ヴィクトリア」
「な、なんだい?」
数歩先でヴィクトリアも立ち止まり、振り返る。
「……僕のこと、嫌になった?」
「そんなわけがないだろう!」
あまりに早い返事が山道に響き、零が目を丸くする。
「……すまない」
「ううん。でも、ずっと変だから。僕が近づくと、ヴィクトリアの感じが変わる」
「……感じ?」
「さっきも言ったけど、何を考えてるのかは分からないよ。ただ……嫌な感じじゃないのに、ずっと落ち着かないから」
ヴィクトリアは言葉を失った。
「だから、僕が男だったのが嫌だったのかなって」
「違う!」
またしても即答だった。
「君が男であろうと女であろうと、それで君を嫌う理由にはならない」
「……本当?」
「もちろんだ」
その言葉に嘘がないことは、零には分かった。
僅かに力が抜け、自然と小さな笑みが浮かぶ。
「……そう。なら、いい」
「…………っ」
ヴィクトリアの胸が妙に大きく跳ねた。
それを感じ取った零が首を傾げる。
「……また変わった」
「言わなくていい!」
「……うん」
ヴィクトリアは顔を背けた。
この少年の前では、下手に動揺することすらできないらしい。
(なぜ私は、こんなにも動揺しているんだ……?)
今まで少女だと思っていた相手が、実は自分より二つ年下の少年だった。驚くのは当然だろうし、先ほどの風呂の件もある。
しばらく意識してしまうのも仕方がない。
きっと、それだけだ。
そう自分に言い聞かせ、ヴィクトリアは再び歩き出した。
やがて山道が緩やかになり、木々の向こうに麓へ続く景色が見え始めた頃。
「あ」
ヴィクトリアが足を止める。
「……どうしたの?」
「一つ、大事なことを忘れていた。……父上と母上も、君を女の子だと思っている」
「……うん」
「……知っていたのか」
「うん」
「使用人たちもだ」
「たぶん」
ヴィクトリアは目を閉じた。
侯爵家の人間のほぼ全員が零を少女だと思っている。そして当の本人は、それを知りながら何も言わなかった。
「……零。今度は、自分で説明してくれ」
少し考えてから、零は素直に頷く。
「……分かった」
「絶対だよ?」
「うん」
「私が説明することにならないようにしてくれ」
「……そんなに嫌?」
「嫌というより……とにかく、頼む」
「分かった」
二人は再び並んで歩き始める。
山を下りれば、侯爵家へ戻る。
けれど零の胸に、以前のような重苦しさはなかった。
ここへ来たければ、また来ればいい。
ガルド師匠はそう言ってくれた。
そして侯爵家にも、自分を待ってくれている人たちがいる。
零は一度だけ振り返った。
木々に隠れ、もう小さな家は見えない。それでも僅かに笑うと、前へ向き直った。
その隣を、ヴィクトリアが歩いている。
二人の距離は、行きとほとんど変わらない。
ただヴィクトリアだけが、その距離を以前より少し近く感じていた。
「……あ」
「どうしたんだい?」
零は何かを思い出したように、ヴィクトリアを見上げる。
「そういえば、まだ言ってなかった」
「何を?」
「ヴィクトリアに」
「私に?」
「うん」
少しだけ間を置いてから、零は口を開いた。
「あの時、僕を助けてくれてありがとう」
ヴィクトリアの足が僅かに止まる。
「あの時……?」
「森で」
その一言で伝わった。
三か月前、漆黒の魔狼が現れたとされる森で、一人倒れていた零を見つけた日のこと。
傷だらけで、ようやく目を覚ました時には、その瞳から生きる意志さえ失われていた――あの日の零。
「あの時ヴィクトリアが見つけてくれなかったら、僕……どうなってたか分からないから」
「零……」
「それだけじゃなくて」
侯爵家へ連れてきてくれた。
何も聞かずに休ませてくれた。
食事を用意し、外へ出るきっかけをくれて、ガルド師匠と出会わせてくれた。
この世界で何も持っていなかった零の手を、最初に取ってくれたのはヴィクトリアだった。
一つ一つ言葉にはしなかったが、今なら分かる。
あの時からずっと、自分はヴィクトリアに助けられていた。
「……ありがとう、ヴィクトリア」
そう告げた零の表情が、ゆっくりと綻んだ。
侯爵家で初めて見せた小さな笑みとも、ガルド師匠との修行の中で浮かべるようになった笑顔とも少し違う。
悲しみが消えたわけではない。両親を失った痛みも、過去も、何一つなくなったわけではない。
それでも、もう俯いてはいなかった。
自分の足で立ち、自分の意思で行きたい場所を見つけ、前へ進もうとしている。
そんな今の零だからこそ浮かべられる、柔らかく、どこか晴れやかな笑顔だった。
「僕、ヴィクトリアのこと大好きだよ」
「――――」
ヴィクトリアの思考が止まった。
三か月前、森で見つけた零は傷だらけで、目を覚ました後も深い絶望の中にいた。
その零が今、自分を見て笑っている。
前を向いている。
それだけでも胸に込み上げるものがあったというのに、少女と見紛うほど整ったその顔で、今まで見たことのないほど晴れやかに笑いながら――大好きだと。
「…………っ」
無理だった。
ヴィクトリアは咄嗟に顔を逸らした。
頬が熱い。耳まで熱い。
先ほど向けられた笑顔が、頭から離れない。
(なんなんだ、今のは……!)
不意打ちにも程がある。
剣を交えていた時なら、どれほど速い攻撃であろうと読む自信がある。呼吸や視線、重心から、相手が動き出すより先に兆候を読み取ればいい。
だが、今の一撃には――何の備えもできなかった。
「……ヴィクトリア?」
当の本人は、自分が何をしたのかまるで分かっていない。
「……暑い?」
「ち、違う!」
「じゃあ――」
「零!」
「……なに?」
「君は……!」
そんな言葉を簡単に口にするものではない。
そう注意しようとして、ヴィクトリアは言葉を飲み込んだ。
零の黒い瞳には欠片ほどの邪念もなく、ただ純粋に感謝と好意を伝えただけなのだ。
だからこそ余計に質が悪い。
しかも、ヴィクトリアから伝わってくる感情の気配が今までで一番大きく揺れ、零はまた首を傾げた。
「……また変わった」
「今は気にしなくていい!」
「……そう?」
「ああ!」
嫌な気配ではない。
それだけ分かれば、零には十分だった。
「……分かった」
小さく頷き、零は再び前を向く。
その足取りに、もう三か月前の迷いはない。
少しずつではある。
それでも確かに、自分の意思で前へ進んでいる。
ヴィクトリアはその背中を見つめながら、零が男の子だと知ったばかりだから、突然あんなことを言われたからだと、自分に言い聞かせる。
「ヴィクトリア?」
少し先から零が振り返った。
先ほどと同じ、柔らかな笑みを浮かべながら。
「――っ」
また胸が跳ねる。
「……行こう?」
「……ああ」
どうやら、自分に言い聞かせるだけではしばらく収まりそうになかった。
二人は再び並んで歩き出す。
何も知らない零は、前を向いて。
その隣ではヴィクトリアだけが、いつまでも高鳴る鼓動の理由を分からないまま。
二人はゆっくりと、山を下りていった。




