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愛知県警の真壁彰(まかべあきら)巡査がベンチに腰かけている。

ベンチがある廊下は薄暗く、空気も冷たさを感じる。

平日昼の大学構内だというのに、学生の姿はおろか、人気も全くない。

真壁が腕時計を確認する。そろそろ解剖が終わる頃だ。

二日前に場水駅のベンチで発見されたホームレスの死体は、

この豊美(ほうみ)大学の医学部へ運ばれた。

現在、監察医である臼井(うすい)教授の元、死体の解剖が進められている。

解剖室の執刀中のランプが消えてから程なくして、白衣姿の臼井教授が出て来た。

眼光の鋭い目に、無精ひげをたくわえ、口を堅く結んでいる。

知らない人が見れば、真壁より臼井教授の方を警察と勘違いするだろう。

臼井はポケットに両手を入れたまま、真壁に顎で解剖室に入るように促す。

部屋の中央に解剖の終えた遺体があった。

蒼白の肌の腹部には縫合された跡がある。

中でも目を引いたのは、首元にある鬱血痕だった。

「十中八九、他殺だなこれは」

臼井が乾いた声でそう告げる。

「見ての通り、首を絞められたことによる窒息死だ。

 一応念のため、胃の内容物の確認と血液検査をしたが、

 睡眠薬や毒物が使われた形跡はなかった」

真壁は返答に窮してしまう。

死因は老衰あたりだろうと思っていたのが、他殺だと聞かされ、困惑していた。

「他に聞きたいことはあるか?」

これ以上聞くべきことがあるのかと言いたい気持ちが、声音の端々から伝わる。

臼井教授が腕を組み、遺体をじっと見つめている。

早くこの件を終わらせて、研究に戻りたいといった感じだ。

「被疑者はどんな人間だと思われますか?」

監察医に聞くべきことでは無いと分かりながら、真壁は尋ねる。

真壁を睨んだ後、臼井はフッと鼻で笑う。

「断定は出来んが、あらかたホームレス同士の仲違いといった所じゃないか?

 まぁ、一般人という可能性も十分あるがな」

真壁と同じ意見だった。

ただ、ホームレス同士で殺し合わなければならない、その動機とは何だろうか。

食物を横取りされたとか?

浮かんだ考えが滑稽に思え、真壁は頭を振る。

「犯人逮捕はおたくらの仕事だ。やるべき事は尽くした。後はそちらに任せる」

真壁の肩を叩き、臼井教授は解剖室を出ていく。

照明が遺体の顔を照らし、不気味な陰影を作っている。

それが静かに笑っているように、真壁には見えた。


「おい、それは確かなのか?」

電話で解剖の結果を伝えた際の、上司の高根の一言はそれだった。

高根も同様に、ホームレスが殺されたのだとは思っていなかったのだろう。

大学のキャンパス内では、学生が楽しそうに談笑しながら歩いている。

真壁はそれを横目で見ながら、

高根の八つ当たりともとれる電話応対にうんざりした。

「臼井教授の見解です。

 首元にも扼殺の跡が見られますし、間違いないと思います」

しばらく沈黙した後、高根のため息が電話口から聞こえてくる。

「それだったら、間違いないんだろうな。

 しかし、厄介だな。ホームレス殺しとは。

 死体の身元もまだ分かっちゃいないし」

高根が途方に暮れている。

ホームレスというのもあってか、捜査へ充てられたのは僅かな人数だけだった。

その上、被害者が身元を示す物を何一つ所持していないのもあり、

捜査は遅々として進んでいない。

しかも、殺人事件だという。高根の嘆きも仕方のない事だった。

「これで人員、増員されますよね?

 流石に今の人数で捜査を進めるのは、無理ですよ」

「そんなこたぁ、分かってるよ。

 一応、上には話してみるが、あまり期待はするなよ」

鬱憤を発散させるように、電話が急に切られる。

自然と、真壁もため息をついてしまう。

なぜ警察になどなってしまったのかと、真壁は今更ながらに後悔していた。


「上の奴らは一体、何を考えているんだか。

 結局、人員は今のままで捜査を進めろだと。

 警察が人種差別していると言われても、仕方ないなこれは」

助手席に乗り、高根が愚痴りながら煙草を吹かしている。

その副流煙を真壁は吸い込み、咳込んでしまう。

高根はヘビースモーカーで、真壁は煙草を吸った経験すらないほどだ。

なぜこの先輩とペアにならないと行けないのか。

真壁は不服に思い、口を尖らせる。

真壁の運転する車は、ホームレスの死体が発見された場水駅へと向かっていた。

「でも、今の状況じゃ、それも仕方ないんじゃないです。

 向こうの方に人数取られて、こっちには人を回せないんですよ」

「だから、それが差別だって言ってんの。

 人の命に重い、軽いも無いっていうだろ。

 このことがマスコミにバレてみろ。とばっちりを食うのは俺達なんだからな」

右ひじで、真壁は肩を小突かれてしまう。

危うくハンドル操作を誤るところだった。

昨夜、名古屋市内に住む28歳の女性の遺体が廃工場で発見された。

衣服は乱れた状態で発見され、暴行された後での殺害の可能性が高い。

愛知県警に捜査本部が立ち、そちらに人員が割かれているのだ。

一般市民とホームレスで、こんなにも捜査への熱意が違うとは。

確かに人の命を天秤にかけていると言われても、反論のしようがないだろう。

真壁は小さく嘲ることしか出来ない。

「とりあえずは、被害者の身元と周辺人物の調査を進めろだと。

 ある程度、はっきりした事が解ったら、また人員の事は考えると。

 だから、その為の人が足りないって言ってんのに」

高根の愚痴に比例して、煙草を吸う本数が増えていく。

真壁の顔に、しきりに煙が襲い掛かって来る。

場水駅に到着し、近くのパーキングに車を停め、2人は現場のベンチへと向かう。

ベンチに特に汚れた形跡などは無い。

花などが手向けられてもいない。

これも命の重さは違うという証なのだろうか。

単にホームレス仲間が悼み、花を買う金が無いということだけなのか。

「まずは、ホームレスが棲みつきそうな公園あたりを回るか」

高根が周囲を見渡しながら言う。

大学生風の男が脇を通り、改札へと向かっていく。

「こんな所に、そんな公園なんてあるんですかね?

 立派なマンションが立ち並んでますけど」

真壁が林立するマンションを見上げる。

日差しの眩しさで、目を細めている。

「四の五の言わず、やるしかねぇだろう。ほら、スマホで周辺の公園を検索しろ」

真壁が怪訝そうにスマホを取り出し、グーグルマップで公園を検索する。

駅の北と南側に2つずつ公園があった。

どれも公園から歩いて行けるほどの距離にある。

まずは一番近い、北側の公園から回ることに決めた。

「よし、じゃあ行くぞ」

高根が颯爽と歩き出した。

「えっ、歩いて行くんですか?」

真壁が批難するような声音で言う。

正午に入り、陽炎が見えるような暑さになっている。

「お前、ちゃんと地図を見たのか?

 駐車場のありそうな公園じゃなかっただろう。

 車を停めて、もし駐禁でも取られたら、それこそ笑われ者だぞ」

高根は蔑むような眼を真壁に向け、振り返って歩いていく。

真壁は頭を垂れながら、高根の後を追った。


「これから、どうしますか?

 もっと捜査範囲を広げて調べます?」

真壁が額の汗を拭き、車内のエアコンの風量を最大にする。

二人とも、汗が滝のように出ている。

駅周辺の公園を調べてみたが、ホームレスが棲みついている様子は無かった。

念のために、公園にいた人に死んだホームレスの顔写真を見せ、

見かけたことは無いか。

また、死体が発見された前夜に、怪しい者を見なかったかを確認した。

しかし、それらしい人物を見たという証言は無かった。

犯人がもしホームレスなら、

死体を遺棄した後、遠くの公園などに逃げたのだろう。

もし一般人が犯人だとすると、なぜ駅前という目立つ場所に死体を遺棄したのか?

それは犯人がホームレスの場合にも、浮かんでくる疑問だった。

被害者は一体、何者なのか?

どこに住み、どんな暮らしをしていたのか?

なぜ、殺されなければならなかったのか?

とにかく、情報が無さすぎると真壁は思った。

「せめて、被害者がどこから来たのかが分かればな」

高根が頭を抱え、座席のシートに凭れる。眉間に皺を寄せ、思案している。

「歯の治療痕とかがあれば、そこから探せないですかね?」

真壁が苦し紛れに、案を出してみる。

解剖を担当した臼井教授からは、歯に治療痕があったとは聞いていない。

その可能性は薄いが、藁にも縋る思いで聞いてみるしかないと真壁は思った。

今の状況でどうすれば、被害者を特定できるのか。

二人は体中に流れる汗を拭きつつ、考えた。

「指紋とかはどうですかね?」

再度、ためらいがちに真壁が言う。

過去に犯罪歴があれば、警察のデータベースに残っている。

そこから追えないかと真壁は考えた。

高根が鋭い目で、真壁を見て来た。

突拍子もない考えに、批難されるかと思った。

「確かに、念のため調べて見ても良いかもな」

顎に手を当てながら、高根は小さく頷いた。

思ってもいない好感触に、真壁は胸を撫でおろす。

「分かりました。

 歯の治療痕と合わせて、臼井教授に確認してみます」

真壁は出口の見えない迷路の先に、小さな突破口を見つけた気がした。

その突破口は幻想に過ぎないかもしれない。

それでも、確かめてみる価値はあると思った。

「その件は、確認しておくとして、この先の捜査をどうやって進めるかだな」

高根が腕を組み、深いため息をつく。

妙案が浮かんでこないのだろう。

「やっぱり、捜査範囲を広げるしかないんじゃないですか?

 市内、もしくは県内まで広げて、ホームレスが住んでいる場所を探すしか」

目を細め、高根が唸っている。

捜査の人員が少ない中で、範囲を広げるのは非常に難しい。

時間と労力を費やしたとして、得られる情報は全く無いかもしれない。

そんな中で高値に判断をさせるのは、酷のように真壁は思った。

(とどろき)警視に判断を仰ぎますか?」

恐る恐る、真壁は進言してみる。

高根と轟は同期で、ありていに言えば、水と油だった。

キャリア組である轟はそれを鼻にかけ、

部下達のことを駒のようにしか見ていない。

その態度が、たたき上げである高根は許せないのだ。

同期だというのに、二人が話す姿を真壁は見たことがない。

それほどまでに、二人の関係は冷え切っている。

高根の顔がみるみる渋くなってきて、

余計なことを言ってしまったと真壁は後悔した。

体を流れていた汗が冷房で引き、むしろ寒さを感じるほどになっている。

悩んだ末、判断を仰ぐため、高根は轟警視に渋々電話を入れた。

会話が始まったかと思うと、直ぐに電話を終え、高根は携帯を下に叩きつけた。

「捜査の方針は、こちらに任せるだと。

 この件でわざわざ電話をして来るなと言わんばかりだった。

 例の殺人事件に掛かりっきりで、こっちの方なんて眼中にも無いんだろう」

怒りがおさまらず、高根はシートを拳で殴る。

真壁はその様子を見て、同情するしかなかった。

感情が落ち着いた高値と真壁は話し合い、

捜査範囲を広げる方向で進めることに決めた。

その方針をこの件で動いている、もう一つのチームに共有した。

陽は暮れ掛かっていた。

駐車場から道を隔てた歩道を老人が歩いている。

腰を曲げ、ゆっくりと歩を進めていく。

その老人に、亡くなったホームレスの姿を真壁は重ねていた。

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