3
愛知県警の真壁彰巡査がベンチに腰かけている。
ベンチがある廊下は薄暗く、空気も冷たさを感じる。
平日昼の大学構内だというのに、学生の姿はおろか、人気も全くない。
真壁が腕時計を確認する。そろそろ解剖が終わる頃だ。
二日前に場水駅のベンチで発見されたホームレスの死体は、
この豊美大学の医学部へ運ばれた。
現在、監察医である臼井教授の元、死体の解剖が進められている。
解剖室の執刀中のランプが消えてから程なくして、白衣姿の臼井教授が出て来た。
眼光の鋭い目に、無精ひげをたくわえ、口を堅く結んでいる。
知らない人が見れば、真壁より臼井教授の方を警察と勘違いするだろう。
臼井はポケットに両手を入れたまま、真壁に顎で解剖室に入るように促す。
部屋の中央に解剖の終えた遺体があった。
蒼白の肌の腹部には縫合された跡がある。
中でも目を引いたのは、首元にある鬱血痕だった。
「十中八九、他殺だなこれは」
臼井が乾いた声でそう告げる。
「見ての通り、首を絞められたことによる窒息死だ。
一応念のため、胃の内容物の確認と血液検査をしたが、
睡眠薬や毒物が使われた形跡はなかった」
真壁は返答に窮してしまう。
死因は老衰あたりだろうと思っていたのが、他殺だと聞かされ、困惑していた。
「他に聞きたいことはあるか?」
これ以上聞くべきことがあるのかと言いたい気持ちが、声音の端々から伝わる。
臼井教授が腕を組み、遺体をじっと見つめている。
早くこの件を終わらせて、研究に戻りたいといった感じだ。
「被疑者はどんな人間だと思われますか?」
監察医に聞くべきことでは無いと分かりながら、真壁は尋ねる。
真壁を睨んだ後、臼井はフッと鼻で笑う。
「断定は出来んが、あらかたホームレス同士の仲違いといった所じゃないか?
まぁ、一般人という可能性も十分あるがな」
真壁と同じ意見だった。
ただ、ホームレス同士で殺し合わなければならない、その動機とは何だろうか。
食物を横取りされたとか?
浮かんだ考えが滑稽に思え、真壁は頭を振る。
「犯人逮捕はおたくらの仕事だ。やるべき事は尽くした。後はそちらに任せる」
真壁の肩を叩き、臼井教授は解剖室を出ていく。
照明が遺体の顔を照らし、不気味な陰影を作っている。
それが静かに笑っているように、真壁には見えた。
「おい、それは確かなのか?」
電話で解剖の結果を伝えた際の、上司の高根の一言はそれだった。
高根も同様に、ホームレスが殺されたのだとは思っていなかったのだろう。
大学のキャンパス内では、学生が楽しそうに談笑しながら歩いている。
真壁はそれを横目で見ながら、
高根の八つ当たりともとれる電話応対にうんざりした。
「臼井教授の見解です。
首元にも扼殺の跡が見られますし、間違いないと思います」
しばらく沈黙した後、高根のため息が電話口から聞こえてくる。
「それだったら、間違いないんだろうな。
しかし、厄介だな。ホームレス殺しとは。
死体の身元もまだ分かっちゃいないし」
高根が途方に暮れている。
ホームレスというのもあってか、捜査へ充てられたのは僅かな人数だけだった。
その上、被害者が身元を示す物を何一つ所持していないのもあり、
捜査は遅々として進んでいない。
しかも、殺人事件だという。高根の嘆きも仕方のない事だった。
「これで人員、増員されますよね?
流石に今の人数で捜査を進めるのは、無理ですよ」
「そんなこたぁ、分かってるよ。
一応、上には話してみるが、あまり期待はするなよ」
鬱憤を発散させるように、電話が急に切られる。
自然と、真壁もため息をついてしまう。
なぜ警察になどなってしまったのかと、真壁は今更ながらに後悔していた。
「上の奴らは一体、何を考えているんだか。
結局、人員は今のままで捜査を進めろだと。
警察が人種差別していると言われても、仕方ないなこれは」
助手席に乗り、高根が愚痴りながら煙草を吹かしている。
その副流煙を真壁は吸い込み、咳込んでしまう。
高根はヘビースモーカーで、真壁は煙草を吸った経験すらないほどだ。
なぜこの先輩とペアにならないと行けないのか。
真壁は不服に思い、口を尖らせる。
真壁の運転する車は、ホームレスの死体が発見された場水駅へと向かっていた。
「でも、今の状況じゃ、それも仕方ないんじゃないです。
向こうの方に人数取られて、こっちには人を回せないんですよ」
「だから、それが差別だって言ってんの。
人の命に重い、軽いも無いっていうだろ。
このことがマスコミにバレてみろ。とばっちりを食うのは俺達なんだからな」
右ひじで、真壁は肩を小突かれてしまう。
危うくハンドル操作を誤るところだった。
昨夜、名古屋市内に住む28歳の女性の遺体が廃工場で発見された。
衣服は乱れた状態で発見され、暴行された後での殺害の可能性が高い。
愛知県警に捜査本部が立ち、そちらに人員が割かれているのだ。
一般市民とホームレスで、こんなにも捜査への熱意が違うとは。
確かに人の命を天秤にかけていると言われても、反論のしようがないだろう。
真壁は小さく嘲ることしか出来ない。
「とりあえずは、被害者の身元と周辺人物の調査を進めろだと。
ある程度、はっきりした事が解ったら、また人員の事は考えると。
だから、その為の人が足りないって言ってんのに」
高根の愚痴に比例して、煙草を吸う本数が増えていく。
真壁の顔に、しきりに煙が襲い掛かって来る。
場水駅に到着し、近くのパーキングに車を停め、2人は現場のベンチへと向かう。
ベンチに特に汚れた形跡などは無い。
花などが手向けられてもいない。
これも命の重さは違うという証なのだろうか。
単にホームレス仲間が悼み、花を買う金が無いということだけなのか。
「まずは、ホームレスが棲みつきそうな公園あたりを回るか」
高根が周囲を見渡しながら言う。
大学生風の男が脇を通り、改札へと向かっていく。
「こんな所に、そんな公園なんてあるんですかね?
立派なマンションが立ち並んでますけど」
真壁が林立するマンションを見上げる。
日差しの眩しさで、目を細めている。
「四の五の言わず、やるしかねぇだろう。ほら、スマホで周辺の公園を検索しろ」
真壁が怪訝そうにスマホを取り出し、グーグルマップで公園を検索する。
駅の北と南側に2つずつ公園があった。
どれも公園から歩いて行けるほどの距離にある。
まずは一番近い、北側の公園から回ることに決めた。
「よし、じゃあ行くぞ」
高根が颯爽と歩き出した。
「えっ、歩いて行くんですか?」
真壁が批難するような声音で言う。
正午に入り、陽炎が見えるような暑さになっている。
「お前、ちゃんと地図を見たのか?
駐車場のありそうな公園じゃなかっただろう。
車を停めて、もし駐禁でも取られたら、それこそ笑われ者だぞ」
高根は蔑むような眼を真壁に向け、振り返って歩いていく。
真壁は頭を垂れながら、高根の後を追った。
「これから、どうしますか?
もっと捜査範囲を広げて調べます?」
真壁が額の汗を拭き、車内のエアコンの風量を最大にする。
二人とも、汗が滝のように出ている。
駅周辺の公園を調べてみたが、ホームレスが棲みついている様子は無かった。
念のために、公園にいた人に死んだホームレスの顔写真を見せ、
見かけたことは無いか。
また、死体が発見された前夜に、怪しい者を見なかったかを確認した。
しかし、それらしい人物を見たという証言は無かった。
犯人がもしホームレスなら、
死体を遺棄した後、遠くの公園などに逃げたのだろう。
もし一般人が犯人だとすると、なぜ駅前という目立つ場所に死体を遺棄したのか?
それは犯人がホームレスの場合にも、浮かんでくる疑問だった。
被害者は一体、何者なのか?
どこに住み、どんな暮らしをしていたのか?
なぜ、殺されなければならなかったのか?
とにかく、情報が無さすぎると真壁は思った。
「せめて、被害者がどこから来たのかが分かればな」
高根が頭を抱え、座席のシートに凭れる。眉間に皺を寄せ、思案している。
「歯の治療痕とかがあれば、そこから探せないですかね?」
真壁が苦し紛れに、案を出してみる。
解剖を担当した臼井教授からは、歯に治療痕があったとは聞いていない。
その可能性は薄いが、藁にも縋る思いで聞いてみるしかないと真壁は思った。
今の状況でどうすれば、被害者を特定できるのか。
二人は体中に流れる汗を拭きつつ、考えた。
「指紋とかはどうですかね?」
再度、ためらいがちに真壁が言う。
過去に犯罪歴があれば、警察のデータベースに残っている。
そこから追えないかと真壁は考えた。
高根が鋭い目で、真壁を見て来た。
突拍子もない考えに、批難されるかと思った。
「確かに、念のため調べて見ても良いかもな」
顎に手を当てながら、高根は小さく頷いた。
思ってもいない好感触に、真壁は胸を撫でおろす。
「分かりました。
歯の治療痕と合わせて、臼井教授に確認してみます」
真壁は出口の見えない迷路の先に、小さな突破口を見つけた気がした。
その突破口は幻想に過ぎないかもしれない。
それでも、確かめてみる価値はあると思った。
「その件は、確認しておくとして、この先の捜査をどうやって進めるかだな」
高根が腕を組み、深いため息をつく。
妙案が浮かんでこないのだろう。
「やっぱり、捜査範囲を広げるしかないんじゃないですか?
市内、もしくは県内まで広げて、ホームレスが住んでいる場所を探すしか」
目を細め、高根が唸っている。
捜査の人員が少ない中で、範囲を広げるのは非常に難しい。
時間と労力を費やしたとして、得られる情報は全く無いかもしれない。
そんな中で高値に判断をさせるのは、酷のように真壁は思った。
「轟警視に判断を仰ぎますか?」
恐る恐る、真壁は進言してみる。
高根と轟は同期で、ありていに言えば、水と油だった。
キャリア組である轟はそれを鼻にかけ、
部下達のことを駒のようにしか見ていない。
その態度が、たたき上げである高根は許せないのだ。
同期だというのに、二人が話す姿を真壁は見たことがない。
それほどまでに、二人の関係は冷え切っている。
高根の顔がみるみる渋くなってきて、
余計なことを言ってしまったと真壁は後悔した。
体を流れていた汗が冷房で引き、むしろ寒さを感じるほどになっている。
悩んだ末、判断を仰ぐため、高根は轟警視に渋々電話を入れた。
会話が始まったかと思うと、直ぐに電話を終え、高根は携帯を下に叩きつけた。
「捜査の方針は、こちらに任せるだと。
この件でわざわざ電話をして来るなと言わんばかりだった。
例の殺人事件に掛かりっきりで、こっちの方なんて眼中にも無いんだろう」
怒りがおさまらず、高根はシートを拳で殴る。
真壁はその様子を見て、同情するしかなかった。
感情が落ち着いた高値と真壁は話し合い、
捜査範囲を広げる方向で進めることに決めた。
その方針をこの件で動いている、もう一つのチームに共有した。
陽は暮れ掛かっていた。
駐車場から道を隔てた歩道を老人が歩いている。
腰を曲げ、ゆっくりと歩を進めていく。
その老人に、亡くなったホームレスの姿を真壁は重ねていた。




