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安田守は背中の痛みと共に目覚めた。
この場所で寝泊まりを始めてから、2か月は経つ。
しかし、この痛みにはまだ慣れない。
いくら下に段ボールを敷いているとはいえ、寝心地は悪い。
寝起きは決まって、鉛を詰められているように頭が重い。
これが歳によるものなのか、劣悪な環境で寝ているからなのかは分からない。
ビニールシートで隔てた壁の隙間からは、朝陽が顔を出している。
まだ早朝だというのに、すでにセミがけたたましく鳴いている。
ビニールシートのテントを出ると、既に他の人達は活動を始めていた。
壊れかけの自転車を携えて、空き缶の回収に出発しようとしている者がいる。
隣のテント入口の隙間から、中を伺うが誰もいない。
やっぱり帰ってきていないかと、守は心の中でつぶやく。
見た所、昨日と様子は変わっていないので、夜中も帰ってきていないようだ。
守の隣には、皆からスーさんと呼ばれているお爺ちゃんが住んでいる。
この道、数十年のベテランのようで、皆から慕われている。
そのスーさんが3日前から、この公園に戻ってきていない。
「一体、どこへ行ったんだ」
守は公園の周辺を見渡しながら、心配していた。
守が寝泊まりしている公園は、辺鄙な所にある。
周囲には工場が林立しており、住宅は数えるほどしかない。
遊具といっても、ブランコと簡素な滑り台があるだけ。
公園の隅に汚いトイレがあり、その近くに守達はねぐらを構えている。
子供が遊んでいる姿を、守が見かけたことは殆どない。
そんな公園だからだろう。
ホームレスが棲みついているのに、行政からは今のところお咎めはない。
ここには、守も含めて4人が暮らしている。全員男で、守が一番の年下になる。
一番歳が近いゲンさんでも、守よりは一回りほどは離れているだろうと思われる。
「やっぱりまだ、帰ってきてないみたいです」
公園の縁石に座り、守が肩を落とす。
「まぁ、そんな心配するなって。その内、ひょっこり帰って来るさ」
隣に座るバクさんが、朗らかに微笑んでいる。
スキンヘッドに瓜実顔のバクさんは、根っからのギャンブル好きらしい。
そのギャンブルによって身を滅ぼして、この世界に入って来たと噂だ。
「そうだったら良いんですけど。
スーさん言ってたんです。空き缶拾いの良い場所、教えてやるって。
それなのに、急にいなくなっちゃって。何にもなければ良いけど。
どこかに行くとか、言ってませんでしたか?」
「いや、そんなこと言っとらんかったけどな」
「前にもスーさん、こうやっていなくなったこと、あるんですか?」
「うーん、記憶にないな。こんな生活しとるやろ。
お互いに干渉したりはせんのよ。
そういうのが嫌で、この生活やってる面もあるしな」
バクさんが頬を指で搔いている。
その様子から、今の状況を重く捉えていないのが解る。
「帰って来なかったら、まぁ、そうかっていう感じよ。
うちら家族でも何でもないし、微妙な関係なんよ。
まだ、ホームレスになって間もないアンタには、分からんかもしれんな。
薄情に見えるかも知れんけど。俺らの関係性なんて、そんなものやって」
守の肩に手を掛けて立ち上がり、バクさんは去っていった。
薄情という言葉が、守の心に棘の様に刺さった。
忘れたい記憶がまた、頭に浮かんでくる。
また、厳しい目で睨まれているような感覚になり、守は息が苦しくなった。
守は銀行マンだった。
融資を担当しており、その相手は中小企業が主だった。
会社にとっては、運転資金を確保するのは重要事項の一つだろう。
ましては従業員も少なく、規模も小さい会社では特にそうだ。
融資して貰えるかどうかに、会社の存続や働く従業員の生活が掛かっている。
そんな意義の大きい仕事に携われていることを、守は誇りにしていた。
でも、その誇りは無残にも崩れ去ってしまったのだった。
田丸製作会社は、自動車の小物部品の製作を請け負っていた。
社長の田丸進は、守の中学校からの幼馴染だった。
進は誠実でリーダーシップがあり、生徒会長を務めるほどの奴だった。
腕が太く、逞しい身体をしており、ラグビー部に所属していた。
成績も優秀で、天は二物を与えずとは嘘だと、守は彼と出会った時に悟った。
「大学はやっぱり国立を目指してるのか?」
大学受験を控え、同級生達が慌てている中、進は動じることなく飄々としていた。
「いや、大学にはいかん。家の仕事があるからな。遊んでる暇なんてない」
決然と進は言った。家の仕事を継ぎたいとは、話には聞いていた。
自分が継いで、もっと会社を大きくしたいと胸を張っていた。
進は家を継ぐことに誇りを持っている。
そんな彼を見ていて、自分もそんな仕事に就けたらと、漠然と守は思った。
守が大学へ入ってからも、進との関係は続いた。
進の仕事終わりに会い、酒を酌み交わしながら近況を報告し合った。
「従業員の人達がさ、俺の事を坊ちゃんって呼ぶんだ。本当、止めて欲しいよ」
はにかみながら、進は酒を煽った。
「覚えることが一杯で大変だけど、やりがいはある」
守にはつい弱音を吐くこともあったが、最後にはこの一言が出て来た。
大学の同級生は、遊んでいる者が大半だった。
それに比べ、進は未来を見据えて着実に人生を歩んでいる。
進は守にとって、太陽のような存在だった。
そんな進に恥ずかしくないように生きなければと、守は強く思った。
その思いで、守は大学でも、わき目も振らずに勉強に励むことが出来た。
お陰で、都市銀行からの内定を貰えた。
「お前もいよいよ社会人か。しかも四葉銀行とはな。
これからも末永いお付き合いを、宜しくお願いしますよ」
守が内定を貰ったのを、進は居酒屋で祝ってくれた。
四葉銀行は、田丸製作所のメインバンクだった。
無論、そのことは守も知っていた。
承知の上で、四葉銀行への内定を目指していた。
それは、進の夢を応援したいという思いからだった。
なので、入社し、ゆくゆくは融資を担当出来れば良いと守は思っていた。
「どうなんだ。製作所の業績の方は?
お前のせいで、調子が悪くなったわけじゃないよな」
守が銀行に入社してから、2人の話は自然と会社のものになっていった。
「バカ言え。新規の受注もいくつか貰えている。ただな、問題は無いこともない」
進はいつになく、深刻な顔をして言った。
「どうした。親父さんの体の調子でも悪いのか?」
「あぁ、実を言うと今、入院していてな」
肩を落とし、進は俯いていた。
進の父、道徳は肺ガンと診断され、病院に入院しているという。
検査の結果、既に手の施しようが無い状態まで、ガンは進行しているらしい。
製作所の方は、母と進で何とかやれている。
しかし、懸念点はもう一つあるという。
従業員の高齢化が進んでいるのに対し、若返り化を推進したいと進は言った。
ただ、その考えに道徳は良い顔をしないのだ。
この先、製作所を長く経営するためには、やむを得ないと道徳も分かってはいる。
しかし、戦力になるかも分からない若者を入れるのに、二の足を踏んでしまう。
従業員達も、口下手な人達ばかりなので、人を育てるのに自信を持てない。
そのせいで、進と従業員達との間に少し溝が出来ている。
そんな中、道徳が体を崩し、入院してしまったのだ。
話す進の様子は、やけに弱気だった。守が初めて見る、彼の姿だった。
まだ、20代の若造だというのに、会社の行く末を心配しなければいけないなんて。
守には、とても想像がつかない。
進を応援したいと思っていたが、守は何もしてやることが出来ない。
そんな自分の無力さに、守は打ちのめされていた。
それから数か月後、道徳は肺ガンでこの世を去った。
涙を流している母の隣で、進は泣くことなく、弔問客の相手をしていた。
守の焼香の際も、来てくれてありがとうと言い、毅然と対応していた。
守は何と声を掛ければ良いのか分からず、黙って見守ることしか出来なかった。
道徳が亡くなった後、進が製作所の社長の座についた。
守はそれを、融資を担当している先輩から聞いた。
「母からは心配されたんだけどな。でも、俺が社長になるって譲らなかった。
どうせいつかは継ぐことになるんだ。それなら、早いに越したことは無い。
従業員の人達からは、若造がと陰口を叩かれるかも知れん。
だが、そんなことは気にしない。
仕事に年齢なんて関係ない。お前もそう思うだろう?」
父の死に落ち込むことなく、進は決意を既に固めていた。
電話口での進の声は、熱意に満ち溢れていた。
その進のバイタリティに守は驚かされた。
それから進の仕事が忙しくなり、守と会う機会も減っていった。
それでも、製作所の方は順調なのだと、守は先輩伝手で聞いていた。
守も負けてはいられないと、仕事に打ち込んだ。
それが実を結び、希望の融資担当になることが出来た。
「言わなくても分かるだろうが、融資相手に個人的な事情を持ち込むなよ」
異動になった直後、田丸製作所のことを先輩から釘を刺された。
「場合によっては、こちらが非情にならないといけない時もある。
それが出来ないようなら、今すぐに異動して貰った方が良い」
「分かってます。それを承知の上で、この場を希望したんです」
この固い気持ちは、決して揺るがないと守は考えていた。
しかし、それが脆くも崩れてしまいそうになるとは、夢にも思っていなかった。
投資部門へ異動してからも、守は順調に業務を遂行していった。
この時の為に、銀行から内定を貰った時から準備をしてきた。
それが功を奏し、先輩や上司からの評価も上々だった。
全ては、親友である進の力になるため。
この思いを直接は伝えてはいない。
でも、進もどこかで分かってくれているのではないか。
いつしか、進の夢が守の目指す道にもなっていた。
2人の強い絆は強固なものだと、守は信じていた。
それは、前触れもなく、やってきた。
世界的な投資銀行が経営破綻し、その影響で全世界で経済危機が起こった。
その余波は日本も巻き込み、国内の企業はたちまち戦況に立たされてしまった。
大企業が進行のプロジェクトを一旦白紙にし、下請けの企業がそのわりを食った。
田丸製作所も、その例外では無かった。
受注案件が軒並みストップし、急に経営の瀬戸際に追いやられてしまったのだ。
「こんな危機的状況で、御校も厳しいとは思いますが、融資をお願いしたい」
グレーのスーツ姿の進の顔はやつれていた。
寝不足なのか、瞼が微かに青黒くなっている。
四葉銀行の応接室は、重苦しい空気で満たされていた。
テーブルを挟んで進の正面に先輩の興梠が、その隣に守が座った。
進は守を見ることなく、興梠の顔を凝視している。
「御社の状況はよく分かりました。少し時間を下さい」
冷淡な口調で興梠が言った。
進は固く目を閉じた後、ゆっくりと立ち上がり、応接室を出て行った。
守自身、田丸製作所への融資は難しいと思った。
経済危機がいつまで続くか分からない中、
小規模の製作所へ融資したとしても返済の見込みは薄いだろう。
銀行自体も経営が危ぶまれている中、融資を行うのは困難だ。
きっと、興梠も同じ考えだろう。
製作所の財政状況は極めて悪い。
融資を受けられなければ、今後の経営を続けていくのは難しいだろう。
守は己の無力さを強く思い知らされた。
またも進の力になれないのかと思うと、守は悔しさで拳を強く握りしめた。
何のためにここまでやって来たのか。守は今の状況を呪うしかなかった。
「お前は同席しなくて良いよ。顔を合わせるのは辛いだろう?」
融資の件での進への回答の場を前に、興梠にそう打診された。
断るべきではないのは分かっていた。
配属された時に固く誓った意志を持てているのなら、同席するべきだと。
だが、守はその甘い言葉に乗ってしまった。
進の視線が怖かったのだ。
何の役にも立たないまま、
ただ座っているだけの自分を想像すると、足が竦んでしまった。
親友として、進の抱えてる感情を全て受け止められなかった。
支えてやれなかった。
守は今でもその事を後悔している。
その日の夜、進から守へ電話があった。この状況での電話に、守は戸惑った。
「融資の件、無理を言って悪かったな。お前の所も大変だろう。
自分勝手な行動だったと後悔してる」
感情に支配されていない、毅然とした進の態度だった。
こんな緊急事態の時でさえも、他人を気遣える進の優しさと強さに、
守は涙を堪えられなかった。
同時に自分の愚かさに、打ちひしがれてしまう。
「こっちの事は良いんだ。それで、製作所の方は大丈夫なのか?」
沈黙が流れる。嗚咽の様な声が微かに聞こえる。
「なぁに、心配はいらん。大変だろうが、きっと乗り越えてみせるさ」
虚勢を張っているのは、声の調子で分かった。
でも、進ならこの苦難を乗り越えられると守は信じていた。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
「あのね、進がビルの屋上から飛び降りて・・・」
翌日の夕方、進の母がすすり泣きながら、守に電話を掛けて来た。
進が自殺を図り、既に死亡が確認されたという。
守は放心し、頭が真っ白になった。足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
生きていく意義を突然奪われ、進は耐えられなかったのだ。
あんなに強い人間を、壊してしまうなんて。
守はこの経済の資本主義という仕組みに恐れを抱いた。
お金によって、救われることもあれば、奪われる命もある。
そのことを強く思い知らされた。
それからの数日は、守の記憶は曖昧になっている。
現実を受け止められず、過去の進の存在を頭の中で追いかけていた。
覚えているのは、進の遺影だけ。清々しいほどの笑みを浮かべていた。
どうして進が死ななければいけなかったのか。
守はいまだに分からないでいる。
今回の経済危機を起こした張本人達は、責任も取らず、
莫大な退職金を得たとどこかで聞いた。
一方で、経済危機によって困窮している人が山ほどいる。
なぜ、こんな理不尽なことが起きるのか。
間違っていると守は思った。この経済のシステムがおかしいのだと。
経済危機が治まったとしても、
仕組みが変わらない限り、また惨事は起きてしまうだろう。
守はもう、何も失いたくなかった。
だから、すべてを捨ててしまおうと思った。
そして、この社会のシステムから解放されようと。
ただ、死を選ぶことは出来なかった。
進ほどにこの生を全力で生きた訳ではないし、苦しみも進の比ではないだろう。
何より、死への恐怖に立ち向かう心を持てなかった。
ただひっそりと生きていく。それが、自分にはピッタリだと守は思った。
誰にも気づかれず、何のしがらみも無い。
そんな日々を送れれば良いと思った。




