第55話 解約の波
「今日の今日は無理だから、明日、みんなで飲みに行かない?」
加入書紛失の件が片付いたことがあり、ベテランの女性事務員が声をかけた。
慰労というのもあるのだろう。
「賛成!」
「あっ、なら私、あそこがいいです」
「チェシャでしょ」
「そうです」
事務室内は久々に明るい雰囲気になったが、私はあまり喜べなかった。
紛失事件が解決したのは嬉しい。
嬉しいが···
チェシャは有名なパブである。
夜のパブ。
つまり、お酒を飲む場所だ。
パブといえば、エール。
ホップの苦味が効いたビールとはまた違った味わいがあって、香りと味が楽しいんだ。
あちらの世界でも偶に都内にあるパブで飲んでいた。
の、飲みたい···
フィッシュ&チップスを片手にエール···
スモークサーモンや牛の煮込みにワイン···
しかし!
私は未成年。
みんなが飲んでいるのに、私だけノンアル。
罰ゲームもいいところだ。血涙が滝のように流れた。
脳内の小久保恵子は絶望に寝込んでしまったではないか。
成人になったら、銀太を膝に浴びるほど飲んでやる!
妨害が鳴りを潜め、平和な日々が過ぎていた。
共済の窓口業務も落ち着いてきたのか、私の助っ人率も減った。
今は週に二回程度で済んでいる。
あの忙しさは何だったんだろう···
回想して目が遠くなった。
週中にその人は窓口に来た。
職人風の出で立ちで、体つきもがっしりとしていた。
「すまない、共済を解約したいんだが、ここでいいのか?」
「あっ、はい」
近くにいた小柄な女性事務員が対応する。
「こちらの用紙に記入すれば、解約となります」
「ここに名前と商会名を書けばいいんだな」
「そうです。ご記入···」
説明途中にまた職人らしき人が入ってくる。
「ここか、おい、解約してくれ」
続けざまに今度は六人。
全員が解約を希望した。
「解約してくれ。商会の役員から聞いた。支払われねぇものに金を掛けられるか」
「俺もだ」
「今日、解約すりゃ、給料からは引かれねぇんだろ。なら早くしてくれ」
「女房の知り合いが、支払われなかったって、嘆いていたそうだ。そうなか?」
「加入されて、三ヶ月経っていないと支払われませんので···」
「やっぱり、支払われねぇんだ」
「いえ、三ヶ月経てば、お支払いします」
決して支払われないのではないことを説明するが、支払われないという言葉が頭にあるために聞いてはもらえなかった。
その後も解約希望者が後を絶たなかった。
みんなが口にするのは、"支払われない"、"共済は何も知らねぇ小娘が作った危ない制度だ"というものだった。
商工会で試験的にスタートして日も浅い。
商工会での支払実績がないことが一番の不安要素なんだろう。
規約、制度だけでは駄目だということを知る。
不安を拭うのには、それよりも大きな安心が必要だと言っている。
握った手が痛かった。
追い打ちをかけるように、バルト商会やコネクス商会を中心にいくつかの商会が不安を煽っていると聞いた。
曰く、支払いが多くなると減額される。
曰く、酒を飲んで、怪我をしても支払われない等。
前提を省いているが、間違ったことを言っているわけではない。だから抗議もできない。
そのうち、誰が
「共済制度など不要なんじゃないか」
と言い出した。
事務室の空気がすっと冷えた気がした。
ここまできたのに。
悔しさで目が霞んだ。
知らずに解約用紙を握り締めていた。
支払実績ならある。
二例だけだが、ワイトニング商会での支払実績がある。
これは信用に値しないだろうか。
公開しても支払いを受けた相手に迷惑がかからないだろうか。
もし、迷惑になったらと考えると公開に躊躇が出てしまう。
ぽんと肩を叩かれた。
「リザちゃん、ちゃんと支払ったといいな」
アーチーさんが立っていた。
その横にはハンスさんとジェンキンスさんがいた。
「支払われねえというなら、支払ったと言って胸を張りな。俺はそれで助かったんだ。恩返しだよ」
「アーチーさん···」
「そういえば、アンナとハンナが、この前変なこと言って奴と喧嘩してたぞ。誤解を招くようなことをいうな、支払われなかったのは酒飲んで自分から喧嘩した結果だ、自業自得なんだとそりゃ気風のいい啖呵を切ってたな。ありゃ怖かった」
「あの二人かぁ···そりゃ怖いな」
ジェンキンスさんの台詞にハンスさんが顰めっ面をする。
目に浮かんだ涙を隠すように私は笑った。
そうだ。
ちゃんと支払っている。
どれだけ不安が拭えるか分からないが、俯くようなことはしていない。
不完全な制度はわかっていたじゃないか。
問題が出てきたら一つずつ解決していく。
PDCAだ。
まだ、この制度を信じて、加入してくれている人がいる。
その信用を裏切るわけにはいかなかった。
守ってみせる。
その人達のためにも、こんなことで負けてはいられない。




