第51話 嫌がらせ
「もう、ここの人間でいいと思うのよ」
目の下にクマを飼っている女性の一人が、呟いた。
手は止めることなく、動かしている。
「そうね。もう職員よね」
「リザちゃん、そういことで」
「ご遠慮申し上げます」
顔を上げずに即答した。
無茶ぶりもいいところだ。
あくまでも、私はワイトニング商会の人間である。
穏やかで残業もほぼないホワイト企業務めを手放す気はこれっぽちも考えていない。
商工会で面倒くさそうな商会店主たちの相手をする気はない。
加入書類の山を黙々と片づけていると、遅番の事務仲間の女性がぷりぷりと怒った様子で戻ってきた。
「もう、聞いてよ、頭にきちゃた!」
「何があったの?お昼が美味しくなかったの?」
「違うわよ!お店に行ったら…」
女性はお店でのことを話しだした。
そこは安くて美味しいと評判のエールハウスで今日も食事をとる人で賑わっており、少し待って席に通された。
二人掛けの席に座り、フィッシュアンドチップスを食べていると、男たちの衝立越しに聞こえてきた。
「いまは払えてるだけだ」
「大事故が続いたら終わりらしいぞ」
「最後の方は払われねぇんじゃねぇか?」
「それに、先に入った奴だけ得する仕組みだ」
「それ、聞いたことがあるな。三か月経たないと貰えないってやつだろ」
「どうせ理由つけて払わねぇんだよ」
ひそひそと話していたという。
「加入時に納得して入ったはずなのに、あの言い方だと騙しているみたいじゃない。だから悔しくって」
「分かるわ…私も耳にしたことあるから」
「文句をつける人は、何にでも文句をつけるものよ。気にしてたらやっていられないわよ」
「そうですけど…」
止まっていた手を動かす。
言っていることは完全な嘘じゃない。
小さな澱が溜まった気がした。
悪いことは重なるものなのか、今度は別の問題が発生した。
「はぁっ?!払ってないだと!」
厳つい顔をした壮年の男性が大きな声を上げる。
「どういうことだ、それは!」
「え、あ、あの…」
対応する女性は委縮して、声が出ない様子だった。
席を立って女性の側に行く。
「リザちゃん…」
「代わります」
大きな声を出せばいいと思っている輩の対応は久しぶりだな。
こういうタイプは同調しつつ、持ち上げながら、落ち着いて説明をしていくと窓口の苦情研修で習った。
決して頭ごなしに否定してはいけない。さらに炎上するからと。
「代わらせていただきます。お話の流れからすると、掛金の入金状況で間違いないでしょうか?」
「ああ」
「確認させていただきますので、どちらの商会ですか?
「おう、バルト商会だ」
「バルト商会様ですね。確認させていただきますので、お待ちください」
出納簿を捲る。
今回が二回目の入金になっている。
入金担当の女性にも確認をとると首を横に振った。
「すみません、確認ができないので、いつこちらへ持ってこられたか、お教え願えますか」
「ないのか?」
「はい」
「払ったぞ!」
「はい、確認するために、いつお持ちになったかを教えてください」
「二十一日だ」
担当が出納簿をみて首を横に振る。
「記録にないとのことです」
「記録がないってどういうことだ!」
男がカウンター台を叩く。
室内にバンッ!という音が響き、何人かが体を竦めた。
「金を二重に払わせる気か?!ああんっ」
「お気持ちは分かります。二重払いになれば大問題です。ですので、確認をさせてください」
ここでカッとなり、相手と同じようにヒステリックになると、更に激昂、炎上してしてしまう。
努めて冷静に、落着き、静かに話す。
「お持ちになられたのが、二十一日との事ですが、入金日は月初か二十日だったはずですが?」
「そ、それは来た時には商工会が閉まってたんだよ。だから翌日に持ってきた」
「持ってこられたのは、貴方で間違いないですか?」
「い、いや、俺じゃない。うちの若い奴だ。茶色い髪の痩せた男だ」
「あっ、確かに来られましたけど···」
別の小柄な女性が思い出したように言った。
「ほら見ろ。ちゃんと来てたじゃねぇか。なのに入金されてねぇっていうのか?」
「···け、けど、その人が、持って来られたのは加入書類で···来た日は···十四日···」
怖いのか、びくびくして後が続かない。
「ああんっ!?おかしいじゃねえか!加入書類は持って来たが、入金はしてねぇっていうのか?!」
またカウンターを叩く。
「ひっ」
「落ち着いてください。その方が来られたのは十四日なんですね?」
女性が恐る恐る頷く。
「騙してるんじゃねぇのか」
「受領日の確認をしましょう」
「どうやってするだよ。ここのやつの証言は口裏合わせしてるかもしれねぇから信用できねぇからな」
「仰ることはご尤もです。ですので···」
近くにいた女性に
「入館名簿を確認してください」
と、お願いした。
女性が飛び出す勢いで確認に走った。
待つ間、何とも言えない空気が流れ、誰一人喋らなかった。
女性が息を切らしながら戻ってくると、
「じ、じゅ、十四日の入館名簿に商会の名前がありました」
「ああっ、ちゃんと確認したんだろうな」
激昂していた勢いが僅かに鈍る。
男の目が、ほんの少しだけ泳いだ。
……何かを思い違いしていた?
それとも――
「か、確認しました。十四日以降は、今日までバルト商会さんの名前は無かったです」
気まずい空気が流れる。
「バルト商会さんの勘違いのようですね」
「ぐっ···そ、そうかもしれねぇな」
「入金はされていなかったということで、いいでしょうか?」
「ああ」
男性は不承不承返事をする。
「大変、ご心配をおかけしました」
私はそう言って頭を下げた。
男性が面白くなさそうな表情で部屋を出ていった。
誰かがほーっと息をつくと、安堵の空気が部屋を満たした。
「凄いわ、リザちゃん」
この部屋でベテランの女性が感心したように声をかけてきた。
「実は、脚が震えてましたけど」
「そうは見えなかったわよ」
「本当に。尊敬しちゃうわ」
「でも、今後、同様のことがあったらどうする?」
入金担当の女性がぽつりと言った。
確かに。
今回はたまたま入館名簿で入金してないと確認が取れたが、確認が取れない時が絶対にある。
対策を取らないと大変だ。
あの世界ではこんな時どうしてたっけな?
脳内で小久保恵子が紙をひらひらとさせていた。
ああ、そうだった。
「今後は受領証を発行するというのではどうでしょうか。そして、掛金受取時は、必ず双方署名を行うとしたら、誰が持って来て、誰が受取ったかが、ちゃんと分かるようになります」
「そうね。それなら今日みたいなことは起こらないわね」
部屋にいた全員が頷いた。
気を取り直して、仕事を再開した時、
「はぁーっ、またバルト商会……不備は多いし、嫌になっちゃう」
誰かがぼそりと漏らした。
その言葉が、小さな棘のように胸に残る。
……偶然にしては、少し続きすぎている気がした。




