第52話 紛失?…消えた書類
肉体的に若い体は疲れを知らない。
が、精神年齢が三十五歳の精神はもうへろへろだ。
テーブルに突っ伏している私の横で、銀太は悠然と顔を洗っている。
目が合う。
小首を傾げて「ぶにゃん」と鳴いた。
癒されるけども、疲労困憊のいま、銀太パワーだけで追いつかないのだ。
脳内の小久保恵子は既に砂漠で行倒れている。
ワイトニング商会だけの時とは扱う量や処理数が全然違う。
続けざまに起こる小さなトラブルが地味に面倒だ。
書類不備。
未納騒ぎ。
告知漏れ。
加入照会。
そして――妙に続く“バルト商会絡み”の問題。
小さなトラブルが、まるで誰かに狙ったように続いていた。
……偶然?
いや、さすがに多すぎる。
お酒···
お酒が飲みたい···
誰か私にエナジードリンクを!
最近評判のコッポショップでミンスパイを買った。木骨造りの黒い柱と白い壁。窓が小さく、1階よりも2階がせり出した独特の構造をしているここはアンナさんオススメの店らしく、期待値が上がる。
紙袋の中のパイは器の役割を果たす極めて硬く分厚い生地の中に甘じょっぱく挽き肉を詰めた物とドライフルーツとスパイスがぎっしり詰まったパイだ。
それを銀太の刺繍入りバッグに入れた。
露店でオレンジを選んでいた時、その噂話が耳に入った。
「いざって時、払われねぇかもしれねぇぞ?」
「コネクス商会なら確実に借りられる」
「けどなぁ···あの商会は高利貸しだしなぁ···」
「いや、金貸しだから、金が貸せる。あれは掛金だけ取られて終わりかもしれねぇ」
人足の男たちが屯っている。
「大体、制度を作ったのは小娘だって話だ。そんなの信用できるか?責任を取れるのは男だろう」
支払に対しての不安感や不信感はまだ拭えてないのか。
すぐさま拭えるとは思っていなかったが、現実に声を聞くと落ち込む。
"商い三年、商い三年"と呟いて気持ちを切替えた。
けど話に出てきたコネクス商会の名前には引っかかった。
加入書の加筆。
日付の逆転。
告知書の代筆。
しかも、その多くがコネクス商会だった。
加入書類を持ってくる人の態度も尊大で馬鹿にしていたな。
男性と女性で態度が違う人がいるのは、あちらでもこちらでも一緒ということか。
頭、固いな。
老害。
男尊女卑。
の文字が浮かんだ。
脳内の小久保恵子が、こういうタイプは熟年離婚され、寂しい老後を送る確率が高い。近所でも、面倒な小言ジジィと爪弾きにされる。ザマァと言っている。
賛成に一票入れておいた。
渡された中にオレンジと大玉のキャベツが入っていた。噂話に気を取られて買ったみたいだ。
私ひとりの家で大玉キャベツ···
これから暫くはキャベツが続くのか···
キャベツは天然の胃薬だと小久保恵子が無駄な知識を披露していた。
社畜=生きるための糧を得るための避けられない苦役を強いられている人。
この世界では社畜になりたくないと、あれこれしてるのに、なぜ、社畜街道を爆進してるんだ?
おかしいじゃないか。
午前中はワイトニング商会、午後からは商工会。
掛け持ち。
はあっ···
給料二倍よこせ!
心の中で愚痴りながら、赤ペン片手に加入書と告知書を確認していると、必要事項の記入洩れを発見した。
コネクス商会かぁ···
さっきはさっきで、バルト商会が入金額不足で一悶着あったばかりだ。
不備の殆どが、バルト商会とコネクス商会。
……続きすぎている。
若い女性職員が隣の小柄な女性職員に話かけていた。
「ねえ、あの商会の人たち、最近わざとみたいじゃない?」
「私もそう思うんだけど、気づかなかったっていわれるとねぇ···」
そう言って、ため息を零した。
確かに。
わざとしているかもしれないし、うっかりかもしれない。
確証がない。
はぁー···
ため息を吐くと幸せが逃げて行くってあったな。
最近、ため息ばかりだ。
逃亡した幸せを捕まえることはできるか?
婚約関係に関しては放置だな。
「どういうことですか?」
「ですから、加入書が一枚足りないので、何らかの理由でお持ち帰りになったのではないかと···」
「加入書は告知書と一緒に提出が決まりでしたよね」
「その通りです」
「私は加入書と告知書、合わせて三十二人分。しかもその時に、掛金、六十四リンギルも合わせて支払ってますよね」
コネクス商会の神経質そうな男性が受付で揉めていた。
隣の女性職員にそっと聞く。
一昨日受領した加入書と告知書の枚数が合わず、
修正した不備書類を持って来た担当者に確認していたらしい。
書類の紛失――
背筋が冷えた。
これは、今までとは比べ物にならない。
すぐさま窓口対応に出た。
「確認しますので、明日まで、お待ちいただけますか?」
「明日?」
「はい」
「バルト商会のときは、その場で対応したじゃないか」
「申し訳ありません。今回は部屋中を探さなければなりませんから」
「部屋中をですか」
コネクス商会の担当者の口元が嘲笑を含んだように微かに上がる。
「お待たせすると思います。お忙しいと思われますので、それでは心苦しいものですから」
「明日···明日ねぇ···」
じっと返事を待った。
「まぁ、女性のすることですから、仕方ないですね。明日、この時間にまた来ますよ。それまで探しておいてください」
嫌味を一つ吐いて、担当者が帰って行った。
担当がいなくなると部屋は蜂の巣を突っいた騒ぎになった。
すぐにベテランの女性職員が指示を出した。
「もう一度確認して!」
「書類の束に挟まってない?!」
「そっち見た?!」
「誰のが無いの?」
「シンプソンっていう名前の人」
部屋中を探した。
机の上はもとより、机の下、引出しの中。
書類箱はひっくり返し、ゴミ箱も中身まで出した。
お互いがお互いの机や書類箱に紛れてないかを確認した。
だが、見つからなかった。
全員が真っ青になった。
「受取った時はあったのよね?」
「三十二名分、ありました」
「受取った後、どうしたの?」
「加入書類を受取って、枚数を確認して···掛金を貰ったから、カウンターに書類は置いて、受領書を取りに行きました」
「そう···」
「どうしよう···」
今にも泣きそうな顔をした若い事務員の肩をベテランの女性事務員が抱いて慰めた。
「もう一度探しましょう」
その日、深夜まで明かりが灯っていた。
翌日。
事務室の一角を区切った場所で、コネクス商会の担当者に事務員全員で頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝られてもねぇ···いつもこちらに注意してきて、この始末ですか」
呆れたという口調。
私は黙って聞いた。
提出された書類がないのだから反論はできない。それが事実である以上、感情では覆せない。
「たかが書類一枚と思われているんじゃないですか?」
「いえ、そんなことはありません」
全員、一枚一枚の書類慎重に扱っていた。
だからここだけは言わせて貰った。
「そう言われても、実際にないんでしょ?随分と杜撰な管理をされているんですね。そんな管理で、掛金の扱いは大丈夫なんですか?」
「出納に関しては問題ございません」
「どうですかね。こんな事があったんだ。信じられませんよ」
真綿で首を絞めるような物言いに私の胃がキリキリと痛んだ。
もう一度加入書の提出をお願いしないといけないと思うと胃の痛みが激しくなるが、お願いしないわけにはいかない。
「再度、加入書をご提出いただけませんか?」
「えっ?そちらが紛失しておいて、また出せと?」
「申し訳ございません。私どもの不首尾だとは分かっておりますが、加入書がないと手続きができない決まりとなっておりますので」
「はぁっ、これだから女性は···分かりました。今回だけは、シンプソンに理由を話して書いて貰いましょう」
「お手数をおかけして、すみません」
内心でほっとしたが顔には出さない。
固唾を飲んで様子を伺っていた全員が安堵の色を浮かべた。
空気が緩んだ時、
「で、どうするんですか?」
「何をでしょうか?」
「まさか、無策という訳ではありませんよね?」
意地の悪い言い方だが、言い分はもっともだ。
「私のところだったからいいようなものの、これが余所の商会とか、続くようであれば問題ですよ。それはお分かりですよね?」
眇められた目。
私は唇を噛んだ。
探すだけではなく、対策をも考えておくべきだった。
悔しさに爪が掌へ食い込む。
制度を作るだけでは駄目だ。
守る仕組みも必要なのだ。
あちらではどうしてた?
小久保恵子がうろうろしながら必死で思い出そうとしていた。
大量の申込書を受領したときは···
「どうなんですか」
「···今後は、その場で通し番号を振ります。それと同時に一組ずつ個別に袋管理をさせていただく所存です」
相手から目を逸らさずに答えた。
担当者は眉をぴくりと動かした。
即答されるとは思って見なかったのか、少し忌々しそうに
「そうですか。分かりました。今後はこのようなことがないように願いますよ」
そう言って席を立った。
「本日は、ご足労をおかけしました」
担当者が去ったあと、誰もすぐには動けなかった。
制度は、人を助けるだけでは成り立たない。
信用を守り続けなければ、簡単に崩れるのだ。
それを、痛いほど思い知らされた。




